いつもと変わらない月曜日の朝。学校へ行く準備をしていた私の頭に、声が響いた。
『おい、刹那』
『……エヴァンジェリンさん? どうしたんですか、こんな朝早く……』
私に念話を送ってくる相手は、ネックレスを渡した張本人である彼女しかいない。
それでも突然の連絡に驚くと、どこか不機嫌そうな声が続いた。
『…………今すぐ、うちに来い』
『何か用事でも?』
『茶々丸が煩いんだよ。私はいらんと言っているのに』
『……あの、意味がよく分からな』
『とにかく来い! いいな!?』
ぶつりと、一方的に念話が切られて、私は取り残された気分になりながら首を傾げた。机に置かれた鞄を持つ、準備はもう終えていた。
どうやらエヴァンジェリンさんでは無く茶々丸さんが私を呼んでいるみたいだが、いったい何の用だろう。考えてみても、特に思い当たる事は無かった。
「なんだ刹那、もう行くのかい?」
「あ、ああ」
「今日は、近衛たちとは一緒じゃないんだな」
「そういうわけじゃ無いんだが……ちょっとな。悪いんだが、このちゃんに会ったら、先に行ったことを伝えてくれるか?」
「それは構わないが……」
「頼んだ」
普段から、真名よりも私の方が出る時間は早い。今日は少し早すぎるが……たぶん、待ち合わせの時間になっても来なければ、このちゃんたちは部屋に呼びに来るだろう。
そうなれば真名とは会えるはずだし、先に行ったことも伝わる。問題は無い筈だ。
「さて、行くか」
何の用かは分からないが、行かないわけにもいかない。遅刻しないと良いけど。
エヴァンジェリンさんの家には、電車を使わず走って向かう事にした。
今の時間ならまだ人は少ないから、人目にはつかずに移動できる。それならこちらの方が速かった。
春休み中もエヴァンジェリンさんに別荘で特訓の相手をしてもらったおかげで、大分体と精神のバランスが取れていた。未だに弐の太刀を使うのは厳しいものの、前よりは技の精度が上がっている。
成長している、というよりこの場合は、取り戻していると言った方が良いのかもしれない。エヴァンジェリンさんも言っていたが、精神では一度経験している分、身につくまでが早いと思えた。
さほど時間もかけることなくエヴァンジェリンさんの家に到着し、扉を叩く。出迎えてくれたのは茶々丸さんで、どうぞと促されるままに中に入った。
「それで、用事というのは?」
「はい、実は―――」
「いらんと言っているのに、茶々丸が聞かないんだよ」
上の方から声が聞こえて、見上げると二階への階段の手すりに腰かけたエヴァンジェリンさんが、未だ寝間着姿のままで笑っていた。
パッと見でも分かるくらいに顔が赤い。それに、いつも通りのつもりなんだろうがその声はどこか弱弱しく、明らかに具合が悪いのだと見て取れた。
「エヴァンジェリンさん、風邪をひいたんですか?」
顔を顰めて聞くと、彼女ははっと鼻で笑う。
「風邪? 何を言っている。私は元気だぞ」
「いえ、マスターはご病気です」
「おいこらっ、茶々丸!」
けれど彼女の主張に反して、茶々丸さんがキッパリと言い放った。
エヴァンジェリンさんは心外だとばかりに叫んでいるが、どちらを信じるかは火を見るよりも明らかだ。私は持って来た鞄を下して、茶々丸さんに聞いた。
「エヴァンジェリンさん、熱はどれくらいですか? インフルエンザの可能性は?」
