ライン生命生態課所属e分類の1番隔離指定研究対象 作:e-2
やあ、作者です。
いつまで経ってもストックができないので、第四部は相変わらずの見切り発車で始まります。どれだけ時間をかけたとしても完結までは持っていく所存なので悪しからず。
少しずつ書いていくので一つ前の章から読んだり逆立ちして読んだりしてください。
逆行
クルビアが息をする。
黒雲に覆われた街を無感情な光が彩っていた。
トリマウンツ中央区ではバケツを引っ繰り返したような大雨が窓に自身を叩きつけている。誰も彼もあくせくと足を動かして、濡れたスラックスを絞っては、視野の狭いタクシードライバーに泥だらけの声を上げた。
中央区はオフィス街である。歯車たちは厳格なスケジュール管理の下で動いている。感染者でもないと言うのに、ほとんどの者が必死で生きていた。
その迷い込んでしまった少女は人ごみに目を走らせ、あの穏やかな顔を探す。
少女の母もまた歯車の一つである。
家で遊んでいるはずだった。けれど、星を塞ぎこむような暗雲に不安が高じて、三区から遥々やってきたのだ。
繋いだ手に導かれて会社を訪れたいつかの記憶を頼りに、しかし途中でコンクリートジャングルに惑わされ、本来の道とは外れてしまった。
黄色の傘はよく目立つ。
黒ばかりが交差する中で、一際低い位置に転がっている。
それなのに誰も彼もが少女を見つけられない。
視界には捉えていても、すぐさま視線を逸らしていなかったことにしている。
そんな少女を一番に見つけたのは、ある三人組だった。二人の男は、片方が痩躯で、もう片方は筋肉質だった。
少女に声をかけたのは痩身の男だった。
「君、どうかしたのか?」
少女が振り返ると、そこには彫刻が動いていた。
顔立ちが整っているのはそうだが、どうにも美しく、人間的な様が感じられない。
「……似合ってない、それ」
ただ、彫刻の頬に煌めく黒い結晶を除いて。
「感染者」という情報を目の前の青年と結び付けられない少女は無遠慮にそう言って、苦笑する青年に首を傾げた。
「お母さんがいるの。たぶん、このあたり」
少女はもう一度確かめるように周囲を見回し、そして、少女を見る女の目が冷えていることに気が付いた。
父親が少女を見るときと同じような目だった。相手を人として見ず、ただ「娘」であるとか、「無礼な少女」であるとか、そういう無機質な括りを感じ取った。
「迷子のようですから警察局まで連れて行きましょう」
「連れて行って警察の仕事を増やすよりかは、俺らで探してやった方がいいんじゃねェの」
「……あなた一人でやりなさいよ」
「俺は護衛だ。こいつから離れたら主任の雷が落ちる。やるなら適役はお前しかいねェだろうよ」
言い争う2人を見て青年が笑みを漏らした。喧嘩するほど何とやら、という解釈なのだろう。相も変わらないバカである。
「お母さんを探してるならおじさんが手伝おう」
「おじさん?」
「容姿を自覚しやがれ。俺の方を向いちまってるぞ」
「とは言えもうすぐ37で自称お兄さんはちょっとアレじゃないか?」
何を一丁前に普通の感覚でいるのか。
男は勿論のこと、最近もう若くないことを自覚しつつある女までもが額に血管を浮かべていた。
痩せた青年の容姿だけを見たならば、ティーンエイジャーと呼んでもギリギリ許される程度に若々しい。この場で一番歳を取っているとはとても思えないが、それこそ彼の種族に許された反則だった。
「あなたの母親の会社はどこなんです?」
「急に乗り気だな」
「さっさと終わらせなければ時間切れになってしまいますから。あと30分後には帰りますよ、さもなくば色々面倒なことになります」
「面倒ってほどじゃないけど……」
青年の反応に女は苦虫を噛み潰したような顔をする。
2人とは思い浮かべる光景が全く違っていることに、彼は気付いていないのだ。
顔を合わせるたび小言を言われ続けて一週間が経ったことも、親の仇のごとく睨まれたことも、上司の立場を利用したそこそこ陰湿な圧力を受けたことも、彼は経験したことがないのだから。
仲良く遠い目をする二人に置いてけぼりを喰らう中、青年の袖が二度引かれた。
「それ。それ、見せて」
引っ張られるままに屈んでやると、少女は青年の服に記されたロゴタイプを眺め、やがて頷いた。
「ここ、お母さんが働いてる。案内して」
