ライン生命生態課所属e分類の1番隔離指定研究対象   作:e-2

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第三部、始まります。
 


第三部 森魔事件
九課争鳴


 

 

 1095年9月。

 新聞の一面をライン生命が飾った。

 

 曰く、ライン生命は大きな転換を迎えた。

 九課に数えられる事務課の中でも頭一つ抜けた権限を持つ警備課の主任——サリアがトリマウンツを離れたのだ。

 

 設立当初から該社を支えていた彼女の離反は記者たちのジャーナリズムを大きく刺激したが、結局尻尾を掴むことはできなかった。

 火のない場所に立つ煙は徐々に薄れていく。ライン生命が発信する内容に警備課の3文字は含まれていない。

 一部の業界人はともかく、人々の関心はやがて他に向くこととなった。

 

 

 そんな事件と時を同じくして、生態課の主任を務める彼女の生活にも小さな小さな転換が訪れていた。それは本当に僅かな変化だった。

 ビーチブレラを、タワーヒルバイオテックを、ママジョンズを、鉱石病の治療を謳うすべての会社についてのスクラップをゴミ箱に捨てた。

 新聞を眺め、不快そうに顔を顰めてはページを捲る。

 

 伸ばしていた手を引っ込めた。

 他人に任せることを辞めた。

 

 

 

 仮にジズが『アークナイツ』の登場人物だったなら、『炎魔事件』はきっとこうも呼ばれていたことだろう。

 

 

 

 

 『森魔事件』と。

 

 

 

 

 

 

 1095年、春と夏の境。

 

 ミュルジスが手帳を眺めて渋面を浮かべている。ホールの改装に従事させられているジャックが業務連絡の中でそれとはなしに水を向けるが、何の成果を得られず作業に戻された。

 頻繁に溜息を吐いてはジズの方へと視線を飛ばす彼女に、アナスタシアは首を傾げる。

 

「何かあったんですか?」

 

「明日、構造課の研究員が来るらしい」

 

「それはもしかして……」

 

「俺についてのことだ」

 

 アナスタシアは大して驚かなかった。

 一番に思うのはむしろ「ようやくか」ということだった。いつか動き出すだろうとは思っていたが、まさかこんなにも遅くなるとは。

 

「危険なものになると?」

 

「勘違いは仕方ないけど、今回のは治療だ」

 

 アナスタシアが目を丸くする。

 

「治療?」

 

「実験に耐えられる材料にしたいんだろう。成果を上げつつある新しい治療法だそうだ」

 

「それ胡散臭くありませんか?」

 

「だからミュルジスはああなってるわけだ」

 

 立ったままサイドテーブルに突っ伏して頭を抱えている。上下する背中だけが彼女の無事を教えてくれていて、2人は苦笑いを浮かべた。

 

「後悔が早いですね」

 

「まあ、そろそろ一つくらい受けてやらないと後々に強制されるかもしれないってことで渋々選んだらしいからな」

 

「つまりは相当安全だということですか?」

 

「ミュルジスの判断ではそうなる」

 

「……それなら、どうしてあんなことに」

 

「感情と理性は別らしい」

 

 ああ、と生返事を返す。その言葉は少し泣きたくなるくらい身に染みていた。脳裏に3年弱前の出来事が映し出される。

 感情に振り回され、理性が全く機能しなかったあの日々。もはやミュルジスを笑うことはできない。濁った眼でもう一度彼女を観察してみると、かつての愚行が思い出され、申し訳ない気持ちが湧いてくる。

 

 3年の時を経て、生態研究園は全く変わっていない。唯一変化した点はアナスタシアが主任補佐から下されたくらいだろうか。

 ジャックは未だに研究園の控え室でポーカーに明け暮れているし、研究園の外で働くエリナも同じことだ。鉱石病が悪化することもなく、トランスポーターとしてミュルジスの使いっ走りを務めている。

 

 ジズはいつかの日に思いを馳せる。

 

「……3年か」

 

「その節は本当に」

 

 ご迷惑をおかけしました、と頭を下げるアナスタシアをどうにか励ます。

 最初はあれこれ言っていたミュルジスも事が終わってからは口を出さなくなった。雨降って地固まることもあるだろう、と。

 

