ライン生命生態課所属e分類の1番隔離指定研究対象   作:e-2

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一体いつから――
  ――おまけが一話だけだと錯覚していた?
 


幕間 夏虫は氷を疑う

 

 

 普段はあまり気にしないことだが、衣服というものは存外暖かい。温度調節の機能を持つだけはある。俺の病衣もその例に漏れず、冬場でも薄い上着一枚で何とかなるくらいに暖かい。

 そして、暖かいものに包まれている人は安心感を覚えるらしい。程よく圧迫してくれる服はまさにそういった心理効果まであるわけだ。他の利便性だって枚挙すれば暇がない。人間による最大に偉大な発明の一つと言えよう。

 

「ジ~ズ、こら。逃げないの」

 

「もう勘弁してくれよ……」

 

 自分でも驚くほどに細い声が出ていた。無理だ。もう無理なんだ。このままでは心がもたない。息が苦しい。発作の時よりずっと呼吸が難しい。心臓の音が何もせずとも伝わってくるくらいに大きく高鳴っている。

 暖かくて、包まれているようで、更には信頼できる相手。それなのに俺は口から臓器が飛び出る危険と隣り合わせだった。比喩ではない。本当に出してしまいそうなんだ。

 

「あ、サリアからメッセージが来てる。珍しいわね」

 

 そんな俺の胸中を露知らず、ミュルジスは携帯端末に夢中だ。もうどうすればいいのか分からない。そもそもどうしてこんなことになったんだ。ああ、胸が苦しい。

 

 

 初めはアイボリーホワイトのソファに2人で座っているだけだった。俺はミュルジスが借りてきてくれた映画を観ていて、特に興味がなかったらしい彼女は携帯端末を見つめていた。

 わざわざ用意した塩キャラメルのポップコーンを口に入れて、ソファに下ろした手がミュルジスの手に重なってしまった。それがキッカケだった。

 

 俺は、別に手が触れあった程度で過剰に反応するほどミュルジスに慣れていないわけではない。だから過敏に反応することもなくゆっくりとズラしていって、そして捕まった。

 少し驚いたが、ミュルジスは変わらず端末を眺めていたし、俺も気にしないことにした。ポップコーンだってもう片方の手を使えばいい。

 

 寄りかかってきて、腕を組んで、頭で肩のあたりをぐりぐり押されたり、ポップコーンを運ぼうとするたびに口を開けて見つめてきたり、そうしているうちはまだ良かった。

 それまでは、映画が確かに面白かったことを覚えている。

 

「相手してくれなきゃ悪戯しちゃうわよ?」

 

 ずるずると倒れ込んで、膝枕。思ったより顔が近く感じた。

 ミュルジスが上を向いたまま口を開けるから、そこにポップコーンを放り込んでやる。なんだかヒナに餌をやる親鳥の気持ちが分かったような、分からないような。

 

 映画に夢中で口を開けていることに気が付かないと、不機嫌になって足をパタパタさせていた。

 更にはポップコーンを運んでやると指ごと持っていかれそうになるのだ。そのときだけライオンの飼育員になった気分だった。親鳥の気持ちとは違って、かなりの精度で理解できたように思う。甘噛みでもそれなりに痛いのだ。

 このあたりから映画に集中できなかった。

 

「ふふ、ジズの匂いがする」

 

「……そりゃそうだ」

 

 お腹に顔をうずめて、ミュルジスが大きく息を吸う。俺はどんな言葉を返すのが正解だったのだろう。

 この頃から映画をまともに見られていないのに手汗が出てきた。全く落ち着かない。反対に、ミュルジスは随分とリラックスしているようだったが。

 

 それから、ミュルジスは少しずつ俺の体を登ってきた。

 心臓の音を聞いて、首元に額を擦りつけて、最後には抱き合う形で落ち着いた。足にはミュルジスの体重と共に柔らかい感触が、そして押し付けられた胸が――努めて意識しないようにする。

 

「ミュルジス」

 

「そんなに声を震えさせてどうしたの?」

 

