ライン生命生態課所属e分類の1番隔離指定研究対象   作:e-2

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謀中有閑

 

 

 雨が地面を濡らす。

 ザアザアと流れていく。

 

 冷え切った執務室の中、ミュルジスはガラスに手を添え外を眺めていた。雨音のすべてがくぐもっている。曇天越しの光は刺すように青い。電灯を点ける気にはなれない。褪せた色に囲まれて、悪くない心地だった。

 

 一歩足を引けば、カツ、と小気味よく響いた。少し広がったスカートの裾を冷気が這い上がってくる。隔たりの向こう側に見えているデスク。置かれたカップに立ち昇る湯気。転がったボールペン。置き時計の針が反時計回りにカタンと動いた。

 

 はあ、と息を零す。

 

 ミュルジスは雨の日が好きだ。

 だが、雨は嫌いだった。

 

 べっとり張り付く衣服に、髪がぐっしょりと濡れて垂れ下がり、体温は際限なく奪われる。

 雨に打たれているうちはいい。諦めて、受け入れることができる。

 しかしひとたび屋根の下に入ってしまえば落ち着いてしまう。傘の下でもそうだ。受け入れられなくなる。表面から雫を取り払おうが、冷えた体は戻らない。

 

 

 ――着信音が響く。

 

 ぼうっと空を眺めていたミュルジスがそれに気づいたのは何コール目だったろうか。少なくとも一つ目でないことは確かだったが、彼女は急ぐことなくゆっくりと携帯端末を取り出した。

 

「随分と早いご連絡ね。調整データなら先週送ったばかりだし、あたしに何の用があるって言うのかしら? ……へえ、そうなの。すごいじゃない」

 

 空谷を跫音が訪れた。

 莞爾にこそ至らないが、口角が上がったのは気のせいでもない。

 

「ええ、そういうことなら手配しておくわね。ざっと1時間くらいかしら」

 

 あと1時間で業務を終了し、完成したそれと共にエリナの車に乗り込む。積み上がったタスクは到底そんなタイムリミットをこなせるような量ではないが、しかし。

 ミュルジスの手から微かに暖かい水が流れ出す。

 

「あなたたちにこれを言うのはサンクタに銃の扱いを教えるようなものだけど、受け渡しまでは一つのトラブルもなく完遂するように。破損も紛失も許さないわ」

 

 ピアノを両手で引く。2つのリズムを刻む。それが出来たところで1つの分身だって動かせやしない。何故なら手足だけでなく感覚までもが増えているからだ。

 見える。聞こえる。一つの脳がその全てを制御下に置く。

 

「これが良い取引のまま終わることを祈っておこうかしら」

 

 足元に生まれた水たまりから幾つものミュルジスが形を結ぶ。普段使っている数より何人も多い。光の反射を調整する余裕はない。超過した情報から必要なものだけを抜き出し、本体もまた席に座る。

 

「今日はまったくいい天気よね。あなたもそう思うでしょう?」

 

 通話を切る。

 灯りを点ける。

 

 ミュルジスは優秀だが天才ではない。

 人事調査課のヤラ、商務課のジャスティン、彼ら2人には逆立ちしたって勝てないだろう。一つのタスクを処理するに当たって、適切な判断を下す能力も速度も間違いなく劣っている。

 

 だが、状況把握及びマルチタスク、ことそれらにおいてミュルジスは他の誰をも寄せ付けない()()がある。

 勿論素質はあった。しかしそれ以上に彼女は長時間かつ高頻度で修練——彼女はそれを修練などとは思っていないだろうが——を繰り返してきた。

 

「さ〜て、急いで終わらせなくっちゃね」

 

 紛うことなき一廉の天才は未だ何も知らず。

 暖色の照明に照らされ、手早く準備を終えた彼女がぐんと体を伸ばす。

 

 

 雨が降っていた。

 ザアザアと降っていたのだ。

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 その日、ミュルジスは1つの荷物を持ってやってきた。

 包みの幅は30センチほどで、長さは1メートルもないくらいだろう。

 

「今日は早いな」

 

「出来るだけ早くこれを見せたかったから、お仕事をちょこっとだけ頑張ったのよ」

 

