ライン生命生態課所属e分類の1番隔離指定研究対象   作:e-2

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熱願令諦

 

 

 

 たとえば魔法のランプがここにあったとして、俺は何を叶えればいいのだろう、と最近よく考えるようになった。

 

 『ミュルジスを幸せにしてほしい』では曖昧が過ぎる。

 何を以て幸福とするのか。彼女の望みを叶えるだけなら、ドクターが与えてくれるだろう本当の幸せを得られなくなってしまうかもしれない。

 人間としての成熟を幸せとするなら、苦難ばかりが訪れる人生になってしまうかもしれない。

 

 『俺からチートを失くしてほしい』はどんな影響があるか分からない上、叶られるのか定かではない。それに、そもそもミュルジスの幸せに繋がるか怪しい。

 

 『俺がいなかったことにしてほしい』が最善だろうか。

 しかし、それがどこまでの範囲を俺とするのか分からない。俺の存在と関連した記憶が消えるだけでは、馴染みのない部屋が生態研究園に残る。アナスタシアの病状についてだって説明が付かない。

 最悪は俺と密接に関わってきたミュルジスが俺を構成する要素として判断されてしまうことだ。どうなるか分かったものではない。

 

 『俺がいなかったことにして過去を作り直してほしい』はどうだろう。

 少し考えて、頭を振った。それは一度ミュルジスを殺すことに等しいと思ってしまう。今、目の前にいるミュルジスを救いたいんだ。ただ存在を否定したいわけではない。

 

 『優秀な頭と頑健な肉体がほしい』は論外だ。

 どれだけ成長しても俺が俺であることは変わらない。欲望を制御できるような高尚な人間ではないんだ。

 そんな体たらくでミュルジスを幸せにできるだろうか? ――きっと待っているのは笑い話にもならない結末だろう。俺の幸福に彼女を利用する未来しか見えない。

 

 

 俺は諦めていなければならない。そうでなければ、彼女の幸福より自分の幸福を優先してしまうから。

 このままだ。このままの俺でミュルジスを救う、いや、救われるように誘導する。ドクターと出会わせる。それが俺の頭に思い描いた最高の未来。

 

 俺が死ななくたっていいならそれもいい。

 しかし、ミュルジスの依存を消すためにはそれしかないとも思う。

 それまで頼ってきた支柱を失うことで、よりスムーズに次を見つけられるわけだ。

 

 

 模範解答は分かってるんだ。

 『俺に対するミュルジスの感情を希薄にしてほしい』と、俺はそう願うべきだろう。

 

 しかし、しかしだ。

 

 実際に魔法のランプを見つけて、願い事が叶うそのときに、俺は果たしてそれを願えるのだろうか。

 ミュルジスの幸せを願っているのは、俺が彼女を愛しているからだ。そしてそれは同時に、愛されたいと求めていることに等しい。

 矛盾しているんだ。

 

 俺はもしかして、最後の最後、余りにも大切なその一歩を踏み出せないのではないか、そう思わずにはいられない。

 だからこそ、俺は俺の喉を掻き切って、結末から目を離したいと思っているんだ。それが俺の浅ましい希死念慮の正体。独占欲と不安から目を逸らしたいがための馬鹿な考えだ。

 

 結局の所、俺がミュルジスを幸せにしたいと思っているのは、自分本位な考えだから。悲しむだろう彼女から目を背けたいんだ。

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

「ん?」

 

 音がした方を見る。

 マジックミラーが嵌め込まれていて、向こうは見えない。

 けれど確かに爆発音が聞こえた。

 

 ビーッ、と鳴って。

 

 実験が失敗したのだろう。

 建物全体を鳴動するほどの爆発と響き渡るアラート。

 

 俺の部屋は実験が行われている部屋からそう遠くない。

 通路に出て状況を確認してみれば、黒煙が既に天井を這い、ダクトに吸い込まれていた。

 

「無事に終わった……ってことでいいのか?」

 

