ライン生命生態課所属e分類の1番隔離指定研究対象   作:e-2

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杳々漾々

 

 

 勢いよく吸い込んだ空気が肺に溜まる。

 それさえ心地よく感じてしまうほど、俺はこの家を気に入っている。心が落ち着いてしまう。どうしようもない安堵に囚われて、過ごした日々を後悔混じりに思い返す。

 

「ここが生態研究園か」

 

 アルベは黒胡桃(クロクルミ)三手楓(ミツデカエデ)を見上げていた。

 

 胡桃は木材として優秀で、研究園の彼女も逞しい幹と枝を透明の天蓋に伸ばし、日光浴を満喫している。旬よりずっと早い時期に身を収穫してピクルスを作る文化が世界のどこかにあるらしい。そうアナスタシアが話していたことを曖昧に覚えている。

 ちなみに彼女は極度に臆病だ。ジュグロンという物質を生成して他の植物の成長を阻害する。エルフ風に言わせれば、認めた者しか受け入れない排他的なお嬢様、という評価だ。

 

 楓はそんな彼女が認める一握りの――簡単に言えばジュグロンが効かない――種だ。ジュグロンは植物食性の昆虫に有効で、楓はむしろ胡桃のそばに育つ方が安全だったりする。

 

 そんな風に花壇の配置を考えてはいるが、万一他に影響が出たら不味いということで世話が欠かせない。その業務を兼ねて彼女たちの話を聞いてやるのは非常に楽しい時間だった。

 

『————、——————?』

 

 俺はミュルジスと違って、人間の言葉に直せるほど明確に受け取れるわけじゃない。ただなんとなく、込められた感情や願いを読み取ることができるだけだ。

 

 そっと手のひらを差し出せば葉が一枚落ちてくる。ハンカチで包み、ポケットに突っ込む。ザアと葉が揺れた。

 

「本当、会話してるみたいだ」

 

 どこかで噂でも聞いたのか、アルベは感じ入ったという様子で何やら頷いていた。

 種族固有の特性だからそう大したものではないが、俺とミュルジスがエルフであることは秘密なので、曖昧に濁すことしかできなかった。

 

 

 生態研究園に帰って来た一番の理由は向こうで蝶々を追っているイフリータの息抜きだ。

 サイレンスやサリアがついているので、迷子になる心配は要らないだろう。

 

 アルベとベンチに座り彼女たちの様子を眺めていると、どこか2人の様子がぎこになく感じた。おかしいのはサリアではなくサイレンスの方だろうか。いつもより俯きがちで、目のクマがくっきりと見えていて、どことなく距離を保っているような。

 そのまま3人は奥に消えてしまった。

 

 何故だろうと考えていたそのとき、背後から顔を挟まれた。

 

「落ち着いて一息吐くより先に、この施設の主人に顔を見せるのが礼儀じゃないかしら、客人さん?」

 

「少し空けていたうちに追い出されていたとは思いもしなかった。どうやら俺は行き場がないらしい。アルベ、頼らせてくれないか」

 

「……本気かい?」

 

「そんなわけないだろ!?」

 

 天然かよと思わず言ってしまいそうなほど深刻な声のトーンだった。

 

「そっか、それならいいんだ」

 

 まさかアルベは壊れかけているのだろうか。ミュルジスに話さないと約束してくれたことも、考えてみれば彼は嘘を方便にする性格ではないから、本気だったのだろう。思考力が落ちているとしか思えない。

 レオがストレスを与えているのか。それとも優しい彼は俺のことを心配してくれているのだろうか。パルヴィスの本性にショックを受けているとか。少しありえそうで困る。

 

「何か言うことがあるわよね?」

 

 ミュルジスのじれったそうな声が後ろから聞こえた。

 試しに顎に手を当てて考える素振りを見せると、頬を挟んでいる手に力がこもった。不機嫌な雰囲気を背中越しに感じる。

 まさか答えが出なければこのままぺしゃんこにされてしまうのだろうか。それは御免なので、顔の拘束を外して、振り返り、言った。

 

「ただいま、ミュルジス」

 

「ええ。おかえりなさい、ジズ」

 

 全くこの人は愛おしい。

 手放しがたく思えるほど綺麗な花が咲っていた。

 

 俺はこの人を愛している。

 だからこそ、ぐっと堪えた。

 彼女が咲うべきは俺のそばではないから。

 

