ライン生命生態課所属e分類の1番隔離指定研究対象 作:e-2
「……知らない天井だ」
言葉が虚ろに響く。
口に出してから、それが前世で聞いたことのあるセリフだと思い出した。きっと好きなアニメ作品だった。
何度も見ているはずなのに、いつまで経っても見慣れない。それを知らないと形容することは間違っているだろうか。
自分が異物に思えるほど真っ白な部屋。天井には一つの染みだって付いていない。部屋の中には誰もいない。欠伸を一つして、それがうつる相手は見つからない。
泥のようにまとわりつく感情。どうやって形容すればいいのか分からず、俺はただ顔を顰めた。寂しいと言うには自己中心的なように思えたんだ。
彼女がいないだけでこんなことを思うなんて、どうやら心の奥底まで依存しきっていたらしい。
のそりとベッドから這い出る。時計はいつもより少し早いくらいの時間を指していた。清浄機の画面に映る粉塵濃度が規定値に達していないことを確認して、備え付けの洗面台を使う。
ここに来てから何日経っただろう。一連の動作は朝の習慣になっていた。ただ、やはりどこかハマらない感覚がある。
タオルで顔を拭きつつ、妙な形の壁を見やった。アレはマジックミラーだ。構造課の実験棟内では視認性が重視されているらしく、廊下と部屋を隔てる壁がガラスになっている場所が少なくない。
ミュルジスは無表情になって詰め寄ったが、清浄機との兼ね合いでこの部屋しかなかったのだとレオは言う。
治療計画を前倒したのはこちらの症状に合わせてのことで、更に言えばここで帰った所で苦しむことになるのは俺の方だ。渋々、苦虫を噛み潰したような顔でミュルジスはオーケーを出した。そのときのレオが浮かべた安堵の顔は忘れられない。
――突然、頭蓋の中が軋む。
立っていられないほど痛い。視界がぐらりと揺れたように思えた。今すぐ倒れ込み、頭を抱え、堪えきれない痛みを声にして叫び散らしたい。
ミュルジスの前では取り繕っていたんだ。不安にさせたくなかったから。それももう必要ない。
胸に閉塞感が纏わりつく。酷い胸やけのような吐き気が押し寄せてくる。視界がチカチカしてきた。砂嵐に喰われていく。偽りの静けさとそれを引き裂く耳鳴りに耐えきれず、耳を手で覆った。
どこか遠くで物音がした。
手袋の上から触れているような、どこかぼやけた感覚。
「——ズ、ジズ! 聞こえてる?」
聞こえにくいと思ったら、今度はガンガン頭に響いた。
クソッ。体調が悪すぎてイライラしてくる。
「もう少し、静かでいい」
目を合わせる。
どうにかピントが合う。
「ごめん。それで症状は?」
「頭痛と吐き気、あとは眩暈と耳鳴りが酷い」
彼女は少し考えたあと、体勢の指示だけして部屋から出て行った。ほんの少し和らいだ痛みから逃れるため、俺は思考を回した。考えるのは俺を介抱してくれた彼女についてのこと。
オリヴィア・サイレンス。
パルヴィスに最も目をかけられている構造課の研究員であり、パルヴィスから最もかけ離れた研究精神を持つ。倫理と責任を重視するその姿勢は孤星のエピローグで科学倫理委員会を発足するまでに至らしめた。
『オマエはオレサマと同じなのか? それなら、色々教えてやるよ!』
『私はイフリータの臨床医を担当してるサイレンス。よろしくね』
イフリータは俺と同じ結合療法の被術者らしい。
そしてサイレンスはその臨床医だ。
炎魔事件が成立するためには関わらなければいいと思っていたが、そんな甘いことはなく、引き合うように出会ってしまった。
人懐っこいイフリータに誘われて暇な時間は一緒に遊び、ある程度打ち解けたように思う。サイレンスがどこかに行っているときは大抵2人で過ごすようにさえなった。
果たして炎魔事件は既に瓦解し始めているのかいないのか。そもそも炎魔事件が始まっているのかすら、俺には判断がつかない。これからの展開を見守っていく他ないだろう。
電子音がしてドアが開く。
サイレンスは注射器を持っていた。
「ちょっと痛むけど我慢できる? ——って、イフリータじゃないんだった」
手際よく処置を進める。
ほんの2分ほどで症状が落ち着いた。
「もう大丈夫みたいだ。ありがとう、サイレンス」
「気にしないで。いつもイフリータと遊んでくれてるし、これくらいはお礼を言われるほどじゃない」
彼女たちはもう一ヶ月以上をここで過ごしているらしい。2人の関係は既に原作で見られたもの——つまりはライン生命離職後——と非常に近しいものだった。
