ライン生命生態課所属e分類の1番隔離指定研究対象 作:e-2
上手くいかない。
何もできない。
そんな自分を見ていると、人はそう簡単に変われないんだな、と妙に納得する。どこまで歩いたって始まりは一つだ。
俺はクルビアで生まれたエルフのジズであり、それより前に『 』なんだ。
生まれ変わって、変わることができたのは生まれだけだったよ。正真正銘の転生。何一つ成長しないまま続きをもらった。
好きだった小説の主人公は、もう名前さえ思い出せないが、ちゃんと変われたんだろうな。努力していた。負債を取り戻して。俺にはそれができなかった。
世界に理由を委ねるつもりはない。
生まれた時から患っていた鉱石病だって、十五の頃には幾らか慣れていた。
負債を返済して有り余るものを、ミュルジスとの繋がりを持っていたのに、俺は変わらなかった。
きっと今でもそうだろう。
俺は何年経ってもずっとそのままだ。
その意味で、エルフは俺に似合っている。
変わらない容姿に、変わらない精神性。幼稚なまま、ただ時が過ぎ去っていくのを他人事のように感じている。
成長したかった。
その機会を自分から放り捨てたくせに、今更そんなことを思っている。
頑張ったら変わっていたのに。過去を振り返ってはそう語り、未来を見ては、頑張っても変わらないさと溜息を吐く。
ダブルスタンダード。
自己矛盾。
俺は、俺自身が生み出したマイナスを帳消しにすることでしか、プラスを生み出せない。
いない方がいい、を、いてもいなくても変わらない、にしたい。
好きな世界に迷惑をかけたくない。
犯してしまった罪の重さを感じたくないんだ。
誰か許してほしい。
甘い言葉で騙してくれないか。
俺は生きていてもいいんだ、って。
卑怯だな。
卑怯だよな。
生まれたことを後悔するこの日々が、早いうちに終わりを迎えますように。
――気味が悪い。
パルヴィスは紅茶を淹れて待っていた。
上機嫌に、鼻歌が聞こえてきそうな雰囲気で。
「飲むといい。これは私の部下が好きなミノス産の銘柄なんだ。味わい深く、香り高い。……それとも、君は珈琲党だったかな」
「薬品が入っているなら、遠慮しておきます」
「カフェインを毒だと思っているのかい? 参ったね、エルフがそうもかよわい種族だとは思っていなかった。これから気をつけよう」
そういう意味じゃない。ただ、この研究室で出されたものを口にする気はないことが伝わったならそれでいいか。
注射痕がいくつも残っている左腕を見れば、今更何を、と言われてしまう話だが。
「思慮深き判断には力がある。パラダイム、時代を積み上げる力が。私は君の手を借りることでその場所に手が届いた」
「貸したつもりはありません」
「ごまかす必要はないよ。ここには私と君の二人だけだ。優れた理性を恐れることにしか使わない者や、物の価値が見極められない者はいない」
命の価値をまるでわかっていない研究者が言うことは説得力が違う。段違いに、最低だ。警戒を解くことなどできはしない。
今は、拉致されてから一日経っていないくらいだろうか。もっと早く呼び出せただろうに、どうして今更になって研究室まで呼び出されたのかが分からない。
その人体実験の計画書に面談なんてスケジュールが挟まっているとはとても思えないしな。
さっさと本題を聞いて帰りたい。
生態研究園に、ミュルジスの元に、帰りたい。
「君には多くのことを貰ったよ。この七年間は若輩の頃と比べても遜色がないほど、研究に身が入った。優秀な助手と、君のおかげだ」
つい、手に力がこもる。
俺は自分のためなら他人の犠牲を厭わないようなクズだが、それでもパルヴィスの
他人を蔑ろにして、自分の杓子定規だけで世界を測ろうなんて傲慢極まりない。
この際だ。正面から言ってしまおうか。俺はアンタみたいに科学の発展を信奉してはいないし、自分の手で推し進めることにも価値を感じない、と。
「俺は――、何もしていません」
それきり口を閉じる。
言ってしまえたらどんなに楽だろうか。