「そう、なのかもしれませんが」

 

 歯切れ悪く頷くアナスタシア。

 

 彼女たちの間にはジズですら察することができるほどの溝があった。それは主にアナスタシアが作っているものだと彼は思う。

 ミュルジスは何も気にしていない、と。能天気な彼は言う。それを聞いて素直に信じられるほどアナスタシアは愚かではなかった。

 3年の時を経てもその懐疑は氷解せず、小さな違和感に苛まれている。

 

「それに、ターシアのことじゃない」

 

「……と言うと?」

 

「俺が一度だけ九課会議に出席したことを覚えてないか? それを思い出してたんだ」

 

「主任の機嫌が悪かった時期ですか」

 

 げんなりと言うアナスタシアだが、それを励ませる存在はいない。何故ならジズもまた苦笑しかできないからだ。

 一方は八つ当たり気味に出される無茶ぶりをなんとかこなし、一方はひたすら機嫌を取った。

 まあ、機嫌を取ったとはいっても謙っていたわけではない。確かにミュルジスの主張だけを見るなら余りにも自己中心的だったが、心情的には同情の余地があったからだ。

 

「あの日、俺はミュルジスに連れられて本部の統括課エリアを訪ねたんだ」

 

 1092年9月。

 森魔事件はその九課会議から始まったのだ。

 

 

 

 

 コンコンコンコン、とノックを4回。

 緊張で固まったジズを見ておかしそうに口元を押さえるミュルジス。中から声がかけられる前にドアを開け放ち、けらけらと笑いながら入室する。

 既に着席していたのはパルヴィスとナスティの2人だけだ。思っていたより人が少なかったことで、緊張がようやく弛緩する。そんなジズにパルヴィスは穏やかな微笑みを向けた。

 

「久しぶ――」

 

「ハロー、ナスティ。調子はいかが?」 

 

「特に変わりない。機器は上手く働いているか?」

 

「勿論よ。良い仕事をしたわね」

 

「ミュルジス、そちらの――」

 

「ガールズトークに入ってくるなんてまったくもって紳士じゃないわね。それと、さっきからジズに向けてる視線が不快よ。やめてくれるかしら」

 

 パルヴィスに向ける笑っていない微笑み。発言の機会すら与えずに黙らせてやろうと勢いよく畳みかけたが、肝心の彼はそんなミュルジスに苦笑いを浮かべていた。

 

「話の途中で割り込むのはやめた方がいいんじゃないか」

 

「あの人の話なんて聞くに値しないわ」

 

「今日は話し合うために来たはずだよな」

 

 ジズが入れたツッコミに返事はなかった。

 九課会議がまともに成立するかどうか疑わしいほどに仲が険悪だ。尤も、嫌悪を向けているのは片一方だけだったが。

 

「構わないよ、ジズ。私たちの実験で君の源石融合率は2.61%も上昇したんだ。君を思うが故だろう」

 

「あら、あたしがあなたを嫌う理由って本当にそれなのかしら。2.61%も犠牲にして得られた結果があれっぽっちだってことに失望したのかもしれないわよね」

 

「……それは、君ならそれ以上の成果が出せたとでも言いたいのか。実施されない実験にいったいどんな成果が見込めるのか、聞かせてもらっても構わないね?」

 

「少なくともあたしはあなたみたいにジズをすり減らすような真似はしないし、したくもないわ。仮に貴重な実験材料だと見做してるなら、そんなの尚更でしょう」

 

 今度こそ正しく険悪な仲になったと言えよう。

 研究者として侮辱されたパルヴィスは主任という地位に見合うだけの威圧感を発している。

 

 自分が発案した実験のせいで生み出された対立ということで強く出られないジズ。喧嘩を止められそうなナスティは全く関心がないようで、どうすればいいのかと頭を悩ませていたが。

 

「ほんのちょっと席を外しているうちに、いったい何があったの?」

 

 熟した女性の声。それはジズにとって聞きなれた声だった。

 ただし直接聞くのはそれが初めてのことで――つまりはスピーカー越しに聞いていた声というわけで。即ち、そこにいたのは大女優マリアンナ・ブレイク。

 

