時計が十二時を過ぎて、その時間になって私はようやく学校の玄関をくぐることが出来た。
茶々丸さんの向かった大学が随分と忙しかったようで、彼女が薬を貰って帰って来たのはネギ先生がエヴァンジェリンさんの家を出てから、更に一時間以上が経ってからだった。
それでもまだお昼。このちゃんが泣いていたこともあり、私は後を茶々丸さんに任せて学校へ来た。
「……?」
目の前の教室の扉を見て、違和感に首を傾げた。
今はお昼休み。既に廊下を歩いている人もいる中、いつもなら騒がしさが教室の外まで溢れている筈の三年A組は、奇妙なまでに静かだった。
なんとなく感じる嫌な予感。少しの緊張感を抱きながら、私は扉に手をかけた。
「(これは……)」
開けた先、教室に広がる光景に言葉を無くす。死屍累々とはまさにこのことか。
一様にぐったりと机に倒れ伏したクラスの方たちを前に、これ以上教室に入ることを躊躇したが、中に入り扉を閉める。
音に気付いた一人がむくりと顔を起こして、こちらを見た。
「あ、桜咲さん」
「せっちゃん!?」
まるで弾かれるようにして勢いよく飛んできたのは、言うまでも無くこのちゃんだった。
その勢いに受け止めた時は踏鞴を踏んだが、全身で飛び込んできた姿にとりあえず笑った。
「おはよう、このちゃん」
「おはよ、せっちゃん! ……ぅうう、本物のせっちゃんやぁ……」
「私は一人しかいないよ」
涙ぐむこのちゃんに胸が締め付けられた。
「ごめんね、このちゃん。心配させて」
「えぇよ、もう……でも、また同じことしたら、許さんからね?」
「うん。もうしないよ」
このちゃんに心配をかけて、泣かせるような事はもうしたくない。
そう思って言うと、約束やとこのちゃんは笑った……許してくれたみたいだ。相変わらず、このちゃんは優しい。
「にしても、やけに静かだけどいったいどうしたの?」
「あ、それはな……」
「騒ぎ過ぎて、新田先生にぶち切れられたんだよ」
声と同時に、バシッと頭に衝撃。ちょっと痛い。
「あんま心配させんな、馬鹿」
見上げると、呆れ顔の千雨さんがいた。彼女にも随分と迷惑と心配をかけた。
「すみませんでした、千雨さん」
「悪いと思うなら、今度付き合えよな。この前は見れなかった服屋行くから」
「あ、えっと…………はい」
「あー、ずるい! うちも行く!」
「へいへい」
また着せ替え人形にされるのか。このちゃんと千雨さんの組み合わせは、中々に大変なんだよなぁ……振り回されるから。
「刹那さん、あの……」
近々来るであろう日に苦笑いを浮かべた私に、これまたぐったりと教壇に突っ伏していたネギ先生が近寄ってきた。
彼も怒られたんだろうか……新田先生は良い先生なんだが、怒ると恐い。凄く恐いので、なるべく怒らせたくない相手だ。
「エヴァンジェリンさんの具合は……」
「薬を飲んだら、だいぶ落ち着いた様子でした。今は茶々丸さんが看病してくれてますが……二、三日もすれば、よくなると思います」
「そうですか、良かったです……」
ほっと安心したような表情を見せたネギ先生は、またふらふらと教壇へ戻っていく。
依然として私たち以外は殆ど屍状態だけど……これ、明日には治ってるかな?
