あの後、部屋に戻ってきた真名と夕飯を共にしてから、私は寮を出た。
日々の修練の一環となっていたランニングに行って来ると言えば、真名は何一つ疑うことなく私を送り出した。なので、今この場にいる私は、上下共にジャージ姿だ。
「何事もなければいいが……」
呼び出されたという時点で、それは無理な話なのだろう。何事も無いなら、エヴァンジェリンさんがわざわざ私を呼びだしたりはしない。
問題なのは、その何事かあった場合の私の対応だ。既にこのちゃんとの関係や、長への報告など過去から変化した行動を取っているが、だからといって今後も積極的に関わっていいものか。未来の事実を変えるために行動するとしても、やはり過去を変える事に躊躇してしまうのは、その行動で何が変わってしまうか分からないからだろう。
どうやら、未来の事を知っている分、私は過去に無い出来事に弱いようだ。その行動で何が変化するのか、私の知る過去とどれだけ変わってしまうのか。私はそれを恐れている。
「(これも、その変化の一つか)」
今の時刻は九時五十五分で、場所は桜通り。呼び出しは十時で、きっちり五分前だ。
この呼び出しも、過去には無かった事だ。出来れば何事も無く、今はまだエヴァンジェリンさんと深く交流することなく終わらせたい。
そう思うのは、過去の私が今の時点ではエヴァンジェリンさんと交流を持っていなかったからだ。未来を変えると誓いながら、私は未知の変化を恐れている。
「―――来たか、桜咲刹那」
「こんばんは、エヴァンジェリンさん」
十時。街灯の上に現れたエヴァンジェリンさんを見上げると、彼女は重さなど感じさせない軽い動きで地面へと下り立った。
見上げたままで話すというのは少しばかり首が疲れるので、下りて来てくれたのは有難かった。
「絡繰さんから手紙を受け取りましたが、こんな時間に呼び出しなんて、いったい何の用ですか?」
「ああ。まあ、お前に少しばかり、興味があってな」
「興味?」
エヴァンジェリンさんの言葉に、首を傾げた。
興味という言葉に少し考えて、もしかして彼女は同性愛者だったのだろうかと思い、眉尻を下げた。
「興味って、あの……すみませんが、私にその手の趣味は…」
「アホか! 私にだって無いわ!!」
「で、ですよね」
否定はしないが困り果てたので、心外だとばかりに叫んだエヴァンジェリンさんに安堵した。私が知らないだけ、というのも大いにあり得るので、余計な心配をしてしまったようだ。
「ったく―――で、お前いったい、何があった?」
「またその質問ですか……」
昨日の真名といい、今日のクーフェイと長瀬といい、同じ事を言う。クーフェイ達には攻撃されるし……ああ、あの二人とは近いうちに手合わせをしないとな。あの分だと、あまり待たせればまた教室で襲われ―――
「おい、聞いているのか?」
「………聞いてます。何があった、と聞かれましても、お答えするのは難しいです」
「答えられないと?」
「答える事は出来ますが、答えたくないです。言っても、信じてもらえないと思いますし」
「だが少なくとも、龍宮真名には話しているな?」
「……なぜ、そう思うんですか?」
「お前の変化は明らかだ。だが、龍宮真名はそれに気づいていながら、疑問を抱いていた様子は無い……むしろ、それを理解していたようだからな。お前が理由を話し、それに納得したと考えるのが一番容易い」
「なるほど……たしかに、そう考える事も出来ますね」
事実ではあるが肯定はしなかった。確かに真名は私が未来について知っているのを知っているが、それも全てでは無い。大まかな、ただ私が未来について知っているという事実だけであって、この先の学園での事件や、ましてやこのちゃんが死ぬという事は知らない。
だとしても、ここで頷けばエヴァンジェリンさんは、理由を話せと言って来るだろう。彼女の性格とこの場所への呼び出しからして、もしかすれば戦闘に発展する恐れもある。出来ればそれは避けたいと思った。
「なんにせよ、その答えを聞けば、お前が腑抜けになった理由も分かるかもしれないしな」
「……腑抜け?」
「そうだ。気づいていないのか?」
エヴァンジェリンさんは退屈そうに目を細めた。
「昨日までのお前に比べれば、確かに力は増しているようだが―――今日のお前は、実につまらん」
「つまらない、ですか。エヴァンジェリンさんから見て、昨日と今日で私は、どんな風に変わったんですか?」
「なんだ、気になるのか?」
「まあ、それなりに」
真名たちは皆、殆ど感覚で私が変わったと感じているだけなので、その変化を言葉にはしてくれないし。このちゃんには大人っぽいと言われたが、それは真名たちの言う変化とはまた別のところで、それに仕方のない事だと思う。これで子どもっぽいと言われた方が、正直なところ複雑だ。
