ライン生命生態課所属e分類の1番隔離指定研究対象 作:e-2
臨床試験の全事項が終了すると、どこからかサリアが戻ってきた。
どうやらパルヴィスが事前に言っていた通りになったらしい。対立していると何を企てているのかわからない不気味な存在だが、味方であれば心強いものだ。
事前に取り決めた通り、データは構造課と生態課共同の情報資産になる。その直接的な所有権は俺とパルヴィス、ミュルジスの3人に分けられていて、第三者に開示する場合は他2人の許可が必要、となった。
まあ、統括のクリステンなどは丸ごと知ることになるが、あの人が空から目移りするとも思えない。根本から興味がないだろう。
事務作業が本職ではないのに諸々手伝ってくれたアナスタシアには頭が上がらない、とつくづく思う。彼女が居なければ期間内に実験を行うことすら出来なかったはずだ。
そして同時に、あれから研究園に出入りすることすらなくなったライドのことを思う。彼がいなければ思いつかなかったプランだ。それを彼がどう思うのかは分からないが、一緒に考えてくれたことの感謝くらいは伝えたかった。
構造課の実験室から出ると、サリアが俺についてくるよう指示した。どこへ連れて行かれるのか不安になりつつも追いかける。
社内を歩いているとかなりの視線を感じた。エルフの容姿が物珍しいのか、それとも見るからに研究員ではない俺がサリアと歩いているからだろうか。
エレベーターに乗る。
密室にサリアと2人きり。実験の達成感で興奮していたのか、今までは観光のような気分だったのだが、それらは一斉に蹴散らされた。
幾つかの階に止まる。
エレベーターを待っていた社員たちはサリアが目に入った途端に愛想笑いを浮かべて動かなくなる。
そのため、2人きりから変わることはない。
緊張する。ただ立っているだけなのに、手を置く位置や自分の表情が気になって仕方ない。
「何のためにあの実験を提案した」
たっぷり数秒の間を空けて、ようやく質問されていることを理解した。余りに平坦な声色だったからよく分からなかったんだ。
「勿論有用な結果を出してサリア主任に認めてもらうためです。……ただ、一番の目的は違います」
サリアは黙って続きを促した。
「ミュルジスの役に立てるからです。エルフについて、そしてエルフと源石について、俺たちは知らないことが多すぎる」
「……お前は自分を貴重な研究サンプルだと思っているようだな。それならば、その保全には頭を回さなかったのか?」
「誰も食べない料理に価値はありません」
「だからと言って豚に食わせるとは随分な扱いだ」
小さな違和感を覚えた。
どうしてサリアは俺を知ろうとしているのだろう、と。俺はサリアのことを一つの事象に対して一つの答えを出すマシーンだと思っている。それほど強い価値基準があるものだと。
俺は俺が正しくないことを知っている。秩序的ではないと分かっている。だから、サリアに叱られていないこの状況が不思議だった。
「俺は合格ですか?」
「……合否は追って伝える」
話しているうちに緊張がほぐれてきたので、世間話を交えてみる。
サリアは別に口下手というわけではない。立場を意識して話すことが念頭にあり、そのため相手の感情を切り捨てているのだろう。恐らくは自身に対してもそうなのだろうが。
「それで、これはどこに向かっているんですか」
エレベーターから降りて長い通路を歩く。落ち着きのある調度品が随所に置かれていた構造課の区画とは違って、非常に無機質な空間だった。
「警備課の管理区だ」
「何があるんですか?」
「訓練室や社員用のジムがある」
これはもしかすると訓練と称された拷問で性根を叩き直されるパターンなのだろうか。叩き直されるより前に折れる自信があるので遠慮したい。
「あの部屋でミュルジスが仕事をしている。研究園まで連れて帰れ。私はここで職務に戻らせてもらう」
「ああ、そういうことですか」
「ではな」
サリアはそう言って、近くのドアに入って行った。閉じる寸前に部屋の中から男たちの慄く声が聞こえてきたような気がする。そしてちらりと見えたトレーニング設備。
考えるのはやめにしよう。仕事と称して叩きのめされる警備課の職員各位には同情するが、俺に何か出来ることがあるわけでもない。