「わ、分かってるだろ? 意地悪するのはやめてくれ」

 

「やーよ、しばらくはこのままがいいの」

 

 くすくすと笑うミュルジス。

 心臓がうるさい。拍動がトップスピード過ぎて吐きそうだ。視界がぼんやりしてきた気がする。

 

 俺はもしかして虐められているのだろうか。ミュルジスには加虐性癖があったのかもしれない。慌てようを見て楽しんでいるとか。

 まあ、ミュルジスに限ってそんなことはないか。ないよな。ないはずだ。あったら困る。特に心臓のあたりが。

 

「ほら、映画に集中するのはいかがかしら。そろそろクライマックスでしょ?」

 

 いつのまにか登場していたキーパーソンと共によく分からない事態を解決するクライマックスが面白いはずもない。だが、それ以外に意識を戻せば俺は戻れなくなってしまう、そんな確信があった。

 散々異性として見ておいて何を言っているのか、と思わないでもないが、そういう問題ではない。仮に理想が実現不可能だって、追い求めない理由にはならないのだから。

 

「――調子はどう? ええ、あたしは、まあ、すこぶる快調ってとこかしら」

 

 とうとう俺が映画鑑賞していることを無視して誰かに通信を入れ始めた。別に構わないけどそれはそれとしてどうなんだ。いや今更か。

 

「いつもお世話になってるし労いの言葉くらいはかけてあげようと思って。ふふ、そんなこと言ったって何も出ないわよ」

 

 通信の相手は誰だ? 急転直下らしい展開を眺めながら頭のどこかで考える。世話になっているならサリアだろうが、他の反応を見る限り無愛想でビジネスな対応ばかりの彼女とはどうも違いそうだ。

 

「……あの自分本位なヤギから何も聞いてないの? ジズはあたしのモノよ。手を出さないで。第一、あなたが研究するようなものでもないと思うけど」

 

 ミュルジスのモノになった覚えはない。

 少し相手が気になってきた。耳を寄せてみる。

 

「次にその名前でジズを呼んだら、あたしはあなたにハンドライトをプレゼントするでしょうね。きっと月が見えない夜でも安心でしょ?」

 

『じか……す……。……ってい……だ……』

 

「ええ、分かってるわよ。サリアとヤラはあたしと同意見だってことくらいね」

 

 サリアではない。ヤラでもない。聞こえた声は女性のそれで、答えは2つに1つ。

 エンジニア課主任のナスティ・ルノレイ。科学考察課の線も考えたが、ハンドライトの揶揄が決定的だった。仮にも相手が科学考察課所属ならハンドライト程度持っていないはずがない。贈るのではなく携帯を勧めるだろう。

 クリステン? ミュルジスなら世話になるより世話を焼く側だろう、ありえない。

 

「ってことで、ジズ。ショッピングに行きましょ」

 

「何が『ってことで』なのか分からないけど、まあ、分かった」

 

 映画はエンドロールに突入していた。

 

 窓の外を見やる。

 2日前からずっと曇天に覆われ、夜のように暗いトリマウンツが変わりなく雨に降られている。

 一昨日と昨日とで足が痛くなるくらいに外を満喫したため今日は家でゆっくりする予定だった。しかし、満喫したとは言え商業区の土を踏んだわけではない。

 古本屋だとか純喫茶程度なら危険もないということで許可が出るものの、それ以外の買い物はここ数年記憶にない。工業の発展とそれに伴う機械化がミュルジスの不安を助長させているらしい。

 

 そういうわけで、こんな機会は滅多にないのだ。

 許してくれるなら喜んで行こう。

 

 

 

 さて、やってきたのは服飾店。 

 微かな感動さえ覚える。

 

「服のレパートリーを増やしましょ、ジズ。あなたの容姿は人より優れてるんだから着飾らないなんてありえないわ」

 

「それならどうして今まで買ってこなかったんだ?」

 

「大抵のコーデが似合うあなただからこそ、一番似合うものを探さなくっちゃ面白くないでしょ? 分身に試着させるのもいいけど、な~んか違うのよね」

 