少女に人見知りの性質はないらしい。
服の袖をもう一度遠慮なく掴み、道を知らないと言うのに、先導して歩き始めた。
「せめて手を引いてくれよ」
青年の言葉は聞き入れられず、そのまま連れられていく。不機嫌そうに鼻を鳴らす女と、その様子に呆れている男。
彼らはトリマウンツの日常に溶け込みつつあった。
あれからジズの身辺は変化した。
生態課はライン生命から半ば独立した組織形態を取るようになり、その主任の経営方針も様変わりしていた。
直属の警備
生態研究園は完全なID管理とセキュリティレベルによる区画整理が完了し、たとえ同伴者がいても、レベル4、即ち従来までの生活区画に入ることが不可能となった。
エルフの楽園と呼ばれるものがかつてこんなにも無機質だったことがあるだろうか。
立ち止まることを恐れる彼女は黙して語らない。
誰と話をするにしても、その無意味さを知るばかりだからだ。説得には建前があればいい。本心から従ってもらう必要はない。
渦中の彼は耳目を塞いでいる。
運命を傷付けた負い目を背負い、勝手に振る舞ったあの頃が脳裏に焼き付き、彼は動くことが許されない。
この忍耐がいつかは身を結ぶだろうと未来を願っている。その根拠など、もはや記憶の底で澱となっているにも拘らず。
アナスタシアはただ眺めている。
意中の彼については、いつまでもこの手が届かない場所で自由にしていればいいと諦めていた。ゆっくりとしか進まない二人の関係に脳を焼かれ続けた極地である。
ただ漫然と期待していた。
どこかで不可逆な変化が起きることを、胸の内に残っている淡い感情と共に、未来へと投げたのだ。
1099年、10月の冷たい雨が降っていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
金属と金属が擦れ合う音。
アンブレラにのしかかる衝撃を受け流し、押されるがままにバックステップ。絡みつくような警棒の追撃は余裕を持ってかわしていく。
手を止め、更に足を止めたジャックから距離を取る。
「俺はサリア元主任には及ばねェが、お前は俺に及ばねェ。胸借りるつもりで来い」
「ああ、遠慮なく」
ラフターを三本宙に浮かせる。同時にジャックが走り出したため、邀撃へと移る。
一本は低速で、残り二本を左右から高速で向かわせる。両方向から同時に彼へと迫る。当然のようにスライディングで避けたため、後方から二本、そして備えていた一本で挟み込む。
「オラァ!」
普通ならひとたまりもないとジャック本人から教わっているが、ただし元警備課は化け物の集まりだ。背後から迫る二本のラフターを両手で掴み、残り一本を斬り払うように弾いた。
エンカクやマトイマルなら同じようにやってのけるのだろうか。彼らが立体的に動く様を見たことはないか、何故だか容易に想像がついた。
だから、増やさなくては。
切り払われた一本目を陣頭に、四本目、五本目、六本目、七本目。
ジャックに掴まれた二本はどうしたってびくともしない。コントロール可能な五本で弾幕を張る。
「うおおおおおッ!」
ジャックの足が止まった。次々に強襲するラフターを一から十まで斬って捨てる。けたたましい金属音が部屋を満たしていた。
回避、そしていなす。弾くだけではラフターに傷が付かない。足を止めれば当然、前からだけではなく、後方からもラフターを差し向かわせることができる。
「舐めんなッ!」
下から掬い上げるように飛んでくるラフターを踏みつけ、固定する。全く馬鹿らしいことに、ジャックはこれだけの攻撃でも舐められていると思うようだ。
「残り一本、寄越せよ」
ラフターはアンブレラの骨となる部分。だから通常の傘と同じ八本しか用意されていない。今場に出ているのは全部で七本。
このままリソースを惜しんでいては凌ぎ切られるかもしれない。その不安感に背を押されて、俺は最後の一本を追加する。
ジャックはそう思ったらしいが、半分正解で、半分間違っている。
「降参だ。もう在庫はないよ」
ジャックが五本のラフターを相手しているあたりで、隙を見て八本目を投入していた。ただ弾かれただけだった。二刀流――あらため二ラフター流に慣れてしまったジャックは、五本だろうが六本だろうがそう変わらず相手できるらしい。
「案外いけるモンだ」
