ライン生命生態課所属e分類の1番隔離指定研究対象   作:e-2

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虎質羊皮

 

 

 ライン生命のイベントストーリーは『孤島激震』から始まり、『翠玉の夢』を経て『孤星』にて終結する。

 

 孤星でクリステンが叶えた野望、即ち阻隔層――空を覆う天蓋――の突破には途方もないエネルギーの収束と発射が必要になる。動力の供給源の都合上トリマウンツから動けず、クルビア領内で実行する以上は軍の承諾が必須だった。

 

 許可を得るためにライン生命は水面下で媚を売る。軍需産業に関わらないという方針を無視して、更にはクリステンの一番の友であり警備課主任であるサリアの目から逃れて。

 

 それが初めて露呈した事件こそ、『孤島激震』の更に前日譚である炎魔事件だった。

 

 

 炎魔事件は実の所、幾つもの薄氷を踏みしめている。

 被験者のイフリータを救出できたこと、実験の成功が全くの偶然によること。更にはマイレンダー基金の干渉や、そういったその他多くの不確定要素が関わっているのだ。たった一つボタンを掛け違えただけで結末に大きな変化を与えるだろう。

 

 しかしながら、炎魔事件についてジズが知っていることは、その事件をきっかけにサリアが辞職したこと、イフリータが被害者であること、サイレンスが臨床医だったこと、それくらいだ。

 そして、あれだけの影響を持っていながらに規模は構造課の内で完結している。研究園に住まう彼が足を伸ばした所で精々ライン生命本部が限界だ。関わることなど出来ようもない。

 

 よって、ジズは炎魔事件に干渉できないだろうことを理解していた。イフリータを助ける選択を初めから諦めていたのだ。それに、それでいいとも思ってしまっていた。孤星の成立に炎魔事件が深く関わっているためだ。

 

 1095年。『翠玉の夢』にて、サリアがライン生命を去った年だと語られていたのを思い出すまで、まだ少しの時間がかかるようだった。

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 構造課の研究員から説明を受ける。

 これから行われる結合療法という治療の概要はこうだ。

 

 体内にある有害な源石は多くが細かな粒子となって活性化しているが、そこに核となるよう処置された源石を外部から埋め込み、薬剤の注射によってそれらを結合させる。源石の拡散を防ぐことで小康或いは寛解を狙う。

 

 個人的にはそれを構造課が言っていることで若干の不信感を禁じ得ない。

 しかしミュルジスもまた結合療法に注目していた一人であり、だからこそ数多くある構造課の提案書からそれを抜き取ったのだ。信頼性と効果は担保されている。

 

「源石を埋め込むという特性上、結合療法は多少のリスクを避けられません。しかし我々はそれを回避するためのすべてを万全にしています。――どうか、この手を」

 

 レオと名乗った研究員が手を差し伸べる。

 そこまでロマンチックに求めてくれるなら、応えようか。

 

「俺は君たちを信用する。ただそれは俺の鉱石病が悪化しないということに、ではないんだ。加えて言うなら俺の命すら保証され得ない。どんなに準備していても不測の事態は発生するものだからな」

 

「では、何を信用していただけるので?」

 

「この治療がたとえどんな結果に落着しようと君たちはそのデータを限りなく有効に活用してくれるだろうことを。科学者としての君たちを、その貪欲な精神を信頼しよう」

 

「……フッ。それでは、我々はその高潔な精神に感謝するとしましょう」

 

 ミュルジスが横で溜息を漏らす。

 レオの関心が一気にそちらを向いた。

 

「勿論、治療の成功も約束します」

 

「繰り返さなくたって分かってるわ。それに、そんなことは当然でしょう? あたしが求めているのは最良の結果よ。失敗しないことは大前提」

 

「我々に任せていただければ、その点は……」

 

「それじゃあ、今のあなたはどれだけ知っているって言うの? 何がジズを一番に癒せるのか差し支えなければ教えていただけると嬉しいわ。最良ってそういうことよ、構造課の研究員さん?」

 

 主任の肩書はどうにも俺が思っているよりずっと重いものらしい。レオは失言したかと思ってあからさまに焦っているようだが、これは俺のせいだ。

 助けてやる責任がある、か。

 

「俺が言ったことで不機嫌になったなら、それは俺にぶつけるべきじゃないのか?」

 