 本名、ヤラ・ブッカー・ウィルソン。

 ライン生命人事調査課主任その人である。

 

「マリアンナさん! お会いできて光栄です!」

 

「ええ、どうもありがとう。あなたのことはミュルジスから聞いているわ。私が出演した映画を何度も見てくれているのでしょう?」

 

 憧れの人物に会えて目を輝かせるジス。

 ミュルジスとパルヴィスのことなど全く忘れていた。

 

 サングラスの奥で瞳が揺れた。

 

「そんなあなたにこんなことを言うのは気が引けるけど、今の私は女優業を辞めて久しいただのビジネスマンなのよ。気軽にヤラって呼んでくれたなら嬉しいわ」

 

「わ、分かりました、ヤラ主任」

 

 30年以上前の作品を繰り返し見るほどのファンを無下に扱うのは心が痛い。残念さを隠せていないジズにサインをしてやると、その目は再び輝いた。

 

 ミュルジスはヤラの登場に本物の笑顔を向ける。

 

「来てくれて嬉しいわ。人事調査課は最近仕事が忙しいって聞いたけど、問題なかったようで何よりよ」

 

「……それは、私宛に届いたあの脅迫状を送った犯人としての発言? それとも、例の件の後始末を押し付けた主任としての発言かしら?」

 

「家族の息災を願う純粋無垢なあたしとして、って選択肢が見当たらないようだけど。それに脅迫だなんて言い過ぎよ」

 

 ヤラは溜息を吐いた。疲れが見える仕草だった。

 毎夜枕をびしょ濡れにされては堪ったものではない。多忙のために枕を使える環境で寝られる頻度は人より少ないのだが、それでも必ず週に一度は帰宅している。

 

 ジズは若干抗議の視線をミュルジスに飛ばすものの、曇り一つない笑みが帰ってくるだけだった。守られておきながら責めるほど鉄面皮にはなれない。何とも言えずに頭の後ろを掻いた。

 ヤラが着席すると、自然にジズは会議室の中を見渡し、そこで気が付いた。

 

「席が8つしかないみたいだな」

 

「あら、本当ね。始まる前にジズの席を用意しておかなくちゃ」

 

「そうじゃなくて」

 

「それは科学考察課が欠席するからだね。いつも年に一度しか9つの席は埋まらないんだ」

 

 パルヴィスの補足で得心がいったジズ。

 科学考察課の活動はトリマウンツどころかクルビアにすら収まらない。帰ってくる彼らの手には希少な植物種もあることだろう、九課会議の欠席はむしろ奨励したいくらいだった。

 

 ペールシダーだの何だのと科学考察課の素晴らしい働きを想像するジズの横で、ミュルジスは笑顔を取り繕うこともなく睨みつけた。パルヴィスの穏やかな目と正面からぶつかる。

 

「あたしとジズの話に入ってこないで。これは警告よ。次に同じことをすれば、会議中だろうと遠慮なくその寝惚けた顔を洗ってあげるわ」

 

 ヤラはナスティに視線を向ける。資料を取り出して眺めていた。会議のものではなく、エンジニア課で扱っているものだろう。期待できない。

 ジズがどうにか窘めていたがまるで効果がないようで、仕方なく口を挟むことにした。

 

「それくらいにして、一足先に会議の内容を話すなんてどうかしら」

 

「これは大事なことよ。取り決めを無視されるなら会議がどう着地したって意味がないでしょ? そこのヤギはきっとほんの小さな綻びにもつけ込んで実行するわ」

 

「だからって、言い過ぎてはいけないのよ」

 

「言い過ぎ? 会議資料をちゃんと読んでいないみたいだからサービスで教えてあげるわね。ジズの源石融合率は半年前まで2%にすら届いていなかったのよ」

 

 言葉遣いを誤った。

 ヤラはミュルジスに謝罪したが、ヒートアップした彼女を止められる者は――ヤラに負い目があるということを加味すれば――会議室の中で言えばナスティくらいのものだ。ジズは助けを求める目でナスティを見たが、やはり一切反応されなかった。