 シナリオで読めばそれまでの盛り上がりがあるのだろうが、そろそろ夕餉の時間かと思っていた矢先にこれなんだ。実際に巻き込まれてみれば何とも突然で現実感がない。

 炎魔計画はイフリータが暴走した結果、中断されて終わるんだろう。

 今日は確かサリアが来ていない日のはずだが、今の状況が原作通りであれ、乖離点であれ、彼女はすぐにここまで来るだろう。しかし安心はできない。イフリータのアーツは強力だ。事が収まるまで避難しておこう。

 

 部屋に戻り、最近はあまり着けていなかった腕時計型のウェアラブルデバイスとアンブレラを回収し、再び外に出る。

 

 天井に設置された非常口マークを目印に避難する。道中、煙は驚くほど少なかった。

 換気システムが正常に作動しているためだろう。少なくとも一酸化炭素中毒の心配はないらしい、と安堵する。

 

 どうやら俺の部屋は相当非常口から離れていたらしい。それとも、デバイスとアンブレラを探す手間があったからだろうか。研究員2人が立ち止まっているのを見つけるまで、誰とも出会わなかった。

 

 近付けばその理由が分かった。

 

「お前は、ああ、e-2だったか? ここは見ての通り通行止めだ」

 

 ぶっきらぼうな男の研究員が指を差した先、そこには防火扉が道を塞いでいた。

 勿論塞いだ部分に扉はあるのだが――大きなパイプやダクトが積み上がり、扉を開くことが出来なくなっていた。

 どうやら天井に設置されていたモノが外れてしまったようだ。大きく口を開けた幾つかのダクトが俺たちを見下ろしている。

 

「他に道はないのか?」

 

「探せばあるだろう。だが、道中火に包まれてはおしまいだ。ここをどうにかするのが安全だと考えている」

 

「まあ、そう深刻に考えなくても、助けが来るだろうしさ」

 

 女の研究員は能天気にそう言った。

 

 爆発音が遠くで聞こえる。

 そう、遠くだった。振り返れば、そこには普段と変わらない真っ白な空間があった。炎に照らされてなどいない。命の危険を感じられない。

 

 それなら、何故、壁が焦げているんだ?

 

「チッ、データを回収するより先に逃げていればな……」

 

 もう一つ、爆発音が響いた。安心している自分と原因不明の胸騒ぎに怯える自分とが同時に存在していた。

 道を塞ぐモノは焦げ付いている。壁もまたそうだ。どうしてそうなった? ――燃やされたからに他ならないだろう。では何故?

 

「どうにか崩せないか?」

 

「結局引っかかるだけじゃない? 一つずつ取り除いた方が早いよ」

 

 

 爆発音がまた聞こえた。

 一際大きかった。

 

 

 音が聞こえて。

 そして、天井のダクトから炎が噴き出し、ほど近くにいた男を飲み込むまで、ほんのわずかな時間しかなかった。

 

「えっ?」

 

 さっきまで陽気に、いや、暢気に話していた彼女の声が震えていた。

 

 火達磨になってすぐ、その人影は倒れた。

 炎に抵抗することすら出来なかったらしい。

 

 俺たちはそれをじっと見ていた。

 

 そうして生まれた静寂を破ったのは、意外なことに彼女の叫び声ではなかった。天井から、ガン、ガコン、という音が幾重にも重なって響いたんだ。

 

 そして。

 

 

 

 ――人が潰れる、音がした。

 

 

 

 爆発によって押し出された炎の負荷に耐えきれず、ダクトが落下して、彼女は下敷きになった。呆気なく動かなくなった。血が飛び散ることすらなかった。

 

 現実感が全くついてこない。

 断末魔の叫びどころか、大して足掻くことも出来ず、人間が2人も死んだ。それを認められなかった。

 

「死んだ、のか?」

 

 滔々と広がる深紅の海。

 彼女の体から俺の足元まで、命だったことの証が零れ、流れ、止めどなく滴っていた。

 

「ああ、あ……」

 

 初めて人の死を見た。

 初めて人の死体を、見ている。

 

「は、はぁっ、はっ、はっ、はぁっ……!」

 

 呼吸が上手く出来なかった。

 吐き気が込み上げ、逆らうことも出来ずにぶちまけた。

 

 彼が炎に飲まれたときの恐ろしい静けさが、彼女が潰れたときの鈍く生々しい音が、耳にこびりついて離れようとしない。

 

 上を見た。

 

