ライン生命生態課所属e分類の1番隔離指定研究対象 作:e-2
あの日からしばらくの期間、ミュルジス直々に情報の危険性やら何やらの手解きを受けた。
現代日本とそう変わらなかったが、異なる課の研究員にさえ一線を引くというのは驚いた。
原作ではフェルディナンドが統括の座を狙っていたが、それをパルヴィスやミュルジスが知っていながらに無視していたのはそういった構造によるものなんだろう。
ライン生命医科学研究所、通称ライン生命は十課を抱える大企業だ。それぞれの課が独立しており、提携することもよくあるが、各課のトップである主任らはあまり良い関係を築いていない。
十課は大きく三つに分けられる。
一つ目に科学研究課。
先進的テクノロジーの開発研究企業であるライン生命。科学研究課という分類は、主眼である開発研究に携わる五つの課を示している。
第一にミュルジスが主任を務める生態課。豊富な種類の植物を管理する生態研究園を抱えるのみならず、種族が持つ特徴の研究や環境に着目した広範な技術の進展を目指す部署だ。
第二にフェルディナンド・クルーニーを主任とするエネルギー課。効率的な運用方法の探求やそれらの理論を解明することから、開発という点では外せない部署だろう。
第三にアーレンツ・パルヴィス主任の構造課。生命科学に特化しており、パルヴィス自身は嵌合体——つまり、キメラを研究している。倫理的問題を大きく含むため絶えず問題を起こしているが、今の今まで深刻な事態に発展したことはない。
第四にアーツ応用課。1092年現在には設立されていないが、近いうちに才媛ドロシー・フランクスを主任として成立するだろう。恐らくは星の庭計画を大きく推進させた、翠玉の夢の中心となった部署だ。
第五に科学考察課。サルゴンの古代遺跡や北方の凍原にまで足を伸ばして実地調査を行う部署だ。主任は不明。最近設立された部署で、資本家たちからは大きな反対があったらしい。恐らく原作のマゼランなどは考察課所属の外勤員だっただろうと考えられる。
二つ目、事務課。
科学考察課と共に設立された二つの新しい部署と、二年ほど前から存在している二つの部署で構成されている。
第一に警備課。創設者の片割れであるサリアが主任を務める。本社や各地域のラボを警備するだけでなく、実験の安全性や社内システムまで管理する、大きな権限を持った部署だ。
第二に、大女優であり投資家の顔を持つ人情家、ヤラ・ブッカー・ウィルソンが主任を務める人事調査課だ。ヤラ主任が出演する映画は何度か見たことがある。尊敬の度合いで言えばミュルジスと張るレベルだ。
第三に、サルカズのナスティが主任となったエンジニア課。機材のメンテナンスどころか最新型実験機材の開発、更には建築まで務める大きな部署だ。サルカズが主任となったことに反発はあったものの、ここがクルビアであり、科学考察課を隠れ蓑にしたためか、それほど強い抵抗は受けなかったようだ。
第四にジャスティン・フィッツロイ主任の商務課だ。成長したライン生命の資産運営や、持株会社としての側面を支える非常に重要な部署だろう。各方面との折衝もまた仕事の一つであり、孤星ではフィッツロイ主任の優秀さが窺える。
そして最後に、コンポーネント統括課だ。
各課を
科学研究課や事務課の方針を決め、ライン生命の舵取りをする、人間なら頭に当たる部署だろう。
これらから推察できる通り、主任という立場は多忙を極める。ミュルジスのように分身を作ることができる能力でもなければ、ただの一実験体と話をするような時間はない。
そのはずだ。
そのはずだった。
「生態課が研究しているエルフの
鋭い視線が俺を射抜く。
綺麗な銀髪をポニーテールにして括った彼女の容姿は正にイベントストーリーで見た通りの格好をしていた。
警備課主任、サリア。
その人が俺の目の前にいる。
「その通りですが……どんな用件でここにいらしたんですか、サリア主任」
「私を知っているなら話が早い。だが、それだけでは二度手間になる」
サリアは時計に目をやった。
「五分ほど待てばミュルジスが到着するだろう。話はそれからだ」
「それなら何か飲み物を用意しますよ。紅茶と珈琲ならどちらがお好みですか?」
「珈琲を頼む。それと、お前は実験協力者であって社員ではない。敬語は不要だ」
「……分かった」