 

「だから、ジズは絶対に――!」

 

「会議室では静粛にするものだ、ミュルジス」

 

 とは言え、それは会議室の中の話だ。

 ライン生命の社内であれば、ミュルジスを止められる人数はいくらか増える。科学考察課で懇意にしているマゼラン(マーちゃん)などもそうだが、やはり筆頭は警備課の主任たる彼女だろう。

 

「……職員の安全を守ることはあなたの仕事でしょう、サリア」

 

「お前の妄言は被害妄想と呼ばれる種類のものだ。会議を頭から否定するようなら出て行け、結論にお前の意志が含まれるはずはないだろうがな」

 

 この中で2番目に愚痴を聞かされているだけあって、サリアはミュルジスの急所を抉るのが上手い。ちなみに1番はジズだ。

 ヤラが思わず閉口するほどの勢いで主張を否定し、然も当然のような顔で定位置に着席する。

 

「ふむ、どうやら会議には間に合ったようですね。ええ、大変でしたよ。廊下で偶然かの高名な――失礼、この雰囲気はいったい?」

 

 会議の定刻2分前、商務課主任のジャスティン・フィッツロイが会議室に現れた。ペラペラと回る口が自然に止まり、困惑を露わにする。余裕を崩さない彼にしては中々に希少な姿だった。

 

「そちらが噂の方ですね? 私はこういう者で……」

 

 キッと睨みつけるミュルジス。

 フィッツロイは更に困惑を深め、無言で引き下がった。

 

 そして時間ギリギリに入ってきたのは構造課の主任、フェルディナンドだ。彼はジズを一瞥こそしたが、特に何か言うこともなく席に座った。

 

 

 開始時刻。

 彼女が入室する。

 

 

 美しい女性だ。空に囚われた彼女の目は透き通っていて、ミュルジスで免疫を作っていなければ危ないところだった、とジズは思った。

 

 ライン生命コンポーネント統括課主任。つまりライン生命の統括と呼ばれるトップであり、すべての実験や計画は彼女の名において実行される。

 遥か昔から空を仰ぎ続けている狂人であり、その夢を叶えることになる才人だ。どこか浮世離れした彼女——クリステン・ライトは、よく通る声で九課会議の開始を宣言する。

 

 その様子をサリアはじっと見つめていた。

 

 

 

 

 情報共有から始まり、いくつかの重要事項をハイスピードで解決していく。1時間もあれば大抵の話が終わっていた。クリステンが各課の要求や提携のほとんどを当事者に委ね、その裁量に任せていたからだ。

 放任主義。原作で言われていた通り、クリステンは各課の主任に委ねるばかりで自分の目的に執心しているらしい。それはミュルジスにとって朗報であり、悲報でもあった。

 

「最後の議題は……ああ、例の件ね」

 

 初めてクリステンが資料を見た、ような気がした。

 ミュルジスとジズに緊張が走る。

 

 統括に促されたのはパルヴィスだった。

 

「資料に示した通り、最後の議題はそちらのジズに関することだ。ミュルジスやサリアは把握していることだろうが、改めて説明させてもらうよ」

 

 彼の口から語られる第一部(半年前)第二部(アナスタシア)の話。資料には九課会議のため実施された簡易的な最新の検査結果が載っている。

 

 フィッツロイは澄まし顔で話を聞いているが、手に持つ資料は見て分かるほどよれている。ジズの力は多少頭があればすぐに莫大な富を生み出せる話だと理解できるものだ。経理を担う商務課が本腰を入れて取り組むのは自然な流れだった。

 同じような理由で人事調査課のヤラもまた注目している。いや、させられていると言うべきか。ライン生命の評判が向上すればただでさえ多い入職希望者数が更に増える。ことによれば桁が一つ上がってもおかしくはない。忙殺は目に見えていた。

 

「概要はこんな所だね。そして、私は彼のためにも構造課で検査を行うべきだと考えているんだが……」

 