 途端に恐怖が膨れ上がった。

 どんなに細いパイプであっても、当たり所が悪ければ十分に俺は死ぬだろう。

 想像できてしまったんだ。天井に這うそれら一つ一つが血に濡れた様を。動かなくなった俺の姿を、幾つも。

 彼女のように死んだ、俺の姿を。

 

「あ、ああ、ああああぁぁぁ!」

 

 逃げ出した。

 その場所が世界で一番危険な場所に思えて仕方なかった。

 必死に足を動かして、アンブレラを抱えたまま走った。息が切れても、走って、走って、気が付けば向こうに炎が見えて、方向を変えてまた逃げた。

 

 凹んだ換気扇の蓋が落ちている所や、ダクトから炎が噴き出しては収まっている通路、そして倒れている人すら見つけた。

 

 俺はそのどれもに近付かなかった。

 彼のように、或いは彼女のようになりたくなかったからだ。

 

 君子危うきに近寄らず、と言う。

 君子とされる人間は危ないからという理由だけで怪我人を見殺しにするのだろうか。きっと違う。だから俺は君子などではない。ただの臆病者だ。それでいいとすら思う。

 

 死ぬことが怖くなった。

 今持っているものを全て大切に抱えて生きていきたい。こんな所で死んでしまえるはずがない。

 

「はぁっ、あぁっ、はぁ、はぁっ……!」

 

 罅割れた壁と瓦礫の壁。

 少し前までただ燻っていただけの火種が業火に変わっている。

 

 備品室のドアが僅かに開いていて、その向こうに地獄が広がっていた。合成樹脂製の白衣にでも引火したんだろう。前を通るだけで熱気が酷く、喉の奥が焼けるような錯覚さえ覚えた。

 

 肺が痛くなって足を止めた。

 気が付けば、どこに行けばいいのかわからなかった。

 

 いつかの爆発で換気システムがやられたようだった。スプリンクラーもそうだ。黒煙が溜まり、炎も勢いを増している。電力も無事ではない。

 

「クソッ!」

 

 赤く照らされた、少し濡れている薄暗い通路。

 

 ここが俺の終着点だった。

 どこへ逃げたって熱が煌々とうねっている様を鑑賞できる。

 

 炎はすぐにここまで押し寄せてくるだろう。

 

 自棄気味にアンブレラを起動する。

 端末が拾う情報すべてが窮状を肯定していた。

 そこらに転がっている空の消火器が答えだった。

 

 俺は閉じ込められた――いや、自分から檻の中に入っていったんだ。

 思考能力を捨て、ただ死を恐れて走り回った結末。

 

「だったら、どうしろって言うんだ……」

 

 パニックになったのは仕方ないことだろう。

 前世含めた数十年の記憶で、一度も俺はこんな災害を目の当たりにしたことはなかったし、人の死に触れたことも――況してや、目の前で惨たらしく死ぬ様子を見せつけられる経験なんてない。

 

「他にやりようなんてなかっただろ!」

 

 どうしたって袋小路だった。

 

 何か、ないのか……?

 今の状況を覆す何かが、転がっていないか?

 

 第一に浮かぶのは端末だが、駄目だ。

 炎に突っ込んだ時点で焼ける感覚が俺の頭を直接殴りつけることになる。拘束された状態ならともかく、腕をひっこめられる状況で耐え続けられる根性はない。

 透視して逃げ道を探ろうにも、炎が発する強烈な光の電磁波に攪乱されるだけだ。

 

 エルフの力、これに頼るのはアリだ。

 全身ずぶ濡れにすれば服や髪が燃えなくなる。

 ただ、問題はあの炎を抜けるまで熱に耐えられるかという点だ。

 燃えなくとも皮膚は焼ける。

 空気を吸い込めば口から肺まで火傷して、ゲームオーバーだ。

 

 鎮火するという手もあるが、これはかなり難しい。消火するほどの水を出せるかどうか怪しいんだ。ミュルジスと違って、恐らく俺はこの力と親和性がない。拒絶されていると言ってもいい。

 全力で生み出したところでシャワー程度。

 文字通り焼け石に水だろう。

 大量の水が用意できるなら取れなくもない手だが、残念ながらそんなものはどこにもない。もしかすると……いや、どちらにせよ無駄だ。

 