種族柄夜間によく仕事をしているはずのサイレンスがイフリータの生活リズムとほとんど合致しているのはその一ヶ月があったからだろう。
この早朝に倒れ込んでいる俺を発見するあたり、それも完全ではないのかもしれないが。
少し時間が経って、定刻になる。
目を擦るイフリータを社員食堂に連れていく。
サイレンスを始めとして、ライン生命には色々な勤務形態がある。夜勤の者はそう少なくない。したがって食堂はほぼ一日中開かれている。
「ふわあぁ……おはよう、ジズ……」
「おはよう、イフリータ」
美味しそうな匂いにつられてイフリータの頭がようやく覚醒する。これでもサイレンスに顔を洗われたりしたあとのはずなんだが、毎朝こんな感じだ。
「今朝のメニューは何だろうな」
「ベーコンエッグ、ハッシュドポテト、テーブルロールです」
「うわっ!?」
「驚かせてしまいましたか? 失礼しました。おはようございます」
「ああ、うん。おはよう、ジョイス」
「おはよう……」
結合療法はまだ開発されて間もない。言わば標識も看板もない道であり、その先行きを照らす役割を担っているのが彼女、データアナリストのジョイス・モルだ。
原作でのコードネームは『フィリオプシス』で、『翠玉の夢』の主要キャラクターでもある。
挙げられる特徴としては感染者であることくらいだが、それには混み合った事情があるらしい。原作でしっかり読んだ気もするし読んでいない気もする。
ハッキリ言えることは、今の俺はそれをふんわりとしか覚えていないということくらいだろうか。
「ジョイスはもう朝食を済ませたのか?」
「いいえ。ですからご一緒しませんか」
勿論断る理由はない。イフリータもむにゃむにゃと言いながら頷いている。起きなさい、ほら。朝ご飯の時間だ。
朝餉が終わって更に少し経ち、治療の時間になった。
継続的な観察と調整、稀に手術。
そして、サリアが来る。
「治療は順調か?」
「ええ、勿論です。多少の誤差は出ていますが、概ね上手く進んでいるかと」
レオが真面目腐った顔で説明している。
ノックされたときに吐いていた大きな大きな溜息はどこへ行ったのだろう。まあ、どちらが素なのかは分かりきったことだ。わざわざ告発するようなことでもないし、俺は静かにしておく。
そして、彼女の監査は俺だけが対象じゃない。
「サリア! 来てくれたんだな!」
「ああ。どこか痛いところはないか?」
「へっちゃらだ! それよりやりたいことがあるんだよ!」
元気満々に自分の部屋へと駆けて行くイフリータ。
「……治療は順調か?」
「はい、精神も病状も安定しています」
「そうか。それならいい」
手術を伴う治療は多くて週に2回。サリアは必ずと言っていいほど構造課に顔を出している。そして終わり次第イフリータに付き合って遊んでやるのだ。
そんな彼女を見ていると、パルヴィスの監査というより、イフリータの面倒を見るのが主目的になっていやしないだろうかと思う。俺が来たときには既にこうなっていたので、どうしてそんな関係になっているのかは分からない。
本当にどうしてなんだろうか。
「サリア主任はイフリータを救ってここまで届けてくれた人なんだ」
そう言ったのはメガネをかけた研究員の女性。
つまりはサイレンスだった。
「首を傾げてる理由、どう? 当たった?」
「……そんなに分かりやすいのか、俺って」
「みんな気になることだから分かっただけだよ。アルベやラミーも信じられないって顔してたし」
それはそうだろうな、と納得する。
サリアに子供好きなイメージを抱いている職員がいたとしたら、それは前途洋々の新入社員だけだ。一目見ればその硬い雰囲気に気圧される。
「イフリータを救った、って言うのは?」
「爆発事件があって、イフリータはそこで倒れていたみたい。それをサリアがここまで連れてきたんだ」
なるほど、と相槌を打つ。
孤星の中で白い壁の研究室が並んでいる場所はイフリータのトラウマを想起するというような風の発言があった。爆発事件が起こったのは人体実験の施設で、それはそこの記憶なんだろう。
引っかかっていたことの得心がいったところで別の気になっていることを聞いてみる。
「サリア主任とは仲が良いんだよな?」
「私? 私は、うん、良いと思う。それがどうしたの?」
「いや、別になんでもない」
今、最も不可解なのはこれだ。
どうしてサリアとサイレンスが親密なのか、ということ。
確かに2人は対立する立場ではないし、実際に孤星では同じ向きに進む姿が描かれていた。