「あ、このちゃん。お昼は?」
「まだ~」
「私もまだだから、一緒に食べよう?」
「うん」
「私も一緒していいか? ……っつか、食べるなら他行こうぜ」
「ですね……」
さすがにこの環境で楽しくお昼、というのは無理そうだ。
お昼休みの間、私たちが教室に戻ることは無かった。
穏やかな風に、流れる雲。空は青空、日差しは暖かい。
「いい天気やねぇ」
「そうだね」
隣を歩いていたこのちゃんが呟いて、私も頷き返した。
エヴァンジェリンさんの看病をした翌日の朝、私はいつもより早めに家を出た。いつもより三十分は早いだろう時間にこのちゃんと共に寮を出て、二人だけでゆっくりと学校に向かっている。
散歩に行きたい、昨日の放課後このちゃんがそう誘って来たからだ。エヴァンジェリンさんたちと学校に来た時、散歩をしていてと誤魔化したのだが、その時にこのちゃんと同じように散歩に行くと約束していた。
だから、誘われたこと自体に驚いたりはしなかった。ただ気になったのは、誘われたのが昨日だったことと、その時のこのちゃんが何だか苦しそうに笑っていたことだった。
「そういえば、ネギ先生のペットは元気?」
「ああ、カモ君のことやね? んとなー、最近は明日菜に懐いてるみたいや。よく一緒にいるえ~」
「このちゃんには?」
「うちはあんまりやなぁ。ちょっと寂しいんよ」
「そっか」
明日菜さんに、というのが少し気にかかるけど……このちゃんの方は、まだあまり関わってないみたいだ。気は抜けないが、少し安心した。
「今日は停電の日やし、カモ君が恐がらんとえぇけどな~」
「大丈夫だよ、たぶん」
「んー、せやな!」
……停電、か。たしか昔は、どういうわけか学園結界が切れて、侵入してきた妖怪たちの一掃に駆り出されたんだっけ。
結局、その原因については教えてもらえなかったが……寮には結界を張って、安全を確保しておいた方が良いかもしれない。
それから、無言で歩く時間が続いた。このちゃんは私の一歩先を進んでいる……何を話せばいいだろう、考えている間に、このちゃんが口を開いた。
「なあ、せっちゃん」
「ん……なに?」
「聞いても、ええんかな」
私よりも先を歩くこのちゃんの顔は見えなくて、ただ静かに問われた言葉だけが私に与えられた。
なにを? 聞き返して首を傾げた私と、聞いたこのちゃんの足は止まらない。
「せっちゃんは、うちのボディーガードなんやろ?」
「うん」
「なら、教えてほしい。せっちゃんは、何からうちを守ってくれてるんや?」
「……このちゃん、それは……」
「言えへんこと?」
「……ごめんね」
何から、このちゃんを護るのか……このちゃんを襲う危険から。このちゃんを殺す、魔法から。
本当は……言いたい。それを知るだけで、このちゃんはその危険を回避する術を得る。知るだけで、あの時犯した大きな間違いを、犯さずに済む。
それはもしかすれば私の希望とか願望なのかもしれないけど、でも実際にそうなのだ。知っているのと知らないのでは、その間に大きく高い壁がある。
「ごめんね、このちゃん」
なのに言えないのは、一つは長の命令だから。今はまだこのちゃんに教えてはならぬと、言われているから。だけど私は、その命令に実は安心したんだ。
まだ言わなくてもいいと。まだ、このちゃんは何も知らずに生きていられると。危険の満ちるこちらの世界に、身を置かなくていいんだと。思ってしまったのは、私が迷っているせいなんだろう。
……無知は罪だ。だから知らなくてはいけない。だけど、全てを知れば戻れない。
戻れぬ世界にこのちゃんを引き込むのは、本当に正しいのか。このちゃんの立場からすれば、何も知らずにいる事の方が無茶だと分かってるけど。長の願うように、何も知らずに生きる事は叶わないと分かっているけど。
このちゃんは、言うなればこちらの世界に関わったから殺された。関わり方を間違えたんだ、だからこのちゃんは彼女の護りたかった人たちに敵とされてしまった。
だから今度は、間違えてはならない。そう思うのに。
「(このまま、関わらずにいたら)」
このちゃんは何も出来ずに死ぬんだろうか。それとも死なずに生きるんだろうか。
もしかしたら、こちらに関わるよりも生きる可能性が高いかもしれない。低いかもしれない。死ぬかもしれない。死なないかもしれない。殺されるかもしれない。殺されないかもしれない。
―――幸せかもしれない
全ては推測で、希望で、願望だったから、私には分からない。
ただ、その可能性を前にして、私は迷っているんだろう。また間違える事に、怯えているんだろう。
間違いを飲み込んで、踏み潰して、進み続ければいいだけなのに。たくさんの可能性の中に、辿り着いたこのちゃんの死という未来の可能性を見て、私は何も言えずに口を閉ざすんだ。
「……昨日な、凄く恐かったんや」
「……」
「せっちゃん、いつまで経っても来なくて、電話しても出てくれんくて。ネギ君も、うちがちゃんと見送ったのに、学校に来てへんし」
「………」
「二人ともいなくて、それで……なんか、大変な事に巻き込まれたんやないかって思ったんや。ネギ君もせっちゃんも、無茶するから。危ないこと、しようとするから」
