ライン生命生態課所属e分類の1番隔離指定研究対象 作:e-2
君は、私たちによく似ている。
ミュルジスはただ息を吐く。
無礼千万なパルヴィスの言に昂ってしまった感情を逃がすため、理性を失わないため、不要な戸惑いを吐息と共に胸の内から追い出した。
世迷言を、と切り捨ててしまいたい。
練り上げられてしまった憎悪が牙を剝かんと暴れまわる。
ブリキに渡された資料やサリアへの信頼が涙との決別を助けてくれたのだが、その感情だけは収まりが付かなかった。
ここで殺してしまえば今後の生活すら危うい。
パルヴィスがどれだけ手を汚そうがライン生命という組織によって守られるだろうが、そのパルヴィスに弓を引けば、ミュルジスの裁決は賭けになる。
そう思って矛を収めていた。
しかし、裏を返せば、それだけの理由がなければ手を出していただろう。
最も確実な方法で今後一切の厄介事を断ち切ってしまいたいと、ミュルジスは確かに願ってしまっていたのだから。
「ミュルジス」
名を呼ばれることすら苦痛に思えた。
「設立記念のパーティーを覚えているだろう? 同じワインを口にした。志を共にしていると確信していた。あの日のことを、まさか我々の中で最も感傷的な君が忘れたはずはない」
「そうね」
「私はそれが間違っていたとは思わないんだ。だが、この10年をどのように受け取るか、それが我々を分かつ溝となり、互いの道を阻んでいる」
ライン生命医科学研究所が創られた1085年。
そのときから道を違えていたのではなく、月日こそが親愛なる我々を引き裂いたのだと、彼は言う。
本当にそうだろうか、と疑ってしまうのは仕方ないことだ。恐らくは怒りがなかったとしてもそう考えていた。
それを、続く言葉に打ち砕かれた。
「クリステンは『停滞』と言ったんだ」
ミュルジスはサリアやクリステンと共に、ライン生命医科学研究所がただのラインラボであった時代から、つまりは会社ですらなかったほどの昔から、歩んでいた。
ジズを保護する環境づくりのためと言っても、ミュルジスはこの会社を愛していたし、だからこそ責任ある主任という立場で貢献を重ねてきた自覚があった。
それを停滞だと。
見れば、パルヴィスですらそれを受け止め切れていないようだった。
彼は主任の中でも向上心にあふれている。科学史に名を残すため、これまで、そしてこれからの生涯を費やすだろう。
ならばその言葉に感じるものも一入だろう。
「我々はあの日から前に進めていない。仲間を手に入れ、地を固め、たったそれだけだ。到底空に手が届くことはない」
小高い丘に腰を下ろした。
それを空に近付いていると言えるのか。
「よく考えてみるといい、ミュルジス。そこの彼に根を張る鉱石病はいったいどれほど治療することができたんだい?」
それはミュルジスが最も触れられることを嫌う部分だった。そして、それだけに、彼らが見る景色をよく理解することができた。
このままではいけない。
鉱石病に侵されているということ、それはいつの日か、或いは今日、日常を壊してしまう。生態研究園に築いた世界は所詮仮初でしかない。
それが分かっていて、ミュルジスは目を背けた。
不可能だ。
それを認めてしまった。
医療の才能はなかったし、更には多少の才能がどうこうできる次元ではない。
ミュルジスは自分が伸ばせる範囲のすべてに手を伸ばし、領分にないことを知った。
だがクリステンやパルヴィスは諦められなかったのだ。
「私に残された時間は短い。それはその実、長命の君にすら同じことが言えてしまうんだ。成せなかった者として墓標だけに刻まれるのはいいが、それ以上に……」
パルヴィスは拳を握り固める。
「成せなかったことを悔いながら死にたくはないんだ」
意外にも共感できる内容だった。
言いたいことがよくわかった。
その上で。
「まさか、あたしに『戻ってこい』なんて言うつもりじゃないでしょうね?」