さて。ミュルジスと凡そ3週間ぶりの再会だ。何を話せばいいのかわからない。最初に何と声をかけようか。
恐らくミュルジスは内容如何と無関係に俺を労ってくれるだろう。いつ内容を伝えるべきだろうか。悲しませると分かっているなら、出来る限り感じる悲しみを少なくさせたいと思うのが当然だろう。
少なくとも、出会い頭に伝えるべきではない。まずは研究園に帰って、落ち着いて、それから話を切り出せばいい。
ふぅ、と息を吐いた。
ノックすると間延びした声で許可が出て、ドアを開けた。
「久しぶり、ミュルジス」
「……ジズ?」
ミュルジスは目をぱちくりさせて驚くと、勢いよく立ち上がり、駆け寄ってきた。
「ジズ! 終わったのね!」
俺の手を取って、しかしそれから何をどうするか考えていなかったらしく、言葉を探すように視線を泳がせた。
「ええっと……そうね。まずは、お疲れ様。あたしをこんな部屋に閉じ込めたサリアには、色々と……言いたい、所……」
ミュルジスの言葉は途中で切れて、視線が一点に集まる。目がより大きく見開かれて、何故だかミュルジスの唇は震えていて、呆然としていた。
「ぁ、えっ……?」
視線の方向——頬に手をやると、何か硬い感触が返ってきた。
ああ、なるほど。だから俺は注目を集めていたのか。頭の中で冷静に分析する俺がいるのは、きっとある種の現実逃避なんだろう。
ミュルジスの手が頬に近付く。
俺はその腕を掴んだ。非活性源石との接触は感染リスクも低いが、エルフではそれが証明されていない。指先を引っ掻くだけでも最悪感染しかねない。
それはミュルジスにとって命取りだ。
「……ジズ?」
確かめるように、名前を呼んだ。俺に気付いた時の声とは全く違う、弱く震えた声だった。
俺が何も答えられずにいると、ミュルジスは安心したように笑った。
「ジョークにしてはちょっと悪趣味じゃないかしら。……融合率にはまだ余裕があるはずだから、そう簡単に顕れるはずないのよ。相変わらず嘘が下手みたいね」
そう言ってもう一度手を伸ばすミュルジスの腕を、俺は同じようにもう一度掴んだ。
「偽物なら触ったっていいじゃない。それとも照れてるのかしら、ただのスキンシップよ?」
「……偽物じゃないんだ」
もう隠してはいられない。そう思ったが、それでも勘違いを懇切丁寧に正せるほどの勇気は出なかった。だから小さく訂正して、それきり俺は黙った。
ミュルジスは困ったように笑う。
「源石融合率がそう簡単に上がるなんてありえないのよ。5年前にあなたが昏睡した事故だって、上がったのはほんの0.03%で、到底及ばないわ」
だから、と繋いだ。
「それはよくできた偽物……そうでしょ? 誰に唆されたのかは分からないけど、そういう揶揄い方はあまり勧められたものじゃないわよ」
そう言って縋るように伸ばされた手を、今度は弾いた。思っていたより大きな音が出た。それでも、その軽率な行動を許すわけにはいかなかった。
ミュルジスの目が信じられないと云っている。芽生えた罪悪感に背を向けて、俺はもう一度だけ偽物ではないことを伝えた。
ミュルジスは混乱しているようだった。目が必死に虚空を泳いで、逃げ道を探しているのだろうと思う。
今はそれ以上聞きたくない。そう思っていると分かったから、ミュルジスの手を引いて部屋から出ることにした。抵抗されることはなかった。
苦い感情が胸を埋めていくのを感じる。俺は前を向いていた。背後のミュルジスに目を向けられなかった。
ただ絶望に向かっていくミュルジスを見ていられるほど、俺は強くなかった。
俺のせいなのにな。
帰る途中でパルヴィスと出会った。
相変わらずの穏やかな笑顔で俺を見ていた。労る言葉と共に俺の肩に手を置こうとして、ミュルジスが割って入った。
「歩みを止めてはならないよ、ミュルジス」
パルヴィスはそれだけ言って去って行った。彼の部下らしき研究員たちが一度会釈して、すぐに追いかけて行った。
ミュルジスは黙っていた。俺は何も言えなかった。その空気から逃げ出すように手を引けば、少しだけ握り返された。華奢な指がひしと掴んでくるものだから、俺はとうとう振り返ることが出来なくなった。
