暁を越える   作:三玖

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よろしくお願いします。


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 毎晩、同じ夢を見る。

 知らない女が自分を呪う夢だ。

 

「あなたのことを、ずっと恨んでおりました」

 

 吐き出す言葉とは裏腹に、その女は幸せそうな顔をしていた。

 

「私の体も心も、人生さえも散々弄んだ挙句、私を置いて逝ってしまわれるなんて。……本当に、勝手なひと」

 

 呆れたようにくすくすと微笑みながら、女が俺にそう告げる。

 その笑顔を見て、ああ、俺はこの女を愛していたのだなと、漠然と思った。そして、愛していたはずの女にこんな恨み言を渡されるなど、記憶を失う前の俺は本当に禄でもない男だったのだろう、とも思った。

 女の手が俺の頬に触れる。細い指先で、女が俺の首筋をなぞる。

 

「これは、私からの呪いです」

 

 体は鉛のように重たくて、女の手を退かすこともできない。

 口は縫い付けられたかのように開かなくて、声を荒げることすらもできない。

 今の俺に許されているのは、この女が一方的に告げてくる呪いを受け止めることだけ。

 ……この俺に、罰を与えているつもりか?

 

「共に過ごすはずだった時間、伝えきれなかった言葉、果たせなかった想い……私が残した未練の全てを、あなたに託します。勝手な女だ、とあなたは仰るのでしょうか。……ふふっ。ですが、それはお互い様でしょう?」

 

 それが最期の言葉だということは、何となく分かっていた。

 だというのにこの女は、最後まで笑っていて。

 

「どうか私の分まで、生き続けてくださいね」

 

 女の影が揺らぎ――そして、暁を越える。

 窓から差し込む朝焼けの光が、体を蝕んだ。

 

 

「――――ッ、はぁ……!」

 

 骨の髄から湧き上がるような不快感が、無理やり意識を覚醒させた。

 額に浮かぶ汗はじくじくとした熱を帯び、呼吸は手負いの獣のように乱れている。

 次に感じたのは、焼けるような痛み。その根源は――首に刻まれた、深い傷跡から。

 まるでどろどろ溶かされた鉄を、そのまま流し込まれるような感覚だった。それに耐えられなくなって、低く弱弱しい呻き声を上げながら長い髪を搔き毟り、それが鎮まるのを今しばらく待つ。

 

 ――いつもこうだ。いつになれば、俺はこの苦しみから脱することができる?

 苦しみの中に浮かぶ彼の疑問に答える者は居らず、ただ朝陽がその体を蝕んでいた。

 暁越(ぎょうえつ)という男にとって、目覚めとは一日で最も忌むべき瞬間であった。

 その理由は何度も夢に見る、自分のことを呪う女にあった。あの女はいったい誰なのか。自分があの女に何をしたのか。あの女はどのような方法で自分に呪いをかけたのか。今陥っているこの苦しみが、あの女への償いに成り得るものなのか。過去の記憶を失った暁越に、その答えなど解る筈も無かった。

 ただ一つ確かなのは、その女が記憶を失う前の暁越を恨んでいる、ということだけ。

 

「く、そ……っ!」

 

 思考を重ねるたび、首の傷跡から痛みが走る。

 得体の知れぬ苦痛に喘ぐこの姿を見て、夢に出てきたあの女は俺のことを嗤っているに違いない。そう思うたびに、怒りと憎しみが苦痛と共に湧き上がってくる。そしてその感情に呼応するように、また首の傷跡が熱を帯びていく。

 脱することのできぬ苦痛と、報われることのない復讐心。

 あの女から与えられた二つの呪いが、暁越という男の精神を摩耗させていく。

 ――いったい、俺が何をしたというんだ。

 いくら考えたところで、記憶を失った彼に答えなど出るはずもない。

 今の暁越にできることは、ただ耐え忍ぶことだけだった。

 やがてしばらくの時間が経ち、かろうじて痛みも幾分か引いてきた。

 もう堪える必要もないと判断した暁越が、そのままゆっくりと上体を起こす。

 鈴の音が扉の向こうから聞こえてきたのは、その直後だった。

 