パルヴィスが言いたかったことは、つまり。
我々は道を違えた。
こちらの道が正しい。
次に言いたい言葉など容易く推察できる。
だからこそ。
「道を阻んでいるのはあたしたちの間に生まれたただの溝なんて。よくもまあ言えたわよね。その手前勝手な語り口、尊敬しちゃうわ」
今にも天秤が傾いてしまいそうだ。
理性の鎖が嫌な音を立てている。
「あたしの願いであるジズを消費しておいてそんなこと言っても神経逆撫でするだけだって、どうして分からないのかしら。……いいえ、分かるはずよ。分かろうとしていないだけ」
ご高説を垂れようが誤魔化されなどしない。
森魔計画を暴いた今となっては、彼の言葉に価値を感じられない。
「結局の所ジズを害した意識なんてないのよね。鉱石病を悪化させたところで得られるものの方が多いって、そう思ってるんだわ」
頭の中は冷え切っていた。
パルヴィスの言葉を聞いている間、冷や水をぶっかけてやりたい衝動と絶えず戦わされていた。
「道を重ねていたからどうだって言うのかしら。あなたがあたしを間違っていると思うように、あたしがあなたを心底軽蔑しているように、見えている景色が同じとは限らない。そうでしょ?」
冷静に、平坦に。
それができていたのは動作だけだったようだ。
「――ねえ、あまり舐めないでくれる?」
パルヴィスは自惚れている。
どこまでも己が正しいなどと心の底から勘違いをしているのだと、頭の髄から理解できた。
ハッキリ言えば、この場のどちらもが善悪などというステータスを持ち合わせていない。
ミュルジスはそれを知っている。
彼女が家族を守っているのは、偏にそうしたいと願っているからだ。
正しいからなどというふざけた理由を貼りつけはしない。
ライン生命が活動するここクルビアは資本主義だ。エゴとエゴによって成り立つ、言い訳もできないほど人間の欲望を前提とした社会を有し、その在り方を望まれた国家だ。
パルヴィスは間違っていない。
が、正しくもない。
仮に彼が研究理念を掲げ、それが広く受け入れられたところで――それは正しさの証明にならない。
この世に神はいない。
絶対的な裁定者はテラの大地に君臨していない。
つまり、つまりだ。
ミュルジスが誰かに裁決を下すことなどできないし、同時に裁決を受ける謂れなどどこにもないのだ。
「あのクリステンが空を目指す理由に、それが正しき道だから、なんて言ったかしら。あなたの自己陶酔は見ていて気分が悪いわ。そんなものにライン生命を巻き込まないでちょうだい」
思想が違えど目指す方向が同じだったからこそ我々は手を結んだ。
変わってしまった今、繋ぐ糸は蜘蛛糸より細い。
そして、その糸を解れさせたのは紛れもなくパルヴィス自身であり、こうしてミュルジスの手で突き放されたのは自業自得である。
容赦は必要ない。
「あなたの崇高な理念は、介護施設ででも熱く語ってみたらどう?」
きっと歓迎されるんじゃないかしら、と。
こうして、パルヴィスはようやく知った。
ミュルジスはジズに対して行った実験をほんのひとかけらでさえ認めるつもりがない。
どれだけの成果が出ようと身内の献身が存在していた時点で採点対象にすらならないらしい。
――――ただひたすらに、愚かしい。
考えをぶつけ合い、ようやく2人は合意した。
理解させるなど無駄だ。
根本から全く別の、異なる生き物なのだ。
「そうか。それなら、もう行くとしよう。時間を無駄にしている暇はないんだ。そうだろう、レオ」
問いかけられたレオは何も答えることが出来なかった。
普段怒っているときですら、サリアと考えが衝突しているときですら、ここまでの怒りは見られなかったのだ。
分かり合えなかったことを相手の未熟が原因だと捉え、仕方なしに諦める姿なら幾らか見てきた。
しかし、こうして分かりやすく怒りを露わにするというのは、未だかつて覚えがない。