 ちょこっとだけ頑張ればこの時間に来られると言うのなら、毎日そうしているだろうに。変な所で嘘を吐くものだ。

 

 そんなわけで、抱えている包みはミュルジスが嬉々として無理をするほどのものらしいと分かった。益々興味が湧く。

 端の方に白いラベルが貼られている。じっと観察すれば、ミュルジスはそれを体の背後に隠してしまった。

 

「中身が気になるわよね。でもまだダメよ。見る前に説明を聞かなきゃこれの価値が正しく伝わらないもの」

 

 ミュルジスはどこまでも楽しそうで、嬉しそうだった。

 

 イフリータの調子が目に見えて悪くなっていて、少しずつ重い空気で満たされつつあったこの頃。

 そんな雰囲気を全く感じさせないミュルジスに安堵する。下を向いていた心をそっと支えてくれる。やはり、この人は幸せにならなければいけないと強く感じる。

 

「これの呼び名は『Extra-1番源石術(オリジニウムアーツ)作用式源石統制具アーツユニット拡張型』或いは単純に『アンブレラ』」

 

 アンブレラ。何やらパンデミックでも起きそうな名前だ。まあ、それを言うならテラの大地では既に起こっているのだが。鉱石病という感染症が。

 

「これはライン生命が、細かく言えば警備課と構造課とエンジニア課とエネルギー課が導き出した一つの解答よ」

 

「解答?」

 

「ええ。まだ完全ではないけれど、これを使えばあたしたちの楽園を作り上げることができるわ」

 

「……何だって?」

 

「聞こえなかった? それならもう一度言ってあげるからよく耳を澄ませて聞くのよ。これは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()なの」

 

「いや、いやいや、そんなものが出来そうな素振りなんて今まで一度だって見せなかっただろ」

 

「だってジズを驚かせたかったんだもの。結果は大成功ってとこかしら」

 

 得意気に胸を張るミュルジス。その目は自信に満ち溢れていたが、俺は到底受け入れられなかった。実物が目の前にある以上は受け入れるしかないのだろうが。

 

 確かに、原作ではどこまで進んでいるか告げられなかった話題だ。何かしらの進捗があったっておかしくはない。しかし、まさか完成品が1095年時点で出来上がっているとは。

 

「開けて、見せてくれないか」

 

 ミュルジスは満足そうに頷いた。

 

 中から覗いたのは、正にアンブレラという呼び名通りの姿だった。ただし普通ならバサバサと広がっているだろう生地が見当たらず、親骨——傘の生地を張る主要な骨——が滑らかな曲線を描いて捩れていて、まるでドリルのような様相だった。

 巻き紐は見当たらず、全体的に白い。見て分かる範囲なら親骨の関節であるダボだけが黒い。生地が見えないのは内側に格納されているからなのか、それともそこまで傘ではないのか。

 

 真っ白なハンドルに手を添え持ち上げる。

 ずっしりと重い。長時間支えていられる余裕はなさそうだ。仮にこのまま傘として使えと言われたなら首を振るしかないだろう。

 

「……ここからどうすればいい?」

 

 はじきが見当たらない。

 ミュルジスはニコニコと胡散くさい笑みを浮かべている。

 

「アーツを流してみて」

 

 言われてからアーツユニット拡張型と言っていたことを思い出した。

 そこでようやく合点がいった。これは原作との乖離点なんだ。

 

 目を閉じて流れを掴む。体の中、血管に漂う源石すべてを掌握する。浮き上がった感覚を押し広げ、握った右の手に集中させる。

 

 

 構造課主導のアーツ研究――勿論人体実験を伴わない――によって俺のアーツがどういったものかは既に解明されている。

 

 それは腸に融合している源石を中心に絶えず形成されているアーツ作用域が、何らかの要因、たとえば呼吸で体内に取り込まれた他の源石を変質させることから始まる。

 ちなみに少量の源石なら完全に負担なく処理できるらしく、今まで感染者のエルフであるにも拘らず生きられていたのはこれが大きな影響だったらしい。5年前の外出中に発作が起きたのは、瞬間的に大量の源石を吸い込んだことで、今まで負担がかかっていなかった臓器に初めて源石が届いてしまったからだと推測されているとか。