コーヒーメイカーのドリップボタンを押して少し待つ。ミュルジスはあまりカフェインを好まないようだが、俺は好きだ。目だけではなく思考まで冴えるような感覚が心地良い。
午後に飲むだけで生活習慣が崩れ去るため、時間には注意が必要ではあるが。
少しの間深呼吸を繰り返す。何を言ったのかハッキリと思い出せないくらいに緊張している。ミュルジスは例外として、初めて出会った原作キャラだ。そうもなるだろう。
そういえば、と辺りを見回す。サリアがやってくる少し前まではミュルジスの姿があったのだが、影も形も無くなってしまった。どうやら分身体だったらしい。
普段から本体が外出しているのか、それともそうでないのかは分からない。ミュルジス以外にそれを判別できる者は居ないからだ。
テーブルを挟んで緊張したまま幾らか話していると、研究園に誰かが駆け込んできた。ぜーはーぜーはーと息を整えている様子は彼女らしくない。
らしくないが、非常にホッとする。
「なんで、あたしを、置いていったのよ……! サリア……っ!」
「お前の無駄話に付き合う暇はない。それと、有耶無耶にしようという魂胆が透けていたからな」
「うぐっ」
ミュルジスがふらふらと歩いてくる。
「ジズ。何か、飲み物はない……?」
どうやら水を生み出す気力さえ残っていないようだ。俺が口を付けたものではあるが、珈琲を差し出した。
「ありがとう……にがっ!? これ珈琲じゃない、ジズまであたしを虐める気なの!?」
その反応が見たくてついやってしまったと自白すれば、ミュルジスはかなり複雑そうな顔で俺を睨んだ。
紅茶を淹れて戻ってくる頃には既に立ち直っていた。普段使っていない椅子を出してきたようで、さっきまで俺が座っていた場所は乗っ取られている。
「ねえ、ジズ。忘れてたけど、怪我はない? サリアは全身がダイヤで出来てるのよ、油断して触ったら傷ついちゃうかもしれないわ」
「反応しにくい冗談はやめてくれ。サリア主任とは初対面だから、どう答えればいいか分からないんだ」
「真面目に受け取らなくていい」
「ちょっと、酷いじゃない。このジョークだってウケはいいのよ。みんなバクダンムシを前にした子供みたいに警戒するんだから」
「本題に入るとしよう」
「聞きなさいよ!」
ミュルジスとサリアの関係は良好のようだ。
ライン生命の設立当初から色々な話を聞いていたが、中には「ちょっとした悪戯で追いかけ回されて小一時間説教された」なんてものもあった。二人の仲は本物だろう。
「ミュルジス、お前が出した採用選考書類について人事調査課と警備課から異議が唱えられている。それについて理解はしているな?」
「ええ、勿論よ。とは言っても監査対象に入っただけでしょ? 主任のあなたまで出張ってくるなんて、どういう風の吹き回しなのかしら」
「選考書類に記載されていたデータについて目を通した、と言えば分かるだろう」
「……生態課に必要な人材を決めるのは、あたしよ。実際に貴重なデータが取れている以上は、あたしがそれに高い価値を見出したってことで話は終わり。そうよね、サリア」
「確かに価値のあるデータであることは認めよう。まず第一に、それが科学の進展に繋がるのであれば、という但し書きが必要だがな。採血とスキャンだけの実験などお話にならない。生態課はいつからボランティアのクリニックになったんだ?」
話を纏めよう。
ミュルジスが俺に社内を自由に歩く権限を与えるため、研究員にさせようとしたことが発端となった。
人事調査課や警備課はその提出された選考理由が採用に不十分であると結論を出したため、その書類にストップをかけた。だからミュルジスとサリアが言い争っているわけだ。
「適切でない人材を採用したとなれば生態課上層部の腐敗が疑われることになる。主任による権力の濫用と捉えられて仕舞えば、社全体に影響を与えるスキャンダルとなるだろう。警備課はその決定に反対せざるを得ない」
「クリステンはどう言ってるのよ」
「警備課や人事調査課が対処すべきことであって口を挟む気はない、と言っていた。つまり裁量権は私とウィルソンが持っている」
ヤラ主任の名前で少しテンションが上がる。本当にアークナイツの世界に来たんだと今更ながらに実感した。
ミュルジスはずっと隣にいたし、鉱石病は恐れる前から感染していた。差別を受けたことも少ないため、サリアと顔を合わせてから心臓の鼓動がおさまらなくなっていた。
これが、恋……?