「やらなきゃいけないことが残ってるでしょ?」
パルヴィスの行く手を阻む。
のうのうと逃がすつもりはない。
一番に大切なことをまだ終えていないのだから。
「ジズやあたしを騙して悪趣味に付き合わせたことに対する謝罪の言葉をまだ頂いてないわ」
研究精神の正しさなどどうでもいい。
ただし、強引に巻き込んだことは認められない。
「……事後承諾のような形を意図したわけではないが、そうなってしまったことを心苦しく思っているよ。君が理解を示してくれるだろうと思っていたんだ」
「あら~、酷い侮辱ね。視野偏狭のあなたらしいわ」
「しかしそれは君に対してだけだ、ミュルジス。協力してくれた彼に頭を下げるならば感謝でなくてはならない」
「騙した分際でそんな主張が通ると、本気で思ってるのかしら?」
「では聞いてみるといい」
パルヴィスの目がジズを捉える。
業腹だった。
ジズは同じように考えていてくれるであろう輩であり、自ら身を捧げた尊敬できる協力者だ。
それをミュルジスに軽んじられる謂れはない。
視線を受けて逡巡し、口を開こうとして。
「ふざけないで。あたしはジズを信用してるのよ。確認するためでも、疑えるわけないでしょう」
信用を裏切ってしまった罪悪感に胸の奥を
炎魔事件が孤星のために必要であり、成立させるために情報を操作していたことは紛れもない事実だ。パルヴィスやクリステンを除いた他の誰よりも先に人体実験であることを知り、それを秘していた。
もはや隠してはいられない。
ミュルジスの信用をまたもや裏切ってしまったことがどれだけ心を締め上げようと、それは必要なことだと割り切るしかない。
すべては孤星の先に在る幸せな未来を掴むためだ。
今のミュルジスを傷つけまいとするのはいいが、孤星はそれより優先されるべき事柄で、それに伴う幾つかの背信は必要経費だ。
向き合わなければならない。
「――なあ、ミュルジス。それくらいにしよう」
それなのに、吐き出した言葉はこの上なく卑怯だった。
振り向いたミュルジスは目を瞠り、充分な咀嚼を終えると、パルヴィスの言葉が正しかったのだと否応なく理解する。
この場で、このタイミングで、ジズが出しゃばってくるのなら、その意味は一つしかありえない。
どうして、と。
目に宿っている感情だけではなく第六感さえも疑念を伝える。
ジズはそれに気が付かないフリをした。
目を逸らしたのだ。
それでも。
「パルヴィスのことはもういいだろ。終わったことだ。別に、取り返しがつくことでもない」
口をついて出たのは言い訳だった。
言ってはいけないと分かっていても、何の意味もないと分かっていても、滑った口が止まらなかった。
ただただ罪の意識に耐えられなかった。
「謝られたって治るわけじゃない。もう過ぎたことで、だったらそんなことに拘る必要は……」
油も差していないのによく回っていた口が止まる。
泳いでいた視線が定まる。
ミュルジスの目尻が濡れていた。
裏切ってその顔にさせたのは二回目だ。
パルヴィスの実験を終え、生態研究園までミュルジスを連れ帰った日に。
パルヴィスの実験に協力することがどれほどのことか、その滴る涙を見て悩みぬいた末に、ジズは理解したはずだった。
確かな覚悟と共にこの道を選んでいた。
ミュルジスを傷つけると早い段階から分かっていた。
それでも覚悟が足りなかった。
「でも、ほら。よく考えてみてくれ」
吐き気がする。
頭の中が曖昧で、何を言っているのか自分でもよくわからず、誰かに止められたいと願いながら舌を動かしている。
頭の中も心臓もどうにかなってしまいそうだった。
「融合率が上がって鉱石病も進行して、それだけなんだ。失ったものなんて多くない。アーツが強力になったし、元々の趣旨とは違うけどそう悪いことばかりじゃない」
向き合わなければ。
でも、いったい、何に?