正面から拒んでしまえたらどれほど胸がすくだろう。
だが、俺はパルヴィスとは違う。
他人の考えを拒み、ただ自分の信念を固持すれば、いつか拒否したはずの誰かと再び衝突し、夢を終わりにされると知っている。
パルヴィスが言った。
「謙遜することはないよ。振り返ればいつも君は私たちの先に立っていた。森魔を知らなかったとして、それは尚更素晴らしい行いだ。だからこそ、こうして時間を取ったんだ」
言って、椅子に座り直す。
その動きにどこか違和感を覚えた。
どこか機械的で、制御されたような動きに見える。
そして、何故だか、考えていることが分かるような気がした。
「ジズ、君は私をどう思う? 研究者としての私は、君にとってどのように映っているかな」
「……進歩のためなら他を省みない、優秀な研究者だと」
「アッハッハ。確かに、姿勢だけ取って見ればそうかもしれない。ただ実績が今一つだ。研究者が神を語っていいものかは分からないが、科学史に名を残すような才能を天に与えられていなかったんだよ」
随分あっさりと言うものだ。
原作ではそれに追い詰められて命を擲ったと言うのに。
「意外だろうか。私は謀略家でなければ戦術家でもない。成功を前に舞い上がってしまう性質なんだ」
「成功というのは?」
「私が参画している統括の計画、延いては将来の話だよ」
クリステン統括が空を目指していることに、やはり変わりはなさそうだ。放っておいても計画は成功するだろう。
ただ、これは乾坤一擲、積み上げられたライン生命のすべてをチップにした大勝負だ。失敗のリスクは依然として存在しているし、慢心できるはずがない。
「パラダイムが変わる。それが主任にとっての成功ですか?」
「それも答えの一つだね」
悠然と紅茶を口に含む。
原作のストーリーラインを失った世界で、俺はこんなにも無力なのか。今までのように先回りして考えを見透かすようなことはできない。
ただ、それは考えることをやめる理由にならない。
パルヴィスは功績がないことに苛まれていた。それは、成功するのかまだ不確かな統括の計画に相乗りすることで容易に解決されるような不安ではないはずだ。
ふと、コップに溜まった赤茶色の水面を眺める。
紅茶だ。それが違和感だった。
原作で彼が愛飲していたのは黒豆茶だった。
部下に勧められて飲んでいるだけ、かもしれない。
ただ、これが原作と今の差異を表す小さな指標だったなら。
「飲み物の趣味が変わりましたか?」
パルヴィスと視線が合う。
真っ直ぐ、こちらの心は見せず、相手の感情だけを見つめる。
「黒豆茶に含まれる大豆の成分はとても健康的なんだ。認知機能の低下を予防し、改善してくれる。私のような老人には付き物だが、もう必要はない」
「それは、どういう意味で?」
「君には随分と助けられたが、ふむ……すまないね。この件に関しては、直接の研究員以外に情報を共有することが禁じられているんだ」
星の庭計画だろうか。
それ以外にはありえない、と言えるほどライン生命は清廉潔白でもないし、どうにか情報を引き出せないだろうか。
「成果が待ち遠しい所ですが、1100年までかかる見通しですか?」
「さて、どうかな。研究を進めている研究所の一つでアクシデントが起こっているんだ。それの解決に時間がかかってしまえば、年内にとはいかないだろうね」
「まさか、359基地で」
そちらでは滞りなく『翠玉の夢』が始まっているのか。
359基地でドロシーが作り上げる伝達物質は『孤星』に間違いなく必要なアイテムだ。少しホッとする。
あとはマイレンダー基金が妙なことをしなければ原作通りに進むだろうが、その原作通りのエンドが、原作と異なる今のトリマウンツに干渉してどのような化学反応を起こすのかは分からない。
「有意義な時間だったよ。いつか私が科学史の編纂に手をかける時が来たなら、君を最優の協力者として書き留めよう」
「ええ、ありがとうございます」
「部屋まで案内を呼ぼうか?」