「あたしの許可も得ずに先走って融合率を上げた構造課にジズを任せられないわ。みんな分かってないなら言ってあげるけど、これはクルビアにさえ収まらない大事なのよ。リスクはとことん排除されるべきだし、逸ってはいけない事柄でしょ?」

 

 努めて理性的に反対を主張する。

 フィッツロイは顎に手を当て何か思案している。

 

「投機家として、そのチャンスを逃すよう勧めるほど愚鈍ではないつもりだ。たった2.61%の何をいったい恐れているんだ? あと10繰り返しても死にはしないだろう」

 

 翠玉の夢は果たして本当に成立するのだろうか。暗く濁った殺意に気付かないまま発言を終えたフェルディナンドは、果たして次の九課会議に出席することがあるのだろうか。

 

「私はミュルジスに賛成よ。機を逸すると言っても彼はライン生命の社員だし、じっくり進めていけばいいでしょう」

 

 脅迫されるまでもなく、ヤラの答えは決まっていた。社員とは会社の備品ではない。人事を担当する以上、そういった軽視は自身に戒めていることだった。

 

「私はパルヴィスに賛成する」

 

 ナスティがそう言った。ミュルジスは思わず机に身を乗り出してしまうところだった。何故その判断に至ったのか分からず、だからと言ってそうなるべきではない理由も思いつかない。

 

「私もよ」

 

 クリステンが続く。半年前の実験が彼女の許可を得て実施された以上、こちらは薄々分かっていたことだったが、ミュルジスは唇を噛んだ。

 大きな方針がパルヴィスに寄っているというだけで、ジズを傷つける意図はないのだろうが――こちらについてほしかったと心が言う。

 

 これでパルヴィスに賛成したのはフェルディナンド、ナスティ、クリステンの3人だ。そして、ミュルジスに賛成したのはヤラのみ。

 

 残る主任は二人。

 しかし、片方は何ら心配していない。

 

「その力が仮に実際的な有効性を持っていたとして、事態は我々の手を離れ、混乱に支配されるのみだろう。隠匿するには限りがある。資本を繰るには開示が避けられないだろう。――フラスコの中身を観察するばかりが研究者の責任ではない」

 

 サリアはミュルジスに賛成した。余りにも影響力が高いのなら蓋せざるを得ない、というのが結論だった。

 勿論解明することもまた科学研究者としての責任であると認めるが、上手く技術に落とし込んだとして、鉱石病から救える命より混沌が生む犠牲者の方が確実に多いと彼女は判断した。

 

 馬鹿げていると言わんばかりにフェルディナンドは鼻を鳴らす。未解明の分野に手掛かりを得られたならそれを解明し次につなげるべきだ、と彼は思う。トリマウンツでは企業の隠蔽体質など半ば了解されていることなのだから、尚更だ。

 

 残ったのは一人。

 フィッツロイはミュルジスから、先ほど睨まれた時より数段強い視線を感じていた。気が散らされるが、まあ、解答は定まっていた。

 

「ライン生命医科学研究所がまさにそれとして活動を続ける、その一点を可能かどうか述べますが、限りなく不可能に近いでしょう」

 

 ミュルジスはガッツポーズを取った。

 ジズの手を取って小躍りしそうな雰囲気だった。

 

「理想的な状態で技術化できたとして、勿論多くの”友好的”な取引を行うことができるでしょうが、それはパイを前にして頬を緩めているに過ぎません。切り分けられるのは我々です」

 

 それをいなすだけの権力も影響力も財力もない、とフィッツロイは語る。

 ただの一企業が、たとえば国軍に敵うはずもない。政府が何かしらのアプローチを仕掛けてきたとき、ライン生命の主任が一人も変わらないでいられる確率は相当に低い。

 

「富と名声のみを求めるのなら傀儡もそう悪くはありませんが、私は御免です。運命とは自分の手で掴まなければならないものですから」

 

 全ての主任が意見を表明した。

 パルヴィスとミュルジスは同数の票を獲得したが、その内実が全く異なる。フィッツロイやサリアが語った内容にパルヴィスらは納得してしまったし、それが合理的だと理解した。

 

 よって、ミュルジスの主張が採択される。

 