「俺は、気にしてないんだ。だからミュルジス……」
そうだ、ミュルジスに。
向き合わなければならなかったはずだ。
思考が真っ白に染まる。
頭の中に火花が散って何もかも分からなくなる。
「ミュルジス」
譫言のように繰り返し、ジズは目の前を見た。
それまでは見えていなかった。
この世界で一番愛しているはずのその人が、ただただ悲しそうにジズを見つめていることなど、見えていなかったのだ。
「……ごめん」
ようやく絞り出した謝罪。
ミュルジスは何も言わなかった。
「ごめん。ごめん、ミュルジス……っ!」
気が付けば、同じように涙を流してしまっていた。
考えていた内容がまたぐしゃぐしゃに散って、何度拭っても視界は歪んだままで、止めどなく溢れるそれを抑えることができなかった。
手のひらをまた涙が落ちて行って、塞いでも塞いでも、感情の箍が外れたように湧き上がってくる。
その様子を見て、ミュルジスは唇を結んだ。
彼はきっと最初から何も変わっていないのだ。
伊達に20年以上時を重ねていない。
ジズの『協力』など、受けているのが実験だと分かっていて黙っていたとか、それくらいだろうと分かっている。
そして何も言えなかった理由も、幾つかあるうちの一つは察しが付く。
彼が自分の価値を低く見積もっているからだ。
どれだけミュルジスに肯定されようと変えられない不信感を抱えているからだ。
つう、と頬に流れる何かがあった。
そんなものを気にしていられるほどの余裕はなかった。
「あたしは……」
言いかけてすぐに口を閉じた。
慰めてやりたいと思う気持ちと、そんなことができる立場ではないだろうと自責する理性。
だってそうだろう、すべてはミュルジスが招いたことだ。
パルヴィスを責めるのは当然だ。だが、ミュルジスについてはともかく、ジズについてはすべて彼が悪いという話でもない。
ジズを守るならミュルジスだった。
彼の背中を押したのは、虚言ばかり吐いていたのは、何も気づいてやれなかったのは、一番肝心な時に助けてやれなかったのは――全部、ミュルジスだろう。
遡って追求することもできる。
ミュルジスが鉱石病を治してやるなどという夢を抱いていなければこんなことにはならなかった。
もっと単純な話、諦めずに研鑽して鉱石病を治せるようになっていれば良かったのだ。パルヴィスなどという他人に任せたからこうなっている。
ジズとミュルジスが理想の形で夢へと辿り着くのを一番に邪魔しているのはパルヴィスだ。そして、二番目にミュルジスだろう。
何一つだってできない。
信用ならない人に任せて鉱石病を悪化させる。
それくらいなら、そんな夢物語を初めから描いていなかった方が、今よりずっとジズが苦しまずに済んだだろう。
何もしなければよかったのか?
違う、と言いたい。
しかし振り返ってみればその通りだった。
ずっと隣にいてくれるものだろうと思って、大切に思って、病気を治してやりたいと思って。
それが一番最初だった。
それから何度も本気で考えて、考えた数だけ無理だと思った。
諦めたフリをして現状維持の妥協を目指した。
そのくせ他人のやることには期待していて、だからこそライン生命の設立を目指していた2人に出会えた。
何もしなければよかった。
或いは、何もかもをやってしまえばよかった。
ミュルジスが鉱石病を治せていれば。いや、治せなかったとしても諦めず目指し続けていれば、パルヴィスの人体実験に気付けただろう。
中途半端だ。
何もかもが半端で、そのくせ大言壮語を吐く。
――気付いて、まだ何もできないのか。
ミュルジスは目を見開いた。
目の前で泣いてしまっているジズをそのままにして、ミュルジスは何もできていない。
この事態を招いた身で慰めるのは気が引けるからと言って、それで放置するのは正しい責任の取り方ではない。
分かって、それで、何ができる?
ミュルジスにできることなど、果たしてあるのだろうか。
彼の手を取り、抱擁し、虚言を弄して場を繋ぐ。
それで満足するのはミュルジスだけだ。
ジズが真実安心するならそれでもいいが、そうではなかったから今こうなっているのだろう。
彼を治すと、守ると、そう言って、彼がそれに心底安堵していたなら、パルヴィスの凶行を讒訴できていたに違いない。苦痛から逃げるために頼ってくれたはずだ。
ジズはミュルジスを信用できず、頼ることもなかった。
残っている結果はそれだけだ。
そして付け加えるならば、彼はそれを悔いている。