「少し考えたいことがあるので、一人で歩きます」
「迷わないように気をつけて」
カタン、とスライド式のドアを閉め切った。
どうにも神経を使う。原作キャラとしてのパルヴィスは何を考えているのかむしろ分かりやすいキャラだったが、今となっては正反対だ。
全容が分からない。
星の庭計画のタイミングでどうして俺が必要だったのか。
関係なんてないのか。
それすら、それさえも。
「参ってるみたいだね」
「……参ったよ。何も分からなかった」
「へえ? まあ、そう無理に動かなくていいよ。キミが知った所で意味のない情報の方が多いんだからさ」
「結構ハッキリ言うんだな」
「優しい方が好きだった?」
「いや、遠慮しなくていい。そんなことに気を回すより、もっとやってもらいことがある」
「可及的速やかな脱出ね。分かってるぜ、被害者クン」
自己紹介をしたあの部屋で、ヴァレリアは簡潔に話を済ませた。
上の指示を受けてライン生命へと潜り込んだエージェントであり、基本となる潜入目的はライン生命の動向を監視すること。
その先の目的は、科学界に著しい影響を与える計画が提起された際にはそれを阻止すること。
俺がそのバロメーターとして示されたものの一つであること。
森魔の力がどのように計画を押し上げるのかは知らされていないし、なぜライン生命の邪魔をするのか、それも分からないらしい。
『お上はほんっといい加減だよ。ボクには病気で困ってる人を助けるって使命があるのに、こんな指示を出して』
『……大変そうだな』
『まあ、ボクがただの頭脳明晰な医者だったら声かかってないだろうし。察しが良くて、都合も良くて、その上容姿も良いから重用されるんだろうけど』
ミュルジスで美人を見慣れている俺にはそう眉目秀麗にも見えなかったが、そんな失礼なことを言えるはずもない。
適当に返事していたら機嫌が良くなったのでそれが正解なんだろう。
ともかく。
ブリキはアプローチを変えることにしたらしい。
潜入させるスパイをホルハイヤではなくヴァレリアに変更し、それは二年前から仕込まれていたことだとか。
であれば、俺が遭遇したホルハイヤは何なのか。
考えられる線は色々とあるが、一番簡単に考えるのなら、ホルハイヤは既にマイレンダー基金のエージェントを辞めている、というのが妥当だな。
彼女はククルカンの末裔であり、その種族が持つ失われた力を現代に復活させることが目的だった。
その手段としてマイレンダー基金に入り、そこからライン生命に乗り換える。その途中で『孤星』の二重スパイという形が生まれる。
マイレンダー基金のスパイとしてライン生命に潜入しているようで、しかし本当はクリステンの指示を受けて動くライン生命側の人間。
今はそれが早まってしまったのだろう。
どのようなコンタクトがあったのかは分からないが、ホルハイヤはマイレンダーを見切ってライン生命に属し、二重スパイを経由することなく、あるいは通過して、既に袂を分かったのだ。
それなら赤心社からヴァレリアを引っ張ってきたのも頷ける。
元マイレンダーの人間が相手にいるから、普段使っている手は看破される。より遠くから人材を持ってくる必要があったわけだ。
こうして考えてみると、パルヴィスから何の情報も得られなかったことを含めても、マイレンダー基金延いてはヴァレリアの対応に委ねるのが最善だろうか。
ただそれではいよいよ原作との乖離が――とんとん、と肩を叩かれる。
「ハロー。聞こえてるかい、ジズ。いつまでも主任の研究室前で屯してるのは邪魔になるし、さっさと部屋まで帰らない?」
すっかり考え込んでいた。
それもそうだな、と歩き出せば、ヴァレリアが横についてくる。
「キミさ、構造課に知り合いとかいる?」
「数人なら、アルベとか、レオとか、ラミーとか。今でも構造課で働いているのかは知らないけどな」
「そっかそっか。安心したよ。たった一つのプランにすべてを賭ける必要はなさそうだね」
ヴァレリアは指を顎に当てて視線を空へと放った。
