ライン生命生態課所属e分類の1番隔離指定研究対象 作:e-2
真っ白な天井に電灯が輝く。
ぼうっとその光景を見つめているだけの時間に飽きて、スイッチを切れば部屋の中は真っ暗になった。
どうやら既に日が落ちていたらしい。窓から差し込む月光は本棚に白い線を落としていた。
暫時そうしていると、空のお腹がくぅと鳴った。
ミュルジスは体を起こした。朝をカロリーバーで済ませたこと、それきり何も口に入れていないこと、原因はその2つだろう。
脳裏にとある男の顔が浮かぶ。男と言っても、容姿で言えば青年と言うに相応しい、線の細いエルフだ。
彼は言った。嫌われたいなどと、世迷言を。それが許せなかった。ミュルジスに曲げる気はなかったし、彼だってそれは同じだった。
だから、握っていた手を解いた。
ミュルジスの上体は再びベッドに沈んだ。顔を合わせるほどの勇気は補充できていなかった。彼と喧嘩するのは、ここまで深刻に意見が食い違うのは初めてのことだった。何食わぬ顔を保っていられる自信もなかった。
少しの間、暗がりを見つめる。
ぐるりぐるりと思考も回り、後悔が胸を裂く。
そんな折に枕元で端末が震えた。
通信が入っているらしい。
画面を見たミュルジスは非常に複雑な表情を浮かべ、渋々といった手つきで通話を始めた。
「何の用よ、サリア」
『用件など分かっているだろう』
「ええ、分かってるわ。だからこれは1秒の時間だって惜しいあなたに対する嫌がらせなのよ。何の用かしら?」
サリアに責任がないことは分かっている。それでも、騒動の主因となった彼女には意地悪してやらないと気が済まなかった。
『……くだらん戯弄に付き合う暇はない』
サリアがそう言うと、端末から軽快な音が鳴った。
ファイルを開くと、それはどうやら報告書らしい。タイトルには『鉱石病罹患者「e-1」包括的臨床試験結果』とあり、ミュルジスは大きく顔を顰めた。
ミュルジスは「e-1」という呼称を気に入っていなかった。被験体の分類を可視化するという意味ならExtraという名称が既にカテゴリーエラーなのだ。折角「ジズ」という呼称があるのだから、そちらで扱ってもらいたいところだった。
作成者の名前がパルヴィスであることにミュルジスは嫌悪感を募らせる。空いた手で無意識にシーツを握りしめていた。
ジズを被験者とした実験を諦め悪く提案してくる構造課にあまり良い気分ではなかったが、いざ実行されてみると想定の何倍も腹が立って仕方がない。
苛立ちを消化するために無理矢理思考の方向を転換する。たとえば、悩みの種である彼についてだ。今頃どうしているだろうか、傷付いてはいないだろうか。
そんなことを考えていると、ミュルジスは不意に気になることを見つけた。
「ねえ、サリア。ジズはどうしてこの実験を実施しようって思ったのかしらね」
『聞いていないのか?』
心底意外そうな声だった。
うーん、とミュルジスが唸る。
「ジズからはあたしのためだって聞いたけど……サリアとあたしを気遣うためなら、話が纏まった時点で目的は果たされてるんだから、無理する必要なんてないのよね」
ミュルジスはこの実験がパルヴィスから持ちかけられたのだと思っている。だが、ジズの様子から察するに、彼もまた好意的な返事をしたことは確かだった。
どうして彼は受け入れたのだろうか。
『お前には悲願があるだろう』
ミュルジスは首を傾げた。
「あたしの悲願は、
空っぽの楽園でひとりぼっちに取り残された自分の姿を想像する。それだけでぶるりと体が震えた。
ミュルジスとジズの2人で楽園に辿り着くこと——それが望みであり、目標だ。
一方でも欠けたなら成功足り得ない。一人だけの楽園など、地獄よりずっと恐ろしい未来だとミュルジスは知っていた。
それは当然のことだった。彼を被験体として消費するという選択肢は頭に浮かぶことすらなく、構造課の打診などは以ての外だった。
ミュルジスにとってジズの存在は
『それは伝わっているのか?』
サリアは訝しむようにそう言った。事実、疑っているのだろう。ミュルジスは「分かってないわね」と言わんばかりにため息をつく。
サリアには友人と呼べる存在が少ない。親類と仲の良い様子なども見たことがない。