さんざっぱら裏切っているミュルジスを、たとえ信じられずとも、信じようとしてくれている。
それがどれだけの負担か。
ただの信用ならないほら吹きではなく、積み上げた関係にかこつけて枷を嵌める無能。
その事実が、酷く自分を惨めにする。
家族という名の役立たずに囚われ、害される彼を気の毒に思う。
更にその家族とやらは、信用に足る材料が何一つないにもかかわらずそれでも信じなくてはと自責に駆られる彼を見て、仄暗い充足を感じているのだから最悪だ。
ああ、こんなにも役立たずだ。
それが涙を流すほどに悲しく、悔しく、苦しい。伴に生きようと夢を見て、叶えようともせずただ描いた夢の美しさに見ているだけの自分が嫌で仕方ない。
そんな自分に。
いったい、何ができるのだろう。
パルヴィスはジズの枷として働く彼女に鼻を鳴らし、場を後にした。
唯々諾々と付き従うレオも彼に従って立ち去り、残るは頬を濡らしたエルフが2人。
「何も言わなくて、ごめん」
泣き止んだジズの第一声はそれだった。
ミュルジスは上手く返事ができなくて、一層顔を曇らせる彼に慌てて取り繕う。
「いいのよ、ジズ。気にしてないわ」
精一杯に笑顔を見せてやる。
ただの虚勢だ。同じエルフである彼には通じるはずがない、無意味なハリボテ。
真っ赤になった彼の目とは比べるべくもないが、ミュルジスの瞳にしても僅かに赤みがかっているのだ。種族の如何にあらず分かりきった演技だろう。
ジズは数瞬の間瞑目し、力なく頷いた。
不器用で愚鈍なほどに素直の性を持つ彼にしては珍しく、配慮を汲んだらしい。
それはむしろミュルジスにとって心地が良いものではなかった。
何せ主張を弱めたということは、彼が自責に駆られ苦しんでいることを示しているからだ。
繋ぎ止めなければ。
そう思い言葉を探したが、口が頭に先んじて動いていた。
「ねえ、まだあたしを信じてくれるかしら?」
嫋やかに微笑みながらも自己嫌悪が胸を刺す。
咄嗟の言葉でさえ卑怯極まりない。自嘲するにしても、芯まで染まってしまっていては笑うことさえできない。
「……疑われると傷付くことだってある」
ジズは平然と宣った。
今しがた生まれた自尊心の解れに付けこむかのような言葉だった。
早くも彼は平常運転――と言うより、それこそ骨の髄までそうなのだろう。
愛してくれているのだろう。
信用如何に関わらず。
だからこそミュルジスは応えなくてはと思わされる。
「あたしに全部委ねてくれるかしら」
「……俺は頭が良くないんだ。噛み砕いて言うとどういう意味なのか教えてくれ」
「そのままの意味でしかないわよ。その身代を、あなたが所有する一切を、あたしが管理するの」
「…………具体的にはどうなる?」
「もう二度とあのヤギに手出しさせない。たとえ相手がサリアだろうと、軽率にあなたの身柄を預けたりしない。あたしは、あたしの手だけを使ってジズを守るわ」
彼は眉を顰めた。
やはり信用を失ってしまったか。
「それに、あなたの鉱石病を治すのだってあたしがやるわ」
「そんなことできるのか?」
「そう簡単にできたら苦労はしないでしょうね。所詮は一個人だし、やれることの範囲はそう広くない」
天辺が見えないほど高い壁。
何度手を這わせ、その分厚さに目を伏せたかは覚えていない。
しかし、諦めてどうなるのかは身を以て知った。
「やってみせるわ」
ジズは訝し気に片眉を上げた。
どれほど本気か査定するような視線だった。
「君が進んでやる必要はないだろ?」
「随分と分かりきったことを聞くのね、ジズ。あたし以外に任せるなんて、信用できないに決まってるでしょ?」
同じ轍は踏まない。
「たとえば仮に治療法が確立されたとして、希少な森魔であるあなたが無事にその処置を受けられる保証がどこにあるのかしら」
「……また今回と同じことが起こるって?」
「否定できないわ。どんなに準備したって限界はあるもの。それに、あの手の研究者は考えも読めないし。信用も利用もできないなら遠ざけるしかないのよ」
多分に含まれた毒により、ようやくジズはミュルジスの異変に気が付いた。
信用ならないと思っているのは確かだろう。
パルヴィス筆頭の『前進』を恐れない彼らは気を許せる相手ではない。そう思っているのは確かだが、結論の飛躍を見るに、それだけではない。
勘が鈍く要領も悪いが、論理的思考力だけで言えばジズの頭もそう悪い性能ではない。