真剣に考えてくれているのは分かるが。
「できれば、あまり巻き込まないでやってくれ。彼らは――レオについては言い切れないけど――善良な研究者なんだ。迷惑をかけたくない」
そう言うと、ヴァレリアは溜息を吐いた。
そんなに眉を顰めなくても。
「これだから平和ボケした移動都市の一般市民は……」
そんなに言わなくても。
「状況がちっとも分かってないみたいだね。ボクが行動を起こした時点でマイレンダーのライン生命に対する干渉は閾値を超えるんだよ。いや、ボクを送り込むって判断した時点で、もう対立は決まってる」
「どうせライン生命は潰されるってことか?」
だからアルベやラミーの裏切りを許容しろって、もしそうなら無理な話だ。原作であれだけやらかしたライン生命が存続したからには、多少ストーリーラインが変わったところでどうせ残るだろう。
……残ってくれないと困るんだ。ミュルジスをロドスに雇ってもらう必要が生まれる。
「ボクはマイレンダーのことそんなに好きじゃないけどさ。信用はしてるんだよ。彼らが潮時を表す指標としてキミを選んだからには、キミを助けられなかった場合にどうなってしまうのか」
ヴァレリアは小さな怯えを瞳に映した。
ただの末端医療関係者がスパイとして取り立てられるのは何度目だろう。きっと一度目ではない。ただ、そう多くもないはずだ。
二年の時間をコストにかけた潜入活動が重大ではないはずがない。
そんな大仕事にどうして怯えられずいられようか。
「構造課に攫われて、キミの日常は壊れたんだ」
小さく言った。
「ライン生命を野放しにすれば、そんな被害者が増えると思う。止めるにしたって、キミの友人を巻き込むことが最善の道になるかもしれない」
怯えは消えて、その目の奥が燃えている。
靡いた金髪が輝く。
「だったら。申し訳ないけど、キミの友人には割を食ってもらうよ。ボクは最善を貫く。『現実でトロッコ問題に出会った時』、『躊躇なくレバーを引ける人間』でありたい」
誰もが死なないことはありえない。それが分かっているから、認めたくないその事実を幾度となく突きつけられたから、なのだろうか。
ヴァレリアには狂気が萌芽しているような気がした。
きっとそれは医療従事者に求められる資質だ。死者に体温を分け与えてしまったら、隣で凍えている人に寄り添えなくなってしまうから。
誰かを助けられるということは、救えたかもしれない他の誰かを切り捨てることだ。生かす命を選ぶことは、殺す命を選ぶことだ。
「さて、あとは部屋に帰ってから続きを話そうか。これ以上廊下で話していたら誰に訊かれるとも分からないし、なんてね」
「なんてね?」
変なセリフがくっついていたので思わず聞き返してしまった。
ヴァレリアは気取った顔で笑う。
「ジズには悪いけど、もう巻き込ませてもらったよ」
「――今の話、本当だろうね」
後方の角から姿を現したのはアルベだった。
最後に会っていたのは四年も前だ。
少し、いや、かなり雰囲気が違って見える。
「ボクがキミと話すに当たって条件が一つある」
いきなりそんなこと言うのか。
もう少しゆっくりでも。
「仲間がいなくて寂しそうなキミから条件を出されるなんて、ひょっとして僕は足元を見られているのかな」
アルベがついていけるなら俺が悪いのか。
「そう焦らなくたってボクは敵じゃないよ。それとも、ひょっとしてキミの方はボクたちの敵ってことでオーケー?」
「損切りが早いと利益も逃すんじゃないか? 一度エネルギー課でフェルディナンド主任の薫陶を受けたらどうかな」
「なあ、二人とも。その会話スピードでコミュニケーションに問題がないことは分かったけど、そもそもこんな所でバチバチにやるなよ」
「百点花丸アメイジングなリアクションだね。その通り、条件っていうのは場所のことだよ。カメラがなくて、長時間話し込んでもバレにくくて、人のいない部屋が欲しい」
「それでいいなら心当たりがある」
アルベって本当にこんな感じだったか?