「十五分前に計った時は、三十九度でした。一般的な風邪と思われますが、それと同時にマスターは花粉症も患っています」
「茶々丸、余計な事を言うな!」
「……茶々丸さんが私を呼んだのは、エヴァンジェリンさんの看病の為ですか?」
「はい。私はこれから、ツテのある大学でよく効く薬を貰ってこようと思います。その間、刹那さんにはマスターの看病をお願いしたいのです」
たしかに、この状態のエヴァンジェリンさんを一人にするのは不安だな。本人は平気だと言っているが、話を聞いても実際に様子を見ても、平気そうには見えない。
私は頷き、気になる事をいくつか尋ねた。
「エヴァンジェリンさん、朝食の方は?」
「食欲が無いと、食べようとしません」
「なら、私の方で何か作って食べさせます。冷蔵庫の物、使いますね」
「お願いします」
「それから、えっと、その薬は……食べさせてから飲ませても、大丈夫ですか?」
「はい。リンゴや桃といった果物は、下の方に入っています。使うなら使ってください」
「分かりました」
「っお前たち二人揃って、何を勝手に進めている! 私は元気だと―――」
階段を下りてきたエヴァンジェリンさんが、茶々丸さんに掴みかかろうと手を伸ばす。
けれど上げた腕はすぐにだらりと垂れて、足が縺れたのかぐらっとその体が傾ぎ倒れそうになったのを、慌てて手を伸ばして受け止める。
小さくて軽い体。私も小さい方だが、それよりももっと小さい。
「だいぶ具合が悪いみたいですね……」
「魔力の減少したマスターの体は、元の肉体である十歳の少女のものと変わりありませんので」
抱き上げた体の軽さに驚きながら、二階への階段を見上げる。
ベッドは二階だし、一度寝かせてから朝食の用意をした方が良さそうだ。
「後は私の方でやりますから、茶々丸さんは安心して薬を貰いに行ってください」
「分かりました。それでは、よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げて、茶々丸さんが出て行くのを見送った。
私は急いで二階へと上がり、エヴァンジェリンさんをベッドに寝かせる。呼吸が荒い。
「(水を飲ませた方が良さそうだな)」
水分補給は大切だ。急ぎ足で階段を下りて、キッチンで水を調達する。
残念ながらスポーツドリンクは無かったので仕方ない。水を注いだグラスと、それから桶に水と氷を入れてタオルも一緒に持った。
「エヴァンジェリンさん、起きれますか?」
「ぁあ」
掠れた声で頷いた彼女の体を起こさせて、水を飲ませる。またすぐに寝かせて、濡らしたタオルを額に乗せた。
「朝食の準備をしてきます。水はここに置いておきますから、喉が乾いたら飲んでください。あと、勝手に起きないで寝ていてくださいね」
「………」
今度は返事が無かった。目を閉じた彼女に、このまま大人しく寝ていてくれればと思う。
やっぱり病人には定番のお粥が良いかなと、考えながら一階に下りてキッチンに立った。作り始めて暫く、もうそろそろ出来上がる頃に、からんころんと呼び鈴が鳴った。
「茶々丸さん……?」
もう帰って来たのだろうか、首を傾げたら思いもしない声が扉越しに聞こえた。
「あの、こんにちはー。担任のネギですけど、家庭訪問に来ましたー」
「………え?」
ネギ先生?