ミュルジスの異変に含まれた意図を正確に掬い上げて見せた。
「サリアみたいな人も、信じられないって思ってるのか」
信用ならない。
謀って好き勝手にジズの体を弄りまわした忌々しきキャプリニーは至当のこと、普段何かとうるさいくせに職務を果たさなかったヴイ―ヴル、そして――逃げ場所の一つも作ってやれなかったエルフ。
そして、それ以外の全てさえをも。
きっと守ってくれるだろうと信頼していたのだ。
研究姿勢に関して咎められ、小さく衝突していたとは言え、ミュルジスの目からしても彼女は信に値する存在だった。
秩序を守るという信条を貫けるだけの力を持っていた。
持つ力のすべてとは言わずともほとんどを遺憾なく発揮し、ジズを守ってくれるだろうと、愚かにも信用してしまった。
だからこんなことになった。
「駄目かしら。やっぱりあたし一人の力じゃ頼りないように見える?」
「冷静になってくれ、何もそう極端にならなくたっていいはずだ。今は落ち着いてないからそんなことを考えてるだけで、少なくとも、サリアはよくやった方だろ」
ミュルジスとサリアが離間されるというのは、孤星のために整えた台座が揺らぎかねない話だ。
故にジズはサリアの肩を持とうとし、結果ミュルジスを笑わせた。
「それなら、どうすれば良かったって言うの?」
笑っていた。
心はどうであれ、その表情は、間違いなく。
「上手くやって、それなのに防げなかった? 構造課と統括の気儘な……勝手な、この計画を? 笑っちゃうわね、二束三文の冗談にしても使い所が他にあるでしょ」
ふふふ、と零した笑みが嘘だったかのように表情を消す。
怒りを露わにしてジズの手首を掴む。
「サリアが悪いのよ。それと、あたしも。そうでなくちゃ、ジズを守る手立てが最初からなかったみたいじゃない。これが正しい結末だって、そんなこと、他の誰が認めようとあたしだけは認めないわ」
涙を流していたのはまさか数時間前だったろうか。
そうでないならば、ここまで乾いた表情をどうやって作り上げたと言うのか。
「もしかして、あたしが本来負うべき責任すらサリアに転嫁してるって言いたいのかしら。それは否定できないかもしれないわね。何せあたしは二番目に元凶なんだもの」
人間不信。
それよりも重症な、自信の喪失。
ジズの頭に警鐘が響く。
原作からの逸脱を危ぶむアラートだ。
こんな時にまで、と彼自身も思ってはいるが、最終的な彼女の幸せに比べれば今現在というものの優先度はそう高くない。
そうして、逸って。
「これはきっと、確かに、正しい結末じゃない。だけどサリアやミュルジスのせいでもない」
とにかく矛先を逸らそうとして。
それが何を意味するか分からないままに。
「全部、パルヴィスと俺のせい――」
「だったらどうして頼ってくれなかったのよ!」
金切り声が無責任な失言を遮った。
それはただの怒りでは見せることのない、逃げ場を失った、もとい奪われたからこそ剥くことができる牙。
「あたしはいつだってジズを心配に思ってたの、会うのを拒まれるようになったって、ずっと、ずっとっ……! それなのに助けを求める声の一つも聞かなかったわ! 何かあれば言ってくれるはずだって、助けを求めてくれるはずだって、ただ待ってたあたしが馬鹿みたいじゃない!」
蓋をしていた感情が溢れ出し、手綱を離れている。
次々と伏せていた言葉が飛び出していく。
「連れ出す準備だってできてたのよ……? 医療は門外漢だけど、最後まで分からなかったけど、それでもパルヴィスを疑う気持ちがないわけじゃなかったもの。だから全部、全部全部そのために、それをどうして……っ!」
俯いた彼女の声は震えていた。
荒れる心中を押し隠すためか、その拳は強く握り固められていた。
今にも彼を殴りつけんとしているかのように。
何を言って宥めればいいか分からず、いつも彼女がしてくれたようにと手を伸ばし、その震える拳に怖気付く。
「あたしのこと、そんなに信じられないのかしら……?」
見られていたはずはない。
しかし逡巡していたのを咎められたように感じて、増々ジズは手を差し伸べられなくなっていた。
ミュルジスはまるで壁に叫んでいるかのような心地だった。
彼は何の反応も示さない。
肯定も、否定も、ほんの僅かな慰藉さえも、ミュルジスに届くことはない。
それが怒りを冷やしてくれた。
ミュルジスの心を、丁寧に折り取った。
「もう許してくれたっていいじゃない」
堪らず、弱音を吐き出していた。