「おはようございます、暁越(ぎょうえつ)さま」

 

 部屋に入ってきたのは、狐の耳と尾を持った一人の娘だった。

 歳の頃は十代の半ばほど。艶のある黒い髪を頭の後ろで結ったその娘は、赤い瞳に暁越の姿を映したかと思うとその傍へと寄り添って、彼の額へと手を当てた。きっと顔を洗ってからすぐのことだったのだろう。少しだけ湿った、冷たい手の感触が頭の痛みを鎮めてくれた。

 そのまま心配そうに暁越のことを見つめながら、娘が問いかける。

 

「ひどい熱ですわ。……また、あの女が夢に?」

「……いつものことだ」

「何か思い出されましたか?」

「まだ、何も」

 

 娘の問に対して、暁越は首を横に振る。

 すると彼女は悲しそうな表情を浮かべたのち、彼の額から手を離した。

 

「もし思い出したら、すぐにお伝えくださいな。暁越さまをこのような目に遭わせる不埒な女など、わたくしがすぐに調べ上げて、暁越さまの目の前に引きずり出してみせますわ!」

「……そうだな。そうしよう」

「ああ、でも……暁越さま、どうか一つだけお許しください。わたくし、その女をただで暁越さまの前に差し出す自信が微塵もありませんわ。わたくしの暁越さまを長らく苦しめたあの女には、それ相応の報いが必要ですもの。たとえ天がそれを許したとしても、わたくしの気が済みません! ですから、その女を見つけたらほんの少しだけいたぶって……それから、暁越さまの前にお渡しいたします。暁越さま、それでも構いませんよね?」

 

 わたくしの、という言葉に若干の違和感を覚えたが、暁越は何も言わなかった。それを指摘したところで徒労に終わるということは、彼女としばらく一緒に過ごしてみて、すぐに分かったことだった。

 気づけば頭の痛みはだいぶ落ち着いて、乱れていた息も整い始めている。

 

游苑(ゆうえん)

「なんでしょう、暁越さま」

「腹が減った」

「かしこまりました。すぐに朝餉をご用意いたしますわ」

 

 暁越の言葉を受けた游苑が、頷いてからすくりと立ち上がる。

 耳飾りに着けられた鈴が、りん、と部屋に響き渡った。

 

 

『どうか私の分まで、生き続けてくださいね』

 

 ――その結果が、この死ぬことのできぬ身体か。

 夢で告げられた女の言葉が、頭の中で何度も反芻される。

 鬱屈とした気持ちを無理やり掻き消すように、暁越は味噌汁を喉に流し込んだ。

 不死の身体。

 聞こえはいいが、実際は物語や伝承で聞くほど便利なものではない。

 普通の人間と同じく食事や睡眠も必要とするし、痛みや疲労を感じぬわけでもない。確かに多少の無茶が利くところはあるが、それを有難いなどと思ったことは暁越として生きてきた今まで一度もない。

 ある意味では、あの女に()()()()()いるのだろう。呪いとはつまり、そういうことだ。

 全くもって忌々しく、それでいて意地の悪い女だ――と、そこまで考えたところで暁越は、机を挟んで座る游苑が恐る恐る自分の顔を覗き込んでいることに気が付いた。

 

「……どうした」

「いえ、その……先程からどうも食事が進んでいないようでしたので。……まさか、お口に合わなかったのですか? で、でしたら今すぐに作り直します! どうか、しばしお待ちを……!」

「いや、お前の作る飯はいつも美味い」

「まあ! 暁越さまったら、お褒めになるのが上手なんですから、もう! そんなに褒められてもわたくし、何も出せませんのよ? うふっ、うふふふふふ!」

 

 狐の耳をぴこぴこと動かしながら窯で炊いた米をぺたぺたと盛り付ける游苑を後目に、暁越は黙々と食事を進めていく。途中で返ってきた茶碗には米が山の如く盛られていたが、それを気に留めることはなかった。

 味に問題はないが、腹が満たされていくような感覚はない。暁越にとって食事とは、燃料の補給と言ってもよかった。味を愉しむことは確かにできるが、それに伴う満足感は得られない。食事に限らず、暁越の生活はいつもそのような、飾りのない平坦なものに成り果てていた。