しかしながらそれでは原作と辻褄が合わない。ロドスに来てからずっと、サイレンスはサリアをイフリータに近づけまいとしていた。孤星でようやく和解したのだ。それが不思議なことになってしまう。
どこかで致命的な事件が起きる。
それはきっと炎魔事件なのだろうが、どうやって何が起きればそうなるのか、全く見当も付かなかった。
鉄仮面ながらも優しく対応しているサリアをサイレンスは正しく理解しているように見える。多少イフリータの扱いに失敗したところで、サイレンスがサリアを毛嫌いするようになるとは思えない。
やはり既にフラグが折れているのだろうか。
考えたくないことだったが、それも頭に入れておくべきだろう。
何かの手違いでミュルジスがライン生命を辞めてロドスに行ったりしないだろうか。それで全て解決するのだが。炎魔事件のどこかでサイレンスやサリアはロドスについて知るのだろうし、目指してもいいかもしれない。
ただし、ライン生命にはクリステンがいる。たとえばサリアは彼女を止めるための足かせとなる肩書を捨てたかったのであって、ミュルジスにはそういった強い動機がない。
おーい、と声をかけられた。
思考の渦から引っ張り出される。
「なに難しい顔してんだよ、ジズ」
「考え事してただけだ」
ごめんごめん、と言ってイフリータの手札から一枚カードを引く。またジョーカーだ。今日はついてないな。
「大丈夫だって! サイレンスが言う通りにしてりゃこれ以上悪くなんねーよ」
「ああ、ありがとう」
考えていたのは別件だが、そちらにも悩んでいたのは間違いない。素直に気遣いを受け取っておくことにしよう。
「むっ……」
サリアが俺の手札からジョーカーを引いた。
俺とイフリータはあと3枚、サリアがあと4枚、ジョイスは1枚。
「予測通りの戦いでした。完璧です」
最後のペアを完成させて勝利を宣言する。
「やっぱジョイス姉はつえーな!」
Vサインを掲げるジョイスとはしゃぐイフリータの横で、サリアはじっと手札を見つめていた。険しい視線から察するに一番右がジョーカーなのだろう。
恐らく意識的にスイッチを切っているのだろうが、それにしてもサリアの反応は分かりやすすぎる。まさかとは思うがババ抜きの経験がないのだろうか。
すべてが順番のおかげとは言わないが、サリアからカードを引く人は相当有利で、それをジョイスは享受したわけだ。
まあいいさ。一位はくれてやろう。
俺が狙うのは二位だ。ミュルジスと永遠に繰り返していたスピード*1の経験を活かして最速で上がってやる。
それからしばらくして、サリアが仕事を理由に帰った。ジョイスも業務に戻っていき、入れ替わりにサイレンスとラミーがやってきた。
「今日はサリア主任と何をして遊んだの?」
ラミーは構造課の研究員で、サイレンスの補佐につけられているらしい。イフリータにとってのラミーは俺にとってのアルベということだ。
他に特筆すべき情報はない。イフリータを通してしか話したことがないし、実際仲を深める必要もないからだ。
ジョイスはよく冗談を飛ばしてくるので自然と仲良くなれたが、ラミーはまだ壁を感じる。それを俺から壊すつもりはない。
さて、イフリータが3時のオヤツをねだる頃、ようやく彼女が構造課を訪れた。引っ提げているのはママジョンズのキャンディだ。銘柄は様々。
「ハーイ、イフ。調子はどう?」
「ミュー! なあ、イチゴのヤツは買ってきてくれたか?」
「ええ、もちろん。ほら、ゆっくり食べるのよ〜」
「うん!」
ミュルジスとイフリータの仲は極めて良好。
原作通りと言っていいだろう。
「それじゃ、ちょこっとジズを借りるわね」
「おう!」
そしてまあ、こちらは原作と全く違うわけだ。
何せ俺は正真正銘の異物だからな。
「物で誤魔化してその隙に、だなんて、なんだかヒミツの関係みたいでドキドキしちゃうわよね」
「からかわないでくれ」
「あら~? あたしにはそんなつもりなかったのに、いったいどんな関係を想像したのかしら? 見当もつかないから教えてほしいんだけど……」
ミュルジスがニヤニヤと笑う。
捉えどころのない話し方はどこか外向きな顔に感じられた。
普段の些細な意地悪と変わらないはずなのに、それはどこか壁を保とうとしているようで。
「疲れてるようだけど、ちゃんと休めてるか?」
「そう見える? だとしたらきっと研究園が広すぎるのよ」
「奇遇だな。構造課に割り当てられた俺の部屋も、少し広すぎるんじゃないかと思ってたところだ」
「あたしの機嫌を取ったって何にも出ないわよ、ジズ」