「……それは、何とも嬉しくない報告だな。オマケ程度の機能とは言え、アンブレラがこうも歯が立たないなんて」
「サリア元主任レベルの化け物にはたとえ十本あっても効きやしねェんだ。そう落ち込むなよ」
ジャックはジョークを言うときの顔で笑っている。
確かにあの人は冗談みたいな存在だが、化け物呼ばわりは失礼じゃないのか。あと少しもフォローになってないからな。
「アシストプログラムを使わずこれなら上出来だ。警備課に来るなら基礎体力が致命的に足りてねェが」
どうだ、といった顔のジャックに肩をすくめて返す。
仮に警備課が俺を受け入れてくれるとしても、俺には生態課が合っている。
生態研究園の管理はもはや俺とミュルジスくらいしか担えないくらいに業務が拡張されているし、離れることができないからな。
ああ、趣味で入り浸っているアナスタシアも一応こなせるか。
だったら俺は代替不可能な歯車でもないわけだが、植物と触れ合っている時間が好きだし、異動を望む気持ちはない。
警備課と言えば、そうだ。
「主任の後釜は未だに見つかってないらしいな」
「ああ、フェルディナンドの管轄になってもう1年か。あの経営者かぶれの
「帰ってくると思うか?」
「そりゃあな。あの人の一番は秩序に置かれているんだろうが、二番目はライン生命だ。古巣の危篤を見舞いに来るか、あの自由な統括を止めようと来るのかは知らねェが、いつかは必ず帰ってくるさ」
古巣の危篤。ライン生命が危機に瀕すればサリアは帰ってくる、ということだ。それは正しい。俺は未来を知ってるのだから間違いない。
そしてそれは自由な統括が夢を叶えるために組織を使い捨てるからこそ追いやられる窮地だ。
ジャックの回答は満点だな。
「そういや、最近話題だよな。統括が行方不明ってのも」
何とはなしに振られた話題が心の深い部分に入り込んだ。
ジャックはそういう所がある。相手が隙を晒した途端、無意識にそこを突いてしまう。
ひやりとするからやめてほしいものだ。
「彼女ならきっと、引きこもって研究に明け暮れているはずだ。そうに違いない」
ジャックは納得した様子だった。
ライン生命のイベントストーリーである『翠玉の夢』――『孤星』の前日譚は、行方不明になったクリステンを捜索するトリマウンツサイドと、とんでも発明品に関わる359基地サイドの二つから語られる。
大筋だけをざっくり言ってしまえば、これらはクリステンとフェルディナンドの政治闘争、に割り込んでいくロドスを描いた物語だな。
フェルディナンドは放任主義的なクリステンを蹴落として責任ある新たな統括として君臨しようとし、クリステンはその思惑を丸ごと見透かして、フェルディナンドの手柄さえ自分の計画に組み込んだ。
冒頭、ミュルジスはクリステンの使い走りとして貧乏くじを引き、フェルディナンドの指示で動いていたホルハイヤの手によって拉致される。
それを受け、クリステンについて探っていたサリアはミュルジスの追跡に目標を変える。そこで、自身の手に余る可能性を考慮した彼女は、身を寄せていたロドスに助けを求める。
拉致されたミュルジスを助けることになるのは、サリアとドクター、そしてエリートオペレーターのMechanist。
つまりこれはミュルジスとドクターが初めて交流するイベントになるわけだ。
ぐっと重責が両肩にのしかかってくる。
第一印象は大切だ。ドクターの方はそれほど心配していないが、俺のせいで変わってしまっているミュルジスは、ドクターにどのような印象を抱くだろう。
それほど悪くないものだと助かるが。
ふう、と一息。
「なあ、ジャック。ライン生命は好きか?」
「……これから死ぬのか?」
「なんだそれ。どうしてそう思ったんだ」
「いや、いいや。何でもない。忘れてくれよ。あんまりにも線の細い男だったからな、冬の風に折れちまって治らないのかと」
「そうなったらミュルジスに申し訳が立たない」
「ああ、うん。本当にそうだ」
洒落にならないくらい泣いてくれるだろう。
想像すると胸が痛い。俺はミュルジスを悲しませたくないんだ。できるだけずっと笑っていてほしい。
「俺はまだ死ねないんだ。ミュルジスのために」
「まったくその通りだな。っと、そういや、アナスタシアのやつが言ってたぜ。式はいつ挙げるんだってよ」
「式? 入社式なら九月に滞りなく終わったはずだけど」