 尤も、既にその感覚には慣れてしまったから、今更悲しむようなことではない。

 だけど、彼女の作る食事で腹を満たせないのは、どうにも勿体なく思えた。

 

「美味かった」

「はい、お粗末さまでした。食後のお茶はどうされますか?」

「……貰う」

「かしこまりました」

 

 ほどなくして、湯気の立つ湯呑が游苑から差し出される。

 

「本日は確か、緋王様との謁見がございましたよね?」

「ああ。このあと、すぐに向かうつもりだ」

「でしたら、先にお洗濯だけ済ませてもよろしいでしょうか?」

「……それなら、俺も手伝おう」

「いいえ、そんな! お気遣いだけで十分ですわ。それに暁越さまは、ただでさえあの女のせいでお辛い寝覚めをされているのですから。どうか、朝方はゆっくり身体をお休めになってお過ごしくださいませ」

「だが……」

「それでは、すぐに済ませて参りますね」

 

 暁越の言葉を待たずして、游苑は足早に部屋を後にしてしまう。りん、りん、と遠ざかる小刻みな鈴の音に耳を傾けながら、暁越は湯呑に残された茶を一気に飲み干した。

 

 愛想のいい娘だと思う。

 そこそこの美人で、気遣いもできて、とことん自分に尽くしてくれる。

 何より暁越として生きてきた中で、いちばん自分に笑顔を見せてくれる。

 それが、暁越から見た游苑という狐族の娘だった。

 出会ったのは数ヶ月ほど前のことだった。ある事件を解決するついでに彼女を助けたら、いつの間にかついてくるようになった。それ以来、彼女はずっと自分と一緒にいるようになった。

 離れるよう何度も伝えた。自分と共にいては危険だから、と理由も説明したし、お前がいると邪魔だ、と突き放すような態度も取ってみた。挙句、実際にこの娘は傷を負うことになってしまって、これでようやく諦めがつくだろうと思っていたが、どうしてか彼女は自分の元から決して去ろうとしなかった。

 不死の身体になってから、意地の張り合いには強くなったと思った。

 しかし、どうにもあの娘には敵う気がしない。

 

「俺の、負けだな……」

 

 後にも先にも、暁越が自ら敗北を認めるのはあの娘だけかもしれない。

 なとど適当な考えを巡らせたのち、暁越は自分の部屋へと戻っていった。

 

 

「お待たせいたしました」

 

 身支度を整えてから外に出たところで、既に洗濯を終えたらしい游苑が暁越を出迎えた。

 

「行くぞ」

「その前に、少々お時間を頂いてもよろしいですか?」

「……どうした」

「暁越さまにお渡ししたいものがありまして」

 

 何か頼んでいたものでもあっただろうか、と疑問に思う彼をよそに彼女が懐から取り出したのは、小さな包だった。そのまま渡された包を暁越が開くと、そこに入っていたのは。

 

「……(かんざし)?」

「はい。以前、書物をお読みになっていた際、御髪(おぐし)を邪魔そうにされていたので……よろしければ、と思ってこちらで見繕ったものですわ。もちろん、不要であれば()てていただいても構いませんが……」

「わざわざ買ったのか?」

「……お気に召していただけませんでしたでしょうか?」

「いや……」

 

 珍しく言葉を詰まらせた游苑を見て、改めて暁越が手元の簪に視線を落とす。

 (うるし)で塗られた黒い本体に、装飾は朝焼けを灯したような淡い紫――暁越の瞳と同じ色をした、小さな玉飾りが一つ。飾りも少なく目を惹くほど派手ではないが、とはいえ落ち着いた色味や見た目のお陰で地味にもなっていない。

 少なくとも、適当に選んだようなものでないことは分かる。不死として永らく生き、様々なものを見てきた暁越の目からしても、その簪は充分に質が良く、非常に良質なものだと判断できた。

 ただ、だからこそ気づくこともあって。

 

「……この飾りは、魂魄晶(こんぱくしょう)か」

 