研究園の入口にはアナスタシアがいた。プランターの中に咲く花々を眺めている横顔が、ふいにこちらを向いた。
その顔にプラスの感情は見えない。ミュルジスがようやく帰ってきたと言うのに、アナスタシアはどこか憂いているようだった。
当然のことだ。俺はミュルジスの意図を蔑ろにしたが、その意図が正しくないと知っているのは俺だけだ。
アナスタシアにしてみれば、構造課の好きにさせるのは危ないというミュルジスの懸念が現実になってしまったと思うだけなのだろう。
どうやら雰囲気を感じ取ってくれたらしい。アナスタシアは何も言わずにミュルジスを迎え入れた。何故だか、華奢な手に一層の力が込められた気がした。
暖色の照明に照らされて、俺は何も変わらないホールに足を踏み入れた。彼女たちは元気に葉を揺らしている。
「こっちよ」
どこで話そうかと迷った俺を、今度はミュルジスが連れていく。ツルのアーチをくぐり、美しい花に囲まれた道を進み、資料室やキッチンを通り過ぎて、向かう先はミュルジスの私室だった。
ミュルジスの部屋は物に溢れている。整然と片付けられた本や娯楽品などが大きく場所を占領し、部屋の広さをあまり感じられないほどだ。
ミュルジスはベッドに腰を下ろした。そこでようやく、その顔を見た。胸のあたりを丸ごと抉られたような強い痛みが走る。
「ターシアには、見られたくなかったの」
震える声でそう言って、目から雫が溢れる。
俺は何も言えないでいる。小さく嗚咽を漏らしながら涙を流すミュルジスの前で、やはり何も出来ないままだ。
——果たして原作に戻すことは本当に正しいのだろうか。
そんな問いは今更だ。答えなんてとっくに決まっている。偽りの幸せに笑うミュルジスを幸福とは認められない。俺を優先してしまえるミュルジスは間違っている。俺という存在は歪みそのものだ。
そう思って、それが正しいと分かって、割り切ったつもりで、それでも。
ミュルジスが泣いている今この時を肯定することは、出来なかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
温かい紅茶が体に沁みていく。
泣き腫らして赤くなった目がティーカップの中に映っている。朝方の空気に似た清涼さが頭の中にあった。対照的に、滔々と空に立ち昇る黒煙の如き陰りを胸に感じていた。
ミュルジスはゆっくりと語りかけた。
「孤独な部屋の中で、あたしは毎日後悔していたの。もっと上手に立ち回れたのに、って。あたしがサリアに強く言わなければ、こんなことにはならなかったかも、って」
はぁ、と息を吐いた。
冬が似合いそうな息だった。
「きっとそれは間違ってるのよね。未来を知らないあたしが何度繰り返したって、顛末は変わらない。それが正しいと思って選んだなら、変わるはずないもの」
彼は何も答えない。ミュルジスの言葉に何も返さない。促されるまま隣に腰掛けて、手を握られて、まるで処刑の時を待つ罪人のように静かだった。
恋人のような距離感に動揺しているのだろうか。ミュルジスの述懐にただ耳を傾けているのだろうか。重く沈んだ彼の目からは何も読み取れない。
「ジズは後悔するのよ。実験のこと、アナスタシアが俯いていたこと、生態学のこと……他にも沢山後悔したくなることがあるでしょ? 今夜にでも、それを思い出して辛くなるわ。きっとね」
ミュルジスが小さく笑った。安心させる笑みだった。たった1人の聴衆には届かなかった。
「後悔を受け入れられたなら、それが進むってことなのよ。後悔を胸の中に置いて、景色を眺めて、悪くないって思えたら、それが進むってことなの。……勿論、反省は必要だから履き違えないようにね」
独居房で彼に手を引かれて、心の中には様々な感情が入り乱れていた。アナスタシアの目から逃れて彼の手を頼りに涙を流した時もそうだ。
だが、頭が痛くなるほどに泣いたあとで冷静になって考えると、彼が今生きていることに安堵する他なかった。
極論を言えば、研究園の中で健康的な生活さえ送っていれば、融合率は高かろうが低かろうがほとんど関係ないのだ。致命的な一線さえ越えなければ現状維持は何とか出来る、そのはずだ。
そうして人心地つくと、心の奥底に仄かに薄暗い感情が芽を出していた。