ポカンと間抜けにも口を開けて、時計を見上げる。八時を過ぎているが、まだ朝だ。こんな時間に家庭訪問というのはどうなんだろう。
「(このちゃん、もう学校に着いたかな……)」
出来れば早めに済ませて学校に行きたかったけど、事が事だけにそうもいかなかったししょうがないと諦めよう。
真名に伝言を頼んだし、余計な心配はしていないと思うけど……。
「すみませ~ん」
「あっ、はい!」
再度呼び鈴が鳴って、慌てて扉に駆け寄る。扉を開けて顔を覗かせると、ネギ先生が驚いたように目を見開いた。
「せ、刹那さん!?」
「おはようございます、ネギ先生。あの、エヴァンジェリンさんに何かご用ですか?」
さすがに人様の家に招き入れる事も出来ないので、その場で対応する。
問いかけると、ネギ先生はハッと我に返った顔をして、あのっと聞いてきた。
「エヴァンジェリンさんは、いないんですか? あと、どうして刹那さんがここに……」
「その、エヴァンジェリンさんは風邪をひきまして……私は、看病するためにお邪魔してるんです。それで、今日は―――」
「そ、そんなまさか。彼女が風邪だなんて……」
「いえ、本当にひいてるんですよ。だから今日はお休み―――」
「いらん、刹那」
「……エヴァンジェリンさん、どうして起きてるんですか? 寝ていてくださいと―――」
「エ、エヴァンジェリンさん!!」
……どうしてだろう、最後まで話させてもらえない。
振り向くと、エヴァンジェリンさんは私が来た時と同じように、階段の手すりに腰かけてこちらを見下ろしていた。寝ていてくださいと言ったのに……。
思わず溜息を吐いた私を押しのけて、ネギ先生が家の中に侵入してきた。エヴァンジェリンさんに向けて何かを突き出す。
「……なんだそれは」
「は、果たし状ですっ。僕と、もう一度勝負してください! ――あ、それにちゃんと学校にサボらず来てください! 卒業できなくてもいいんですか?」
「だから、呪いのせいで出席しても卒業できないんだよ」
「あの、エヴァンジェリンさん……」
無駄話はいいから、早く寝てほしい。寝なければ治るものも治らないのに。
「―――まあいい。じゃあ、ここで決着をつけるか? 私は一向に構わないが」
構いますから、魔力を高めないでください。フラスコを持たないでください。興奮して、よけいに熱が上がります。
やる気満々の彼女に、とりあえず開けっ放しの扉を閉めて二階への階段に足を向けた。
「……いいですよ。そのかわり、僕が勝ったらちゃんと授業に出てくださいね!!」
よくありません、ネギ先生。あと、私の存在を忘れてますか? 杖を構えないでください……やっぱり、警戒を強化した方が良さそうだ。何だか私まで頭が痛い。
無言で階段を上り、エヴァンジェリンさんの背後に立つ。手を伸ばせば届く距離だ。
そこまで来たところで、彼女がニヤッと笑った。そしてその直後、ぐらりと傾いだ体が階下へと倒れた。手からフラスコが落ちて行く。
「わ~~~~~っ!?」
「っと」
床へと倒れて行った体を引き寄せ抱き留める。ふらふらしていたから危ないとは思ったけど、やっぱりまた倒れた。床に落ちて割れたフラスコは、後で掃除しないといけないだろう。
「見ての通り、倒れるくらいには重症です。風邪だけでは無く、花粉症も患っているようなので」
「そ、その人本当に―――ッ!!」
大慌てでパニックに陥っているネギ先生に言えば、何か言いたげに口をパクパクとさせて言葉にならない声で叫ばれた。
たぶん、本当に吸血鬼なのかと聞きたいんだろう。それは私もことあるごとに思う。
一先ずもう一度ベッドに寝かせようと、二階に上がった。抱いた体は、最初に抱いた時よりも熱い……まさか、熱が上がってる? 最後に計ったのは一時間くらい前になるし、もう一度計ったほうがいいかもしれない。
エヴァンジェリンさんをベッドに寝かせて、布団をかける。汗のせいか肌がじっとりと湿っていた。