 魂魄晶。現世と幽世の狭間でしか採取できないとされる、希少な鉱石である。

 通常の水晶よりも透明度の高いそれは、その名の通り魂を封じ込める性質を持つためあらゆる術に用いられ、需要は非常に高い。だが同時に希少価値も非常に高く、市場に出回るものは極めて少ない。それこそ暁越としてここまで生きてきた中で、見たことがあるのは数回ほどだった。

 要するに、簪の飾りとしては少々――いや、だいぶ値が張りすぎている。

 こんな代物が一般に流通しているはずがない、と言い切れる程には。

 つまりこの簪は手作り、もしくは受注して作らせた一点ものであることは明白だった。

 

「これは、どこで手に入れた?」

「それは……先日、市場に出向いたところで偶然見つけたものですわ」

「……そうか」

 

 珍しく歯切れの悪い游苑の言葉に、暁越が短く息を吐いた。

 

「あの……やはり、不要でしたでしょうか?」

「そんなことはない」

 

 どうやら、あくまで彼女はそのことを隠し通すつもりらしい。

 これだけの高価な品を送ることがどういうことか、暁越は分からぬわけでもない。

 そして簪を送ることの意味も知らないような、鈍い感性の持ち主でもない。

 ……とはいえ、まあ。

 それをわざわざ言葉にするほど、暁越も野暮な男ではなかった。

 

「とてもお似合いですよ」

「そうか」

 

 簪を髪に挿してみせると、游苑は満足そうに微笑んた。

 

「そろそろ向かうか」

「はい」

 

 そうして歩み出す暁越の後を、游苑がゆっくりとついていく。

 

「そういえば朝方、頼んでおいた荷物がようやく届いておりましたよ」

「……また、何か頼んだのか?」

「ついこの間、暁越さまがお召し上がりになったお魚です。あのとき、たいそうお気に召されたご様子でしたので、また頼んでしまいました。下処理は既に済ませておりますので、本日の夕餉はそれにいたしましょう」

「そうか。……楽しみにしている」

「まあ、嬉しいお言葉……これは、腕によりをかけてご用意いたしませんといけませんね」

 

 他愛のない会話を交わしながら、二人は険しい山道を進んでいく。はじめ、この家の立地に游苑はたいそう不満そうだったが、暁越が俗世から離れるためだと理由を説明すると、そのような崇高なお考えがあったなんて、この游苑そこまで思慮が至らず申し訳ございません、などと騒ぎながら納得してくれた。

 やがて二人が足を止めたのは、古びた社の前であった。

 

「遅かったな」

 

 頭上から聞こえるその声に、しかし暁越は動じることなく答えた。

 

「……刻限には間に合っている。何か、不満か?」

「いいや、別に? ……なに、ただの話のきっかけだよ。そう気にすんな」

 

 からかうように言って、声の主が二人の前に姿を現した。

 果たしてそれは人ではなく、一匹の白い蛇であった。二人のことを見つめるその双眸は緋色に染まっており、口元に生える鋭い牙をちらつかせたところで、ふと何かに気づいたように蛇が言葉を続けた。

 

「……あ? なんだその洒落た簪は。暁越、お前って女物の趣味でもあったか?」

「髪が邪魔だっただけだ。……気にするようなことでもないだろう」

「いいや、気にするね。てか、当ててやる。どうせ游苑ちゃんからの贈り物だろ?」

「正解ですわ。どうです? 暁越さまにぴったりでしょう?」

「ああ。いいセンスしてる。それにしてもこんな男に贈り物なんて、游苑ちゃんも物好きだよねえ。お前もさあ、貰ってばっかりじゃなくてたまには返してやりなよ?」

「ご返礼なんて必要ありませんわ。だってわたくしは、暁越さまのお傍にお仕えするだけで幸せですもの。これ以上のことを望むなんて、贅沢にも程がありますわ」

「あはは、相変わらず元気そうで何より」

「……無駄話はいい。早く通せ」

「はいよ」

 