自分が居なければ彼は何度だって間違えるだろう、と。庇護しなければいけない存在だと、そう認識が切り替わったタイミングでもある。
エルフという種族の繋がりを重視していたミュルジスにとって、彼を被保護者とするのは傲慢な考えに思えていた。彼と自分は対等で、上下関係など要らなかった。支え合う家族のような存在であるはずだった。
ただ、こうして失敗した彼を見ていると——彼が自分を必要としているように思えて、心のどこかが満たされていった。
彼はアナスタシアと上手くいっていたようで、ライドとの関係も問題はないらしく、ホールの植物は生き生きとしていて……そうして胸の奥に溜まったほんの僅かな寂しさや、小さな小さな自尊心のほつれが、その満足感に塗り潰されてしまった。
彼が彼の責任で失敗した——そう見えているから、ミュルジスはその失敗を他人事に感じていたのだ。過失があるとするなら、ジズの気負いを
唇を潤すと、カップの底が顕になった。
ティーポットに目をやって、それから彼のカップを見る。どうやら口をつけていないらしく、豊かな香りが仄かな湯気と共に立ち昇っていた。
「ジズ?」
声をかけると、彼は顔を上げた。
つい先程まで涙を流していたミュルジスに負けないくらいに泣きそうな顔だった。言葉選びを間違えてしまったかと考え、しかし具体的に何が悪かったのか分からず、ミュルジスは彼を慰められなかった。
「……俺に、後悔する資格はないんだ」
そんなことはないと即座に否定しようとして、ミュルジスは思い留まった。そう言ってしまうと、彼が本音を引っ込めてしまいそうだったからだ。
「俺はどうなるか分かってたんだ。パルヴィスが俺にどんな実験をするのか、それでアナスタシアやミュルジスがどんな気持ちになるのか、分かってたんだよ。ライドだって、そうだ」
彼は涙を堪えていた。本来なら滂沱として流れ落ちているだろう涙を、流してはいけないと耐えていた。
「俺は選んだ。これしかない、なんて嘘をついた。楽な方に流された。正しいと思っていた。俺はそれが絶対的に正しいことだと信じて疑わなかった。それが……今は、もう分からない……」
「正しいと思ってそれを選んだなら、仕方ないわ」
「違うんだ。俺は揺らぐつもりじゃなかった。揺らぐような芯だと思ってなかった。それは正しくなきゃいけなかったんだ」
ミュルジスにはよくわからなかった。ジズが言っている正しさとは、そしてそれが揺らいだとは、いったい何のことだろうか。
「ミュルジス、君がライン生命で働くことは正しいんだ。エルフの楽園だって正しいことだ。だけど、その隣に俺がいることは、こんなにも、正しくない」
変わらず何を言っているのか分からないが、その言葉が間違っていることだけは分かった。
ミュルジスは焦り、彼の手を強く握った。隣にいてほしいのだと、正しくないなんてことはないと、伝えたつもりだった。彼はそれを気にする素振りも見せなかった。焦燥で息が詰まる。
どうしてそんなことを言うのかと、強く問いただしてやりたかった。今までずっと2人きりで過ごしているのに、それを否定する彼の気が知れなかった。意味が分からなかった。徹頭徹尾理解できなかった。
「昔の俺はこの生活を望んでいたんだ。ミュルジスと一緒で、それでいいじゃないかって思ってた」
——聞きたくない。
耳に手で蓋をしてしまいたくなった。彼の口を塞いで、宥めて、全てなかったことにして今まで通りに過ごせるのなら、ミュルジスは迷わずそうしていただろう。
必要とされていたはずだった。
それがどうして正しくないなどと言われているのか。
嫌われているとは毛頭思わないが、その可能性を思いついてしまったくらいに、頭の中が混乱を深めていた。
ミュルジスから余裕は失われている。普段の彼女からは想像も出来ないほど取り乱している。しかし、ジズの話に歯止めがかけられることはなかった。
「俺が源石を生やした理由は……ミュルジスが悲しむと分かっていて、それなのに推し進めた理由は、なあ、分かるか?」
「そんなの、サリアを唸らせてやりましょって、そう言ったあたしが悪いのよ」
彼に無理をさせてしまった。全力で背中を押してしまったから、彼は止まれなくなった。自分の期待に応えようとして、頬に源石が顔を出すことになった。