「そこまで分かってるのにどうしてああいう言い方しかできないのかしら。だからあたしが言わなくちゃいけなくなるのよ。あなたもそう思うわよね、レオ研究員」

 

「えっ、いや、ははは……」

 

 治療の成否を気にしていないような言い草がミュルジスを不快にしたのだろうが、まあ、結局の所、構造課が失敗さえしなければいいだけのことなんだ。

 苦笑いしながらどうにか逃れようとするレオをミュルジスが揶揄い、俺が助け舟を出してやる。

 

 今日は説明だけということで帰っていくレオ。散々遊ばれて疲れ切ったようで、終いには乾いた笑いしか出なくなっていた。

 

「本当にこれでよかったのかしら」

 

 摘み上げた親指に力を入れると、薄っぺらなA4紙がピンと張った。見つめた所でインクの染みは動かない。

 

「ミュルジスが選んだものなら俺は信用するよ。まあ、やめろと言うならそれでもいい。君はどうしたい?」

 

「そっくりそのままお返しするわ。ここから先はジズの判断。あたしにできることはもう、あなたの手を握っていることだけよ」

 

 パルヴィスの干渉を避けられなくなったのはミュルジスの失策だと彼女は語った。だからこそ、結合療法という一番に安全な選択肢を見つけてくるまでが責任だった。

 ここからは俺の自己判断になる。ミュルジスは罷り間違っても俺の保護者ではない。俺の人生を欲しているが、決して強要はしていなかった。

 

 紙が手から離れて机を滑る。

 ミュルジスは呑気に行く末を期待していた。

 

 地獄への道は善意で舗装されていると言う。

 疑うことを怠ってしまった者に、どうやら正しい結果は訪れないようだ。己の行いを真に理解できる者など少数であろうが、そのマジョリティに甘んじている限り、道の先が天国である保証は得られない。

 

 泥濘を踏みしめ、天を仰ぐ。

 星が見せる偽りの空を。

 

 

 治療は小さな源石で慣らすことから始まった。

 嵌合体はパルヴィスの得意分野と聞くが、予想とは裏腹にレオが臨床医を務めることになった。パルヴィスは他で何かを進めているらしい。

 少し意外だったものの、俺が普段から慣れ親しんでいるミュルジスの分身を作る能力は世界単位で見てもそういない。こちらの基準が狂っているだけだろう。

 

 パルヴィスの無関心は俺たちの警戒を解いた。治療計画が順調に消化されていると知らされたミュルジスは胸を撫で下ろしている。サリアが見ている手前そう大きくは動かないだろうと思いつつ不安だったのだろう。

 

 一方、俺はどこか引っかかりを覚えていた。テラ歴1095年、そして構造課という文字列が頭のどこかをいつも占拠していた。

 

「少しの間でいい。手を貸してくれないか」

 

 何を手伝えばいいのか分からないながらも頷いてくれたミュルジスの手を文字通り拝借した。思わず強く握ってしまい、慌てて力を抜いた。

 自分の体に正真正銘の異物が入り込んでいる。その堪えきれない違和感によるものか、嫌な予感が胸の中に充満している。

 

 驚いた顔をして、それからすぐに優しく微笑むミュルジス。俺の不安を解消しようとしてくれる。決して痛くはない、けれど固く結んでくれる。

 隣に座って背を撫でてくれるだけで不安に緊張した心がほぐれた。

 

「気付いてあげられなくてごめんなさい。不安に決まってるわよね。——今日は休みましょう、それがきっとジズのためよ」

 

 そこまでしなくていい。

 そう言おうとして、言いたくない自分に気が付いた。

 

 自分から提案して実験を受けたときは不安なんてなかった。それなのに、いざ相手に主導されてみると怖くてしょうがない。

 

 腹の中で百足が這い回っているような気がする。痛みが肌を伝うとき、内側から食い破られるのではないかと恐れを抱く。

 

「今日だけ、なんだ。今日だけにするから……」

 

 久しく記憶にない鉱石病の症状。研究園で生活するようになってから随分と離れていた、蝕むような頭痛と、腹を蠢く閉塞感、どれだけ休んでも体にへばりつく疲労。

 レオはそれを避けられないことだと言う。悪化を防ぐためには必要なことだと。だから耐えてきたが、それももう嫌になってしまった。

 

 ミュルジスと話すことで精神を保っていたあの頃には、もう、戻りたくないんだ。いっそ狂ってしまいたいほど痛みが飽和した少年時代には。

 