 

 そうして変質させられた源石は臓器に移転することなく血管を流れ続ける。

 恐らくは、その機能。変質した源石までもが微弱ながらもアーツ作用域を持ち、他の源石に影響を与えられる。これがアンブレラの根幹を担うものだろう。

 

 

 右手に源石が集中したとは言っても、血管の流れを妨げはしない。電流で言うアンペアが上がったようなものだ。そうでなければ血流が詰まって弾けてしまう。

 

 強固になった作用域が何かと反応する。

 それは源石だった。増幅装置とコンバーターの2つを兼任しているらしく、源石の信号が上へ上へと上っていくのが感覚で理解できた。

 

 金属製の親骨が音もなく展開される。形状記憶合金でも使われているのか、あれほど捩くれていたのが真っ直ぐに伸びる。統率された動きで等間隔に開いていく。

 驚いたことにそれらを支えるものはない。シャフト――傘の中心にある、ハンドルから石突を繋ぐ棒――の延長線上の点を中心として放射状にただ浮かんでいた。

 ふう、と息を吐いた。重量が軽減されて随分と楽だ。

 

 恐ろしく滑らかに空間の情報が入ってくる。

 近くの大気中に存在する源石粒子をアンブレラ越しで操ってみたが、以前とは比べ物にならないほどスムーズだった。

 どうやら上に向けているときが一番安定するらしい。親骨の間を源石で埋めれば――足りなかったのでアンブレラに内蔵されていた源石を出して補えば――そこらの傘と簡単には見分けられない。

 

 これを使って周囲の源石を押し除けてしまえば、吹き曝しだろうが研究園とそう変わらないほどの粉塵濃度になる。そういった意味では、確かに携帯式の楽園だ。

 

「指向性を切り替えればそれの維持も簡単になるはずよ。普通の傘として使ったって上等なんだから」

 

 ミュルジスが何故だか体を寄せてきた。

 

 突然のことで困惑が強い。いったいこの瞬間に彼女は何を考えているのかと思考が飛ぶ。

 そして思い至った。アンブレラを介して本来より増幅し拡大されているとは言え、アーツ作用域の大きさは精々1メートルと少しだ。当然隣で傘を差しているであろうミュルジスの位置までは届かない。自然、近付かなければならない。

 それなら確かに、こうして同じ傘の下に居れば問題はない。

 

「問題ないはずあるか……」

 

「どうせあたしたちが揃って外に出るときなんてデート以外にないでしょ? そう考えてみればこんなに近くたって足りないわ」

 

「そういうデートはハイスクールのお熱い学生カップルがやるもので、俺たちは違うだろ」

 

 熱くない、学生でもない、カップルですらない。

 余りに不適切な距離感だ。

 

 それを言うなら、ほぼ毎日に近い間隔でミュルジスが俺の寝室を訪ねていたのはどうなんだ、と心の中の俺が言う。

 何も言い返せないが、不安やらを紛らわせるためのアレと、明確にそういう仲の人らがするデートは余りにも違うとだけ言っておきたい。だからなんだという話だが。

 

「波濤システム、アーツユニット機能はクリアよね。あとはジズにかかる負担が実用可能な範囲なら計画通りなんだけど……大丈夫そうかしら?」

 

 ミュルジスはあからさまに話題を変えた。

 仕様上納得しなければいけないことに愚痴を吐いていても無意味だろうと考え、切り替える。

 

「大丈夫だけど、波濤システムっていうのは?」

 

「それのことよ」

 

 指したのはピンと張った親骨。

 妙な動きはそのシステムが可能にしているのか。

 

「何年か前にライン生命全体で大規模な改修工事があったことは覚えてるわよね。あれはそのシステムを利用した防衛設備の設置が目的で行われたのよ」

 

 あとはあたしのアーツユニットに使ってるけど……と続ける。彼女の反応が示しているように、今世ではあまり見た覚えがない。所詮アレはカムフラージュで、エルフの力をアーツと思わせるためだけのものなのだから。

 しかし原作の記憶は残っている。昇進2の立ち絵でアーツユニットの先端に広がっていたあれらが波濤システムとやらなんだろう。

 

