ライン生命生態課所属e分類の1番隔離指定研究対象   作:e-2

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前話の最後だけでも読み返しておくと分かりやすいです。
 


暗中模進

 

 

 

「サイレンスが臨床医を降りることになった」

 

 

 開口一番にそう告げたアルベは不安を隠しきれていない様子だった。

 

「イフリータのことでサリア主任に情報漏洩があったんだ。そのせいでサリア主任がイフリータの治療を強制的に中止させたから、そこまで責任が飛んだんだろうって、レオ先輩は言ってた」

 

 不安が猜疑に形を変えるまで残り幾許もないだろう。

 俺はどうやって対応するべきだろうか。

 

「アルベはそう思ってないみたいだな」

 

「だっておかしいよ。パルヴィス主任の判断は性急すぎるし、サリア主任の行動に関してサイレンスが責められる謂れはないはずなんだ」

 

 サイレンスのそれが原作に沿っていたとして、アルベの懸念もまたそうだろう。

 俺は彼を止めるべきではないし、煽るべきでもない。

 

「俺は主任の考えを理解できるほど学があるわけじゃない。だから何も言えない。君の味方をすることが正しいとは判断できない」

 

「……イフリータをあれだけ真摯に思っていたサイレンスのことも、正しくないって?」

 

「違う」

 

「イフリータや君は、あんな治療を受け続けるべきだって?」

 

「落ち着いてくれ。サイレンスは正しいと思うけど、パルヴィス主任も正しいかもしれないって、そういう話だ」

 

 彼はじっと堪えるように黙ったあと、頭を下げた。

 

「ごめん。冷静じゃなかった」

 

「それも仕方ない状況だ。構わない」

 

 アルベは優しい青年だ。友人が不当に扱われていると思って怒っていただけだ。それを否定できるほど偉い立場ではない。

 

「ジズ。一つ頼みたいことがあるんだ」

 

「力になれることなら」

 

 どうやら本題はこれからだったらしい。

 アルベは真面目な顔で続ける。

 

「僕にはサリア主任とサイレンスが正しいように思えて仕方なくて、パルヴィス主任に今一度考え直してほしいと思ってる。でも、僕の言葉はきっと届かない」

 

 仕方ないことだ。

 しかしそれで諦めるようなことはなかったらしく。

 

「単刀直入に言うよ。ミュルジス主任に現状を伝えてくれないか」

 

 突然に頭を殴られようだった。

 思わず聞き返す。

 

「ミュルジスに?」

 

「ああ。治療の内容を知ることができる人の中でミュルジス主任は最も発言力が高いし、信頼できる人なんだ。だから、頼めないかな」

 

 言葉がよく出てこない。

 頭が真っ白になる。

 

 パルヴィスの動向を聞いたミュルジスがどう判断するか分からない。パルヴィスの独断性に危機感を抱いてしまえば今までの全てがご破算だ。アルベの頼みは断らなければいけない。しかし、そのための理由が思いつかない。

 

「ごめん、それは聞けない」

 

 何を言えばいい?

 何を言えば彼は納得してくれる?

 

「……実は、理由はもう一つあるんだ」

 

 顔を上げる。アルベはどこか申し訳なさそうな顔だった。

 

「イフリータの様子を見て確信したことがある。一人なら例外と思えても、二人ならそれ以外に考えられない」

 

 まさか、と疑念が更に思考を妨げる。

 

「激しい嘔吐、体中の痛みに加えて感覚器官の異常……拒絶反応にしてもありえないんだ。治療とは思えない。考えられる可能性は一つしかない」

 

 

「ジズ、君が受けているのは治療と偽った人体実験だ」

 

 

 拙い工作のペンキが剥がれ落ちていく。ミュルジスやサイレンスに注意するばかりでアルベのことはノーマークだった。そのツケが最悪のタイミングで回ってきた。

 

「ミュルジス主任に伝え――」

 

「ダメだ!」

 

 思わず叫んでいた。

 

「ミュルジスには、ダメだ、ダメなんだ……!」

 

 もはや打つ手はない。

 アルベが俺の制止を聞くことはないだろう。

 

 似合わないことをした。

 馬鹿な俺が人をいいように利用するなんて、そんなの無理な話だったんだ。

 精一杯考えて、我慢して、乗り越えた気になって、残ったのは論理をかなぐり捨てた感情の言葉だけ。

 

 酷いんだ、カミサマは。

 