「違う?」

 

「外面なら問題ないんだけど、仕草や態度までは再現できないの。ターシアは良い出来だって言ってたけど、あたしからすれば雰囲気からして違和感の塊で……見せた方が早いかしら」

 

 こんな感じよ、と言って作り出される俺の分身。

 確かに写真で見る俺と瓜二つだ。ミュルジスに見劣りしないイケメンだな。

 

『こんなところだ。稚拙過ぎるだろ?』

 

「……何が違うんだ?」

 

「何もかもが違うでしょ?」

 

 どうやら完璧主義者らしい。

 指を鳴らせば水が床に溶けていった。

 

「まあ、そんなことはいいのよ、ジズ。ショッピングを楽しみましょう」

 

「そうだな」

 

 それから何度か試着を重ねてはブティックを梯子して荷物を増やした。両手にずっしりと重量がかかる。いい店はショッパーバッグの品質もいいらしく、今の所手が痛くなるほどではない。

 

 代金はミュルジスが支払った。生態課の業務で俺に入るはずの給料は勿論俺名義の口座に入っているが、その管理はミュルジスに任せているから、実際俺が払っていると言っても過言ではない、と思いたい。

 通販で高い買い物をした覚えはない。預金は充分だろう。

 

「普段使いの服はこれくらいでいいかしら。それじゃ、次はあそこね」

 

「スーツ? 俺のか?」

 

「ええ、九課会議にジズも出席することになったから必要なものを買いに行きましょ、って言ったわよね?」

 

「『ってことで』しか聞いてないけど」

 

「んー、そうだったかしら?」

 

 わざとらしく首を傾げる。

 言われてないよな、言われてないはずだ。

 

「あ、もしかして……ふふっ」

 

 俺の右手から荷物を奪い、手を繋ぐ。

 それは見惚れるくらいに奇麗な笑顔だった。

 

「デートが良かったの?」

 

 俺はついさっき自分の顔がミュルジスに並ぶくらいだと評価していたが、それは間違いだった。こんなに奇麗な人と比較されてはおしまいだ。

 ミュルジスと比べるならどんなに奇麗な人だって引き立て役になってしまう。そして、ミュルジスが隣に立っていてくれるのなら、きっとどんな景色だって宝物になる。

 

 それが、デートなんて。

 

「……手を、放してくれ」

 

 別に期待してたわけじゃない。そんなことは考えたこともない。しかしこうして揶揄われると、否定する言葉が上手く出てこなかった。そうだったらどれほどいいか、と思ってしまった。

 ああ、顔が熱い。誰か俺を殺してくれ。いや、殺さなくてもいい。両手が塞がっている俺の顔を隠してくれたならそれでいい。

 

「ジズ? どうしたの?」

 

 覗かないでくれ。

 情けない顔をしてるから。

 

「どうしてそんなに赤くなって……」

 

「デートなんて言うからだろ、そっちが」

 

 揶揄ったミュルジスが何を混乱しているのか。

 へっ? だの、えっ? だのと繰り返したあと、黙った。

 

「いらっしゃいませ、お客様。……本日は、ええと、どのようなご用件で?」

 

 紳士服店の店員は困惑を隠そうともせずにそう言った。

 互いに顔を赤くして、まるでデートスポットでも歩くかのように来店したのだから当然だ。まさか映画館や植物園と間違えるはずはないだろうが、それにしても、だろう。

 俯瞰で見れば見るほどに熱が集まってくる。どれだけ状況を把握したって冷静にはなれないらしい。ちらりと横を見れば、分身に荷物を持たせて顔を覆っているミュルジスがいた。

 

 はあ、と胸の中を空にする勢いで溜息を吐いた。

 

「自分から振っておいてそれはズルいだろ、ミュルジス」

 

「……間違いないわね」

 

 再起動までの所要時間は凡そ2分だった。

 

 

 

 帰宅。ベッドに身体を投げ出した。

 久しぶりの、本当に久しぶりの買い物で思ったより疲労が濃い。

 