必死に勉強していた1週間はその象徴だ。彼に対して無責任だった。更には押し潰されそうになっている彼を通信機の向こうに感じながら、解きほぐす言葉をかけてやれなかった。
彼は一息に言った。
「ミュルジスのためなんだよ」
理解しようとすら思えなかった。
同じ存在であるはずの彼がいったい何を考えているのか、今ばかりは理解する端緒すら掴めなかった。
「分からないわ。分からないの、何にも分からないのよ。あなたが何を考えて、何を言ってるのか、あたしには分からない。——あたしの、ため? あたしの、せいじゃなくて?」
感情が追いつかない。ミュルジスはただ呆然と、文字の羅列を繰り返し脳内で読み上げていた。ただただ理解不能と告げる声は震えて止まらなかった。
「なあ、ミュルジス」
そんな彼女に彼は容赦なく語りかける。
たとえばそれが怒声だったのなら、ミュルジスはきっと反応できなかっただろう。平坦な声であったのなら、頭の中にリピートする文字数が増えるだけだった。
「いっそ俺のことを嫌ってくれないか?」
それが悲しみに満ちた懇願だったからこそ、ミュルジスの頭がするりと理解した。理解してしまった。
彼が自分に自信を持っていないことは知っていた。
正しくないと繰り返していたのは、隣に相応しくないという意味だったのだろうか。それなら理解はできる。確かに筋は通っている。
それでも、その言葉は、裏切りだった。
嫌うなどと、到底受け入れられなかった。
「あたしが、ジズを? 冗談でしょ?」
思わず笑ってしまった。くだらない冗談としか思えないことを本気で言われているこの状況に失笑してしまった。もはや笑うことしか出来なかった。
仄かに不快感すら覚える。
「こんなに今更でも……信じてって言わなきゃ伝わらないのかしら? それじゃ言わせてもらうけど、ねえ、あたしに残された唯一の同族を、どうやって嫌いになれって言うの?」
ただ手を握っているだけでこんなにも胸が暖かくなるのは、その相手が親愛なる家族で、かけがえのない同族で、彼だからだ。
「お願い、ジズ。あたしからあなたを奪わないで。その人はあたしの大切な人なのよ」
今だけは彼の苦しみを推し量ることもせず、己の心情を素直に吐露していた。
彼に嫌われていただけならそうならなかっただろう。部屋に引きこもり、不眠症を患い、アルコール飲料で自傷し、その日から余裕の一切が抜け落ちることにはなるだろうが、彼を我儘に付き合わせることはない。
嫌ってほしいと言われること。それはミュルジスの在り方の根幹を否定していた。
同族として、家族として、繋がりを大切に思うのは自分だけかもしれないとミュルジスは分かっていた。だから彼からの色良い返事は——ミュルジスの基準で言えば——あまり期待していない。
その代わりに、自分が大切に思っていることだけは否定されたくはなかった。それを疑われたくなかったし、文句を言われたって貫き通す覚悟だった。
嫌いになれるわけがないと言い切って、それで彼の顔がどれだけ曇ったって、それを見た自分の心がどれだけ荒れ狂ったって、撤回しようと思えない。
それほどに大事な感情だった。
「そう、だよな。分かってる、分かってるんだ。……やっぱり、正しくないんだよ」
彼は諦めたように下を向いた。
それを見て、また胸の奥がぎゅうと握られる。耐えがたい痛みに襲われる。
口をついて出そうになった言葉を口の中に留めて、飲み下そうとして、ミュルジスはとうとう失敗してしまった。
「あたしにはそう思えないのよね」
ミュルジスは柔らかな口調でそう言った。反対に声は尖っていた。冷え切った目がジズを覗き込む。珍しいことに、ミュルジスは感情の制御を失敗していた。ジズという存在に怒りを覚えたのは恐らく初めてだった。
目を見開いて驚いたあと、ジズはそれまでの絶望すら忘れて恐怖した。ミュルジスが怒っている姿を想像したことすらなかったからだ。
握られていた手にはがっちりと指が絡められていて、逃がさないと言われているように思えた。
「ジズは嫌われたいのよね? あたしはそんなこと出来ないって伝えたつもりよ。少しは……ちょっと……それなりに……とってもショックだけど、それについて今は触れないでおくわね。問題は、返事を聞いたあなたが『分かってる、正しくない』なんて言ったことなのよ」