「(お粥は殆ど出来てるから、それを食べさせて薬を飲ませて、汗もかいてるから服を着替えさせないと。それから……)」
枕元に落ちていたタオルを濡らして絞って、エヴァンジェリンさんの額に乗せた。
やることを確認しながら立ち上がり、振り向いたらネギ先生がいて、思わず首を傾げる。
「ネギ先生、まだ何か用事が?」
「え?」
「エヴァンジェリンさんは見ての通りですので、今日はお休みさせてください。あと、私も彼女をこのまま一人には出来ませんので、すみませんが一緒にお休みします。先ほどの話についてはよく分かりませんが、家庭訪問は日を改めた方が良いかと……」
「あ、は、はい! そうですね……」
頷きながら、チラチラとエヴァンジェリンさんに視線を向けるネギ先生を追いやって、一階へ下りる。
時計を見上げると、九時を少し過ぎたところだった。茶々丸さん、そろそろ帰って来るだろうか。
お粥と薬を持って階段を上り始めたら、何やら二階が騒がしい事に気づいた。
「ネギ先生?」
「せ、刹那さん!?」
部屋に入ると、杖を振り上げた……掲げたネギ先生がいた。まさかとは思うが、寝ているエヴァンジェリンさん相手に暴行を? そんな筈は無い、彼はそんなひどい事をする少年では無い……筈だ。
「どうしよう、不安になってきた……」
思わず呟いたのは、きっと改めて見るネギ先生の迂闊さとか不甲斐なさに自分でも思ったより戸惑っているせいだろう。
手に持った杖を背中にやって隠そうとする辺りを見ると、一応は秘匿の意思がある……のだろうが、何度見ても穴だらけな対応に呆れを隠して溜息を飲み込んだ。
「あ、あの、これは!」
「ネギ先生、すみませんがもう少し静かにお願いします。エヴァンジェリンさんは病人ですから」
「あ、あぅ……」
押し黙ったネギ先生を追い越して、ベッドの傍らに膝をつく。
ベッド横に置かれた小さなテーブルにお粥の乗ったお盆を置いて、エヴァンジェリンさんの様子を伺った。
「サ、サウザンドマスター……やめ、ろ…」
「………」
どうやら、ネギ先生の父親の夢を見ているらしかった。ということは、先ほどのネギ先生の行動は、エヴァンジェリンさんの夢を覗くための魔法を使おうとしていたのかもしれない。
「……エヴァンジェリンさん、起きてください」
「あ……!」
軽く体を揺すって、エヴァンジェリンさんを起こしにかかる。後ろで、ネギ先生が声をあげたけどそれには気づかないふりをした。
ネギ先生には悪いが、今はエヴァンジェリンさんに朝食を食べさせて薬を飲ませるのが優先だ。本当に父親の情報をネギ先生が求めているなら、彼女に直接聞けば良い話だし……素直に教えてくれるかは、別として。
「……ぅ……」
「エヴァンジェリンさん」
「……刹那か……なぜ、お前が……」
「茶々丸さんに頼まれて、貴女の看病をしていたんですよ。ほら、起きてご飯を食べてください」
「む、ぅ……」
熱があるせいかぼんやりした様子のエヴァンジェリンさんの背中を支えて、体を起こさせる。
土鍋ごと持って来たお粥を取り皿に移して、彼女と見比べた。ふらふらとまともに体も起こしていられない彼女が、自力で食べられるとは思えなかった。
「エヴァンジェリンさん、口を開けてください」
「……ぁ?」
「あーんですよ。あーん」
「……あー、ん……」
開けられた口に、レンゲをそっと差し込む。お粥は一応冷ましたから、熱くないと思うけど。
「ん、ぐ……」
「ゆっくり飲み込んでください。無理しないでいいですから」
「……んく」
「それじゃ、もう一度口を開けてください。あーん」
「ぁー……ん」
喉も少し腫れているのか、エヴァンジェリンさんは時間をかけて少しずつお粥を飲み込んだ。
何度か同じ動作を繰り返し、取り皿が空になったところで首を振られた。茶々丸さんの話だと食欲は無かったみたいだし、これだけ食べてくれたんだから十分か。
「寝る前に薬を飲んでください。はい」
「……ぃやだ」
「エヴァンジェリンさん……」