 体を伸ばせば思わず声が出た。

 各関節からバキバキ言っているのが聞こえる。

 

 ばさ、と音がした。机の脚にもたせかけたショッパーが倒れた音だった。中から部屋着に選んだ灰色が覗いている。

 

 俺はナルシストだ。容姿だけには相当な自信がある。今日は一日を通してミュルジスの着せ替え人形になったが、大いに楽しかった。前世はついぞ一度も自分から訪れることがなかった服飾店が今では大好きだ。

 転生して一番に幸運だと思うのはミュルジスと出会えたことで、二番目は容姿だ。恵まれた体格に顔貌、ミュルジスと同じ金色の髪。体が弱くなければ最高だった。

 

「ジズ、入るわよ?」

 

 今日買った服に身を包んでアナスタシアに披露するときを待ち遠しく思っていると、ミュルジスが俺の部屋に着いた。疲れた様子で息をつく。

 床に置いたショッパーが3つ、僅かに濡れている。分身に持たせていたからだろう。ベッドに寝転がっていた俺を自然な動作で壁際に押しやり、侵入してきた。毎度のことながら狭い。横向きになって向かい合う。

 

「早かったな」

 

「ええ、何でもないことだったもの」

 

「ミュルジスにとっては、な」

 

 研究園に帰ってきた俺たちを迎えたのは不機嫌ですと言わんばかりに眉根を寄せたアナスタシアと、どうにも分からないことがあると途方に暮れていた研究員たちの姿だった。

 

 ミュルジスは荷物を置く暇もなく連行されていった。

 俺と出かけている間は分身を操ってバリバリ働いているとばかり思っていたが、アナスタシアに聞いたところ、少なくともここ3日は違っていたらしい。片手間で、最低限業務をストップしない程度にこなしているだけだったとか。

 

「ただの根腐れを新種の感染病だと思ってたのよ? 趣味でやってるならともかく、研究者ならそれくらい分かってもらわなきゃ困るわ」

 

 愚痴を吐く。俺が返せるものは苦笑いだけだ。

 俺は植物の不調をミュルジスの次くらいに早く察知するが、他の職員が当たり前に持っている知識が抜け落ちている。俺が大発見をしたと思ったとき、アナスタシアは既にその理論の実用例を知っている。

 

「確かに多少は分かりにくかったけど、あんなに必死で悲鳴を上げてる子を見てよく見逃せるわよね」

 

 ミュルジスはまったく規格外だ。

 才能と努力を兼ね備えた存在がそう簡単にいるはずもない。

 

 ああ、そういえば、と思い出す。

 アナスタシアが言っていた。主任補佐という役割は雑事を担当することも多いが、一番に苦心させられるのは常識のすり合わせだと。

 サリアのようにあるべき姿を強制しているのではなく、ミュルジスは()()()()()()()()()()()()()だけだ。それはミュルジスの感覚を理解してしまえる存在が横にいたからだろう、とも言って鋭い視線を浴びせられたものだ。

 

「誰もがミュルジス(主任)のように、(ジズ)のようになれるわけじゃない(ではありません)

 

「……それ、は」

 

「少しは気にかけてやってくれ(ほしいものです)

 

「分かってるわ」

 

 ミュルジスが口をとがらせる。

 アナスタシアにあれだけ言われて、まだ愚痴を言っているミュルジスのことだ。口だけではないかと疑念が湧いてくる。

 

本当に分かってるのか(あなたに言ってるんですよ)ミュルジス(主任)

 

「……分かってるから、もう、やめて」

 

 ミュルジスは枕を抱き寄せ、顔を埋めた。

 言い過ぎてしまっただろうか。不安になって様子を窺う。

 ミュルジスはじっとして動かなかった。

 

「ごめん、俺に言われたくはなかったよな」

 

 ぴく、と反応があった。

 ミュルジスの瞳が起き上がってこちらを向く。

 

「あなたが謝る必要は――」

 

 小さな声は途中で途切れた。

 もう一度、その目が下を向く。

 