彼は口を閉ざしている。
「あたしがジズを嫌いになれないって分かってくれてるなら嬉しいわ。でも、それじゃ正しくないってどういうことなの? あたしがそう思うのってそんなにおかしいことかしら」
エルフであるミュルジスを理解してくれるのはいつだって彼だった。孤独を癒してくれるのは、家で待っていてくれるのは、枯れない愛情をくれるのは、彼しかいなかった。
種族の壁は余りに高い。容姿端麗なミュルジスは多くの異性から告白を受けたが、その全てを心から信じることが出来なかった。
何せ、彼らは植物を前にして何も感じ取れないと言うのだ。彼らは源石濃度の高い空気を吸い込んで、何も感じないと言うのだ。異なる種族で手を取り合うことに何のハードルも感じていないのだ。
同じ価値観を持っている彼だからこそ。同じ感覚を持っている、そして同じ生い立ちの彼だからこそ、ミュルジスは信じることが出来た。
するりと入り込んでくる不器用な好意がミュルジスの心をずっと昔から埋めていた。自分のことを誰よりも理解してくれている彼の言葉は相応に重かった。
学生の頃は親のようにすら感じていたことが懐かしい。今では立場が逆転してしまったようだが。
嫌いになる、とか。
彼の存在を疎む、とか。
訳知り顔で忠告しにやってきた横柄な男や、ジズの優れた容姿を見てミュルジスに嫉妬したらしい同輩の女、家庭環境に口を出す壮年の教師。
ミュルジスは漏れなく全員をずぶ濡れにしてやった。若気の至りだが、バレないよう上手くやったし、後悔はしていない。それが正しい制裁だと今でも思っている。
彼がハンディキャップだと? 何でもこなせる秀才に唯一備わった欠点だと? 思い違いも甚だしい、やはり理解できない。ミュルジスはそう吐き捨てた。
これだから異種族は、と。上手くいかなくて、誤った方向に思考が傾いていくこともあった。そのたびに彼は本来の道を教えてくれた。同じ立場の彼だからこそ言葉を素直に聞くことが出来たし、故にこそ尊重の上に成り立つ関係性を築くことができた。
だから、ミュルジスは。
「そうやって決めつけられて、黙ってられるはずがないでしょ? たとえそれがジズ、あなただったとしても——撤回してもらうわよ」
その視線に射抜かれて、それでもジズは口を閉ざしたままだった。ただただ苦しそうに静寂を守ることで無言の否定を押し付けていた。
初めからずっとそうだ。
ミュルジスはジズの手を強く握り、しかし握り返されることはない。それが
「……ごめん、ミュルジス」
とうとう口を開いたかと思えば、彼はそれだけ言って目を逸らした。ミュルジスにはやはり理解できなかった。どうしてそう意地っ張りなのだろうか。どうして自分を傷つけてまでその不可思議な認識を堅持しているのか。
「そう、そうよね」
相互理解は成し得なかった。たった一度の対話で諦められるほどミュルジスは潔くなれなかったが、しかし、今は疲れてしまった。
ジズの中にある裁定基準がどうであれ、強引に変革することが良い結果に繋がるとは思えなかった。感情のままに彼を詰り、それが彼を追い詰めてしまいそうで怖かった。
叫び出したいくらいに溜まった行き場のないやるせなさをどうにか誤魔化して、ミュルジスは握っていた手を解く。
「一人に、してくれるかしら」
出て行ってくれ。
その言葉にジズは諾々と従った。
ミュルジスは最後までその背を見つめていたが、ドアが閉じられた途端、後悔が喉元まで迫り上がってきた。悲痛な叫び声が出てしまいそうだった。
片割れを拒むことがこんなにもつらいものだとは知らなかった。ジズが浮かべている苦々しい表情も納得というものだ。
こんな形で知りたくはなかった。
サイドテーブルに置かれた空のティーカップ。その横に置かれた器には、とっくのとうに冷え切っていたコーヒーが黒々と溜まっていた。
ほんの一口嚥下する。
苦味が口腔に充満して、酸味は強く舌の上に残り、後悔を激しく掻き立てられた。
ミュルジスの端整な顔が歪む。
枯れたはずの涙が頬を伝っていた。
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