「……あたしが悪かったわ。何も出来なくて、人任せのくせに責任を突っついて、無能でしかなかったわよね。そんな風だから愛想が尽きたんでしょ? 身の程知らずな夢を見てるくせに、見てるだけなんて……ふふ、馬鹿らしいくらいに無力よね」
自責していれば傷付くことはない。
裏切られたところで仕方ないと思えるのだから。
「それが理由なら、いくらでも改善するから……あたしが悪いなら、全部ジズが満足するよう努めるわ。だから……」
震える手を胸元に押し当てる。
「だから、ねえ、ジズ……」
ミュルジスはもう限界だった。
「あたしを置いて、いなくならないで……あたしを、見捨てないで……っ!」
ミュルジスの過度な自責思考の中には、実の所否定できない部分がある。
少なくとも炎魔計画に巻き込まれたのは彼女がパルヴィスの性質を見誤っていたからであり、サリアを過信するあまり手が届く範囲での調査を怠け、ただジズが悲鳴を上げた時のために備えていただけだった。
そして、パルヴィスがジズに目を付けたのは、ミュルジスが口を滑らせたことが発端である。
エルフであることを隠しながらも尖った耳はそのままにしていた。
それだけなら誤魔化しも利くだろうが、サーミへのフィールドワークを漏らし、ジズを数少ない同類だと言ってしまった。
案の定、持ちかけられる実験の数々。
それさえなければ採用試験にパルヴィスが関与することもなかったはずだ。
すべてはミュルジスが蒔いてしまった種。
ジズが巻き込まれただけというのは些か強弁だが、そうではないとも言い切れない。
ミュルジスは分かっているのだ。
この上なく正しい理解をしているものだから、時が経つごとに大きくなっていく頬の源石結晶を見るたび、心が到底安らぎとは言えない感情に支配されてしまう。
何もかもが間違いであったのだ。
ミュルジスは今や生まれ落ちたことさえ悔やんでしまいそうなほど受け入れていた。
踏みとどまっているのは、そう考えることが彼との日々さえも否定してしまうという一点だけが理由だった。
「もう、イヤぁ……!」
今度はミュルジスが泣きじゃくる番だった。
いっぱいいっぱいだった。
今見えている想定の内どれが現実だったとしても、ミュルジスはそのすべてを歓迎できないのだから苦しくて仕方ない。
ジズがパルヴィスの企みを見逃し、隠していたということが事実である以上、ミュルジスにとって好都合なことなどもはや残っていない。
一切の期待を捨てるしかなかった。
心地よいほどの信頼と愛はもはや幻想となって消えたのだ。
今になって思い返せば、研究園に帰ってきた彼と交わした口付けにしろ、ジズは仕方がないと受け身で応えていた。
真実、ジズがミュルジスを消去法以外で求めたことなどあるのだろうか。
そんなはずがない、ジズはミュルジスを愛している。
現実が見えていない心は幻を声高に主張し、ミュルジスはそれをどうにか律する。
期待を抱き続けるには疲れてしまったのだ。
だからもう黙っていてくれ。
ようやく心を押さえつけ、ミュルジスは意に反して溢れ出る涙を必死に拭っていた。
それが終わればもう期待などしない。
割り切って動けるだろう。
それなのに。
「どうして、今更になって……!」
ようやく重い腰を上げたジズに抱きしめられていた。
背に回された手が普段通りに優しくて、預けた頭を痩せた体で受け止めてくれて、念入りに追い出したはずの期待が甘い蜜を滴らせていた。
捨てた甘い心が、ゴミ箱の中から顔を出してこちらを覗いていた。
交わってしまった視線をどうして逸らせるだろう。
「不安にさせないでちょうだい、ジズ……」
ミュルジスがジズを見つめる。
小さく体を寄せると、意図を汲んだ彼がキスをする。
それだけで凝り固まった反発心が随分と解れていくようだった。
「ごめん、きっともうしないから」
「きっとじゃ困るわ。こんなことは金輪際やめにして、あたしを一人にしないで」
ジズは頷かなかった。
誤魔化すように抱き寄せる力を強くして、ミュルジスの不平を押し潰す。
腕の中で溜息を吐く。
「はーぁ、あたしってほんとに現金よね。感謝するのよ?」
「……まあ、うん」
ジズは複雑な顔で頷くが、すぐに気を取り直す。
「パルヴィスの誘いには乗らない。実験を静観もしない。ミュルジスが悲しむような真似は避ける。それだけは約束する。それじゃダメか?」
「あたしがいない時には口を利かない、目も合わせない、耳を塞ぐ。それなら妥協してあげるわ」