 ミュルジスは何を躊躇っているのだろう、と思案する。だが俺の頭はとにかく性能が悪い。思いつかないままに時間が過ぎて、枕が元の形を忘れてしまうほどずっと、強く抱きしめられている。

 

「ジズ」

 

「ごめん」

 

「……あたしが言いたいことは一つだけよ」

 

 ひんやりした手が俺の首元を撫ぜる。

 その目はいつになく冷え切っていて、目を離せばその隙にぐっと首を絞められてしまうような、そんな感覚が襲ってきた。

 

「あなた自身の言葉で話してちょうだい。誰の言葉も借りないで。今、あたしと話してる人はジズだけのはずでしょ?」

 

「分かった」

 

 否を言う気はなかった。しかし、そうしていたらいったいどうなっていたのだろう、と考えずにはいられなかった。ぞくりと撫でられた首筋に寒気が伝う。

 

 その顔を、俺は知らなかった。

 見たことがなかった。

 

「フフ、そんなに縮こまらなくたっていいのよ」

 

 竦んで動けない俺を引き寄せ、その額が胸にくっついて、手は脇の下を通って背に回される。衣服越しに捕まえられて俺は増々雁字搦めだった。

 それが怖いわけではない。ただ不安だった。見たことがないミュルジスの一面に戸惑っているだけだ。刺すような鋭さは既に影も形も残さず消えているが、鮮明に焼き付いているのだ。

 

「ねえ、ジズ。あたしはこれでも精一杯我慢してるの。手のひらで覆っても溢れ出しちゃうくらいにね。だったら、あなたもちょこっとくらい譲ってくれたっていいでしょ?」

 

 口調こそ軽かったが、その言葉はずっしりと胸の奥に沈んでいった。俺が知らない所で彼女は随分不満を溜め込んでいたらしい。それともアナスタシアのことをまだ引きずっているのか。

 

「あたしの前で、あたしじゃない人を見ないで。あたしじゃない人の言葉なんて忘れて、あたしだけ見ていて。――あなたは、あたしのモノなんだから」

 

 モノ呼ばわり。不思議と嫌ではなかった。

 きっとそれは他者から求められなかった前世の残滓だ。

 

「俺は君の幸せだけを祈ってるよ、ミュルジス」

 

「……ありがとう、ジズ。でもごめんなさい。あたしにはジズの幸せだけを祈ることができないの。()()()()()の幸せなら、願ってもいいわ」

 

 それでいい。俺の幸せはミュルジスの幸せだから。

 ドクターに委ねることしかできない自分をきっと悔しく思ってしまうだろうが、それでも、何も変わらない未来よりはずっといい。後悔なんてしない。一番に幸せだって胸を張ろう。

 

 ふわりと手にかかる長髪を()いた。

 まるで絹糸のように滑らかで奇麗だった。

 

「ねえ、ジズ」

 

 どうしてか緊張したような声色でミュルジスが言った。

 

「ああ、その、えっと、キ、キスってどうかしら」

 

「どう? ……どう、と言われても」

 

 キス。カップルがするアレだろう。それが何なのか。

 どう思うかと聞かれたら、まあ、末永く爆発してくれ、だろうか。

 

 この顔のおかげでトリマウンツに来たばかりの頃はよく声をかけられたため、そういったことを意識したこともあったが、如何せん俺はヘタレだった。

 しばらく経ってからは俺一人の外出が減ってそんな機会も少なくなった。今俺が恋人を作ろうものならミュルジスは大なり小なり不安になるだろう。それを俺は望まない。

 

 つまり俺は今までそんな行為をしたことなどなく、そしてこれからもそうだろうということだ。

 

「キスってどんな味がするのかしら?」

 

「俺が知ってると思うのか?」

 

 テラに生まれてこの方30年、彼女なんてできたことがない。

 ミュルジスは分かってるはずだろうに。

 

 時計を見やる。

 余りにもミュルジスがナチュラルに入ってくるものだから横になっていたが、まだ風呂にすら入っていない。夕飯だって食べていない。

 