「ああ、そうだよな。テメェはそう言うだろうよ。だからあいつが頭を抱えてんだ。分かりきったことだな」
何を言っているのか分からないな。
ジャックはやれやれといった風に首を振ると、そのまま訓練を終わらせた。セキュリティレベル3の訓練室に鍵をかけ、業務に戻るため、解散する。
「ライン生命は好きか、だったよな」
背後から声が聞こえた。
振り返ったが、ジャックと視線が合うことはない。
彼はこちらに顔を向けていなかった。
「俺は――そうだな。好きだ。好きだが、嫌いだ。今のライン生命でも満足できるが、もっと居心地がいい時に戻れるなら、それがいい」
「それなら、四年前に戻りたいのか」
「戻りてェさ。戻れるモンならな。ただ、そんなことができるはずはねェって、それが人生だ。そうだろう?」
かっかっか、と大きく笑う。
彼は最後まで俺の方を見なかった。
彼にとっては、警備科で過ごす今よりも、サリアのいる警備課で過ごした日々にこそ価値を見出しているんだ。
好きだが、嫌い、か。
俺はセキュリティレベル4、つまり生活区画へと足先を向けた。
何か飲み物が欲しかったからだ。
喉奥につっかえた得体の知れないものを胃の中に押し流すため、口を塞いでしまいたかったんだ。
構造課の研究棟、その一室。
今では焼失してしまったフロアの間取りを覚えている。
だいたい、八畳くらいだろうか。前世では一人暮らしどころか物件の見取り図を眺めたことすらない無職だったため、よく分からないが。
不自由しない大きさだった。
ベッドと洗面台、テーブルと椅子。
難解な語彙を多用した退屈凌ぎにもならない本がサイドテーブルに何冊か入っていた。
その部屋をあまりにも広いと思っていた。
生態研究園では感じたことないもの、と言うと、少しばかり違う。
場所の問題ではない。
長ったらしくなればかえってわかりにくいな。
要するに、寂しかったんだ。
俺はミュルジスにとって片割れで、その反対もそうだったというだけのこと。
半身をなくした俺は寂しかった。
――その感情が、思考を蝕んでいる。
ソファに倒れ込んだ。
寝返りを打って、それで、見えたのは幾つも何かが取り付けられている天井だった。
煙の探知機やスプリンクラーなどだろうか。
あとは中央に電灯がある。
天井が遠く見える。
今遠いなら、いつだって遠い。
そんな当たり前のことが受け入れられない。
ずっと前はもっと近かったはずなんだ。
手を伸ばせば届く距離にぶら下がっていただろう。
蝕まれた思考はそう言って譲らない。
「今更か」
遠のいたことは望まれるべきだ。
俺は彼女を置き去りにして変えるつもりなんだから。
それくらいがいい。
何だったら嫌われていたっていい。
ミュルジスが幸せになるならそれがいい。
「……さようなら」
二ヶ月もしないうちに言わなければいけないセリフ。俺は唇を噛み締めて言うのだろうか。今生の別離がそんな風では格好がつかないな。
少し笑った。
孤星は1100年を待たずして終わる。
ミュルジスの隣でなら描くことのできる景色が、握りしめられる勇気が、その笑顔が、すべて1099年で見納めになる。
旅はいつか終わるものだろう。
源石病に巣食われた俺の旅路はどこまで続くのかは分からないが、少なくとも彼女が死ぬより先に果てる。
だからこれでよかったんだ。
「あら。帰ってたのね、ジズ。寛いでるところ申し訳ないけれど、あたしにも座らせてくれる?」
「ご自由にどうぞ。おかえり、ミュルジス」
横向きに寝ていたのを起き上がって、向きを変えようとして、掴まれる。そのままでいいとのこと。
肩に寄りかかってみたが、なんとなく据わりが悪い。
ミュルジスもそう思ったようで、ぐいぐい押され、ストンと頭が落ちる。
膝枕というやつだった。
さっきとは違って、天井の半分以上が見えない。
手を伸ばせば届く距離にミュルジスがいる。
寂しさが埋まり、充ちていくのを感じた。
「なあ、サリアは帰ってくるのか?」
「どうかしら。あの人ってば何も知らせてくれないのよね。ライン生命をどうするつもりなのか、それにクリステンのことだって――」
「向き合わないはずはない」
言葉の先を取って答える。
ミュルジスが言いかけていたのはサリアに対する愚痴で、俺はそれを言ってほしくなかった。