であればなるほど、仕方がない。
教えてやろう。
「あのね、サリア。知らないようだから教えてあげるけど、あたしとジズはあなたが思うよりずっと仲が良いのよ。……通じ合ってる、なんてメルヘンチックなことを言うつもりはないわ。でも、あたしとジズには言わなくたって分かることがあるの」
ミュルジスは小さく笑った。
端末が少しの間沈黙する。
人間関係の大半をビジネスで埋めているサリアにとって、ミュルジスのセリフは何か響く所があったのだろうか。
そうした静寂に続いて放たれた言葉は、珍しいことに心配するような声色だった。
『神経医学の教本を送ってやろうか?』
「あたしの心がサリアみたいに傷つかないと思ったら大間違いなんだからね」
どうやら少しも伝わっていないらしい。
これっぽっちも期待していなかったといえば嘘になるが、それでこそサリアだとも思える。落胆と共に妙な安心感があった。
『無理はするなよ』
「なによ、あたしがおかしいみたいに——って、もう切れてる。……ほんと、お忙しいことね」
別れの挨拶もなく突然に通信が切られていた。
余りに無遠慮だ。マナーがなっていない。それが彼女なりのビジネスでない付き合い方と思えば、許す他ないのだが。
端末を手放して寝転がる。
天井を眺めながら、ふとこれまでを振り返った。2人と出会ってから凡そ十年だ。こんな場所まで来ていたのか、と深い溜息が漏れていく。
今度、クリステンを含めた3人でまた夜空を眺めようか。サリアに会わせたのだから、クリステンにもジズを紹介してみようか。
泡のように湧き上がっては弾けていく。
幾層にも重なった記憶の奥深くに眠っている、他愛ない日々が懐かしい。
今となっては前だけを望んでいる彼女達の裾を引いてやれるなら。少しでも背後を振り向いて、そして微笑むのなら。
「夢を否定するのは、科学者の仕事じゃない。そうよね、クリステン」
無理矢理にでもスケジュールを詰めてやろう。捻出した時間で星を見るのだ。涼やかな風に髪を揺らしながらいつかの日のように夢を語り合えば、きっと楽しいに違いない。
「……ジズのことが先だけど」
口に出すと、現実へと引きずり戻されたような感覚だった。考えただけで気が滅入る。嫌われたなどといったことは毛頭考えていないが、初めての諍いに未だ戸惑っているのが自分でも分かる。
ミュルジスにはどうすればいいのか分からなかった。
サリアとクリステンの喧嘩を仲裁したことは何度もあったし、どちらかに加勢することもあったが、矢面に立つことはあまりなかった。どうにも慣れない。
彼は何をどう思っているのだろうか。
『それは伝わっているのか?』
端末のスピーカーからサリアの声が聞こえた気がした。通信はとうに切れている。録音などしていない。実際には頭の中から聞こえたのだ。
夢の前提には彼がいる。それを彼が理解していないはずがない。それなのに、サリアの問いかけを切り捨てられなかった。
言葉を交わしているうちは気にならなかったが、一人でいると無性に否定しがたいように思えて仕方がない。不安を助長する疑いばかりが頭蓋に響く。
「そんなわけ、ないじゃない」
信じられるわけがない。まさか彼に限って、この感情を理解していないわけがない。彼は最大の理解者だ。たとえ他の誰が否定しようと、彼だけは肯定してくれていたのだから。
『……それで、もし俺がミュルジスのために生きたいと言ったら、そう決めたなら、どう思う?』
ちょうど一ヶ月前。
ジズの言葉に、頭が追いつかなかった。嬉しいと思った。直接的な物言いに照れくさくなった。
何も考えずに受け入れてしまいそうだったが、何とか堪えた。そして考えた。初めて見た存在を親と認識する雛鳥のように、彼が抱えているのは偽物の感情ではないだろうか、と。
ああ、いや、そんなことはどうでもいい。
ミュルジスの頭が導いたのは、その言葉がこの実験と繋がっている可能性だ。
もしやこの時から既に自分を実験材料という消費物だと見做していたのか。構造課から持ちかけられたのではなく、自分からその実験を提案したのかもしれない。
「……違うに決まってるわ」
彼が言った「ミュルジスのために生きる」とは、「ミュルジスのために死ぬ」という意味だったのか?