 他には、アンブレラしかない。

 これを使えば端末で高精度な壁を作ることも出来るが、焼ける感覚が俺を消耗させる。

 何とか壁を保ったところで、端末は熱伝導性が高いため、ここの温度がどんどん上昇することだろう。

 逃げられなければ蒸し焼きになるだけだ。煙もある。

 

「あとは増幅器くらいか」

 

 パルヴィスも無駄なことをしたものだ、と今になって思う。

 手をかざすだけでイフリータの源石に干渉できたが、よく考えてみればアンブレラでも再現可能だ。

 増幅器を埋め込んだことで得られたのは、強い作用域が俺の体にあるか、アンブレラにあるか、それくらいの小さな違いだ。

 

 全く、本当に無駄な実験を……

 

 

 あのパルヴィスが実行するだろうか?

 

 

 そうだ、思い出した。

 増幅器にはもう一つの役割がある。

 

 それが俺の体内にあるのなら。

 

 アンブレラを握る手に力が入った。

 増幅器にアーツ作用を傾ける。

 

「この感覚、やっぱり、出来るようになったのか……!」

 

 波濤システムで放射状に浮き上がっている金属製の親骨――垂木(ラフター)とミュルジスは呼んでいたか。そのラフターを一つ、プログラム軌道上から外す。

 

 ずっしりと重く頑丈なラフター。

 搭載された機能ですらないただの素材だが、増幅器が借り物ではなくなった今、その真価を発揮する。

 

 ふわりと浮き上がり、端末の信号に従い、宙を滑る。

 

 こいつを端末で操作するのは上手くいかない。

 俺のアーツは、洗練されたテラの源石技術に全くと言っていいほど敵わない。無駄が多い。

 

 多すぎるノイズによって、出力と入力が噛み合わない。

 時代遅れの充電器を最新型の携帯端末に挿そうとするようなものだ。

 もっと上手く例えるのなら――その言語にない概念を他の言語から持ってきて翻訳させているような、そんなエラーだ。

 

 普通ならそこで不可能となるのだろうが、ライン生命の技術力は普通を遥かに越えている。

 

 俺の体に埋め込まれた増幅器はコンバーターを兼ねていた。

 アーツの信号を波濤システムが理解できるよう噛み砕くことで、ようやく起動と停止、そして幾らかの運動を命令できるようになった。

 

 波濤システムが理解できるようにするため、コンバーターが噛み砕く。

 その噛み砕き方を調整できるようになったのだ。

 

 ラフターが少し離れた場所をスイスイと旋回して戻ってくる。

 まるでポルターガイストのように動き回っているが、全て俺の意識下だ。

 

 それどころか。

 

「『伸長』」

 

 ラフターが一気に伸びて壁を打ち砕く。

 こんな機能まであったとは。

 

「『収縮』」

 

 ラフターが元のサイズに戻る。

 心強い。出力が端末とは段違いだ。

 俺の方に感覚が共有されないため、視覚や聴覚を補うことは出来ないが、それは同時に、炎に突っ込ませても熱く感じないということだ。

 端末と使い分ければ幾らでも化ける。

 

「これで、ノーリスクならもっと良かったんだけどな」

 

 胸の痛みを感じながらラフターを炎に突撃させる。

 

 アーツの炎でないなら、必ず燃えている何かが存在するはずだ。

 その原因を吹っ飛ばしてしまえば炎も散っていく。

 

 その結果は果たして、迫っていた火炎が勢いを失う。

 そして、向こうにより大きな炎が見える。

 

 無意味ではない。

 ただ足りていないだけだ。

 道を開くのは絶望的だろう。

 

 このままのペースで少しずつ退けた所で、煙の充満が先になる。

 半ば分かっていたことだ。

 

「……まあ、いい。試運転だからな」

 

 ラフターが正常に動いてくれるか、そして本当に俺は熱を感じないのか。他にも試したいことが多少あった。

 もう大丈夫だ。端末との違和感にも慣れた。

 

「『伸長』」

 

 壁を砕けば、破片がパラパラと崩れてくる。

 引っこ抜いたラフターを観察してみる。やはり強度は相当なものらしく、罅にも内部回路にも一切の損傷がなかった。

 