 頑張るって言ったんだ。覚悟したんだ。ミュルジスのためなら苦痛を受け入れようって、俺が耐えればいいだけだって、そう決めた直後にこうなるなんて、おかしいだろう。

 

「アルベ、お願いだ。黙っていてくれ。それはダメなんだ。それだけは、勘弁してくれないか……!」

 

 必死に縋りつく。

 アルベの困惑がハッキリと見える。

 

「なんで、そんな……」

 

「理由は言えない、から、きっと意味が分からないよな。でも、お願いなんだ」

 

 こんな言葉で説得しようだなんて、ふざけている。イフリータの命だってかかっているんだ。アルベが立ち止まる理由はない。それでも俺は諦めきれなかった。

 

 ここでイフリータが無事のまま終わってしまえば、ライン生命関連のイベントがどうなるか想像も付かない。

 たとえば計画に遅れが出たならローキャンが寿命を迎えて、そもそもドクターがトリマウンツを訪れない可能性がある。

 

 いや、もうただの可能性ではないか。

 実現性のある最悪な未来だ。

 

「まさかだけど……」

 

 アルベが何かを呟いた。

 

「分かったよ、ジズ。落ち着いてくれ」

 

 どうして。

 なんでそんな顔をしてる?

 

「何を、分かったんだ」

 

 彼の頭の中が理解できない。困惑まではいい。真相を口にした時の決意が滲む顔だって理解できる。それで、今は、何故俺を憐れんでいるんだ?

 その瞳には滅多矢鱈に無理なことを懇願する得体の知れない被検体が映っていたはずだ。理解できない存在を憐れむなどありえない。困惑が姿を変えた理由はどこにある。

 

「ミュルジス主任には言わなければいいんだよな」

 

「……納得、したのか?」

 

「ああ! だから落ち着いてくれ」

 

 どうやら俺の言葉を分かってくれたらしい。根拠不明、論理などない説得だ。必死さ以外には何も感じ取ることができず、イフリータの命を左右する重要な判断に横やりを入れていた俺の言葉を分かってくれた。

 

 そんなことがあるはずないだろう。

 俺はアルベにとって理解できないことを喚いていただけだ。そんな相手の主張を受け入れるなんて、それこそどうかしている。アルベの行動は道理に合わない。

 

 信用ならない。

 信じられるはずがない。

 

「ありがとう、アルベ」

 

 しかし、信じられなかったとして、それが何になるのだろう。

 彼が俺に隠れてミュルジスとコンタクトを取ろうとしていたとして、それを止める方法はない。信じるにしろ信じないにしろ迎える結末は同じだ。

 

 それなら、彼が何かしらの理由で本当に信じてくれていると仮定して動くのが一番だ。

 

 そう簡単に諦められる未来ではない。ここから取り返す希望を捨てるには、失うだろう物が大きすぎる。全力を尽くすほかない。

 

「……クソッ」

 

 覚悟を決めたんだ。

 やり遂げて見せるって、そう決めたんだ。

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 これは明らかな人体実験だ、と。

 アルベはハッキリ告げた。

 

「そんなことって」

 

 ラミーが頭を振る。イフリータの症状は日に日に悪化していて、随分と効果が見られないものだと感じてはいたが、そう言い切ることができるほど疑念に支配されてはいなかった。

 その一方でサイレンスは揺らがなかった。

 

「アルベも同じ考えだったんだ。もしかして、ジズも()()なの?」

 

「……レオ先輩から口止めまでされたよ。ジズの症状が悪化したことを他に、特にミュルジス主任には漏らさないようにって」

 

 2人が何らかの実験の被験者にされている。もはやそれは確定したと見ていいだろう。考えるべきはその問題をどのようにして解決するか。

 最初に思い浮かべるのはサリアの顔だ。しかし彼女のやり方ではパルヴィスを止められなかった。彼女は実験の部外者だったからだ。

 

 それならば、当事者の彼女に頼むべきだ。

 

「そういうことなら、アルベにはミュルジス主任に連絡してほしい。あの人は何を考えているのかよくわからない人だけど、ジズを心配してることだけはきっと本当だから」

 

「それが問題なんだ」

 

「問題?」

 

 いったいアルベは何を知っているのか。苦虫を噛み潰したような顔の彼は、まさかミュルジスが我々の話を聞き入れないだろうと思っているのだろうか、と思案する。

 告げられた言葉はそのような考えすら大きく飛び越えたものだった。

 

「ミュルジス主任は、パルヴィス主任側の可能性が高い」

 

 その発言は、彼女が実験を奨励している、と言っているも同じだった。

 