 蛇がくい、と頭を傾げると、社の扉が重たい音を立てて開く。そこには月明りに照らされた広間と、そこに座す人影がまるで水面に映るように揺らめいていた。

 転移の術――向こうの国々では転移魔法と呼ばれるもの。

 こちらの国では多くても片手で数えられるほどしかいないだろうこの術を、こうも簡単に行使できるこの蛇の仕事ぶりを暁越はそれなりに評価していた。とはいえ、話好きなところは正直あまり好ましくないが。

 そんな暁越の視線に気づく様子もなく、蛇が社の中へするすると入ってゆく。

 

「……行くぞ」

「はい。どこまでもお供いたします」

 

 そうして、暁越と游苑も水面に映る景色へと足を踏み入れた。

 はじめに感じたのは、気候の違いによる涼しさであった。それは大陸を南から北に跨ぐほどの距離を移動したことによるものであり、何度も経験したこの感覚に未だ暁越は慣れずにいた。そしてそれは游苑の方も同じようで、少しだけ身を縮めた彼女の口元からは、かすかに白い吐息が漏れていた。

 淡い光に照らされた広い祭壇、その中央を蛇が這ってゆく。

 その行く先は、月を背に座す人影――緋王の元だった。

 

「よく来てくれた。我が友、暁越よ」

 

 緋王は、赤い髪を持つ女だった。

 顔立ちは精巧に造られた人形のように美しく、纏うものは艶やかな紅色で彩られた礼装。こちらに向ける双眸もまた緋色に染まっており、そこだけを見れば童話や御伽噺に出てくる姫君のような美貌を持つ女だった。

 しかし彼女の放つ荘厳な雰囲気と、体が軋む錯覚さえ起こしそうなほどの重たい声色――そして何より、頭から枝垂れるように生える二対の巨大な角が、それを人ならざる異形の怪物へと塗り替えていた。

 蛇は緋王の隣に控えると、彼女の脚を伝って体を昇り、やがてその角の片方へと絡みついた。

 

「それと……またお前もついてきたのか、游苑」

「当然ですわ。わたくしは暁越さまに全てを捧げると誓った身。暁越さまがどこへ赴こうと、この身を以てご一緒させていただきます。たとえそれが地獄の奥底であろうともこの游苑、決して暁越さまの元から離れることはございません。……くちゅん!」

「途中までかっこよかったのにのう」

「……さっさと要件を渡せ。このままでは游苑が風邪を引きかねん」

「その方が静かになってくれて良さそうだが……まあ、よい」

 

 ぐずぐずと鼻を鳴らす游苑が、自らの手元に術で炎を灯して談を獲り始める。

 そんな彼女を呆れたように一瞥してから、緋王は改めて暁越へと向き直った。

 

「蛇の報せによると、どうやら我を討たんとする者が決起し、軍を率いているらしい」

「……またか。今度はどこで恨みを買った?」

「さてな。いつものことだ、いちいち覚えておられんよ」

 

 角に絡みつく蛇を指先で撫でながら、緋王はくつくつと静かに笑う。

 

「貴様で買った恨みは貴様で晴らせ。戯れに付き合う気はないと、何度も伝えたはずだ」

「そう言わずに聞け。此度の連中、中々に厄介でな。なにせ、既に送り込んだこちらの手勢を今のところ全て返り討ちにして見せておる。このままでは、いずれ我の元へ辿り着くのも時間の問題だろう」

「あら。緋王様ともあろうお方が随分と弱気ですのね?」

「まさか! 彼奴等がここまでたどり着いた暁には、我が直々にこの手で葬り去ってやろう! ……などと、本当は言いたいところだがな。この体にもだいぶガタが来ているのも事実よ」

「……話が長いのも、年老いたせいか?」

「お前が話を急くのは、その老いぬ身体の故だろうな」

 

 弄ぶような言葉を投げる緋王の表情は、どこか羨ましそうにも見えた。

 

「我を討たんとする者たちの一人に、高位の魔法を扱う女がいてな。生まれはオルタディシアの片田舎にある修道院、そこからヘキサノーツの中央神殿へ移り、神への祈祷を成し遂げた聖処女だ」

「それと俺に何の関係がある?」

「いやなに。どうやらその女、不死の魔法に関する知識を持っているようでな」

「……なるほど」

 