「そして、お前が提出した書類によれば研究員として採用するつもりだと言う。しかし提出されたデータはあくまでお前の研究成果であって、彼はただの実験協力者だ。添付するデータを間違えているとしか思えないな」
「……それじゃ、ジズにはずっと生態研究園の中で過ごせって言うつもり?」
「事情は把握している。その上で、他の選択肢が存在しないならそうすべきだろうと言わざるを得ない。第一、それ以外の業務と相互不可侵に置くという約定は研究園の設立当初から取り決められていたと記憶しているが」
イライラした様子が見えるミュルジスに対して、サリアは冷静な返答を続ける。
俺が支持するならサリアだろう。確かに融通が利いていないし保守的な態度だが、それまでの態度を変えるだけの理由が見つからない。
ミュルジスの言葉には共感できるものの、納得できない。十年間ただ一つの施設に押し込められた病人がいると言われれば可哀想だと思う。しかしそれは信用に繋がらない。同情でリスクは取れない。
ライン生命の具体的な構造を知らないため、生態課の人事に他の部署がどれだけ働きかけていいのかはわからない。だから反発するミュルジスと抑えつけるサリアのどちらが正しいかは判断できない。
それなら、道理として間違っていないサリアの考えに天秤が傾くというものだ。
「ミュルジス、お前は生態課の主任として自覚を持つべきだ。ビジネスパートナーですらなく、政治的意味を持たない相手に贔屓することはライン生命のメリットにならない。延いては生態課のメリットにすらならない」
「それならサリア、あなたはもっと警備課の主任として自覚を持った方がいいんじゃないかしら? 本来これは人事調査課の仕事であって、ここにあなたが一人で来たことはそれ自体が越権行為に当たりうるものだと思うわよ?」
「ウィルソンは私より暇がないようだ。代行は認められ、クリステンに話を通してここにいる。視野狭窄に陥る前に、いや、間違いを犯す前に、お前は自分の立場を理解するべきだ」
「……私人としての自分を捨てろ、なんてよく言えたわね。いいえ、サリアだからこそかしら。あたしの気持ちは理解できないでしょうね」
「規律より優先すべきことが存在する、それ自体は理解している。だが私は警備課の主任だ。不適切な価値観は均さねばならない。したがって、この件を許すわけにはいかない」
「この……っ! カタブツ! 頭ダイヤモンド!」
「言いたいことはそれだけか」
サリアがミュルジスを冷ややかな目で一瞥して、時計を見やる。これはただの通告だったらしい。話は終わったものと判断したらしく、席を立つ。
少し待って欲しい。今の状況はそれなりに難儀なのかもしれない。特にサリアとミュルジスの仲が悪化するということは可能であれば避けるべき出来事だ。孤星どころか孤島激震のフラグまでぽっきり折れかねない。
アレらのストーリーはライン生命内部のミュルジスと外部のサリアが繋がっていたことで起きた偶然の物語だ。それが俺のせいで瓦解しそうなら食い止めなければいけない。杞憂でもいい、自意識過剰だのと言ってられない事態だろう。
ずっと第三者のような目で二人を眺めていたが、俺のせいで生まれた原作の歪みであることを自覚すべきだ。
対処する責任は俺にある。
「サリア主任、待ってくれ。初めから頭ごなしに否定するだけでは進まないだろう、話し合いの余地は残ってる」
「残念だがその話はまたの機会に聞くとしよう」
「珈琲はまだ残って
サリアが俺の目を合わせた。そこで初めて俺はサリアの目を見たような気がした。金剛石のような意志が秘められたこの眼光は、想像以上のものだった。
研究員になるつもりだ。だからこそ敬語を使った。視線を逸らすわけにはいかない。