「あたしが保証するわ。結果が出て、すぐに良くなるって」

 

 ミュルジスに頭を撫でられる。

 子供扱いされて安心してしまうのだから、もう手遅れかもしれないな、と思う。その手つきはとても優しくて、心の隙間が埋められていく気がした。

 

「上手くいけば自由に外を動けるようになるかもしれないのよ。そうなったら、あたしがトリマウンツを隅から隅まで案内してあげる」

 

 そんな未来が許されるのだろうか。

 行きたい場所なら沢山あるんだ。

 

「あたしが通ってた大学にだって、ハイスクールにだって、あなたを連れていけるの。そのために主任の地位があるわけじゃないけど、ちょこっとくらいならサリアも許してくれるわ」

 

 恐らくそうはならないだろう、と思う。濫用するようであれば間違いなく苦言を呈されるはずだ。ただ、止める気にはなれない。

 

「怒られたら、一緒に謝ろう」

 

「……なんだか青春みたいなセリフね」

 

 青春か。一度目はスカして興味がないフリをした。人と話すことすら上手くいかない俺では羨ましがることしかできなかったから。

 二度目は、とうとうチャンスすら与えられなかった。それを一部でも取り戻せるのならどんなに嬉しいことか。

 

 この治療が無事に終わったなら。

 俺の鉱石病が落ち着いたそのときには。

 

 そうやって前を見て、ミュルジスに委ねて、胸騒ぎを誤魔化す。

 原作を知っていたところで、俺は強くあれなかった。

 

 

 

 

 革靴が硬質な床を叩く。

 

「今日もミュルジス主任に送ってもらったのか?」

 

「ああ、最近は症状が酷くてな。いつ発作が起こってもおかしくないってアルベが言ってただろ?」

 

 アルベは構造課の研究員で気さくな好青年だ。

 彼は多忙なレオに代わって俺の症状や体調の変化を治療計画にフィードバックしてくれている。

 

「こちらで迎えを出そうか?」

 

 提案はありがたいが丁重にお断りする。

 それで喜んでくれるとは思えなかったからだ。

 

 それに、なんだかんだ言って俺もミュルジスに依存している。鉱石病や治療に対する不安から逃れるためには彼女が必要で、ほんの僅かな時間だって手放しがたく思えてしまうんだ。

 

「……まあ、いい。次の段階に進めば手間をかけさせることもなくなるだろうからな」

 

 計画書を思い出す。細かく取り決められていたせいであまり記憶が確かではなかった。

 

「治療に集中するためこちらで寝泊まりしてもらうと書いてあるはずだ。それくらい読んでいるものだと思っていたんだがな」

 

「もうそこまで進んでたのか」

 

「まさか、アルベから聞いていないのか?」

 

 聞いてはいる、覚えることができていないだけで。

 そう言うとレオは大きな溜息を吐いた。

 

 実際の所は少し違う。

 俺には計画書が読めなかったんだ。

 

 前世を思い出したときからトリマウンツに来るまでの間、俺には日本語で考えるくせがついていた。日常会話で困ることがなかったのも災いした。

 本を読む習慣はなく、精々が植物図鑑を広げるくらいだ。好きな映画で学んだのはクルビアのスラングだけ。

 

 医療用語ばかりの治療計画書はさっぱり分からなかった。

 だからアルベに今どんな状態か聞いたところで情報を照合できるはずもなく、笑ってごまかすことしかできなかったんだ。

 

「一応言っておくが、気を付けろよ」

 

「何の話だ?」

 

「サリア主任が監査に来る。お前が捕まって計画に支障が出ては面倒だからな。何か咎められたら下手に言い訳をせず頷いておくんだぞ」

 

「ああ、それなら分かってる」

 

「……まったく、こんな実験の監督より先に果たすべき役割があるだろうにな」

 

 ぼやきながら、ふと前を見て、レオはファイルを床に落とした。

 挟まっていた幾つもの資料が床にばらまかれ、そのうちの一枚が真っ直ぐに床を滑っていく。それはレオの視線と同じルートをたどって彼女の足元に辿り着いた。

 

「どうした。拾わないのか?」

 

「い、いえ、拾います」

 

 しゃがみながら、レオが俺の背中を押した。どうやら彼女の方に滑って行った資料を俺に任せたいらしい。そこまでのことだろうかと思いつつ、ああやっぱり少し嫌だなと思い直しながら、掻き集める。