 ——ということでは決してない。

 何のために会議があるのか。それは多角的な視点を基によりよい計画を作り上げるためにある。

 

「それなら、準備が終わってから着手することにしましょう。実験の種別から考えて、構造課が担当するのが妥当ね」

 

「……それはどういうことかしら、クリステン」

 

「そのままの意味よ。今のままでは商務課や警備課が力不足なのだから、それを解決すればいいだけの話よね。勿論社全体の成長と拡大は前提として」

 

「融合率の話は――」

 

 そこまで言って、ハッとした。

 

「フィッツロイ!」

 

「私はあくまでライン生命の維持という最低限が確保できそうにないから反対したに過ぎません。研究方針については専門外です。まあ、あなたは少し潔癖すぎると思いますがね」

 

 フィッツロイはミュルジスに賛成したわけではない。

 短期的に見ればそうなのかもしれないが、それはあくまで短期的な話だ。長い目で見れば彼の意見はパルヴィス寄りだろう。彼に金の成る木を放置する趣味はない。

 

 席が離れていてよかった。

 近くに座っていたなら、思わず胸倉をつかんでしまいそうだったろうから。

 

 次に頼るのは無愛想なコンプラ至上主義者。

 

「サリア」

 

「手綱を握ることができるなら、私から言うことは何もない」

 

「何もない、ですって? ふざけないで! 構造課に信用できるところなんて皆無よ、行き過ぎた実験を繰り返さない保証がどこにあるって言うの!?」

 

「私が監督する。それでいいな」

 

「いいわけないでしょ、サリア。あのときだって途中で止められたはずなのに傍観して、果たした責任はジズをあたしの元まで送り届けることだけ! 手綱なんて握っていられなかったじゃない! それでどうして――」

 

「二度言わせるな。ここでは静粛にするものだ」

 

「置物のあなたが偉そうに……っ!」

 

 ミュルジスがサリアに殴りかかるのをなんとか止めるジズとヤラ。

 ナスティやフェルディナンドは既に興味を失い、現在進行中のタスクの確認やメールチェックに勤しんでいた。すべての結論は統括がすでに出したからだ。

 

「彼に関する研究が利益を生み、医学界に決して小さくない影響を与えることは確かだ。その状況でお前はパルヴィスより信用ならん」

 

 ついにエルフの力まで使おうとしていることを接続したジズが確認。アーツユニットなしで力を使おうものなら要らぬ疑いを持たれることになる。エルフであることを知っている者はこの会議室の中でさえそう多くないのだ。

 制止する思考を必死に流し込む。

 

「私が監督すればパルヴィスは下手なことをしないだろう。その上で多少の結果を出すはずだ。だが、お前に任せていては一向に研究が進まない」

 

「どうしてそんなことが言えるのよ!」

 

「半年前までのことを鑑みれば瞭然だろう。お前は安全性という項目こそ理解しているが、研究の本懐をすぐに忘れ、感情的になる。致命的だ」

 

 サリアは弱者が嫌いだ。

 感情に流されるだけの弱者が。

 

 ミュルジスとは長い付き合いで、彼女がそういった性質を持つと分かっていた。しかし、ジズが社員になり、そして価値ある研究対象となった以上、看過できるものではなくなった。

 

 クリステンが話を纏める。

 ミュルジスは取り抑えられたまま荒い息を吐いていた。

 

 ヤラだけが味方だった。こちらが全幅の信頼を置いていたサリアはとっくにミュルジスを信頼していなかった。膝から崩れ落ちそうだった。

 

 最後の議題と共に九課会議が終わり、もはや一言だって交わさずに彼らは業務に戻っていく。気遣うような視線を投げていたヤラだったが、携帯端末のバイブレーションに気付き、ポケットから取り出しながら退出していった。

 

 ナスティやクリステンが何を思っているのか。サリアはいつからミュルジスのことをそんな風に思っていたのか。全くわからなかった。

 心がミキサーにかけられたようだ。色々な感情がぐちゃぐちゃになって、頭の中が纏まらない。しかし、そんな中でも言うべきことは分かる。

 

「ごめんなさい、ジズ」

 