本当のことだ。何日たっても慣れないものは慣れない。何十年も近くにいた人がいなくなって、それでも普段通りでいられる人の方がどうかしている。
「もう、帰ったらもっと広く感じちゃうじゃない」
ぼそっと呟く。
俺の心臓がきゅうと鳴った。
ミュルジスは俺をどうしたいのだろう。
すべて分かっていながらに弄んでいるのなら切実にやめてほしい。
俺の懊悩を知ってか知らずか、ミュルジスは咳払いを一つして雰囲気を戻した。そこに壁はもうない。いつも通りの彼女だった。
「それで、調子はどう?」
さて、どう答えようか。
起き抜けの症状は別に珍しい酷さというわけではなく、今週だけで何回も経験している程度だ。そしてそれ以外の時間ではあまり体調も悪くはならなかった。
それなら、まあ。
「心配するほどじゃない」
「アルベ研究員を呼んでどんな症状があったのか教えてもらおうかしら」
それは反則だろう。
「……ミュルジスを心配させるほどじゃなかったんだ。別に、それなり程度のものだった」
「体裁のいい言葉で飾っても逃げられないわよ」
どうせ死にはしない。
それなら不安にさせるだけ無駄だろう。
「心配するほどじゃない、ですって? あたしはあなたのことをずっと心配してるんだから、多少増えたって今更よ。不安にさせたくないんだったらさっさと鉱石病を治すしかないわ」
「それは暴論だ」
「それに、あたしはとっても傷付いたのよ。あなたが誤魔化そうとしたから、と~っても傷付いたの! あたしとあなたの間に嘘なんて要らない、そうでしょ?」
そう言われたら返す言葉もない。
「自分で何とか出来るなら黙ってたっていいけど、それはどうにもならないことよね。だったらあたしにも少しくらい背負わせてくれたっていいじゃない」
「分かった、分かったよ。ちゃんと言うから」
本当に分かっているのか、と頬を膨らませるミュルジス。
「今朝は頭痛とか耳鳴りが酷くて立っていられないくらいだった。サイレンスの声も最初は聞こえなかったし、感覚がおかしくなってた。ただ、それは別に最近で言えば珍しいことじゃなくて……」
ガッと肩を掴まれた。
ぐぐぐ、と押さえつけられて強制的に座らされる。
ああ、これは不味いヤツだ。
つい数秒前までかわいらしく怒っていたはずだったミュルジスの顔から怒りが抜け落ちている。
「何をどう考えたらそれが
それから一時間ほど説教された。途中でサイレンスが通りかかってしまい、話を聞いた彼女からも強く注意されてしまった。
ミュルジスは鬼のように怖かった。悲しまれるよりはマシなのかもしれない、と現実逃避してどうにか泣くのを我慢した。もう中途半端に誤魔化すのはやめよう。ミュルジスのためにも俺のためにもならない。
「聞いてるのかしら、ジズ」
ごめんなさい。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
部屋に明かりがつく。
源石機器の電源が入る。
社員証を認証機器に翳し、最高権限でプログラムを起動した。
「炎魔計画は順調だが、こちらには少し手を入れる必要がありそうだね。活性化源石の反応が想定されているより低い。計画をより大幅に調整しなければならないようだ」
極めて順調に進んでいる炎魔計画とは裏腹に、彼の方は全く想定外な軌道を見せていた。
「どちらもこれからのライン生命にとって重要な計画だと言うのに、困ったものだ。サイレンスのように優秀な研究員がもう一人いれば良かったんだが……」
ディスプレイに映し出されるとある計画書。
『森魔計画』と銘打たれたそれは、しかし炎魔計画とは全く違う性質のものだった。
「それにしても、彼女の存在は煩わしい。彼は私に賛同してくれていると言うのに、どうして邪魔をするのか……実に不可解だよ」
価値があることは否定しようがないと言うのに、予見される成果から目を背け盲目に立場を堅持している。それが彼女に対する評価だった。
彼は溜息を一つ吐いた。
データに悩まされるなら本望だが、それ以外の些事に足を取られているのはただただ不快だった。
「さて、どうしたことだろう……」
研究において最も肝要なことは手段。
彼は今日も、如何にして目標を達成するか考えている。
断片的な情報からすべてを信用してしまう者が、自らの行いを見つめることができない者が、どうしてそれに気付くだろうか。
時間は平等に過ぎてゆく。
無意味に時間を過ごした清算は未来によって片が付く。
パルヴィスはひとり、目を細めた。
評価、感想、よろしくお願いします。