 それなら加減は要らない。

 

「『伸長』」

 

 砕く。

 

「『伸長』」

 

 抉る。

 

「『伸長』」

 

 破る。

 

 何故こんなことをしているのかと言えば、それは……これが理由だ。

 勢いよく噴き出した水。力で束ねて無理矢理押さえつける。

 

 俺は水を生み出す効率がミュルジスと段違いで遅い。

 だが、そこにある水を扱う程度なら、些細なコントロールを抜きにすればそこまで悪くない出力だ。問題は追い詰められて辿り着いたここに水源なんてものが存在していなかったこと――壁の中を通る給水管以外は、という但し書きが付くが。

 

 端末でその存在を知ったときには利用できないか考えた。

 しかし壁を打ち破る手段がなかった。諦めざるを得なかった。

 

 ラフターさえあれば話が変わってくる。

 

 全く、俺の力は矮小だ。

 ミュルジスなら一手で済むところを、俺は3つもの能力を使わざるを得なかった。

 

 だがこれで――追いついた。

 役に立てるだけの力を手に入れた。

 

「うおっ!?」

 

 ぱしゃん、と音を立てて飛び散った。

 格好が付かないな。

 

 もう一度水を束ね、今度は制御を誤らないようにして、炎へとぶちまけてやる。

 更にもう一度。何度も繰り返し、時にラフターで吹き飛ばしながら、通路を進んでいく。

 

 進んで、進んで、汗をぬぐい、どうにか抜け出していく。

 

 寿命は確かに延びている。

 檻から脱出することが出来た。

 

 それなのに、どうしてだろうか。

 冷汗が背筋を伝う。

 

 端末が周囲の情報を拾い、エルフの力で炎を消化して、セキュリティが失効している頑丈なドアをラフターが突き破った。爆心地は遠く、ダクトにも警戒している。

 それでも黒煙が頭上を覆っていた。

 

 倦怠感が酷い。アーツを酷使していることだけが理由ならまだいい。

 これが一酸化炭素中毒の初期症状なら――いや、まだそこまでの時間は立っていないはずだ。

 排気システムは途中まで正常に作動していた。

 追い詰められてはいない。

 

 まだ、追い詰められては、いない。

 

 せっかく自分の力で危機を抜け出せたんだ。

 それが全部無駄だったなんて、ありえないだろう。

 

 頭痛が酷い。

 増幅器によるものだろう。

 

 吐き気は何のせいだろうか。

 鉱石病にでも押し付けてしまおう。

 

「ふざ、けるな……」

 

 心臓が痛みを強く主張している。

 手を当て、前かがみになりながらも進む。

 

 ラフターで壁を打ち砕いた。

 頭を突っ込めば多少楽になったが、完全ではない。

 ただ余命を伸ばしただけだ。

 

 何か、何か思いつくものは。

 

 指はただ壁を引っ掻いた。

 頭の中がぼやっとしていて、上手く考えられない。

 

「何も……ないな……」

 

 アンブレラの機能ならすべてを理解した。

 アーツだって多くのことを試してきた。

 

 その上で、俺に出来ることは何もないと、分かった。

 

 体がずり落ちて、座っていることすら苦しくて、大の字に寝転がった。

 

「俺は結局、そうなのか……」

 

 手札がどれだけ増えようと、俺がプレイヤーだって時点で終わりなのだろう。

 外付けの力を手に入れただけで俺自身は成長していない。

 

 だから、死んで当然だ。

 こんな所で――なんてことを言う資格もない。

 こんな所まで来てしまえたことが間違いだったんだ。

 

「転生なんてしなければよかったんだ……」

 

 無力で愚かな俺がこの世界でやってきたことなんて。すべて、消えてなくなってしまえばいい。

 

 朦朧とする意識。

 

 ミュルジスと出会い、救われた幼少期。

 ミュルジスに連れられて外を目指した学童期。

 ミュルジスを支え、支えられた青年期。

 

 原作通りが一番だったはずなんだ。

 少なくともミュルジスにとってはそれが幸せなルートで、俺はそうなるよう願わなければいけなくて。

 ミュルジスの幸福が俺にとってのすべてなら、俺は、俺以外に任せるべきなんだ。

 