 彼は何と返せばいいか見当もつかなかった。

 項垂れたミュルジスを見ていられなくなって、一度抱擁した。それだけで肩が震える。いったい何の感情がそうさせているのか、彼女にすら分からなかった。

 

 やがて落ち着いたミュルジスの手を引いて研究園に戻る。

 悲しみの膿を出し切った彼女はフラストレーションを制御できず、アナスタシアに八つ当たりを繰り返したのだ。

 

 

 

 

 アナスタシアは納得した。

 あれほど理不尽に振られた仕事が、むしろよくそれくらいで済んだなとさえ思えた。どこかの世界線ではミュルジスが限界を迎えてアナスタシアを刺していたりしないだろうか。

 ありえそうに思えてしまったので考えるのをやめることにした。

 

「ライン生命は準備を終えたということですか」

 

「さあ、どうだろうな。もうすぐアーツ専門の課が新設されるらしいから、それからだとばかり思ってたんだけど」

 

「あくまで様子見と見るのが自然ですか」

 

 アーツ応用課の設立は1096年。多少早まっているのかもしれないが、年単位で見れば原作通りだ。今は1095年。炎魔事件が発生する年だ。

 

「……1095年?」

 

「はい、今は1095年です」

 

 翠玉の夢の4年前ということが引っかかる。

 確か、ライン生命で何かしらがあったような。

 

 考えていると、背中に衝撃。

 ミュルジスが次にもたれかかるターゲットとして選ばれてしまったらしい。ゾンビのように手を垂らしたまま体重を預けてくる。髪が乱れていたので多少直してやった。

 

「手のかかる子供みたいですね」

 

「誰が誰の子供よ」

 

「主任がジズの子供です」

 

「……ふふ」

 

 アナスタシアはミュルジスの笑みを見て一歩引いた。

 ミュルジスのことは確かに激重屈折厄介チキン(リーベリ)だと思っていたが、その屈折した部分だけを取り出されるとこんなにも気味が悪いとは。

 

「ジズはあたしのモノよ、ターシア。分かってるんでしょうね」

 

「分かってます。ワンチャンも狙ってないです」

 

「それならいいけど」

 

 アナスタシアには2人の仲を引き裂くつもりなど毛頭なかった。双方の想いを知っている以上は早くくっついてしまえと思うばかりである。

 まあ、貰えるなら貰っておくが。

 

「本当に?」

 

「本当ですよ」

 

 何か邪気を感じた気がする、などと言うミュルジスから更に一歩離れたあと、アナスタシアは時計を見遣った。

 

「話し込んでしまいましたね」

 

「そうだな」

 

「私はオフィスに戻ることにします。主任のことは任せましたよ」

 

「ああ、うん」

 

 生返事にクエスチョンマークを浮かべながらもアナスタシアは業務に戻っていった。1095年ということがずっと引っかかっていて、ミュルジスの髪を梳く手が止まっている。

 

「そんなうわの空でいったい何を考えているの?」

 

「……えっ? ごめん、何も聞いてなかった」

 

「随分な扱いね。失礼しちゃうわ」

 

 ミュルジスはようやく自分の足で立つ気になったらしい。機嫌を損ねたかと思ったが、その声色を聞くに、揶揄っているだけらしかった。

 

 ミュルジスが来てすぐに会話をやめたことで加点。

 適当な相槌でアナスタシアをあしらったこと、当たり前のように接触を受け入れたことで更に加点。

 全く注意を向けてくれないことで失点。

 アナスタシアの言葉には生返事だったが、ミュルジスの言葉には反応して戻ってきたことで加点。

 

 乙女心は複雑なもので、ジズは自身が出した高得点に気付かず、上機嫌なミュルジスに振り回される。

 

 原作に巻き込まれつつあるとも知らず、日常を謳歌する。

 いつだって気付いたころには手遅れだ。

 

 

 1095年の6月、トリマウンツにて。

 1名のイレギュラーと共に炎魔事件が始まった。

 

 

 彼はその事件の結末を、まだ知らない。

 

 

 




 
誤字報告助かります。
ようやく原作の前日譚まで辿り着きました。
評価、感想、よろしくお願いします。
 
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