ピタリと足を止めたこのちゃんが振り向いた。つられて私の足も止まり、見つめてくる視線を静かに受け止めた。
「なあ、せっちゃん。これだけ教えて」
このちゃんはどこか苦しげだった。
「あの時、図書館島で飛び出したのは―――うちの、護衛やったから?」
「…………どうして、そんなこと聞くの?」
「嫌なんや。うちのせいで、うちを護る為にせっちゃんが危ないことするの」
「そう」
ネギ先生があそこで飛び出したのは、彼の性格というのもあっただろうが、彼が子どもながらに教師であったからだろう。生徒を守るのは先生、それはよくある話だ。
なら私も、このちゃんの護衛だったから飛び出したのか。たしかにそれもあった、護衛が護るべき者を護るのは当たり前すぎて言う必要も無い。
でも、それだけが理由だったのかと聞かれたなら。
「違うよ、このちゃん」
私は首を振る。否定する。それが答えだ。
「このちゃんの護衛だから、このちゃんを護ろうと行動するのは当たり前だけど。でも、私にとってはそれが全てじゃない。このちゃんの為だけに、飛び出したわけじゃ無い」
「なら、何の為?」
「自分の為」
私の答えに、否を唱える人もいるだろう。それは仕方ないと思うし、当たり前だと思う。
でも私は、あの時の行動が全てこのちゃんの為だったと言い切ることが出来ない。私はあの時、自分の為に飛び出したんだ。
「このちゃんは、私の大切な友達だから。絶対に護りたいって思った。このちゃんが傷つくところ、見たくなくて」
「うちは、せっちゃんが傷つくところ、見たくない」
「……ごめんね。きっとこのちゃんがどんなに止めても、私はまた同じことをする。たとえそれでこのちゃんに嫌われても……このちゃんが傷つくより、ずっといいから」
私の言葉に、このちゃんはひどく傷ついたように瞳を揺らした。ああ、やってしまった。間違えたと私が思ったのはその直後だった。
けれど、たとえこのちゃんに嫌われてもというのは、紛れもない本心だった。それは確かに、本当に嫌われたなら悲しいしショックだしどうしようもない感情に苛まれるだろうけど、そう思ったのを嘘だとは言えない。
申し訳ないと思っても、黙するだけで撤回しようとしない私に気づいたこのちゃんが、唇を震わせた。
「うちに、嫌われてもって……なんでなん? どうしてそこまでするんや? せっちゃんがそこまでして、うちを守るのはなんで? うちにいったい何があるん? せっちゃんがそない思ってまで守る価値、うちにあるん?」
今にも泣き出しそうなその瞳に、くしゃりと歪んだ顔に、また泣かせてしまうと胸を締め付けられながら、私は手を伸ばす。
伸ばした手をこのちゃんの体に触れさせようとして、ほんの一瞬、戸惑ったけれど、手を背中に回して抱きしめた。
「……違うんだよ、このちゃん」
そうじゃない、呟いた。そんな複雑でも大そうな理由でも無いんだと続いた言葉は、音にはならずただ私の脳内に響いて消えた。
「このちゃんが、私の友達だから。傷ついてほしくないから……私がこのちゃんを護りたいと思う理由は、それだけだよ」
「友達、やから? 本当に……?」
「うん……私にとって、一番大切なのは、それだけ」
魔力も魔法も西も東もどれほど重要な事でも、私にとってそれ以上の理由は無い。
友達だから、親友だから……死んでほしくなかった、今度こそ護りたかった。
「このちゃんが知りたいこと、今はまだ話せない事も、いつか絶対に話すから。だから今は……また心配させると思うけど、何の心配もいらないから」
お願いだから私に。
「私に、このちゃんを護らせて」
願った。結局この願いも、私の為でしかないのだけど。私は私の為にしか、このちゃんを護れないのかもしれないけど。
この温もりを失いたくないと思う私に、このちゃんはやはりどこか悲しげだった。
「嫌や言うても、せっちゃんは行ってしまうんやね……」
「うん」
「……それはせっちゃんが、うちの友達やから?」
「友達だから」
「そか」
抱き締めた体を離すと、それでもとても近くにこのちゃんの瞳があった。
悲しげに揺れる瞳の縁に涙が無い事に、私は人知れず安堵の息を吐く。このちゃんが言った。
「約束してや、せっちゃん」
「……」
「いつでもいい、いつまでだって待つから、うちに教えて。うちが知らないこと、せっちゃんが何からうちを守るのか、全部、うちに教えて」
「……うん」
「それから、無茶したら駄目や。うちを守る為にせっちゃんが傷つくのは嫌や」
「……それは、ちょっと難しいかもしれないけど……頑張るよ」
「あと」
縋るようにこのちゃんの手が、私の両腕を掴んだ。震える声を無理矢理に抑えつけたような、絞り出すような声でこのちゃんが言った。
「絶対に、帰ってきて」
「……うん。約束するよ、このちゃん」
きっとこの先、何も知らないこのちゃんはまた不安に駆られるだろう。知らぬ間に、危険に脅かされるだろう。
でも、私が護ってみせるから。何も心配はいらないから。
「私は、帰って来るよ」
必ず、このちゃんの元に帰るから、だから泣かないで―――笑っていて。