 一頻り機能を試したあと、アンブレラ内部に源石を格納し、アーツの感覚を閉じる。これはゆっくりと目を塞いでいく感覚に近い。

 普段から俺の脳内には「何も感じない」という信号が絶えず流れてくる。瞼を下ろしても真っ暗な視界があるのと似たようなものだ。初めのうちは戸惑ったが、今はもう慣れてしまった。

 

 

 ミュルジスの済ませておくべき用が片付いた。

 アンブレラを適当な場所に立てかけ、他愛もない話に興じる。

 

 4日前に治療――実験があった。

 また薬の投与量が増えていた。新たに源石を埋め込まれた。

 鎮痛剤がなければその日は眠ることすらできなかっただろう。精神が揺らいでいるのを他人事のように感じて、収まらない鈍痛を薬で誤魔化した。

 

 一昨日まではレオに追い返してもらっていたんだ。

 顔を見たら思わず助けを求めてしまいそうで怖かった。

 

 昨日もそこまで腰を落ち着けて話が出来たわけじゃない。

 だから今日は随分と久し振りの時間だったんだ。

 ミュルジスが楽しそうに話しているのを聞いているだけで満足できる。それくらいに、安心させてくれる空間だった。幸せを頭の中に閉じ込めてしまいたい。

 

 だからこそ気が付いた。

 

「話したいことはないか?」

 

 彼女は何かを言い出せないでいる。回る口は不安の表れで、楽しそうな雰囲気はただの虚勢だ。それを自分でも分かっていたのか、ミュルジスは誤魔化すことなく張りぼてを引っ込めた。

 

「……頑張らないで欲しいわけじゃないわ。ただ不安で、心配で、この道で本当に良かったのか、振り返るたびに考えちゃうだけなの。それだけは、分かってくれるわよね」

 

 不安なだけ、か。

 

「あたしは決してアンブレラを逃げ道として用意したわけじゃないの。治療を諦めてこの傘に頼ったっていい、なんてことが言いたかったわけでもなくて」

 

 恐らく、アンブレラを渡したことに言い訳がしたいらしい。

 それは分かったが何のための弁明かハッキリしない。

 

「ごめん、よく分からない」

 

 ミュルジスは一度黙って虚ろに瞳を向けた。

 何度か深呼吸して、改めて言う。

 

「アンブレラは、治療が失敗する可能性に備えた保険でも、楽な近道でもないわ。ただ逃げられない状況じゃないってことをあなたに伝えておきたかっただけなの」

 

 それが言いたかったことなのか。

 アンブレラは選択肢で、それ以上の意味はない、と。

 

 それにしても、逃げ場が必要なように見えたのか。不調が上手く隠せていなかったのだろうか。昨日話したときは全くそんな風に思われているとは感じなかったが。

 

「追い詰められてるように見えたのか?」

 

「見えないから困っちゃうのよ。あなたの顔にはいつも何一つだって書かれてないから、あたしはその口が開くのをただ待ってるの」

 

 ミュルジスの声が一段と下がる。

 

「それなのに、治療がどれだけ辛くったってあたしには云ってくれないんじゃないかって……ええ、ずっと、そう思ってる」

 

 真っ直ぐ言っているはずなのに、そのセリフはまるで独り言のようだった。視線はどこかに逸れてしまって、俺を信じられないことに罪悪感を覚えてくれているんだろうことがよく分かった。

 

「信用されてないんだな」

 

 ミュルジスは今の状況を見事に言い当てていた。パルヴィスが言っていたことも、それから行われている実験の苛烈さも、俺はすべて隠し続けている。

 

 だから誤魔化そうとしてしまった。

 茶化して、傷つけて、安易に逃げようとして。

 

「信じられるわけ、ないじゃない……!」

 

 逃げられなかった。ぎゅうと服を掴まれて、苦しそうな声で、俺はどこにも逃げられなかった。俯いた顔が見えない。いつ雫が落ちるのかと思ってしまう。数秒前の発言を後悔する。

 アンブレラが倒れた。硬質で重厚な音が響いた。

 

「ジズに会えない日なんて今まで一度もなかったのよ? レオ研究員に止められて、あなたの顔すら見ないで帰って、そんな日がどんどん増えていって、それでどうして安心していられるのかしら」