「それは確かなの?」

 

 ラミーはジズをあまり知らない。通りすがりで視線があってもすぐに目を逸らすような、知り合いとすら呼べない希薄な関係性だ。そんな彼女にすらその言葉は疑わしかった。

 

「僕もサイレンスと同じ考えになったから、ジズにはもう全部伝えたんだ。だけど、ミュルジス主任の話になった途端、『それはダメだ』って必死に……」

 

 それがどんな意味を持つのか、すぐに推察できたわけではない。あの場ではただ単に頷くしかなかっただけだった。

 しかし一つ一つ可能性を潰していけばその意図が見えてくる。

 

「僕はパルヴィス主任を信じてた。まさかこんなことになるなんて思ってなかった。それはきっと2人も同じことだと思う」

 

 治療と偽った人体実験。

 悪意があるとは限らないが、しかし充分に悪辣な行いだ。

 

 パルヴィスの背からそれを読み取ることは出来なかった。部下として構造課に勤務していながらに、特にサイレンスは目をかけられていながらに、彼の危うさを知らなかった。

 

「尊敬すべきパルヴィス主任ですらああだったんだ。況してや彼女を信頼していい理由なんて、いったいどこにあるのかと僕は思うよ」

 

 サイレンスは何も言えなかった。

 信用していた「主任」という肩書きが人体実験という現実で塗り潰された今、軽率に印象が裏返されるはずもない。

 

 芽を出したのは猜疑心だ。人当たりのいい、しかし感情がよく見えない笑顔のミュルジスが脳裏に浮かぶ。飄々として捉えどころのない彼女。果たしてその笑みは本物だろうか。

 

 サイレンスは判断できなかった。現時点でミュルジスを怪しいと断ずるのは軽率に思えるが、しかし信用できるだけの理由がなかった。

 故に保留を選択した。

 分からないことは後回しだ。

 

「分かった。ひとまずは、私たちだけでやれることをやろう」

 

「やれることって?」

 

「……考えがあるんだ。2人はイフリータとジズのケアをお願い」

 

 どうやら1人で行動に移すらしい。

 その瞳から覚悟が覗いている。

 

 ラミーはサイレンスを十分に知っていた。他人のためにリスクを容認してしまえること、正しくないものをそう簡単に割り切れる性格ではないこと。それが分かっていて、頷いた。

 

 独りで大丈夫か、とアルベが聞く。

 平気だとサイレンスが返す。

 

 今までを繰り返すことに慣れてしまっていた。動けない。サイレンスを心配に思う感情の裏に、知らないフリをしていたいと囁く悪魔がいる。絡みついてほどけない。身動きが取れない。

 

 結局、ラミーはサイレンスを見送った。

 胸の中に小さく蟠る何かを残して。

 

 

 

 

 ピッ、と電子音がして扉が開く。

 サイレンスは暗がりに足を踏み入れた。

 

 ここはパルヴィスの研究室。

 右手に持ったカードキーは彼の物だ。

 

 反省したフリをして彼を騙し、実験準備のためと偽ってカードキーを借りた。それさえあればイフリータに関わる資料の閲覧ができるだろうという予想だった。

 

「先生のパソコンは……」

 

 電灯を点ける時間さえ惜しい。

 起動が終わり、サイレンスは滑らかにカーソルを滑らせる。

 

「『源石術増幅器』、違う。『Extra-1番源石術作用式……』、これも違う」

 

 ウィンドウが増えては閉じられる。

 やがてキリがないと悟り、検索機能を使用することにした。

 

「『鉱石病罹患者「e-1」包括的臨床試験結果』? 日付がかなり前のものだけど、もしかしてこれが……」

 

 人体実験。まさかイフリータにe-1という呼称が付けられていたのだろうか、とそれを開いた。しかしそれならハイドン製薬と恩師が繋がっていたことになる。目を背けたい思いをぐっと堪えてクリックする。

 

 1092年3月5日の記録から始まっている。

 内容は今行われている実験より幾分かマシな程度。

 

「『融合率が上昇し、頬に源石結晶の露出が確認された』?」

 

 サイレンスの脳裏に彼の姿が浮かぶ。

 控えめに笑う彼の顔には、いつだってくすんだ輝きが存在を主張している。

 

 アルベの発言を思い出す。それが本当だと裏が取れてしまった。イフリータのあとから構造課に入ってきた彼は、むしろ先輩だったのだ。

 