ヴァレリアって理解が早い相手だとそんなテンポ良く話を進めるのか。
間に挟まってる俺抜きで出会った方がもっと早かったんじゃないかな。とても疎外感を感じる。頭がいい二人組に置いていかれつつある。
それから部屋に戻って、暫く経って、ヴァレリアの案内で見知らぬ区域に連れて行かれた。
埃っぽい部屋の中で唯一綺麗な四脚のパイプ椅子。
「改めて、自己紹介をしようか」
四年で顔つきが大人らしくなったアルベと、相変わらず目が合うとすぐに逸らされてしまうラミー、やけに堂々としていて存在感のあるヴァレリア。
そんな風に、第一回脱出会議が始まった。
少しだけ褪せた白髪と尖った耳に、左右非対称のツノ。どうにもサルカズらしくないようでいて、どこかサルカズであることに納得する。
――という本来ドクターが抱いていたはずの第一印象を吹き飛ばすほど、隣のエルフが険悪な様子で睨んでいた。
「アナスタシア、ついてきたのね。それだけならいいけど――お客様にまでご足労いただくことなかったじゃない」
「いえ、それは」
「まァまァ、主任。手がかりがあろうとなかろうと、人海戦術は有効なはずでしょう」
「あら、ストラウス。警備部所属の肩書を持っていながら、警備を放り出してきたのかしら。まるで主任の椅子をそのままにどこかの企業へ出奔した人にそっくり」
「どうでしょうかね。俺は別に、放り出したとは……。ついてこいって、アナスタシアがうるせェんですよ」
「結局責められるのは私なの?」
どこか緊張感のない二人はともかくとして。
ドクターの視線を感じ取った彼女は多少の不機嫌を隠しながら会釈をした。
初めから全く興味関心を感じていないようだ。
周囲の会話を気にせず、何枚かの紙が乱雑に留められているクリップボードへとペンを落としている。
「彼女はエンジニア課の主任、ナスティ・ルノレイよ。彼女の顔に何かついているかしら? きっとそれは付箋ね。忙しい所を連れ出したものだから、スケジュールのメモ書きが張り付いたままなのよ」
「迷惑をかけている自覚があるのなら、私を掴む手を離せばいい。それから、先程話していた通りの内容を商品開発部の問い合わせ担当に伝えるべきだ」
「アレの設計者はあなたでしょ、ナスティ。受話器越しに資料をめくる音が聞こえたって、お客様は納得しないんだから。たとえ今まさに天災がトリマウンツを襲ったとしても付き合ってもらうわ」
「客人の対応を放り出した主任の主張ではないな」
「……ナスティ、彼らは製薬会社の人間なのよ。言いたいことは分かるはずだけど。それでも理解してくれないのは、連れ出されたばかりで気が立ってるから?」
「分からないな、感情論は私の苦手分野だ。だから決めていることが一つある。仕事の邪魔をしない限り、私が君を嫌うことはない」
裏を返せば――、ミュルジスはゆっくりとナスティから手を離した。
そしてドクターらに向き直る。
「あなた方は客人だけど、ジズの捜索に手を貸していただけるのよね?」
愛想のない愛想笑いだ。
アナスタシアとジャックが少しずつ後退っている。
「そのご厚意は断れないし、そのために全力を尽くすのだって、筋が通っていることよね?」
ナスティが大きな溜息を吐いた。
「だから、これは必死なお客様から重要な手がかりに関するお問い合わせよ。ジズが身に着けていたウェアラブルデバイスの追跡、やってくれるわよね?」
「オフィスに戻る」
「ちょっと、ナスティ!」
「通信無線機を取ってくるだけだ。厄介なクレーマーはリピーターになりやすい、とフィッツロイが言っていたからな」
振り返ってみれば、ミュルジスが吹き飛ばしたはずの印象が戻ってきていた。
独特な雰囲気のサルカズだ。妙に偏屈そうな部分はいかにも『らしい』所ではあるが。
「さて、ドクター」
ナスティを見送っていたミュルジスが振り返る。
警戒心は全くの据え置きらしい。自分から言った手前もう戻れないが、同行者として不安極まりない、といった様子だ。