 

 取り繕っていたのは俺だけではない。ミュルジスは膨れ上がる不安を胸臆に押し込めて俺を訪ねていた。

 

「あたしに隠さなくちゃいけないくらい苦しんでいるのなら、他の選択肢を用意してあげるべきだと思ったの。でも、ジズが帰ってくることを望んでいるからそう思ったのかもしれないって、そう考えたら、何が正しいのか分からなくなったのよ」

 

 気付いていたことではある。俺がミュルジスと会うのを拒んでしまえば、当たり前にそうなってしまうだろうとは分かっていた。

 ただ、ここまでのモノだとは思っていなかった。

 心配をかけることになるとはわかっていても、こうして爆発するとまでは考えられなかったんだ。実験の話になったときは心配要らないと何度も伝えていたし、レオの方からも説明はされているはずだったから。

 

「色々と隠して、ごめん。でも本当に大丈夫なんだ」

 

「それが信じられたならこんなことになんかなってないわ」

 

 それ以外に言えることなどない。

 信じてもらうほかに道はない。

 

「……あたしと会わなかった日のこと、全部教えて。どんなに些細なことでも構わないわ。ジズのことを少しでも多く理解したいの。あたしが満足したら、信じてあげる」

 

「そんなことでいいなら」

 

「そんなことすら適当に済ませていたのは誰だったかしら」

 

 苦笑いも浮かべられずにただ目を逸らした。ミュルジスの非難めいた視線がチクチクと突き刺さっている。

 

「4日前は、確かに、少し辛かった。食欲がなくて、無理矢理口に含んだものは全て吐き出してしまったんだ。吐き気は鎮痛剤じゃ消えないから仕方ないことだった」

 

 呼吸をするたびに肺のあたりで何かが蠢いた。怠くて、体が上手く動かなくて、それなのにじっとしていると不快感が増してしまう。

 百足はすくすくと育っているのだろう。嘔吐物の中に脚が見えたような気がして、錯覚だと分かっているのに、再び吐いてしまった。

 

「3日前は……平気だった。制吐剤を処方してもらったんだ。ただ耳鳴りと目眩がしていたくらいだ。何も感じないのに立っているのが難しかったのは初めてだったな」

 

 音が歪んで伝わる。水の中とはまた違った妙な音が聞こえるんだ。そして視界がモノクロのスノーノイズに侵食される。平衡感覚がなくなって、床に手をついた。

 ジョイスに部屋まで運んでもらえたのは助かったが、説得は骨が折れた。最後には折れてもらったが。

 

 そうだ、俺は貫き通さなければならない。

 膝を折ることは許されない。

 

 炎魔事件をここで終わりにするわけにはいかない。ミュルジスに助けを求めてはならない。それだけでいいんだ。

 

「一昨日になってようやく物を食べられるようになった。固形物は無理だったから、食べたとは言ってもスープだったけどな」

 

 アルベが作るチキンスープは塩がよくきいていた。とんでもなく塩辛くて顔を顰め、その反応に大騒ぎする彼を見て笑った。

 

 ベッドに腰掛けているくらいなら出来るようになった。ミュルジスに会おうと思った。会いたかった。その髪に触れて、抱き寄せて、言葉を交わしたかった。

 だから我慢したんだ。会いたくて会いたくて仕方なかったから、その顔を見た途端に全て放り投げてしまいそうだった。俺の味方になって欲しかった。

 

「……なあ、ミュルジス」

 

 答えはない。彼女はずっと口をきゅっと結んで、睨みつけるように瞳を震わせている。

 今すぐに辞めてしまおう、と言いたいのだろう。なんとなくそう分かった。そして、その誘いが俺の意思を無視していると思っているから黙っている。

 

「こんなに、君に縋りつきたいと思ったのは初めてなんだ。受け入れられないことなんて今までの人生にいくらでもあったけど、ここ最近が1番だったって、確かに思う」

 

「ええ。そうでしょうね」

 

「だからさ」

 

 吐き出したい。もう耐えられない。研究園に帰りたい。辞めたい。助けられたい。同情されたい。守られたい。苦労を理解してもらいたい。

 