 きらりと光る朝露をその葉に飾り、陽光を目一杯に受け止め、そうして咲くことの出来る場所がある。俺はそれを返してやるべきだ。陰気な部屋に彼女一人を閉じ込めて愛でることしか出来ないのだから。

 

 決意が鈍ってしまいそうで怖い。

 離れようとして、阻まれた。

 

「サイレンスたちの様子を見てくるだけだ」

 

「だめ、行かせないわ。せっかく研究園に帰ってきたのよ? 彼女たちとならいつだって話せるじゃない」

 

「治療が終わったあとのことを考えれば、それはむしろキミに言えることじゃないか?」

 

「あたしは今、話していたいのよ。未来なんて関係ないわ」

 

 炎魔事件がどのように展開しているのか確認しておきたい。サイレンスの妙な雰囲気を確かめたい。しかし、ミュルジスの頼みには弱かった。断りきれない自分が嫌になる。引き止める手は添えられただけで、それなのに俺は動けなかった。

 諦める理由を探してしまう。アルベをミュルジスと二人にするのはまだ少し怖い、とか。話したいと思っていたことを思い出した、とか。そんなただの言い訳にかこつけてしまいたくなる。

 

「分かったよ」

 

 ミュルジスは俺が折角帰ってくるのだからと仕事を休んでまで――勿論分身は働いているのだろうが――ここにいるのだ。それなら我儘くらい聞いてやるのが……まあ、当然だろう。炎魔事件のことはまたあとで探りを入れればいい。

 サイレンスたちが研究園に来たのは俺が本来の流れを乱してしまったからだろう。それならさほど大きな転換が起こるとも考えにくい。

 

「アルベは好きに見ていてくれ。俺が世話をした彼女たちは、君の目から見てもきっと綺麗に映るだろうから」

 

「……ああ、そうする」

 

 ミュルジスに手を引かれて研究園の奥へと誘われる。俺を見つめる彼の目はどこか冷ややかで、笑っているはずなのに、どうしてか陰を感じさせた。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 エルフの住処に陽光が差し込んでいる。

 きらきら輝くそれを捕まえてイフリータは笑っている。

 

 サリアの胸中は穏やかなものだった。パルヴィスやクリステンとの対立を頭の隅に追いやり、多忙の中に訪れた小さな安息を眺める。馥郁と匂う花々に目を向け、この研究園を作り上げた同僚に僅かながら敬意を覚えた。

 

「やっぱり。この花、イフリータにぴったりだね」

 

 サイレンスは花を手折り、イフリータの髪の結び目に差してやった。第六感で感じ取ったアナスタシアがオフィスで舌打ちをしていたが、3人は気付くはずもなく。

 

「サリアもつけてくれよ!」

 

「いや、私はいい……」

 

 喜色満面なイフリータを強く拒むこともできず、サリアの銀糸にキキョウが咲く。

 

「サリアにもぴったりだ!」

 

 普段のイメージからはかけ離れていたが、彼女の整った容姿には大抵の装飾が似合ってしまう。サイレンスが同意を返すと、イフリータは満足した様子で更なる面白いものを探しに行った。

 

「あまり離れないでね。走るのもダメ」

 

「わかった!」

 

 イフリータがずんずんと大股で歩いて行った。

 多少心配は残るが、なんだかんだでしっかりしている彼女のことだ。サイレンスはあまりやきもきしないことにした。

 

 視線を横に移す。

 

 サリアはイフリータが挿した花に手をやり、優しい微笑みを漏らしていた。

 信じたい相手だった。正しい人だと思いたかった。しかし彼女は同じ方向を向いてなどいなかった。

 

「サリア主任、聞きたいことがあるんです」

 

 こちらを向いた彼女の雰囲気は引き締められていて。彼女のそういう所が諦め切れないからこそ、確認は必要だった。これはサリアに懸けていた思いを断ち切るための儀式であり、或いは覚悟を確かなものとするための証明。

 

 一つ一つ、確認を進める。

 パルヴィスが言っていたことを。

 

 そして最後に。科学の探求と銘打って子供を苦しめ、そうして事態が起こってしまったとき、どこまで身勝手でいられるというのか、と。

 

 

「イフリータのアーツが、もし、実際に暴走してしまったら――?」

 

 

 サリアはパルヴィスが言った通りの人だった。

 