 そこまで少しも表情を動かさなかった暁越は、初めて口元にうっすらとした笑みを浮かべて。

 

「何をすればいい」

「やはりお前は話が早くて助かる」

 

 元より、緋王と暁越の関係は互いの利益の一致によって成されるものであった。

 暁越にとって緋王とは不死を脱するための手掛かりの一つに過ぎず、また緋王にとって暁越とは不死の剣客というそこそこに便利な手勢の一つに過ぎない。暁越も緋王も互いにそれ以上のものは望んでおらず、何かきっかえさえあればいつ崩れても不思議ではない関係ではあるが、この関係が数十年と続いているのもまた事実であった。

 緋王を討とうとする者が絶えることはなく、不死を脱する方法も未だ見つからない。

 だが――ここにきて、初めて有益な手掛かりが見つかった。

 

「その女をここへ連れてこい。我を討たんとする軍とやらの情報を吐かせる。お前に女を渡すのはそのあとだ。……まあ、腕か脚の一本くらい捥いだあとかもしれんが、それでも構わんだろう?」

「……勝手にしろ。俺は情報さえ得られれば、それでいい」

「では、今すぐ蛇にお前らを送らせよう。事を急くお前のことだ、その方が――」

「ちょっとお待ちください! 今すぐと仰いましたか!?」

 

 話を遮って声を上げた游苑に、緋王が露骨に怪訝な顔を作る。彼女がこんな調子で声を荒げるのは、決まってろくでもないことを言い出し始めて、話を無駄にややこしくするときだった。 

 

「……なんだ、游苑。我の言うことに何か不満でもあるのか?」

「ええ、全くもって不満しかありません! そのようないつ帰ってこれるか分からない勅令に、今すぐ向かえだなんて! ついさっき洗濯物も干したばかりで、まだ乾いてもいないというのに! いきなりそんなことを仰られても、家を空ける準備なんてできておりませんわ! せめて、その準備をする時間くらいくださってもよいのではありませんか!?」

「別にお前が一人で残ればよい話ではないか……」

「それでは暁越さまがお一人で向かわれることになってしまうではありませんか! わたくしはいついかなる時でも暁越さまのお傍に仕えると誓った身、何があろうとわたくしは決して暁越さまの元から離れるつもりはありません!」

「……なあ、暁越よ。お前からも何とか言ってくれんか」

「俺に振るな」

「それに、それに……!」

 

 そこで游苑は、ぐっと間を溜めてから、

 

「このままでは、暁越さまのためにご用意したお魚が腐ってしまうではありませんか!」

「………………………………」

「………………………………」

 

 ………………………………。

 

「知らんわそんなもん!」

「本日の夕餉のため、わたくし色々と準備しておいたんですよ!? 緋王様はそれを放って向かえと仰るのですか!? いくらなんでも、そんなのあんまりではありませんか!」

「うるっさいわ! そんなくだらない理由でいちいち我に楯突いてくるなお前!」

「あー!! 暁越さま、今のお聴きになりましたか!? 今くだらないって仰いましたよこのお方! わたくし、この日のために何日もかけて準備したのに! それをくだらないって!」

「……訂正してやれ」

「誰がするかぁ!」

 

 尚も騒々しく言い合いを続ける二人を眺めながら、手持ち無沙汰になった暁越が簪の調子を整える。そこでふと、緋王の角の先で退屈そうに欠伸をする蛇と目が合った。

 

「賑やかになったもんだよなあ」

「……そうだな」

 

 游苑がやって来てからというものの、緋王との謁見はずっとこんな調子だった。

 思えば、初めて彼女が緋王と顔を合わせた時も、今のような言い争いに発展していた気がする。それを考えると、よくあの緋王に対してここまでの口出しができるな、と暁越は游苑に感心すら覚えていた。ただ、游苑の発言も元は暁越を想ってのことであるため、無下にすることもできなかった。

 緋王も緋王で、こうやって自分に色々と口を出されることに何だかんだ新鮮味を感じている――というよりは、游苑の気質に圧され気味なだけの気もするが――のか、彼女を無理やり排するようなことはしなかった。その結果として、本来は緋王と情報を共有するだけのこの時間は、いつの間にか騒がしいものになってしまっている。