 

「結合療法、か」

 

 いつのまにか一枚掬い取っていたらしい。サリアは意味深に呟いたが、余計なことを言わないように気を付けろと釘刺された手前、何も言わずに黙っておく。

 

「もういらっしゃったんですね、サリア主任」

 

「ああ。用があってな」

 

 どうやら先ほどの話は聞かれていないようだ。

 レオが最低限の礼儀を果たそうと話しかけるが、本物の壁に向けて喋りかけているような感触だった。何一つ弾まない会話が少しの間続いて、忙しいのではないかとレオに言われ、ようやくサリアは去っていった。

 

「どうやら警備課の主任様は随分と暇らしいな」

 

「……それにしても様子がおかしかったように見えたけどな」

 

「粗でも探してたんじゃないか? 重箱の隅をつつくことを仕事にしているくらいなんだ、ありえないことじゃない」

 

 やけに偏見が酷いレオ。恐らくはサリアに叱られたことがあるのだろう、大きな足音が廊下に響く。

 

 苦笑いしながら、俺はまた頭の奥のほうで引っかかるものを覚えていた。

 サリア。ライン生命。1095年。繰り返すたびに水底から何かが浮き上がってくる。記憶から少しずつ引っ張り出されていく。何を忘れているのかあとほんの少しで分かりそうな気がして。

 

「――い。おい! なにぼうっとしてる!」

 

 ハッとして、現実に戻ってくる。

 レオが怒った顔をして俺の顔を覗き込んでいた。

 

「症状が悪化したのか?」

 

「いや、そういうわけじゃない」

 

「ならさっさとついてこい」

 

 レオがズンズン進んでいく。その背中をぼうっと見つめた。ピントがどこにも合わなかった。水面近くまで浮かび上がっていた古い記憶はまた沈んでしまったようだ。

 

 俺は足を踏み出せなかった。歩き始めてしまったら戻れないような、蓋が閉まってしまうような気がしていたから。それでも彼がまた俺を呼んだから、止まっているわけにはいかなかった。

 

 だから、進んでしまったのだ。

 

 

 

 

 俺の体に埋まった源石が想定より著しく活性化しており、治療計画を前倒することになった。そしていよいよ入院――は少し違うか。まあ、とにかく今日、研究園を離れることになった。

 用意された部屋の下見に付き添うつもりで準備していたとかなんとか言って、ミュルジスは俺に同行している。

 先んじて運び込まれていった電子機械は空気清浄機だとか。今回もナスティに頼ったようだ。

 

「エンジニア課には頭が上がらないな」

 

「一度しか顔を見せなかったどこかのご多忙な主任様とは違って、直接会って話してくれたものね」

 

 ナスティの株を上げつつパルヴィスに毒を吐く。

 最近になってようやくわかったんだ。今の彼女はケチをつけたいだけだし、それを自分で分かってもいるって。俺に愚痴を聞いてもらいたいだけだ。

 

 苦笑いで受け流す。

 ミュルジスは頬を膨らませた。

 

 別にパルヴィスを庇うつもりはない。

 彼の研究精神は度を越えているし、止められるべきだ。ただ、それに一度でも協力してしまった俺が何か言うのは違うだろうと思う。だからミュルジスに同調していない、それだけだ。

 

「念のためもう一度言っておくけど、妙な話を持ち掛けられても頷いちゃだめよ。分かってるわよね?」

 

 それはもう20回以上聞いた。

 曖昧に頷く。

 

「ジズ、ちょっと、聞いてるの?」

 

「聞いてる。昨日からな」

 

 まともに聞いていないと思ったのだろう、機嫌がより一層傾いた。大きな溜息をこれ見よがしに吐いている。面白くなさそうな顔で俺をつつく。なんだこのかわいい生き物。

 

「はぁ……あたしばっかり不安がって、ほんと不公平よね。それに、ちょこっとくらい寂しがってくれたってバチは当たらないわよ?」

 

 何を言っているんだろうか。

 

「寂しくないとか、不安じゃないとか、そんなことを言った覚えはないけど」

 

「それなら、あたしと離れることになって寂しくてたまらないってことでいいのかしら?」

 

「当たり前だろ」

 

 いったい俺をどんな存在だと思っているのか。

 初めからずっと言ってるんだ、一人では生きていけないのは俺の方だって。ミュルジスはそれを否定したが、少なくとも、俺が一人で生きられないことだけは今でも真実のつもりだ。