 喉まで出かかった言葉を胸の下まで押し戻して、微かに残った残滓すら飲み込む。受け入れられたいと心が強烈に叫んでいる。何もしなくていい空間に戻りたい。

 

「だから……」

 

 ミュルジスもその言葉を待ってくれている。どうして縋ってくれないのか、とその顔に書いてあるから分かる。

 

 俺には到底越えられるはずがないハードルだと今更ながらに思う。馬鹿みたいに辛かった。いっそ死んだらそれで終われるのかと思ったこともあった。

 

 だから。

 

「応援してくれないか」

 

「……えっ?」

 

「君が応援してくれたらきっと頑張れるから」

 

 俺がこうして苦しむほど未来のミュルジスは幸せになる。なんてセリフは決して正解ではないが、間違いでもない。この苦痛には意義がある。

 ミュルジスは躊躇っていた。と言うよりは、悩んでいるのだろうか。俺の言葉に頷くべきか、それとも止めるべきか。

 

「俺は、大丈夫だから」

 

 感覚で分かっていた。今ここでミュルジスが心の支えになってくれたなら、きっと最後まで耐えられるだろうと分かっていた。そして、今ここで支えてくれなかったなら、確実に諦めてしまうだろうと。

 

「——分かったわよ、ジズ」

 

 ミュルジスは躊躇いを隠しきれない顔でそう言った。どうにも苦渋の決断だったらしい。それでも俺は助かった。

 

「あなたならきっと出来るわ。どうか、耐えて。アンブレラが必要ないくらい元気になって、折角のアーツユニットをあたしに独り占めさせて」

 

「……ああ、ありがとう」

 

 俺には初めから耐える以外の選択肢などない。

 これで良かったんだ。

 

 これでミュルジスはパルヴィスを止めないだろう。これが治療などではないと知ってしまえばその限りではないだろうが、それまではきっと。

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 何も聞こえない。煌々と燃え盛る炎がイフリータの体から漏れ出していようと、その音は強化アクリルの壁を越えられない。どれだけ苦しいと叫んだとしても、その声すら届くことはない。

 

 サイレンスは唇を噛んで堪え忍ぶ。

 これはイフリータを治療するためには仕方のないことだと、無理矢理に納得する。

 

「すぐに投与を中止しろ!」

 

 聞きなれた声がその緊張を貫いた。パルヴィスの無機質な目が来訪者を歓迎する。そのヴイ―ヴルは鋭い視線で以って彼に返答した。

 

 彼女は告げる。

 イフリータは爆発事件の被害者だが、同時にそれを引き起こした原因だということを。アーツの暴走を引き起こしてしまえば、同じ轍を踏むことになるだろうと。

 警備課主任の立場から言えば、安全性が確保されていないこの実験はすぐに中止されるべきものだ、と。

 

「――――っ!」

 

 サリアに対する信頼がサイレンスの体を即座に動かした。緊急停止のボタンに手を伸ばす。今すぐに実験を止めなくてはならない。

 しかし真っ赤なボタンに指が届くその瞬間、腕を掴まれた。

 

「やめなさい。私は許可していないよ」

 

 彼は恩師であり、上司であり、尊敬すべき先導者だ。

 サイレンスの動きが止まる。抗議に口を開いたときには、サリアがサイレンスを押しのけ、行動によってパルヴィスに否を突き付けていた。投薬中止のアナウンスが鳴り、イフリータの身に纏わりつく炎が消えていく。

 

「サイレンス、サリア。ごめん……」

 

 実験室に入ると、イフリータは苦しそうな声で言った。

 

「我慢……できなかった……」

 

 サイレンスは何もしていない。ただサリアが中止させるのを見ていただけだ。イフリータのためを思っていると真っ直ぐに言えるのだろうか。どっちつかずの自分に嫌気が差す。

 

 

 サリアはパルヴィスに不適切な干渉だと指摘され、クリステン統括を交えた鼎談(ていだん)に行かなければいけなくなったようだ。

 

 彼女の背を見送り、サイレンスは考える。

 イフリータを守るため、自分には何ができるのだろう。

 

 答えは出ない。

 行き場を失った炎が頭の中にゆらり、揺らめいていた。

 

 

 




 
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