重バ場のウマ娘に死ぬほど愛されて眠れない 作:大井は江戸ちゃうで
激務に身を置くとしばしば、時の流れというものを忘れてしまう。
今日も今日とて書類整理に明け暮れて、気がつけば夜の帳が下りていた。
「フゥー……ッ」
眉間をつまんで短く息を吐く。画面とにらめっこを興じるには、些か夢中になり過ぎたか。
凝り固まった肩をほぐすように腕を伸ばして、そのままの勢いで立ち上がった。時刻は二〇時と少し。締め出される前に帰宅しよう。
手早く荷物をまとめて、トレーナー室を後にする。夕飯をどうするか考えながらしばらく歩いていると、前方に人影が見えた。
窓から差し込む月明かりに照らされて、ぼやけていた輪郭が顕になる。あっ、と思わず声を漏らしてしまった。
「あ?……テメェ、こんな時間まで何ほっつき歩いてんだよ」
彼女も俺の姿を視認するや否や、怒気を孕んだ口調で詰め寄ってきた。
「……それは俺の言葉なんだが」
互いの距離は限りなく近づき、二人の吐息すら交じり合う。胸の内を悟られぬよう、平静を装って言葉を返した。
数瞬ほどの静寂に、冷や汗が背筋を伝っていく。
緊張感漂う中、やがて彼女──シリウスシンボリは、呆れたように短く息を吐いた。
「コッチは忘れ物を取りに来ただけだ」
「忘れ物?」
「ああ……だがそんなのはどうだっていい。アンタはどうなんだ?」
射抜くような視線に当てられて、少し怯んで言葉を探す。思い浮かぶ言葉のどれもが言い訳染みていて、まるで門限を破って母親に叱られる子供のような気分だ。
正直、彼女のことが少し苦手だ。
何がと問われても上手く言葉にできないが、彼女の持ち得るカリスマと己を曲げない我の強さみたいなものがどうにも苦手意識を持ってしまう。というのも、過去の女性経験によるトラウマが要因なのだ。彼女が悪いことではない。
答えを待つ彼女を他所に思考の渦に呑まれ、気がつけば沈黙が場を支配する。やがて痺れを切らした彼女は、重々しく口火を切った。
「……私には言えない、か」
彼女は何かを噛み潰したように苦い顔をした。
誤解だと伝えようにも、言葉を絞り出す前に彼女の声で遮られた。
「前から思っていたことだが……避けてんだろ、私のこと」
「そんなこと……」
「ないとは言わせねえ」
まるで逃げ道を断つように歩み寄ってくる彼女に、遂には壁に背を預けることとなった。
たしかに苦手意識は抱いてはいたが、かと言って彼女を避ける真似などするわけがない。彼女のトレーナーになることを選んだのは俺の意思なのだから。
しかし、避けられていると他ならぬ彼女が言うのだから、俺がいくら否定したところで意味はないだろう。
何処かで秒針の進む音がする。
迫られた選択を選ぶことができず、泳がせた視線の先で不意に彼女と目があった。その瞳の奥は黒く淀んでいる。
「それが意識してなのか、無意識なのか……そんなことはどうでもいい。私にとっちゃ、避けられているという事実だけで十分だ」
一瞬、悲しそうに目を伏せた彼女が印象的だった。ああ、彼女もこんな顔をするんだなと、場違いにも思ってしまうほどに。けれど一瞬の話だ。すぐにどす黒く染まる彼女の瞳に、堪らず息を呑んだ。
「正直、アンタに嫌われていたって構わなかった。好かれるような事もしちゃいねえ……だが、それはあくまでアンタの担当が私だけの場合だ」
そして、彼女は言う。
「
雌犬などと、粗悪な言葉を使うなど、普段の彼女からは考えられず、唖然として反応が遅れてしまう。
「それは──」
「なあ」
──まだ確定事項ではない、と続く言葉を彼女はぶったぎる。
「従順な雌犬が欲しいなら私がなってやる。だから、お前は私以外の女を見るな」
従順だなどと、触れては噛みつく狼の間違いではないか。
嫌な予感がする。先ほどから冷や汗が止まらない。ああ、この感じ……懐かしいとさえ思ってしまう。
「ちゃんと可愛がってくれよ──ご主人様?」
妖艶な笑みを浮かべてそう迫る彼女に、俺はただ身を委ねることしかできなかった。
やはり俺は──彼女が苦手だ。
シリウスシンボリ
忘れ物(トレーナー)を探しに行ったら偶然「トレーナーが担当を増やすかもしれない(たづな談)」という事を聞いて独占力を発揮した。
トレーナー
トラウマに囚われ続ける哀れな人……。