「ふんっ……」
薬と水を差しだすと、エヴァンジェリンさんは嫌だと首を振った。困ったように名前を呼ぶと、顔を背けられた。
そのしぐさがあまりにも子ども染みていて、熱は精神の退行を促すんだったろうかと考えた。
でも、どうしよう。薬を飲まないのも困るし、だからといって強引に飲ませようとして飲んでくれるだろうか。
『んとなー、せっちゃんが口移ししてくれたら、飲んでもえぇよ』
不意に蘇った声に、手の中の錠剤を見て知らず目を細めた。
散々私を困らせて、中々飲んでくれなくて……最終的には私が折れてしまったわけだが。翌日には治ってくれたから良かったものの、あれは本当に困った。
全く、悪ふざけの度を越している。それに最後には応じてしまう私も私だったけど。
「飲んでください、エヴァンジェリンさん」
「嫌だ」
「……素直に飲むのと、口移しと、どちらが良いですか?」
「はあっ!?」
驚いた彼女に、私は努めて静かに言った。
「あまり我儘が過ぎると、本気でやりますよ」
「…………チッ」
エヴァンジェリンさんは舌打ちの後に、私が差し出した薬を奪うように手に取って口に放り込み、水で一気に飲み干した。
私はそれに満足して笑みを浮かべる。
「茶々丸さんが、大学に薬を貰いに行ってくれています。そちらも素直に飲んでくださいね」
「……分かったよ。ったく、貴様、本気でやるきだっただろ」
「手っ取り早いですから」
それから私は部屋を見回して、けれど目的の物が見つけられず首を傾げた。
「エヴァンジェリンさん、着替えはどこですか?」
「そこのタンスの下から二段目だ」
「二段目ですね」
タンスから新しい寝巻を取り出して、エヴァンジェリンさんに差し出した。
「自分で着替えられますか?」
「それくらい出来る」
「なら、私は薬とか片付けてきますから。その間に着替えてしまってください」
「ああ」
「あと、着替え終わったら大人しく寝ててくださいね。動き回って悪化しても大変ですから」
「わかっている」
最後はもうしつこいぞと呆れたように言われて、私は苦笑いして立ち上がった。
お盆を持って、部屋を出ようとしたところで、呆然と立ち竦んでいたネギ先生に言う。
「ネギ先生、エヴァンジェリンさんこれから着替えますから……」
「えっ、あ、はあ……」
心ここに非ず、といった様子で返事をするネギ先生に、再度促した。
「ネギ先生、覗きはよくないですよ」
「……うわわわっ! すみません!!」
慌てて部屋を飛び出していくネギ先生を追うように、私も一階へと下りて行った。
「ん?」
階段を下りたところで、ヴーンと唸るような音が聞こえた。
何の音だろう。考えて、お盆をテーブルに置いたところでその音が、私の携帯の音だと気づいた。
学校に行くときはマナーモードにしていたから気づかなかった。というより、普段からあまり頻繁に使わないから、それ自体を忘れていた。
「(このちゃんに連絡、すればよかったな)」
そうすれば、わざわざ真名に伝言を頼む必要は無かったのに。
鞄に入れたままの携帯を取り出す。履歴を見ると、着信が二十件を超えていて驚いた。着信はこのちゃん、千雨さん、真名。最も多いのがこのちゃんで、半分くらいがそうだ。
「えっと……」
とにかく連絡しようとボタンを押そうとしたら、また携帯が振動した。千雨さんだ。
「はい」
『あ、おい刹那か? お前、今どこにいるんだよ』
「エヴァンジェリンさんの家です。エヴァンジェリンさんが、風邪をひいたのでその看病に」
『そうなのか? こっちはスゲー騒ぎになってんだけど。あの子ども先生は来ないし、龍宮より先に出た筈のお前がいつまでたっても来ないから、クラスの連中は何か事件に巻き込まれたんじゃってふざけた事言い出すし、それ聞いた木乃香が泣き出して、もう収拾つかねぇよ』
「……すみません、このちゃんに代わってもらえますか?」
『ああ。おーい、木乃香』
電話越しの喧騒の中、千雨さんがこのちゃんを呼ぶ。