今の問いかけはただサリアの動向を確認するためであって、疑ったわけではないんだ。
彼女は間違いなく行方不明になったクリステンを捜索しているだろう。
「勿論、向き合うとは言っても、それが今すぐの話かは分からない。ただ、少し信じてみたっていいんじゃないか。絶対に駆けつけてくれるさ」
「随分とサリアの肩を持つのね。構造課の研究棟が燃え上がったあの日、彼女の手はあなたを掬い取らなかったでしょうに」
「俺があの人に期待してるのは、ライン生命と、クリステン統括と、ミュルジスのことだけだ。サリアだってちゃんと一人の人間だからな」
「そう簡単に言われると参っちゃうわ、そうして納得できるようになるまであたしは何年もかかったんだもの。……それと、元主任って敬称が抜けてるわよ」
口に出して呼び捨てるのは初めてだったか。
妙なことを気にするものだ。
「サリア元主任、な。これでいいか、ミュルジス主任」
「いいわけないでしょ」
つい魔が差して意地悪をしてしまった。
けらけらと笑えば、上から複雑な視線が落とされる。
その目が浮かべる感情の内訳を探ってみる。
ほんの少しだけ上がった口角、責める瞳に許容する
益体もないやり取りで得られた仄かな安心感を押さえつけ、若干拗ねながらも諦めているのが見て取れた。
愛しい。
その眼に宿る琥珀のきらめきが、儚く消えてしまいそうなほど繊細で透明な金糸が、白魚の指が、羚羊の足が、硝子細工の心が、――すべてが。
愛おしくて堪らない。
「……ふふ。あたしもよ、ジズ」
幸せだ。
所詮仮初でしかないくせに、溢れるほど幸せだ。
これをドクターに引き渡さなければいけないなんて考えると、独占欲で胸が張り裂けそうになる。
でも、それが正しいのだから仕方ない。
俺にはどうすることもできない。
してはいけないから。
「少しだけ。おやすみ、ミュルジス」
瞼を閉じる。
優しい手つきに誘われて、ゆらりと眠気が脳を揺らした。
「おやすみなさい、ジズ」
深海に身を投げる瞬間、その声が聞こえた。
いつまでも、平穏な日々が、幸福が。
この瞬間が続いてしまえば、それでよかったのに。
おやすみ、テラ。
おやすみ、アークナイツ。
原作と同じ道を辿るのは、これまでだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
カタカタカタ、音が鳴る。
若い研究者の体が左右に揺れて、時折傍らの珈琲に口をつけた。
「あの計画が実行されるみたい」
背後から声がかかった。
いつもの妙な噂話であれば適当に返事していたかもしれないが、「あの計画」という言葉が引っかかった。
「それって彼の?」
「直接聞いたわけじゃないけど、たぶん」
「そっか。ありがとう、少し働きかけてみるよ」
頭の中でリスケジュールを行う。
現在取りかかっている研究もあと少しで最低限の成果を見込めるだろう。
参画に苦労するはずはない。
これまでそのためだけに残っていたのだから、巣立っていったかつての同僚ほどとはいかずとも、それなりの評価を貰っている。
「そっちの研究は、最近どう? 上手く行ってる?」
机に向かって張りつめていた気が緩み、ほぐれた表情で彼女に問いかける。
掲げていた目標に近付いて、少なからず余裕ができたのだろう。
終わりの見えないマラソンがもう少しで終わる。
それでも驕るわけにはいかない。
同僚の彼女は少しだけ困ったように笑った。
「経験ある人はみんな他のことに駆り出されてるから、何もかもが足りてなくて。サイレンス先輩がいたら、って何度も思うよ」
「……もう4年か。懐かしいな。今頃どうしてるだろう」
「さあ。でも、あの人は強いから。きっと大丈夫だよ」
そうかな、そうかもしれない。
ノスタルジーにも似た感慨を浮かべながら曖昧な笑みを浮かべた。
「とにかく。無理はしないようにね、アルベ」
「そっちこそ。何かあったら相談してくれ、ラミー」
ドアが閉まった。
構造課の夜は深い。
絶えず電灯が廊下を照らしている。
しかし、そろそろ締めるべきだろう。
アルベは明日もこの部屋で没頭すべき業務があるのだから。
コンピュータの動力を落とし、大きく伸びをした。
さあ、動き出そう。
まだ何も終わってなどいない。
これから、すべてが始まり――そこでようやく終結するのだから。
評価、感想、よろしくお願いします。