「ありえないのよ、そんなこと」
ミュルジスはゆらりと起き上がった。急に立ち上がったからか、頭痛がする。頭を抑えながら部屋を出た。
ありえていいはずがない。
そして、もしそれが本当だとするなら、彼は意味を理解しているのだろうか? ミュルジスがトリマウンツでただ一人のエルフになることの意味を、果たして分かっているのか?
『関係ない』
サリアの訪問のあと。一生を生態研究園に閉じ込められることになろうとも構わないのかと、そう問いかけた時に、ジズは何の躊躇もなく言い切った。
向き合うべきだった。ただ悲しむのではなく、いつか消える考えだと思うのではなく、その時の彼と真摯に向き合うべきだったのだろう。
「嘘よね、ジズ」
信じたくなかった。
その一方で、もう分かっていた。
『ミュルジス、君がライン生命で働くことは正しいんだ。エルフの楽園だって正しいことだ。だけど、その隣に俺がいることは、こんなにも、正しくない』
問答で既に答えは出ていただろう。
何よりも否定したかった事実が、とうとう見える場所まで引き摺り出されてしまっていただろう。
「ありえない、そうでしょ?」
弱い否定が静かな廊下に響く。答えが返ってこないのは、声が震えているのは、ミュルジスが大きく揺らいでいることを意味していた。
どこからか耳鳴りが聞こえてきて、心はかつてないほど乱されていた。
逸る心を抑えていられなかった。
足が前へ前へと向かっていく。
サリアの言葉はもう笑えない。信じたいものだけを見て、彼のことを真っ直ぐに見つめられなかった自分が不甲斐なくて仕方なかった。
彼の目は本気だった。ミュルジスのために生きたいと言った彼の目は真摯だった。彼のためと言っておきながら、ミュルジスは自己満足に付き合わせていただけだった。
許されないのはミュルジスの方だ。
撤回を要求したミュルジスを、彼はどう思ったのだろう。嫌われたいと願う彼を怒りに任せて否定し、望む答えを出すよう求めたミュルジスに、彼は何を思っただろうか。
真に自分が正しいと思い込んでいたのは——研究園の外を知らないからという理由で彼の考えの全てを否定して、いつか分かってくれるはずだと真摯に説得することもなく、訳知り顔で傍観していたミュルジス自身ではないか。
たった一度、鏡に映る醜い姿を見つけてしまった。それだけで、ミュルジスの猜疑心はどうにも止まらなくなっていた。
嫌われてはいないだろう。
積み重ねた信頼が心のたった一部分を守ってくれた。ジズが自分を嫌うことなどありえない、と強く確信していた。
だから問題はそれ以外だった。彼がミュルジスに期待することをやめ、心を開かなくなったとしたら。向こう何年かの間、ミュルジスはぐっすり眠れないだろう。
真夜中に飛び起きて、胸のあたりを占領する不快感に顔を顰め、かと言って彼を起こすことなど到底出来ず、水を喉に流し込んで何もかも誤魔化すことになる。
どうにも気不味くて、とうとう雨の日でさえも離れるようになって——それきり彼が帰ってこなかったら、自棄になる自信があった。
後悔。
タールのように真っ黒で泥のような後悔が心に纏わりついていた。大して息も切れていないのに苦しかった。今の今まで気付かなかった泣きたくなるくらいの失敗を抱え、ミュルジスは懺悔の先を探した。
彼の私室は伽藍堂だった。
もし許されたなら、今度、彼のために端末を買おう。位置情報が観測出来る高いヤツだ。電子機器にそんな機能を付けられるのか分からないが、無理ならナスティに頼み込めばいい。
タイトスカートが走りにくい。着替えてしまえば良かったと今更ながらに後悔する。部屋に戻ろうとは思えなかった。そう易々と落ち着ける状況ではなかった。
ポケットから栞が落ちる。
その花は孤児院の近くに咲いていた。まるでその過去さえもが崩れ落ちていくように、花びらが散った。
ああ、泣きたくなる。