まさか、そんな騒ぎになるとは……直接、このちゃんに連絡しなかった自分の失態が悔やまれる。泣いていると聞いてから、心臓がいやに早鐘を打っていた。
『せっちゃん! 今どこにおるん!?』
「エヴァンジェリンさんの家だよ、このちゃん。風邪をひいたって聞いて、看病に来てたんだけど……ごめんね」
『……っふっく、よかった、せっちゃん……』
「このちゃん?」
『学校、来てもせっちゃんおらんしっ、連絡も、つかへんから……ひっ、またせっちゃ、危ないことしてるんや、ないかって……ふぇぇええん』
「……ごめんね。このちゃんが心配するような事、何も無いから……大丈夫だから」
『っうん、う、ん……』
電話越しにも関わらず、このちゃんの泣き声は鮮明に私の耳に届く。心臓が痛いくらいに締め付けられた感覚。
無意識に強くスカートの裾を握りしめながら、どうにかこのちゃんを宥めて千雨さんに代わってもらった。
『で、どうすんだよ? 木乃香は少し落ち着いたみたいだけど、クラスの連中はまだ騒ぎっぱなしだぜ?』
「ネギ先生に急いで行ってもらいます。エヴァンジェリンさんの様子を見に、こちらへ来てたんです」
『はあ? もう十時過ぎてるぜ? 何やってんだよ……』
千雨さんが頭を抱えたような気がした。
「えっと、とりあえず委員長に伝えてもらえますか? ネギ先生がもうすぐ行くって……たぶん、それで少しは治まるんじゃないかと」
『ああ、りょーかい。お前はどうすんの?』
「茶々丸さんがそろそろ帰って来ると思いますから、そうしたら私も行きます」
『分かった。はぁ、やれやれだっての……』
「すみません……」
『謝るんなら、次はちゃんと連絡しろよ? 木乃香があんな大泣きするなんて、よっぽどだろ』
「そうですね……それじゃ、お願いします」
『おう』
電話を切って、何か考えるよりも早く私は、ネギ先生を振り返った。
「ネギ先生」
「はい? なんですか?」
「クラスの方たちが、ネギ先生が来ないと騒ぎになっているようです。早く行ってあげた方がいいかと」
「ええっ! わ、もうこんな時間!?」
時計を見上げたネギ先生は、十時を過ぎた時計にあわあわと慌て始めた。
「う、うわわわっ! どうしよう!?」
「落ち着いてください。今は急いで学校に……あ、エヴァンジェリンさんと茶々丸さんは欠席だと思います。私は……茶々丸さんが戻り次第、行けそうならば学校に行くつもりです」
「えっと、あう、はい。分かりました……ええっと、それじゃ!」
ネギ先生を玄関へと促しながら、伝える事を伝えて見送る。途中、走っていくネギ先生が何度かこちらを振り向いたが、戻ってくる様子が無いので扉を閉めた。
一気に静かになった部屋で、ズルズルと閉めた扉に背を預けて座り込む。
「…………はぁあああ……」
深く深く嘆息。このちゃんを泣かせたし、千雨さんには迷惑をかけたし、真名にも心配をかけたようだし。
自分の不甲斐なさとか、犯した失敗に、膝を抱えて自己嫌悪に陥る。
「間違えたのかな……」
泣いていたこのちゃん、余計な心配をかけてしまった。このちゃんが心配する必要は無いのに。
本当なら、今日このちゃんが泣くことは無かった筈だ。だって過去の私は、今日ここに来ることは無かったから。だから、私がいないからと心配してこのちゃんが泣く事は無かった。
…………今日だけじゃない。図書館島だってそうだ。
本当なら私はあの場にいなかった。だから、私があそこで飛び出すことも無く、このちゃんが泣くことも無かった。思えば、どちらもこのちゃんを泣かせたのは私か。
未来を変えようと動いた結果、私は過去にいなかった場所にいる。結局、このちゃんを泣かせてしまっている。
もしかしたら私は、まだ手を出さずにいるべきだったのかもしれない。昔の私と同じように、今はまだ離れて見守っていた方が良かったのかもしれない。
……分からない。そもそも、私が今していることで、本当に未来が変わるのか?