 サイレンスは意外にも自分の心が揺らいでいるのを感じた。

 ミュルジスは彼のことを真剣に思いやっているのだと、恐らくは信じたかったのだろう。イフリータとサイレンス、ジズとミュルジス。似た立場にどこかで仲間意識が芽生えていたのかもしれない。

 

 黙ったままウィンドウを消す。

 この実験を何としても止めなくてはならない。

 そしてイフリータだけではなく、彼も救ってやらなければ。

 

 そう思って、もう一度探し始めて。

 

「――何を探しているのかな、サイレンス」

 

 タイムアップだ。

 穏やかな声が部屋に響き、灯りが点く。

 

「まさか君がこんなことをしてしまうほど逸っているとは思わなかったよ」

 

 ゆっくりとサイレンスに近づいてくるパルヴィス。

 その影が見たことのない形をしているように思えた。

 

「私は先生が何をしているのか、ハッキリと分かったわけではありません。でも、言えることがあるんです。こんなこと間違ってるって」

 

「正しく理解されないことが軋轢を生む。正に科学そのものを象徴した発言だね、サイレンス」

 

「……それは、本当のことを知れば私の意見が変わると仰っているんですか」

 

 パルヴィスは鷹揚に頷いて、サイレンスが触っていた機器に指を滑らせた。

 

「理解できるまで見るといい。元から、この資料は君に渡す予定だったんだ。機密事項だからと秘密にして、そのせいで君は実験の意義が十全に理解できなかったんだろう」

 

 サイレンスは資料を食い入るように見つめた。

 

 炎魔計画。コードネーム「イフリータ」。

 かつてサルカズ王庭に名を連ねた、今は無きサルカズの血筋、王庭炎魔。

 その源石を被験者に移植することで炎魔の力を行使できる強力な術師を作り上げる計画。

 兵器として運用することを視野に、火炎放射器のデザイン資料まで添付されている。

 

「これを……こんなものを見て、理解しろと仰るんですか……?」

 

「十分に価値のある実験だろう? これのどこに納得できない点があると言うんだね」

 

 失望。いや、絶望と言った方が正しいだろうか。

 今までサイレンスを導いてくれた恩師である彼への信頼が、歩んできた思い出や道のりが、光を失っていく。

 

 否定したい。

 認めたくない。

 

「ジョイスに対する実験は、反対していましたよね」

 

「ああ、もちろんだ。素晴らしい研究者である彼女はもっと価値があることを成せるはずだからね。ああいう実験なら、人生に行き詰った『ボランティア』を募ればいい」

 

「そんなのっ……!」

 

 パルヴィスは命の重さを『科学の発展に役立つかどうか』で判断しているらしい。そして、それなら、炎魔計画という被験者を選ばない実験を受けている彼女は。

 ぐわっと頭の中が爆発する。

 

「イフリータの命には価値がないと仰りたいのですか!?」

 

「いいや、もちろん価値はあるとも」

 

 パルヴィスは落ち着き払って言う。

 

「炎魔のかけらを埋め込んだ貴重な実験体になったんだ。彼女の貢献は科学史に刻まれることになるだろう」

 

「本気で言っているんですか!? 人体実験は禁忌です! 人道に背いた行いであることは科学界でも変わりません! それなのに、どうしてそんなことを……!」

 

 伝わらない。

 

「実に不可解だよ」

 

 熱が、言葉が、伝わらない。

 

「科学の発展に犠牲は付き物だというのに、どうして君はそれを忘れてしまったんだい?」

 

 サイレンスは言葉が見つからなかった。

 受け入れられないことの連続だった。

 

「科学の進歩を一番に促したのは間違いなく戦争だ。そしてその中の一つ一つにだって小さな犠牲が付いて回っている。今の君が着ている白衣は化学繊維で作られているね。それに至るまでどれほどの犠牲があったと思う?」

 

「そんな話をしているわけじゃ……」

 

「君は犠牲の上に成り立つ社会で暮らしているんだ。それなのに否定しようだなんて随分都合がいいことだと思わないかい?」

 

 馬鹿な話だ。

 間違っている。

 

「イフリータには敬意を払っているよ。衣食住どころか世話係までいて、偉大な実験に携わることができる」

 

「そんなものはあの子の幸せじゃない!」

 

「それなら荒野で野垂れ死ぬ哀れな子供たちを幸せだと言うつもりかな」

 

「違う! 私は、私は……!」

 

 ポン、と肩に手が置かれた。

 