 俺では彼女を幸せにできないから。

 俺であってはいけないから。

 

「畜生、認めたく、ないな……!」

 

 俺が原作を知らなかったのなら。

 転生なんて受け入れなければ。

 

 そうしていれば、俺は、こんなに惨めではなかったんだ。

 

 最愛の人を誰かに託すなんて。

 世界から存在の意義を否定されるなんて。

 

 ひねくれていた前世の価値観を振り払うごとに、俺は主人公であるドクターの存在に打ちのめされていった。

 怖かった。仮に俺がミュルジスの手を掴んだままでも、いつか来たる孤星の日に、ドクターがミュルジスを攫って行ってしまうのではないかと。

 

 ――だが、それももう終わりだ。

 俺はここで死ぬ。それでもう、終わりなんだ。

 

「ごめん、ミュルジス」

 

 最悪の別れではないだろう。

 生態研究園を長いこと留守にしていたし、受けるにしてもきっとそこまでのダメージではないはずだ。

 

 だから、どうか許してほしい。

 4年後にはきっと君を救う人が現れるはずだから。

 それまで、少しだけ、耐えてくれ。

 

 

 なんてことを考えていた、その時だった。

 

 

 何かが俺の口元に当たった。

 手袋のようだった。

 

「中濃度酸素マスクを。レオ、背負いなさい」

 

 少しだけ呼吸が楽になった。

 これは、この声は。

 

「どうやら間に合ったようだね、ジズ」

 

 誰かにおぶわれ、何とか目を開ける。

 マスクと防護服らしきものを着たキャプリニーが俺を見つめていた。

 

「パル、ヴィス」

 

「君がアンブレラを手放さなかったおかげだ。実験で確認していたアーツ信号を参考に受信機を作っていたんだよ」

 

「なんで……ここまで……?」

 

「言うまでもないことだ。君が構造課にとって重要な実験協力者だからに決まっているだろう?」

 

 レオとパルヴィスらを囲むように周囲の様子を窺っていた警備課の職員らは、その一部が奥へと進んでいった。

 火元(イフリータ)を抑え込んでいる部隊の応援に行くのだろう。

 

「サリアが本部を留守にしていてね。もうすぐ到着するようだが、ここまで救助が遅れたことを同じ主任の立場から謝罪しておこう」

 

「いや、いい。要らない」

 

「そうかい?」

 

 レオが歩けば揺れが伝わる。

 マシになったとは言え頭痛がぶり返す。

 

「こちらこそ、助かっ――」

 

 腕を小さな痛みが刺した。

 一瞬何をされたか分からなかったが、その注射器を見れば、むしろ納得した。

 

「礼を言う必要はないよ。こうして迎えに来たのは、最後の仕上げをするためでもあるからね」

 

「……ブレないな、本当に」

 

 何かが侵入(はい)ってくるのを感じる。

 血管を流れる源石らが片端から反応していく。

 数秒遅れて、身体が急激に怠くなった。

 抵抗する気力は残っていない。

 

 痛い。

 切り傷のようなジクジクとした痛みだ。

 

 ただ、痛いには痛いが、今まで受けてきた強烈なものと比べてしまえば瑣末なものだ。声を上げるほどではない。

 

 少しして、妙な感覚が体を巡った。

 

 体が作り変えられていく――新しい何かを獲得している? 異常の原因を探っていると、頬のあたりが突然熱を持つ。思わず手を当て、納得した。

 

「源石融合の促進剤か」

 

「正しくは反抑制剤と言うべきだろう」

 

 頬に露出していた源石結晶が拡大していた。

 今さっきの感覚は体中で源石と融合したことによるものらしい。

 

 ミュルジスをどうやってなだめようか、としか思えない時点で毒されているのだろう。

 パルヴィスの実験を治療だと思っていた頃ならもっと怒ったのだろうが、今はもうどうでもよかった。

 

「これで計画は――『森魔計画』は完遂された。これから多くの研究者が君の協力に敬意を払うことだろう。勿論、私もそうだと思ってくれて構わないよ」

 

 シンマ計画。

 炎魔から考えれば、森魔と書くのだろう。

 脳内検索には引っかからない。

 