仮契約をさせず、このちゃんが望む世界で生きられるように長に話して、それで何かが変わるんだろうか。
このちゃんを泣かせて、悲しませて……本当にこのちゃんは、幸せになれるんだろうか。
「―――何を悩む、刹那」
「ッエヴァンジェリンさん……」
階段の途中で、エヴァンジェリンさんが私を見下ろしていた。
僅かに顔をあげた私は、ゆっくりとした足取りで下りてくる彼女を視線だけで追いかけて、駄目ですよと声をかけた。
「まだ寝てないと……」
「平気だ。それよりも、そんな所でいったい何を悩んでいる?」
「……悩んでなんていませんよ。私の事より、早くベッドに戻ってください」
「ふんっ、お前の事だ。近衛木乃香を泣かせてしまったとでも、思っていたんだろう」
「ッ……」
ピタリと言い当てられて、私は言葉を喉に詰まらせた。
そんな私の前に立って、エヴァンジェリンさんは腕を組んで馬鹿にするように笑った。
「近衛木乃香は、随分と泣いていたようだな」
「どうして……」
「あれだけ騒いでいれば、電話越しだろうと聞こえてくる。ましてや泣き声などすぐに分かる」
聞こえていたんだ。抱え込んだ膝に、額を押し付けた。
「……私は本当に、これで良かったんでしょうか」
目を閉じる。暗闇は私に心地よさも何も与えてくれなくて、ただ私の中ではぐちゃぐちゃと消化しきれない感情が入り混じり続ける。
「このちゃんともとの関係に戻ってから、私は二回もこのちゃんを、私のせいで泣かせてしまって……このちゃんがあんな風に泣くこと、滅多に無いのに」
散々、心配をかけて、泣かせて。このちゃんは、強い人だったから……心がとても強くて、ちょっとやそっとじゃ折れたりしないのに。あんなにも、泣かせてしまった。
それも、私が関わったせいで。関わらなかった筈のところで、私が関わったから。
「本当なら、まだ私は関わらない筈だった。影から見守ってるだけで良かった。それなのに、私は―――」
このちゃんを見た瞬間に、手を取ってしまった。
生きていた事が嬉しかった、掴んだ手が温かくて、一度失った手を自分から離すことが、出来なかった。
だから、それならこのちゃんの隣に立って、このちゃんを護ろうと。今度こそ、このちゃんが死なない未来に進もうと、このちゃんが幸せになれる未来を得ようと、そう思ったのに。
その結果が、これだ。私の中で入り混じった感情が爆発する。
「私がいなければ、このちゃんは泣かずにすんだ! 図書館島で飛び出した私に泣き叫ぶことも、今日、私を心配して泣くことも無かった!!」
全部全部全部、私がいなければ良かったことなのに。昔のように、あまり深く関わらずにいればよかったことだった。
たったそれだけなのに、どうして私はそれが出来なかった。
「っ泣かせたくなんて、なかった……このちゃんに、笑っていてほしかっただけなのに!このちゃんに―――このちゃんに幸せになってほしくて、私は違う未来を目指すと決めたのに!! どうして、どうしてこのちゃんをこんなにも泣かせてしまった!!」
私はまた、間違えてしまったのかもしれない。
「―――刹那」
静かに、何も言わずただ私の言葉を聞いていたエヴァンジェリンさんが、私を呼んだ。
目を開けて暗闇から戻り、ゆっくりと顔をあげる。私の前に膝をついた彼女と目が合い、瞬間、パシンッと音が響き渡った。
「エヴァン、ジェリンさん……」
左頬が熱い。ヒリヒリとした痛みに、衝撃で右にずれた視界を前に戻せば、無表情のようでその瞳に怒りを湛えたエヴァンジェリンさんが、変わらずそこにいた。
「お前は、馬鹿だ」
「え……?」
「馬鹿だと言ったんだ、お前は」
叩かれた頬が、手を伸ばされゆっくりと、優しく撫でられる。
怒っているように見えるのに、その手は慈愛に満ちていて、その言葉も何も分からなくて、私はただその瞳を見つめるしかない。
「刹那。全く同じ人生なんて、絶対に無い」
「なに、を……」
「過去のお前の行動を、お前が真似したとして。たしかにそれは、同じ人生を辿ってるように見えるかもしれん。だがな、そう見えるだけで、違うんだよ」
「ちがう、って」
「お前だよ、刹那」
エヴァンジェリンさんの言葉に、首を傾げる。私が、違う?