もう一度時計を確認すると、サリアは徐に腰を下ろした。
「……手短に頼もうか」
「助かります。問題は俺がライン生命の研究員として不適格だということです。フィールドワークが行えず、実績もない。事務員として採用するには商務課の権利を無視している……という認識で間違いないですか?」
サリア主任が頷いたことを確認して続ける。
「問題解決のためには、第一に俺が研究実績を作ること。第二に商務課から事務員として採用されること。第三に一定濃度の
それを聞いてミュルジスが得心して手のひらをポンと打つ。
「着任早々、ジャスティンに借りを作らなくちゃいけないってこと? あまり選びたくない選択肢だけど、仕方ないわね」
「そうではありません、ミュルジス主任」
「あたしに敬語はやめて。……そうじゃないって、つまりそういうことよね? 本気で言ってるの?」
「採用に足る結果を見せるなら否やはない。だが警備課や人事調査課の目に留まった以上、共同研究といった看板だけの結果ではもはや通らないだろう」
「そうよ、ジズ。ライン生命はクルビアの中でも有数の、コンプライアンス至上主義の警備員だっているお堅い大企業なんだから。そうそう受かるものじゃないわ」
「分かってる。ライン生命を舐めてるわけじゃない」
それだけ言ってサリアを見つめる。
品定めするような視線が
「挑戦的なその態度には敬意を示そう。選考書類はこちらで一時管理しておく。基準を満たすような成果を出した時点で受理することを約束する」
サリアはカップに残った珈琲を飲み干すと、少し急いだ様子で席を立った。
「後会を期待している」
その言葉で心臓が凍りつくような錯覚を覚えた。久しく聞いた覚えのない『期待』という言葉が質量を伴って胸の中に住み着いた。
緊張に早鐘を打っていた心臓が、今度は水を打ったように静かだった。脂汗ばかりが浮き出てきて、熱い焦燥感がぐっと心を掻き立てる。
ドアが閉まるまでの時間は随分と長かった。
どうやら俺はサリアのことが苦手らしい。恋というのは冗談だったが、それにしても正反対だったとは。
ふぅ、と一息ついた。
伸びをすると疲れがどっと出てきた。
緊張していたからだろう。
放心したいくらいに強くストレスを感じていたが、無駄に心配されるわけにもいかない。無理矢理にでも席を立って動き始める。
空になったサリアのカップを片付けていると、それまで何かを考えていたミュルジスが真剣な面持ちで言った。
「ねえ、ジズ。どうしてあたしに任せてくれなかったのかしら。もしかして何か……アテがあるの?」
訝しげにそう尋ねるミュルジスから顔を逸らした。恐らくそれをずっと考えていたんだろう。期待に背く罪悪感はグルグル渦巻く不快感へと形を変える。
「俺に科学者としての才能はない。研究園の中にある機材すら十分に動かせないのに、ライン生命を満足させられる見通しがあると思うか?」
「それなら、どうしてあんなこと……」
ミュルジスの幸せはロドスにある。だからそうなるよう、原作通りの流れに乗せたい。原作のイベントが発生するためにはサリアとミュルジスが親しくなくてはならず、だから緩衝材になりたかった。
それが一番の理由だが、そのまま告げることはできない。ああいや、したくないと言った方が適切か。
「サリア主任とミュルジスは友人なんだろう。ミュルジスが友人を一人失うくらいなら、俺がここでずっと過ごしている方がずっとマシなんだよ」
これもまた本音だった。
サリアとミュルジスの仲はかなり良好で、俺のためにそれを揺らがせてしまうのは申し訳ない気持ちが強い。ミュルジスがどれだけライン生命に思い入れがあるのか、俺は原作を読んで知っているから。
「その気持ちはありがたいけど、一つ言わなくちゃいけないことがあるみたいね」