 安全の確保さえ行ったならそれ以上咎めることはできない、などと宣うのだ。最初から彼女らは倫理観など持ち合わせていなかった。

 終いには事情を知ってしまったサイレンスに沈黙を求めた。それはライン生命を守るためだ。黒く染め上げられたこのライン生命を守るための行為。

 

 サリアもまた、パルヴィスと同様に、サイレンスのことを()()()()()()だと思っているのだろうか。強い失望が現実のものとなって襲いかかり、いっそ膝から崩れ落ちてしまえたら楽だろうにと思う。

 

「……うん。私も、全力を尽くさないと」

 

 事が起こらないために。不測の事態の備えて。――それではダメだ。イフリータを守ることができない。守ろうとも思っていない者のやり方だ。

 

 炎魔計画からイフリータを救い出す。

 彼女を今なお苦しめているのは鉱石病などではなく、このトリマウンツに充満する捻じ曲がった精神だ。

 イフリータの臨床医として、正しき研究者として、サイレンスは覚悟を決めた。

 

 

 午後2時17分。生態研究園にて。

 炎魔計画を完成させる最後のピースが埋まった瞬間だった。

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 ソファに腰を下ろす。

 久し振りに帰ってきて、随分と生活感があるように感じた。それは病室のように真白の部屋でしばらく過ごしていたからだろう。

 

 何をするでもなく、ミュルジスは隣で黙っていた。不機嫌そうには見えない。ソファのスプリングが小さく音を出し、身じろいだ俺を確認するようにちらりと視線を寄越した。そしてすぐに目を逸らした。

 

 何を考えているのかまるで分からない。

 話していたいと言ったのは果たして誰だったか。

 

「ジズ、あなたって、その……」

 

 ようやく話し始めたが、どうにも歯切れが悪い。

 まさかアルベから実験について知らされたのか、と思ったが、それとはどこか毛色が違う。雰囲気が軽い、と言うか浮ついているように感じる。

 

 同族の勘が指し示す。

 待っているのがいいと云っている。

 

「あ、あたしたちってほんと~に長いこと一緒にいるわよね」

 

 頷く。

 

「最近は違うけど、寝ている間だって近くにいたでしょ?」

 

 もう一度頷く。

 

 3年前には考えもしなかったことだ。

 あの頃はバカだった。未来のミュルジスを一番に幸せにできるのはドクターでも、今のミュルジスを一番に幸せにできるのは俺なんだと、そんなことさえ分かっていなかった。

 

 同じベッドで寝るというのも、思えば嫌な夢を見そうだからというのが始まりだったか。済し崩しに頻度が高くなっていって、起き抜けに見た彼女は幸せそうな顔で、いよいよ拒めなくなったんだ。

 

 俺はミュルジスに最高の過去と未来をプレゼントしてやりたい。いつかロドスの艦橋に立ち、この日々をいい思い出にしてくれるのなら、それがいい。そう思う。

 

「それで、そろそろ、じゃないかしら」

 

「何が?」

 

「あたしたちって、ほら、全然進んでないのよ」

 

 首を傾げる。

 ちんぷんかんぷんな俺を見て、ミュルジスは額を抑えた。

 

 怒っているというよりは余裕を欠いたようだった。どうやら直接答えを告げる気はないらしい。しかし、全く候補すら思い浮かばない。かと言ってこれ以上答えられなければ怒らせてしまうそうだ。

 

 仕方なく手を繋いで接続――――。

 

「わあああああ!」

 

「うわっ、な、何を……!?」

 

「今はダメよ、自分で考えてちょうだい!」

 

 頬を真っ赤にして怒る。

 大まかなシルエットさえ想像できない俺にほぼノーヒントで正解しろと言うのか。流石に無理難題だろう。

 

「ごめん、教えてくれないか」

 

「イヤよ」

 

「お願いだ」

 

 頼み込む。

 

「……ほんとに分からないの?」

 

 ミュルジスは諦めたように溜息を吐くと、少し寂しそうな顔をした。

 

「あたしたち、もう20年くらい2人で過ごしてるのよ? ちょこっとくらい察してくれてもいいじゃない」

 

「ごめん」

 

 謝る以外にどう答えればいいのか分からなかった。

 ミュルジスは頬を掻くと、躊躇いがちに言った。

 

「キスがしたいの」

 

 真っ赤だった。

 白くて白い頬が照れで真っ赤に染まっているのだと、そう分かって、愕然とした。

 