「妙な動きを見せないことと、ジズについて探らないこと。この二つだけは守ってもらうから」
それで結構。いずれ重要になるとしても、まだ関係のないことであるし、クリステンの行方を追ううちに自然な流れで知ることもあるだろう。彼についてのことは、今に関して言えば重要ではない。
【一つ聞かせてくれ。デバイスとは何の話だ?】
「多機能型の腕時計よ。位置情報発信機能の履歴を遡ることができたなら、どこへ拉致されたのか、少しは手掛かりになりそうでしょ?」
ナスティが言う分には、履歴じゃなくて痕跡探しになるらしいけど。
小さく呟くと、ミュルジスは帰ってきたナスティの方へ小走りで駆け寄っていった。
意外にも会話が成立した。
そんな感慨が残った。
「主任はジズさえ関係していなければまともなんですが、それはバームクーヘンの穴になっている部分だけ食べるようなことなんです。二人は幼い頃からずっと一緒だったそうですよ」
「ご存知ないでしょうが、ジズってヤツは危なっかしくて。そのくせ迷惑や心配はかけたくねェって傲慢で」
そしてアナスタシアが話したような処遇を彼が受けたものだから、ミュルジスはああなった、と。ロドスが保護する鉱石病患者の中でも、似たような者が確かに少なくない。
だが、非感染者が、感染者を案じてそうなる例は珍しい。
「主任にも言われてしまったので、俺は研究園の警備に戻ります。あとの捜索は頼みました。それと、主任についても任せます」
どうか吉報を。
言葉を受け、ドクターらはトリマウンツの街に繰り出した。
アナスタシアの案内に従って商業区画を少し外れる。やがて路傍に焦げた草花を見つけた。ホルハイヤに向けて放ったアナスタシアのアーツによるものだろう。
後悔はしていなかったが、未練は残る。
アナスタシアはここが目的地であることを告げて道端にしゃがみこんだ。黒くなってしまった葉をなぞる。根茎が残っているならまだしばらくは生き残るだろうか。少なくとも、まだ彼らは終わっていない。
そしてこの事件もまた終わっていなかったのだろう。
ただ一歩こちらへ近づくだけで、ガタン、と大きな音を立てている一機のパワードスーツ。
いつのまにか背後からも同じ音が聞こえてくる。
【この音は……。】
「随分と手荒な歓迎だな」
「わざわざ警告に来てくれたのかしら」
面倒な人間関係を今まで遠巻きで眺めていたエリートオペレーターが前に出る。
敵意満面に眉根を吊り上げたミュルジスがその横へと踏み出す。
「アナスタシア」
呼ばれて、懐に手を入れる。
感情の高まりが火の粉となり、腕に露出した結晶から噴き出した。
このアーツユニットを使うのは何年振りだろう。
脳内にあの夜のフラッシュバックが訪れる。
夜闇に映える赤と銀。
鮮烈な像を結んではすぐに消えゆく彼女の姿。
急速に掠れ、しかし消えない残影。
無色透明の脳漿、鮮紅色の血液、ピンク色の肉、白色の頭蓋骨。人体のスムージーが首の上で弾け、頬に温かな感触を残した、あの日の記憶。
「いつかは――辿り着く。どうやら気がつかないうちにそれは過ぎ去っていたみたいです、ジズ」
あの日は咄嗟だった。
ホルハイヤの対応に必死で、思わず炎を熾していた。
止められたことを覚えている。
それでも、誰かのために使い続けたのだ。
自らを守るために他人を傷つけたトラウマと、誰かを守るために自らを傷つけた輝かしい記憶。
克服は音もなく果たされていた。
「搭乗者を引きずり出しましょう」
「ええ。ナスティ、他の襲撃者に気を配っていて」
「分かっている」
ホルハイヤは自由に飛ぶことのできる
【開戦だ。】
干戈の交わりはいつだって唐突に。
『翠玉の夢』の歯車が回り出していた。
一ヶ月くらい間が空いてしまって申し訳ない。
原作を意識した言葉を選んでいるとどうにも時間が早く過ぎ去ってしまいます。
それでは。
評価、感想、よろしくお願いします。