ミュルジスの脳は容量いっぱいになってしまったのだろうか。彼との思い出が、まるで手から零れる水のように、滔々と蘇っては薄れていく。
ハッキリした答えを認められないでいるミュルジスに、どうやら要らない気を回してくれたらしい。思い出される記憶は全て不安を強固にするもので、強く臍を噛むことになった。
あの時に、或いはこんな時に、彼のことを理解しようとしていたら変わっていただろう。そんな思考が次々と生まれる。
行く河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
情報の濁流は止まることを知らず、後悔が数を増してミュルジスを襲っていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
彼の世話がミュルジスに任された。
強く拒否する事ができず、誰もそれを止めてくれないことに小さな怒りを覚えた。
たった一度、水をやっただけだ。
孤児院から少し遠くの場所に生えている
水を請われた時に否を唱えていれば違ったのだろうか。半端な同情心で水をやらねば、こうも望まぬ形で実を結ぶことにはならなかったのだろうか。
実際の所、大人たちには子供のミュルジスに彼を任せていいのかという迷いはあった。しかし、そんな迷いがギリギリ留められていた所を、一杯の水が押し流してしまったのだ。
心の中で愚痴を吐きながら、ミュルジスは素直に看病の準備を始めていた。植物図鑑はとうに全てのページを制覇しているし、孤児院の近くに生きている彼女たちへの水遣りも終わっていて暇だったし、そして——ほんの少しだけ、彼のことが気になっていたからだ。
「なんであたしがこんなこと……」
つい口から漏れた。気が抜けていたんだろう。周囲に人影はなく、孤児院の経営を行うシスターのほとんどは修道院の方に居る時間帯だったので、ミュルジスは安心してほっと息をついた。
彼はベッドに寝ていた。
唸り声をあげている彼に近づくことは少し躊躇われた。とは言え色々と揃えてきた道具類があるわけで、こうなってはもう仕方がないとミュルジスは足を踏み入れた。
唸っているのが病魔に苦しめられているせいだと分かってはいたが、まだ分別が付けられる年齢ではなかった。
「水は要る?」
返事はなかった。ベッドの上で丸まっている彼の顔を覗き込むと、どうやら寝ているようだった。
なんだ、そうなのか。肩透かしを食らった気分だった。ミュルジスはテキパキと準備して、氷枕を替え、部屋の換気をして、最後にはやることがなくなった。彼が起きてからやろうと思っていたことはあったが、起こすのは憚られたのだ。
ミュルジスは部屋の隅に座ると、持参した本を開いた。
「ううぅ、うぅあぁっ……!」
ぺらり。
「あぁっ、あぁ、はぁっ」
ぺら、ぺらり。
「うあぁ、あぁっ! ああぁっ……!」
うるさくて本の内容が上手く頭に入ってこない。可哀想だと思って最初のうちは我慢していたが、それにしたって酷い。ミュルジスは彼を起こして用を済ませることにした。
「ねえ、起きて」
揺すってみるが、彼の目は開かない。
「起きてってば。本の角でぶたれたくなかったら、さっさと、目を覚まして」
ゆさゆさ、とんとん。
「……あ、ぇ?」
ようやく起きた彼は困惑しているようだった。それに半分ほどは夢の中にいるのだろう、目の焦点が上手く合っていなかった。
ゆらり、彼がミュルジスに視線を向ける。
「母、さん?」
ぐっ、と胸の奥に力が入った。
目を潤ませて言う彼の頬を引っ叩きたくなった。
ミュルジスは、ミュルジス
見た所同年代なのだから、彼だって弁えて然るべきだ。病人だからと言って贔屓されてはおかしい。ミュルジスは抑え込んでいるのだから、それを手前勝手に叫ぶことはズルのように感じられた。
それに、ミュルジスには居ない親を彼は知っているのだ。空想ではなく、確かなものとして知っている。それならミュルジスの方が可哀想ではないか、そう思った。