 フラッシュバックのように前世の記憶を思い出す。告白に重きを置いてハッキリと恋人関係になる日本とは違い、海外ではそういう区切りが曖昧だとか、何とか。

 

 ミュルジスがそういう感情を持っていることなど分かっていた。それが分からないほど鈍感ではない。しかし、ミュルジスのアプローチに似た行動はあくまで家族としての付き合いだと思っていた。

 ミュルジスから「家族としてではなく」というようなことを言われて初めてそういうニュアンスが入ってくるものだと思っていたんだ。

 

 もしかして、今まで全部、ミュルジスは恋人との時間だと思っていたのだろうか。一緒に映画を観ている時だって、ゲームを遊ぶ時だって、同じ食卓に座っている時だって。

 俺が家族との時間を過ごしている裏で、彼女はずっと、そのつもりでいたのだろうか。

 

「ジズ?」

 

 幾度となく交わした愛してるの言葉が背筋を撫ぜる。

 今更だ。ひどく今更で、取り返しがつかない。

 

「ミュルジス」

 

 気付かれていないようだった。

 彼女は不安そうに様子を窺っている。

 

 後悔と罪悪感が馬鹿らしいほどの強さで心を押しつぶした。

 歪む顔を見られたくなくて、俺は彼女の体を抱き寄せた。

 

 花を持つように柔らかく。

 それでいて絶対に離れないよう、しっかりと。

 

「愛してる」

 

 俺が持つ擦り切れた記憶について、そして俺がミュルジスから奪った物語について、説明すらしていない。とうに誠実ではない。

 生態研究園で生活するようになってからずっと寄りかかっていた。ニート生活を堪能した。その一方で、ミュルジスは2()()()理想を求めていた。とうに平等ではない。

 

「愛してる」

 

 まだ俺は何も返せていない。

 それでも、この感情だけは、対等で居たかった。

 

「あたしもよ、ジズ」

 

 ミュルジスから原作の流れを奪ってしまった償いが『孤星』を修復することなら、その修復のために彼女を傷付けた償いは何がいいだろう。

 俺が彼女を出来る限り幸せにしたところでどうせドクターには及ばない。それでも、俺には他の道がない。

 

 少し体を離した。

 背に添えた手が鎹となって繋ぎ止める。

 

 きっとこれより先に進んでしまえば、3年後のミュルジスを襲う孤独が深まることだろう。ドクターに埋めてもらえるとは言えその傷がなかったことにはならない。

 だからこそ、俺はそれを覆せるだけ、今のミュルジスを幸せにしよう。俺がいなくなって泣いてくれたとしても、流れた悲しみを上回るくらい、大切な記憶になるように。

 

 心よりの愛をこめて。

 その口を塞ぐ。

 

 レモンの味はしなかった。

 

「……足りないわ」

 

 軽く押されてソファの脇息に背を預ける。

 求められて嬉しくなると同時に、今まで見たことがない雰囲気に気圧されていた。こちらをからかうでもなく、偶然でもなく、顔が間近にあること。それが嫌に新鮮だった。

 

 恋人。前世では家族の一員さえ全うできなかった俺に、果たして務まるのだろうか。少なくとも、相手がミュルジスなら答えはノーだ。釣り合うのは容姿くらいだろう。

 

「ずっと前からこうしたかったのよ。あなたを構造課に預けて初めて良かったと思えたかもしれないわね」

 

「構造課が関係あるのか?」

 

「こんなに切なくならなきゃ、踏み出せなかったもの」

 

 少し恥ずかしそうに顔を逸らす。

 いじらしいと言えば正しいのだろうか。

 

 抱きしめてやりたくなった。直前で何とか堪えた。それをしてしまうと、何かの閾値を超えてしまいそうだったからだ。

 しかし俺とミュルジスは同じエルフで、相手の意図がなんとなくわかってしまう。

 

「似た者同士ってことかしら」

 

 委ねるようにもたれかかってきたので受け止めた。至近距離で目が合って、脳裏につい先ほどの光景がチラつく。

 

「あら、しないの?」

 

「そこまで察してるなら分かってるだろ」

 

 からかわないでほしい、と思う反面、意地悪な笑みを浮かべる彼女まで魅力的に思ってしまう。どうしようにも、もう手遅れだ。特効薬はない。

 

「……しないの?」

 

 オーケー、分かった。

 もう降参だ。

 

 

 

 