ミュルジスの言葉に首を傾げた。
「いいかしら、ジズ。あなたは何年もの時間をこの生態研究園の中で過ごしたわ。でもね、その程度なのよ。三年。五年。七年。九年。決して長い時間じゃない」
ミュルジスが言いたいことに見当がついた。
「トリマウンツの空気がより酷いものになったら、ジズの人生は正真正銘ここで終わることになるかもしれないわ。たまの外出さえありえない生活よ」
十分に起こりうる未来だ。
「その始まりは明日かもしれないし、ひょっとすると明後日かもしれないわ。本当にそれでもいいの? 明るい未来を保証してくれる人はどこにもいないのよ」
畳み掛けるように言う。
必死に何かを求めているようだった。
俺はミュルジスが求めている言葉を分かれなかったが、語られた未来の話は心の底からどうでもいいと思えた。
少し前の俺なら迷っていただろう。
今は違う。そんなことより、孤星が消えてミュルジスの幸せが失われることの方が嫌なんだ。
「関係ない」
端整な顔がくしゃっと歪んだ。
わなわなと震える口元が怒りを表しているのか、それとも哀しみを感じているのかは分からない。明確なのは、俺がその感情を引き出してしまったということだけだ。
「それが、嫌だから。あたしは、ジズにそう言われるのが嫌だったから、立場を振り翳したの。それなのに……商務課に
ミュルジスは自分を大切にしない俺を見て悲しく思うのだろう。そう歪んでしまったからだ。俺のチートがミュルジスをそう変えてしまった。
本当に申し訳なく思う。今感じているミュルジスの悲しみは本来存在しなかったはずのものだった。俺がこの世界に転生なんてしなければよかった。俺がいなければ、もっと幸せだったろうに。
何をどう言えばいいのだろうか。悲しませたくはないが、嘘もつきたくない。ここで流されてしまえば、いつかの日、俺の覚悟が揺らいで消えてしまいそうだから。
「ねえ、ジズ。あなたの代わりに受け取った幸福なんてちっとも嬉しくないのよ」
「————」
脳と心臓が同時に動きを止めた。
血がさっと引いて、内側から凍えるほどの寒さを感じた。暖かい血液の供給は止まってしまった。そんなことを錯覚するほどの衝撃だった。
ミュルジスの認識が歪められているのは知っている。俺の願ったチートによって、優先順位が狂っている。それはずっと前から分かっていることだ。
それなのに、その言葉をただの歪みだと思えなかったのは、俺の存在意義を余りに的確に抉っていたからだ。
俺はミュルジスの幸せを奪った。だから返そうとしている。俺のものになってしまった幸せを押し付けることでしか、ミュルジスを幸せに出来ないと分かっているからだ。
それを、無駄だと言われたんだ。お前は取り返しのつかない罪を犯したんだと突きつけられたようだった。
その言葉が俺の拠り所を傷つけるから、息が詰まった。
それが認められないのなら、俺は今すぐ死んだ方が遥かにマシなんじゃないかと、そう思えた。
ミュルジスは目元を押さえていた。
ポケットの中のハンカチを取り出すことすら出来ないままに、俺は切り開かれた現実を愕然と眺めていた。
モウモウと立ち昇る希死念慮は留まることを知らず、どうやら前途は多難を極めるようだ。
何を選ぶことが正解なのだろう。
俺は恐らく何も選ぶことはない。それまでの選択を惰性で続けるだけで、それは選んで勝ち取った未来とは言えない。
それが一番に楽だった。
今、この目の前に存在するミュルジスを無視して、原作という今や存在すら不確かな幻像を追いかける。それが俺の最大に無自覚で無責任で理想主義的な選択なのだろう。
冷え切った胸元を、強く握りしめた。
評価、感想、よろしくお願いします。
励みになります。