「森魔って、何なんだ?」

 

「特殊な感染経路から鉱石病の感染者となったエルフに付けられる通称だ」

 

 あっさりと答えるパルヴィス。

 その様子はどこか浮かれているようだった。

 まるで完成した絵を見てもらいたい子供のような無邪気ささえ感じる。

 

 そんなことはどうでもいいか。

 パルヴィスが言った特殊な感染経路、それはつまり。

 

「母子感染、か」

 

「その通り」

 

 俺は生まれた時から感染者だった。

 活性源石と接触することなど考えられず、粉塵を大量に吸ったとして、然しものエルフと言えどすぐには感染しない。

 

 母子感染も同じくらい考えにくいことのはずだった。

 何せエルフは鉱石病に罹ってしまえば一ヶ月で病死するような種族だ。子供が生まれる直前に感染し、更に死産してしまう可能性を乗り越えなければ、母子感染は起こり得ない。

 

「奇跡みたいな話だな」

 

「その奇跡に出会えたことを心から嬉しく思うよ」

 

 パルヴィスにとっては都合よく現れた研究材料でしかないのだろう。

 

「森魔は融合率が上がるほど源石に対する干渉力が向上する。種族固有の脆弱性を親和性として利用したものだからね」

 

「反抑制剤はそのためか」

 

「君の体が耐えられると踏むまで、投与は慎重にならざるを得なかったが……こうして辿り着くことができた」

 

 満足げにそう言った。

 

 レオに背負われた俺は、ただそれを見ている。

 非難でもするべきなのだろうか?

 

 パルヴィスに救われてしまった時から、どうすればいいか分からなくなっていた。俺に否を唱える資格なんてあるのだろうか。

 彼に悪意はない。

 すべては前進を目指すためのものだ。彼にとって最も恐ろしいことは何も成せないこと。更なる発展の礎となることすら彼は厭わないだろうし、そのためなら己の命すら捨てられるだろう。

 

 この世界には沢山の悪人がいる。

 その中で、いったいどこからが悪人なのか。

 

 俺の願いを、ミュルジスの幸せを願う心が悪だと思いたくはない。

 しかし、仮にパルヴィスが悪人だったとしたら——己の価値基準に則り最も素晴らしい未来を実現させようと懸命に足掻く彼が悪人だったとしたら、俺は果たしてどれほどの罪人だろう。

 

「……秩序、か」

 

 ぽつりと呟いた。

 俺たちがよく知る彼女の信条は秩序だった。

 きっと彼女なら、俺とパルヴィスの両方を裁いてくれるだろう。

 

 いつかの日、俺を裁く人は現れてくれるだろうか。レオから伝わる振動に身を任せ、俺は疲労が誘う眠りへと落ちていった。

 

 

 

 目が覚めた。

 

 そこまで眠りこけていたというわけでもないだろう、疲れが体からほとんど抜けていない。

 そして、いつのまにかレオの背中がなくなっていた。それどころか俺を支えてくれるものが何もなかった。

 

 ようやく気付いた。

 俺は今、水の中にいる。

 

 球形の水に閉じ込められていた。

 どうしてそんなことに、と考え、ハッとした。

 水の壁を割って揺り籠から抜け出す。

 

 そこには俺の方を庇うように立つミュルジスとずぶ濡れの2人が向かい合っていた。

 どうしてここにミュルジスが来ているのか。

 火事の知らせを受けて駆けつけたのか。

 

「これは……」

 

 こちらを振り返った彼女は、何も言うことなく視線を戻した。

 

 それだけで大凡の検討が付いた。

 すべて知ったのだろう。

 雰囲気からしてパルヴィスが話したのではないだろうが、それでもかなり詳細まで。

 

「――まったく。年寄りにそう鋭い視線を浴びせるものではないよ」

 

 そう言って溜息を吐く。

 そして、目を細めれば、まるで衰えを感じさせない怜悧な視線がミュルジスを射抜く。

 

「君は、私たちによく似ているというのに……」

 

 小さく零れた言葉さえ響いてしまうほどの静寂。

 

 エピローグまであと少し。

 これが、炎魔事件をめぐる最後の一幕だった。

 




 
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