 アルベが研究園に残ってくれるということで、俺はもう少し長くいられることになった。パルヴィスは「明日構造課に帰ってくるならスケジュールには問題ない」と言って、ミュルジスに「ジズの家は一つだけよ。帰る、なんて表現が使えるのもそう。撤回してくれるかしら?」などと難癖をつけられていた。南無。

 

 夏の太陽が半ばまで地平線に体を埋めた。

 あまりにミュルジスが虐めてくるものだから、俺は落葉樹区画で彼女たちの様子を窺っていた。

 

 ピンと張った細鋸歯の葉。

 錦木(ニシキギ)はゆらりと微笑んだ。

 花期も既に終わり、まだ膨れきっていない実が垂れている。

 

 紅葉とは光から身を守るためのシステムだ。常緑樹と区別する理由は落ち葉の清掃を効率化する意味もあるが、何と言っても強すぎる光が当たらないようにするという目的が一番にある。

 ホールを染め上げる紅はきっと綺麗だろうが、出来ないものは仕方ない。

 

 彼女たちの話を聞いて回る。

 

「何をしているんですか、ジズ?」

 

 突然、声がかけられた。

 もうそんな時間かと時計を見つつ、答えた。

 

「久しぶりに帰ってきたから顔だけでも見せようかと」

 

「私には見せていただけないんですね」

 

「……俺がオフィスに顔出したって邪魔だろ」

 

「そういうのはいいです。主任があなたを離さなかっただけでしょう。怒ってませんよ」

 

 少し不機嫌に感じられたのは勘違いだったか。

 

「どうせ私はただの同僚ですから、優先されなくたって当然ですし」

 

「怒ってないか?」

 

「怒ってませんよ」

 

 怒ってるじゃないか。

 小さく笑うと、アナスタシアは鼻を鳴らした。

 

「どう言えばいいか分からないけど、とりあえず――ただいま、ターシア」

 

「ええ、おかえりなさい」

 

 寂しかったですよ、と彼女は付け加えた。

 

「主任はどこに?」

 

「今は夕餉でも作ってるんじゃないか」

 

「……そうですか。それなら、少し話しませんか」

 

 アナスタシアが3歩歩いてこちらを振り返った。

 頷いてその隣をついていった。

 

 8月の夜。

 アナスタシアとの話は研究園のことに終始した。

 あの区画で綺麗な花が咲いたとか、少し調子の悪かったものが何とか持ち直したとか、色々と。

 

 俺がいない間に起きたことを楽しそうに話すアナスタシア。

 相槌を打ちながら、俺は一歩だけ引いていた。

 

「どうかしましたか?」

 

「……何でもない」

 

 アナスタシアのことは、実を言うと錦木の前で少し考えていたんだ。

 ミュルジスが俺をずっと恋人だと思っていたとして、アナスタシアとの関係は適切だろうか、と。

 

 アナスタシアが鉱石病に罹ってから、ミュルジスはやけに荒んでいた。独占欲を強く感じることもあった。

 アナスタシアばかり気に掛ける俺のことを、彼女はどう思ったのだろう。それを考えると今更になってあの言動が理解できるようだった。

 

 俺は何も知らずに大罪を重ねていたのではないだろうか。

 

 アナスタシアと歩きながらそんなことを考える。別れる頃には罪悪感がずっしりと重くなって、俺の背中に引っ付いていた。

 

 炎魔事件が終わり、俺まで実験体にされていたと知ったとき、ミュルジスは悲しんでくれるのだろう。

 いつもそうだ。俺が何かをすると、ミュルジスは傷付いて涙を流すことになる。いっそのこと何もせずにいたなら、と思うが、それで諦めることになるのはミュルジスの幸せだ。

 

 このまま進むしかないのだろう。

 後から悔やんでも遅いことなど分かっている。

 

 それでも、そのときは確かに正しいと思っていたんだ。だったら諦めるわけにはいかない。戻ったところで、本当に欲しいものは決して手に入らないから。

 

 生活区画に戻った。

 俺を迎えてくれたのは優しい声と、芳しい夕飯の匂いだった。

 

 愛していると何度伝えても届かない。

 きっと俺は君から底抜けに大きな愛をもらっているから、釣り合わない。

 

 ごめんと何度謝ったって意味がない。

 どうせ傷が治るわけではないから。

 

 

 精一杯に感情を込める。

 それだけが、今の俺に出来ることだったから。

 

 

 

 




 
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