「サイレンス、理性を失わないように。理性はライン生命全員の覚悟の証左であり、君の優秀さの理由でもあるんだよ」

 

 パルヴィスの言葉は重みがあった。

 彼の人生では、それが間違いなく正しいからだろう。

 

「これが人体実験だと初めから察することはできたはずだ。だが君はそれをしなかった。そしてかけらを埋め込んだのが君である以上、炎魔計画が進んだのは君のおかげだ」

 

「違う!!」

 

「否定しなくていいんだ。この実験の臨床医になったことをむしろ誇りに思うといい」

 

「ふざけないで! あなたは私を騙した……! この件は、統括に……そしてサリアに報告させてもらうから!」

 

 構造課主任の立場は他の主任と同等だ。警備課を除いて。

 サリアには科学研究課を取り締まることの出来る権利がある。それが正当と認められさえすれば計画の中止も強制できる。

 しかし、パルヴィスの平静は崩れない。

 

「あなたがどれだけ正しさを主張しようと、サリアは決してこんなことを認めない! 絶対に許したりなんてしない!」

 

「……サリアなら、ね」

 

 優位に立っているのはどちらか。

 パルヴィスは余裕ありげに口を開く。

 

「ハイドンの事故から随分と時間が経っているね。そしてサリアが事故の原因を突き止めてから幾日経っただろう。だがそれを報道する記事は上がっていない。どうしてか分かるかい?」

 

 煙が立たないようにサリアが消化しているから。そう理解できないほど馬鹿ではない。

 少なくとも情報を把握していながらに黙っているということだけは確かだと分かってしまう。しかし、それでもサイレンスはサリアを信じたかった。

 

「彼女は訳もなくそんなことをする人じゃない……!」

 

 パルヴィスは小さく溜息を吐いた。

 

「君は彼女について知らないことが多すぎる。理想を押し付けるのはやめるんだ」

 

 まるで子供のようだった。

 何故師と仰ぐ自分より、たった数か月の付き合いしかないサリアを信用するのかと思っていたが、そこで納得した。

 

 サリアはサイレンスにとって理想なのだ。

 正しくないことを許せず、間違ったならそれを罰し、導く。

 2人は互いに潔癖で、だからこそ嚙み合う何かがある。

 

 それなら。

 

「警備課の仕事をもう一つ教えてあげようか。安全の確保を目的に取る性質上、警備課は武器の開発に携わることもあるんだ」

 

 これは実験を滞りなく成功させるためだ。

 そして、サイレンスのためでもある。

 

「イフリータのために用意されるあの火炎放射器……開発時の申請書には誰のサインが書いてあったかな?」

 

 彼女が研究者の素養を十全に発揮できるよう今の内から教えてやらねばならない。潔癖などただの足枷にしかならない。研究者として大成するための手伝いをしてやるのだ。

 炎魔事件の資料をもう一度閲覧するサイレンス。少しスクロールしたきり固まった彼女に、パルヴィスは優しく声をかける。

 

「実に素晴らしい設計だ。特に、サリアが改良を施したことで性能が一段と高まっている」

 

「こ、んなこと……」

 

「ライン生命で一番に強い信念を持っているのはサリアと統括なんだ。私と彼女で意見が食い違うことは確かに多いが、見ている方向は同じだからね」

 

 信頼していたモノが崩れていく。

 3人の主任という存在が汚れて見える。

 

「たとえイフリータのアーツが暴走したとして、彼女はそれに対処することを統括に保証していたよ」

 

 間違っている。

 ああ、間違っていた。

 

「サイレンス。君は正しくサリアを見習うべきだ。勝手な理想を押し付けるのではなく、彼女の責任と覚悟をよく見ておきなさい」

 

 サリアも間違っていたのだ。

 ライン生命は芯から腐っている。

 

「さて、考えが変わったら言ってくれ。君は私の一番優秀な教え子なんだ。きっと理解してくれると信じているよ」

 

 溺れるイフリータの手を引いて、サイレンスは岸まで手を伸ばした。

 しかし、その手は何も掴めなかった。

 

 差し伸べられていたはずの手はこちらを抑えつけ、水面に引き込む力すら強くなり、必死に岸部の土を掻く。指の腹が、爪の先が、土色に汚れる。

 

「どうか失望させないでおくれ」

 

 かつての恩師の声が、サイレンスの頭に反響した。

 悲鳴を上げるために開いた口から水が流れ込んできて。

 

 ただ、唇を噛む。

 電灯がただ無機質に部屋を照らしていた。

 

 

 




 
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