「それで妥協してるのか」
どんな要求を胸に秘めているのか。
つい口を開きかけたが、ぞくりと背筋を伝う何かがあった。
恐らく尋ねれば答えが得られるのだろうが、どことなく寒気がする笑みを前にして敢行する勇気はなく、視線を逸らした。
「土いじりならまだしも、他で手を汚すのは気が乗らないし……それで勘弁してあげる」
じっとりと滲むパルヴィスへの殺意がエルフの共感性とは無関係に肌を伝っていた。
だから聞かなかったのに。
ジズは心中で小さく悲鳴を上げた。
そして同時に、身体の方も限界だったようで。
「――――あ、れ?」
力が抜けたジズの体をミュルジスが抱き留めている。
イフリータのアーツ暴走に巻き込まれ、一時は意識障害の手前まで症状が深刻化していた。
それから涙を流し、更にはミュルジスの乱心を受け止め、何とか宥めたのだ。
疲労が祟ったのだろう、急激に眠気が襲ってきた。
「ふふ、仕方ないわね。あたしが運んであげるから暫く眠ってもいいわよ」
「……ありがとう、ミュルジス」
「気にしないで。おつかれさま、ジズ」
くたっと脱力するジズの体。
水で包み込み、揺り籠を作り出す。
普段から純度百パーセント水の分身で物を動かしているのだから、ジズのようなやせっぱちを中に留めておくなど造作もないことだ。
完全に彼の意識がなくなったのを確認して、ミュルジスは一つ息を吐き、その微笑みを沈痛に歪めた。
「ごめんなさい、納得なんてできないの。ジズばかりが奪われるなんて理不尽で仕方ないじゃない。他の誰が許そうと、あたしだけはこの罪を忘れちゃいけないのよ」
誰も悪くない。
それがたとえ真実であったとしても、ジズだけが傷を負ったことをミュルジスは許せなかった。
責任の在りかなどどうでもいい。
2人で生きるということは、一蓮托生ということは、その悲しみと痛みを同じだけ背負わなければいけない。
それができないでのうのうと笑えるはずもない。
深く刻まれた悔恨は罪の証だ。
無力な自身を恨み、嫌悪し、犯した罪を感じることで初めてジズと平等になれる。
「たとえばあなたが先立ったとしても、その隣を天の使いなんかに奪われるわけにはいかないの。だから安心していいわ、ジズ。どこへ行っても……たとえ何が起きようと、あたしたちは一緒よ」
塗炭の苦しみをも受け入れよう、ただ傍観していることの方が耐えられない。
「……あたしも、鉱石病を患えたらいいのに」
ただのエルフでは愚かな自殺行為だ。
それが分かっているから口に出すだけ。
未練がましくジズの頬を見つめる。
親指の爪程度に露出していた源石結晶は今回の実験を経て第一関節ほどまで大きくなっている。
道の果てで躯に縋り、唯一の居場所を失くしたエルフが取る凶刃にしては上等だろう。
手にして裂く最初で最後の喉は自らのものになるだろうが。
しかし頬に埋まる源石結晶で自刃するとなれば、彼の顔を抉り、抜き取らなければいけない。
既に息絶えていたとしても手が震えて上手くできたものではないだろう。
もしかすると、最愛の人を失くしたショックでそれすらも些末事になっているかもしれないが――ミュルジスは頭を振って益体もない思考を追い出した。
「何はともあれ、これから頑張らなくちゃね」
直接の加害者であるパルヴィスを恨む思いは依然として燃えている。
彼の凶行を止められなかったサリアに憤る感情はまだ燻っている。
しかし、それよりまず、ミュルジスには自らの手で鉱石病を治癒させられるようになる、という到底不可能にも思えるような目標ができてしまった。
精進するしかないだろう。
たとえその成果が芳しくなかったとしても、そこで諦めてしまったことが原因で今回と似たようなことが起きてしまうかもしれない。
とにかく進み続けるしかない。
それでようやく、ミュルジスは神風主義を脱したと胸を張ることができる。
「もう誰にも任せたりなんてしないわ」
事態は大きく動いていく。
既に『孤星』のストーリーが修復不可能なまでに破壊されていることを知らないまま、手を取ってくれた彼女の変容を知らないままに、彼は炎魔事件の終結に安堵する。
すべてはミュルジスの幸せのために。
水面が揺らぎ、すぐに静まる。
水底に沈む小石はただ水面を見返していた。
次回エピローグです。
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