次の言葉で、それらは霧散した。
「捨てないで……」
大人たちには隠し事があった。物心つく前に赤ん坊として同じ日に保護されたことをミュルジスは知らなかったのだ。家族だからと無闇に感染者へと近づかれ、そして感染されては堪らない。そういった判断によるものだった。
だからミュルジスは違和感を持たなかった。彼が病気に罹って、それで必死に縋り付いて、それでも捨てられた——そんな過去を勝手に想像した。
「俺だって、頑張ったんだよ」
可哀想に思えた。
ミュルジスも親という存在を願ったことはあるが、何しろ見たことがないものだから、あやふやな輪郭をしている。無条件に子供の自分を守ってくれる都合のいい存在だと、そう思っていた。
彼の親は違っていたらしい。
孤児院を経営するシスターたちの噂から察するに、彼が患っている鉱石病は不治の病だ。だから捨てられたのだろう。
納得も理解もできる。勿論それは彼を捨てた親——ではなく、捨てられた彼の悲しみに、だ。伸ばされた手を取ってやるくらいには同情していた。
彼はミュルジスの手を皮と骨ばかりの手で出来るだけ強く握った。ミュルジスは痛いとすら感じなかった。寝たきりの彼に付いた筋肉など高が知れている。
「あ、れ?」
ようやく意識がハッキリしたのだろう、彼はミュルジスの手を握ったまま何度か瞬きを繰り返した。
「喉は渇いてる?」
「え、ぁ、いや、手……」
ごにょごにょと何か言って、目を見開いた。そしてミュルジスの手を強引に振り払う。骨ばった手にしてはよく力が出ていた。
困惑するミュルジスを見て、彼はやってしまったという顔を浮かべる。分かりやすく焦った様子だった。
「あっ、ごめん、感染する、から」
「ああ、そういうこと。平気よ、触るくらいじゃ感染らないわ。だってシスターはあなたに何度も触っているのに健康そのものじゃない」
「……そう、か。そうなんだ」
彼のことは前から気になっていた。
世話をするのは御免だったが、何故だか彼は特別なように思えてならなくて、つい目で追ってしまっていたのだ。
ミュルジスは孤児院で孤立している。その理由は色々とあるが、最も大きな原因は、ミュルジスが一人を好んでいるということだ。
エルフである彼女は他者に違和感を抱えて育ってきた。たとえば道端に咲く
そんな中で第六感が囁いていた。
彼はミュルジスに似ているのだと。
実際に隔離されている彼の部屋を訪れたのは水を請われた日だけだった。一歩踏み出したら思ったより面倒な仕事がついてきてげんなりしたものだが、それが悪くないと思えるくらいには、実際の彼に特別な感覚を覚えていた。
「ねえ、あなたって植物は好き?」
「……知らないし、分からない」
その言葉は、少しの期待を目に映したミュルジスを傷つけないため、彼なりに「興味ない」を翻訳した結果だった。しかしミュルジスはその言葉を額面通りに受け取った。
「それならあたしが教えてあげる!」
そうしてミュルジスは彼のことを同族だと認め、何冊かの本しか置かれていなかった彼の部屋には幾つものプランターが運び込まれた。
ミュルジスが笑えば彼も笑い、床に土をばら撒いてしまっても許してくれるくらいの仲になった。それはミュルジスにとって初めての体験、初めての友人だった。
彼が発熱と頭痛でまともに話せない時はミュルジスが看病してやった。まさかそれが感染して、彼の部屋に並んで寝込むことになるとは思わなかったが。
ああ、本当に幸福だ。
熱に浮かされたミュルジスは彼の寝顔を眺めながら独り言つ。
一部の大人が彼に向ける視線の意味をミュルジスは知っていた。子供が一人庇ったところで何の意味も持たないことも知っていた。
一部の子供が時折彼に悪戯していることを知っていた。ふざけ半分で彼の鉱石病を過大に吹聴する子供を見て、揶揄うような噂を聞き、怒りを覚える一方でどこか安心していた。