 

「というかだな、游苑! いっつも当然のように暁越の隣に立っとるが、そもそも我はお前のことなど呼んでおらんのだわ! お前は勝手についてきてるだけなんだから、デカい顔でいちいち口出しするな!」 

「だったらもう少し暁越さまの待遇を良くしてくださいまし! そもそもわたくしたちが住んでるあの家だって、かなり手狭ではないですか! あんな()()()()ではなく、せめて最低限のものをご用意してくださいな!」

「だいぶデカいじゃろあの家は! 庭までついとるんだから文句言うな!」

 

 とはいえ、この騒がしさが嫌かと言われると、暁越は素直に頷けなかった。

 

「もういい、お前は黙っとれ! 我は今、お前ではなく暁越と話しておるのだ! ほら暁越、お前も今すぐ行きたいと思っとるのではないか!? だってお前せっかちだもんな! そうじゃろ!? な!?」

「…………………………」

 

 なんて、半ば助けを求めるように緋王から話を振られた暁越は、少しだけ考えてから。

 

「……あの魚は、今が旬の時期だ」

「あーはいはい分かった分かった明日でいい明日からで大丈夫! 今すぐ帰れお前ら!」

 

 かくして。

 

 

「お味はいかがですか?」

「……ああ。美味い」

 

 丁寧に捌かれた刺身を口に運びながら、暁越は游苑の問いにそう答えた。

 あれから緋王との謁見を半ば決裂するような形で終えたのち、游苑の主導のもと家を空ける準備を始め――結局、事が一通り落ち着いた頃のは、陽も暮れて辺りがすっかり暗くなった頃だった。

 

「明日はいつごろ出立なさいましょう?」

「蛇が朝方に迎えに来るらしい。それを待つ」

「では、今日はもうお早めにお休みになられますか?」

「そうだな」

 

 本来ならば刺身を肴に酒の一杯でも煽ろうと思っていたが、出立を明日に控えているこの状況ではそうも言っていられない。そう考えると、こうした緋王の急な勅命も少しだけ億劫に感じられた。

 とはいえ今回の話が暁越にとっても重要なものであることは事実であり、ようやく不死を脱することができるかもしれない――と、何度目かの微かな期待を抱いているのも否定できない。

 などと思考を巡らせながら刺身を口に運ぼうとして、ふと暁越は。

 

「……随分と、機嫌が良さそうだな」

 

 游苑の狐の耳が、ぴこぴこと忙しなく動いていることに気が付いた。 

 

「あら、お気づきになりましたか?」

「お前は分かりやすい。……いったい、何をそんなに浮かれている?」

「だって、久しぶりに暁越さまと二人っきりでお出かけできるんですもの。わたくし、明日からが楽しみで楽しみで仕方がありません。今夜は上手く寝付けそうにありませんわ」

「……行楽ではないぞ」

「ええ、もちろんそれは心得ております。ですが女を一人攫うくらい、暁越さまにとってはそれこそ行楽気分でも造作もないことでしょう? ですから、その女は早々に緋王様へ引き渡して、あとはわたくしとゆっくり過ごしましょう?」

「…………………………」

 

 その女は不死を脱するための手掛かりであり、自分としてもこの勅命は重要なもので、そんな心持ちでいてもらっては困るのだが――彼女の浮ついた、ぽけっとした顔を見ていると、暁越はどうにも指摘しづらくなった。

 絆されているという自覚はある。甘やかしているという自覚も。

 だからといって、彼女を自分から引き剥がすのも何か違う気がする。

 それに、游苑とこうして同じ時を過ごしていると――時折、自分が不死であることすら忘れてしまうことがあるのも、また事実だった。そして、だからこそ彼女と過ごす時間を蔑ろにしたくないという気持ちが、暁越にはわずかに芽生えていた。

 束の間の安息であることは理解している。自分にまた、孤独が訪れることも。

 だからせめて、その時が来るまでは。

 

「ねね、暁越さま。お土産、たくさん買って帰りましょうね?」

「……ああ」

 

 微笑む游苑に釣られて、気づけば暁越はそう答えていた。

 

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