「近衛木乃香を見守るお前が、どう思うのか。たとえ行動は真似できても、思うことまでは真似できない。中身が違うんだからな。過去のお前と、今ここにいるお前。思うことは違うだろう。現にお前は、近衛木乃香を見て我慢できなかった。見守り続けるという選択を、選べなかっただろう?」
「で、も……それが、まちがって……」
「お前は、間違わずに生きていけると、本当に思っているのか?」
「そう、じゃなくて……私は、間違えたらいけないん、です」
たった一つの間違いが、このちゃんを死へと導いた。
だからもう二度と、同じ間違いは許されない。間違うことは、許されない。
「このちゃんが、死なない未来を…………私は、このちゃんを今度こそ護ると、誓ったんです」
「ああ、そう誓うのは悪い事じゃ無い。ならなおの事だ、刹那―――間違いを、恐れるな」
静かに、けれど強く言われた言葉に、私は無言で聞き入る。
「人は間違える事で何かを学び、成長する。お前が近衛木乃香を、誰かを護りたいというのなら、間違いを恐れるな。進み続けろ。そうして間違えたなら、その時はその間違えを飲み込んで、踏み潰して、また進め。今のお前は、犯した間違えを恐れて、間違えを犯すことに怯えて立ち止まった、ただの愚か者だ」
恐れた―――たった一つの間違いがこのちゃんを死なせた。
怯えた―――私のせいでまたこのちゃんを泣かせてしまうのではと。
だからここで膝を抱えて、私は動くことが出来ずにいる。また間違えてしまったのではと、また間違うのではと。
ああ、本当にエヴァンジェリンさんの言うとおりだ。私は、間違いを恐れて、怯えている。震えて、動けなくなってしまった。
一度、辿り着いてしまったこのちゃんの死という未来に、また辿り着いてしまうのではないかと思って、私は全てに怯えている。
「いいか、刹那。間違わない人生なんて無いし、全く同じ人生なんて無い。そして、全く同じ未来も無い。お前が過去に戻ってきた、それだけでもう未来は、お前の知るものとは別の方向に向かってるんだよ」
「……たった、それだけでですか?」
「十分だろう。お前はお前が生きた分だけ、間違いを犯して成長してきた。その結果、お前は近衛木乃香と仲直りをしているし、長谷川千雨を捨て置けず相手をしている。私や茶々丸と共に学校へ行っている……これは、過去のお前と同じことか?」
「……いいえ」
全然、違った。
「このちゃんとは、まともに話しをしていませんでした。千雨さんも、話したことが無くて。エヴァンジェリンさんや、茶々丸さんが、このちゃんを傷つけるんじゃないかって、警戒してて……友達になるだなんて、想像もしてなかった」
「当たり前だ。私がお前に興味を持って呼び出したのは、まあ言ってしまえば、お前が過去に戻ってきたからだ。そうでなければ、私は今の時点ではお前にそれほどの興味を持っていないかもしれん」
「そうかも、しれませんね……」
くつりと喉を鳴らして笑った彼女に、思わず苦笑いを浮かべた。
昔の彼女は私に、どれほどの興味を抱いていたんだろう。昔の私は、私がいまこうして彼女と共にいる事を、想像できただろうか。
「お前は、少しだけ変わった知識を持った奴だ。ただ、それだけだ。神でも何でもない、知らない事もあって当然だ。だから、知らない事を、間違える事を恐れるな。立ち止まらずに進み続ける限り、私の目の前にいる桜咲刹那の未来は、変わり続ける」
「……はい」
ゆっくりと彼女の手が離れて行くのを追った先で、その瞳と合った。
「過去のお前じゃない。今のお前を生きろ、刹那」
それは、まるで母親のような。そんな瞳だった。
「―――ありがとうございます、エヴァンジェリンさん」
未来がもう、変わり始めているというなら、私は立ち止まらずに進み続けよう。
犯した間違いを忘れずそれを踏み越えて、大切な人を護る為に―――。