彼は
可哀想な彼に寄り添えるのはミュルジスだけだ。それが堪らなく心地良かった。何故ならそれはミュルジスと同じだったからだ。
彼だけがミュルジスの感覚を理解し、寄り添い、疎外感を特別感にしてくれた。そう思えた。彼がミュルジスを無条件に受け入れてくれると知った時から、その思いは助長していった。
彼の味方でいられるのはミュルジスだけに違いない。守ってやらねばならない。それなら病気だって治してやろう。行く行くは何の制限もなく過ごせるようにしてやりたい。そして、道端の
「あたしが楽園を作ってあげるわ。だから一緒に、ずっとこのままで……」
彼が庇護を受けるだけの弱い存在ではないのだと思い知るのはそれから少し先の話。だが、その未来においても願いが変わることはなかった。
彼がそれを望んでいることなど言わずとも分かっていた。この幸せは何にも代えられないものだと知っていた。2人だけの特別だと思っていた。
彼はミュルジスとは違う。
それを失念して、思い込んでいたのだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
壁にもたれて息を整える。ガラスの向こうには大きな空間が広がっている。ホールは暖色に染め上げられ、未だに昼であるような錯覚を覚えた。
見知った人影が座っている。ミュルジスはとうとう探し人を見つけたのだ。それなのに、足が動かなかった。思考が堰き止められていた。
動き出すことすら忘れてしまうほどに、ミュルジスは目を奪われた。
彼は楽しそうに笑っていた。何の憂いもないような顔で、どこか子供らしい笑みを浮かべていた。それは、最近の彼からはずっと見られなかった顔だ。
ミュルジスが何をしようと見せなかった顔だ。
視線の先には綺麗な顔立ちのウルサスが美しく微笑んでいる。たった一ヶ月前にはジズと一度も話したことすらなかったはずだ。
「それは、あたしの……」
ミュルジスとジズは家族
その結果に興味はなかった。既に強固な信頼関係があり、更には彼が一人だったからだ。ジズには友人がいない。他に家族もいない。ミュルジスから離れる可能性は皆無だった。
焦燥が消えていた。
焦っていられるのは、落とした物が地面に着いていないからだ。取り落として、床に激突して、そして真っ二つに割れてしまえば、後に残るのは焦燥などではない。
「あたし、の……」
手がガラスの壁に阻まれる。邪魔者が割り込む隙間はない、そう言われたような気がした。ひんやりと冷たい拒絶が透明の
期待していた。
彼は悩んでくれているだろうと期待していた。後悔して、顔を曇らせて、それはミュルジスがどれだけの言葉をかけようと直ることがない。そうやって彼は悩んでくれるはずだった。
いつしかそれが当たり前のことになっていた。彼はずっと悩んでいるのだ。それを嬉しく思ったことはない。嬉しく思ったことはないが、それを見て、仄暗い欲が満たされていたのは確かだ。
今日もそうだと思っていた。
何せミュルジスはジズを否定し、そして拒んだのだから、そうでないとおかしな話になる。彼は頭を抱えているべきだった。
それを、彼は。
ガラスに反射した自分を見て、酷い顔だと思った。泣いて充血した目に、汗でへばりついた髪。余裕のない表情は魅力とは無縁のものだ。
かわいらしくない。美しくない。上品に微笑むアナスタシアには遠く及ばない。
気にしていられる余裕はなかった。
胸のあたりが軋みを上げて、それでもミュルジスの足は止まらなかった。
諦めて何になるのか。
心臓を奪われたなら、誰だって何を引き換えにしてでも取り戻そうとするはずだ。
止まっていられる余裕はない。
ホールに入ると、彼がこちらを向いた。
「楽しそうね。ジズ」
上手く、笑えているだろうか。
こういうのが書きたくて書いてました。
評価、感想、よろしくお願いします。
[追記]間違えて0時投稿になっとった……