 

「……毎日来てほしい? あたしと毎日会いたい?」

 

「出来ることなら」

 

 無理が出来るだけの力を持っているからこそ、俺はミュルジスに無理をさせたくなかった。だから頼まなかっただけだ。本当ならずっとそばにいてほしいくらいには寂しく思っている。

 

「あら、そうだったのね。それじゃあ、どうしようかしら~?」

 

 目に見えて機嫌が回復した。

 なんだこのかわいい生き物は。

 

 恐らくこれから毎日調子を聞きに来てくれるのだろう。

 きっとスケジュール管理は大変だろうが、「やっぱりいい」なんてことは言えなかった。俺はそんな彼女の様子に間違いなく安心して、それがいいと思ってしまったから。

 

 

 白のタイルを踏むブーツが軽快な音をあたりに響かせる。

 

 ミュルジスの案内によると、目的地はもう少し先の区画になるのだとか。

 少しずつ緊張が高まっていく。

 

 俺は構造課の研究員と上手くやれるだろうか。

 レオやアルベのような人ばかりならいいんだが。

 

 そんなことを考えながら足を進めていると、向こうから大きな声が聞こえてきた。

 

 ここは構造課の研究棟だ。談笑が盛り上がることはあっても、そう大きな声が響き渡ることはない。それに、今聞えてきた声は、何故だか聞き覚えがあった。

 少女の声だった。こんな場所で聞こえるはずがない、少女の声。

 

 昔々、生まれるより前の記憶にこびりついた微かな残滓。

 思い出せと語りかけてくる。

 

「……い、いや、そんな、まさか」

 

 姿を消していた胸騒ぎが再び戻ってきた。

 ミュルジスが隣にいる手前、なんとか平静を取り繕ったが、俺の頭は幾つもの思考がぶつかって混乱していた。

 そんな中で一番に心をかき乱したのは、もしかすると致命的なミスを犯したのかもしれないという焦りだった。今から取る行動のすべてがきっと、大きすぎる影響を未来に与えてしまう。

 

「なあ()()()()()、今日はこの本を読んでくれよ!」

 

「部屋に帰ってからね。それと廊下ではあまり大きい声を出さないで、()()()()()

 

「分かった!」

 

 1095年、構造課、サリア。

 すべてのモヤモヤに対する答えがそこにはあった。

 

「あんな子がいるなんて聞いてないけど、構造課の仕事はいつから保育にまで広がってたのかしらね」

 

 ミュルジスが不思議そうに言う。言葉ではパルヴィスを揶揄していたが、それより不可解と感じる比率の方が大きかったみたいだ。サイレンスは見るからに研究員の格好で、何故そんな人が子供の面倒を見ているのか、答えは出ない。

 

 いや、答えなどとうに出ている。

 まだライン生命を抜けていないサイレンス。監督を務めるサリア。そして、今目の前にいる被検体のイフリータ。そんなピースが集まらなくたって、1095年にライン生命で起きた事件など一つだけだ。

 

 

 ――炎魔事件。

 

 

 まだ関わると決まったわけじゃない。

 彼女たち2人とすれ違う。サイレンスの視線が一瞬だけ俺とミュルジスの方を向いて、すぐに外れた。イフリータは変わらずはしゃいでいる。

 

 何故だろうか、胸騒ぎが止まらなかった。

 冷静に考えればごくわずかな可能性なのだが、しかし、頭のどこかでは確信していた。俺はこれから炎魔事件に巻き込まれてしまうのだと。分水嶺はとっくに越えていて、もはや事態は手遅れなまでに進行してしまっているのだと。

 

「ミュルジス」

 

「……ええ、あたしがついてるわ」

 

 華奢な手を握った。

 俺が抱えている不安とミュルジスが思っている不安は違うのだろうが、それでも紛れてくれた。たとえ気休めにしかならずとも、確かな繋がりは俺を癒してくれた。

 

 上手くやる。

 具体的なことは何一つだって決まっていないが、それでもやるしかないんだ。

 道の先が暗がりに包まれていたって、足元が見えなくなったって、一度しかない人生である以上、失敗は許されない。

 

 

 すべては4年後、ミュルジスの幸せのために。

 俺は炎魔事件を乗り越えよう。

 

 きっとそれ以外に道はない。

 

 

 




 
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