 少しずつ主張を始めた睡魔の手から逃れて起き上がると、ミュルジスは何かにがっかりした様子で俺に倣った。

 結局発言の意図は分からなかったが、それ以上に意外だったな。まさかミュルジスにキスの経験すらないとは。世の男は見る目がない。

 

 ――どこかで花が咲く。

 

 溜め込んだ栄養をふんだんに使い、蕾が開く。

 それは余りに卑近だった。開花というただの現象に物語を見出したものだから、俺の目は文字しか見ていなかったんだ。

 

「ジズ。さっきの話、訂正するわ」

 

 ドアノブに手をかけて、ミュルジスは振り返った。

 

「言いたいことは一つだけって言ったけど、本当はもう一つあるの」

 

 視線が俺の腕に向かう。

 源石回路の一切を排して作られた電子機器。

 本来は源石に頼るべき構造まで完結させるものだから、機能をただ一つに限定された欠陥品。

 

「そのデバイスを外さないで。あたし以外の誰かと隠れて会わないで。……それが、妥協点だって決めたの」

 

「妥協点?」

 

「葉の傾きに委ねることがなくたって、皚々(がいがい)の輝きに目を奪われることが許せなかったのよ。きっとジズには伝わらないでしょうけど、それが本音なの」

 

「分かってるなら噛み砕いてくれ」

 

「言葉が理解できたって伝わるとは限らないわ」

 

 俺が対話を拒絶したとき、激昂した人とは思えない発言だった。

 若干熱を持つ。反論の文句が喉奥までせり上がってくる。しかし、その目に映る冷たさが俺の口を縫い付けた。無駄だと分かった。

 とうに見放されていると否応なく理解させられた。

 

「俺は、信用できないか」

 

「ジズって本当に卑怯な言い方が大好きよね」

 

 考えなしに思わず言ってしまったことに、ミュルジスはいっそう機嫌を損ねてしまったらしい。自分の無能さが嫌になるのはこれで何度目だろう。

 

「……話はこれで終わり、きっとそれがいいわ」

 

 ミュルジスはそう言って出て行った。

 彼女の言葉を覆させることはおろか、留めるための言い訳も思いつかなかった俺は、ただそれを見送った。

 

 人は変わるものだ。いつか、いつの日か、喜ばしい変化が訪れる。そう思って触れずにいることが必ずしも成功するとは限らないように、失敗もまた確かではない。

 しかし、俺はその時に生きているのだろうか。

 

 ――関係ない。

 

 ミュルジスの悩みは結局、将来に関係ない。

 俺が抱えて黄泉まで持っていくからだ。

 

 そう考えればむしろ良い動機になる。俺はミュルジスを苦悩から解き放ち、更には本当の幸福に導いてやるのだ。問題など根本から消し去ってしまえばいい。

 

 そこまで考えて、鼻で笑った。これは現実逃避だ。まだ近くもない未来のことを考えて、ミュルジスに拒絶されたショックを受け流そうとしているだけだ。

 

 はあ、と溜息を吐いた。

 俺は不器用で、間抜けで、愚か者だ。チートがなかったならとっくに捨てられていただろう。だから、ミュルジスを幸せにするのは俺ではなく、ドクターだ。

 

 人任せを笑うといい。結局の所、俺は何もできない人間なんだ。どれだけ優れた容姿に生まれ直そうが変わらない。前世から何一つだって学んでいない。

 

 もう、いいんだよ。

 希望も可能性もいらない。

 

 俺は俺自身を信用できない。

 こんなゴミに任せるくらいなら、ドクターに期待している方が有意義だ。

 ミュルジスのことを本当に考えてやるならそれが一番の選択肢なんだって、もう答えは出したんだ。

 

 いつか全部救ってくれるヒーローが現れる。

 そう信じて精々出来ることをしよう。

 

 いつも脳裏に描いている、ハッピーエンドを目指して。

 

 




 
リク話です。
途轍もない難産でした。
何度砂糖を吐いたことか。

評価、感想、よろしくお願いします。
 
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