「そうだな、お前に分かりやすく言うなら―――刀だな」
「刀……」
「昨日までのお前は、例えるなら抜身の刀だ。触れるものの一切を斬る鋭い刀……だが、今日のお前は、刀身を鞘にしまった上で、更に柔らかな布を幾重にも巻きつけた感じか。触れるもの全てを、絶対に傷つけないようにしている」
「そこまでですか?」
「じゃなければ、お前があのクラスの馬鹿騒ぎをあそこまで受けいれるか?」
「あー……」
なるほど、それは確かにそうだ。昨日までの私なら十中八九、あの騒ぎに無視を決め込んでいるだろう。
そう考えれば、エヴァンジェリンさんの例えにも納得がいく。誰も傷つけないように、か。
「無関係な方たちを、傷つけるわけにはいきませんし?」
「だとしても、たった一晩で随分な変わりようじゃないか? 私が知りたいのは、何がお前をそこまで変化させたかだよ」
「そう言われましても、私は何も答えるつもりはありませんよ。それに、私はつまらないんじゃなかったんですか?」
つまらない私をそこまで気にする事は無いでしょう、そう聞くと、エヴァンジェリンさんはにやりと口端をつり上げて悪く笑った。
「ああ、そうさ。実につまらん。つまらんから、聞きだすついでに―――」
エヴァンジェリンさんが、何かを投げた。
「お前を壊してやろうと思ってな!」
投げられたのが大量のフラスコだと分かった時、私は反射的に地面を蹴り後退していた。
フラスコが爆発する。一瞬だが見えたフラスコの中身は液体で、おそらくは魔法薬の一種なのだろう。爆発の原因は、フラスコから大量の氷が精製された事によるものだった。
桜の木々や地面が凍りつく。これがエヴァンジェリンさんの魔法か?
「(おかしい)」
どうにも腑に落ちなかった。同じ氷の魔法でも、彼女の魔法の威力はもっと強力だったはずなのに。
「エヴァンジェリンさん」
「ふむ、今のを避けたか。まあ、少しは楽しませてくれるか?」
「力を、抑えられているんですか?」
「ッ」
エヴァンジェリンさんが驚いたように目を見開いた。
「なぜ知っている!!」
次いで叫んだ彼女に、やはりと思う。
おそらくは、登校地獄とは別の、学園結界が原因なのだろう。侵入してきた妖怪の力を抑えるものだが、それはエヴァンジェリンさんにも効果が及んでいるらしい。
私の推測は正しかったようで、どうやら先ほどの液体が魔法の触媒であると考えてよさそうだ。なら、触媒を消費させてしまうのがもっとも確実な方法か。
彼女自身が魔法を満足に使えないということは、触媒を無くしてしまえばそれ以上の魔法の使用が難しくなるわけだし。
「まあ、そう簡単にいかないんでしょうけど」
背後から急接近してくる気配を感じる。
突き出された右拳を体を捻って避け、逆にその腕を掴んで勢いをそのままに投げ飛ばす。
エヴァンジェリンさんの横に着地したのは、茶々丸さん。これで二対一、その事実に私はエヴァンジェリンさんに問いかけた。
「卑怯、と言ったらどうしますか?」
「魔法使いの戦闘に従者はつきものだ。まさか、それすら忘れる腑抜けになったか?」
「いえ。言ってみただけです」
とはいえ、厄介なのもまた事実。やるしかないのは分かっているが、エヴァンジェリンさんが大概に本気であるというのが分かって、溜息がこみあげる。
右手首にぶら下がる勾玉を掴んで、気を篭める。現れた夕凪を握り、左手を添えた。
「むっ、武器を持っていたか。何も持っていないから、妙だとは思っていたが……」
「ああした方が、持ち運びが楽でしたので。さすがに、呼び出しに丸腰で行けるほど、腑抜けたつもりは無いですよ」
「当然だ。にしてもお前、いつの間にそんな芸当を身につけた?」
「さあ……いつでしょうね」
首を竦めて惚けた。いつでと言われれば、私には未来でと答える以外に答えが無い。
けれどこの答えはエヴァンジェリンさんの機嫌を損ねさせたようで、彼女の唇がピクリと引き攣ったのを見た。
「まったく、変わったのは性格もか。随分と憎たらしくなったものだ……それとも、それがお前の本性か?」
「いえ、まさか。私の根本は、何も変わっていませんよ」
「ならば、なんだと言う?」
「……答えません」
足に気を篭めて、斬りかかる。
茶々丸さんが前に出て来て、それに対して私は躊躇も迷いも無く刀を抜いた。寸でのところで躱されはしたが、刀が制服を引き裂きボディを露わにする。けれど、それを確認する前に、後退した茶々丸さんとその背後からいなくなったエヴァンジェリンさん、そして頭上にばらまかれたフラスコに舌打ちをした。
「神鳴流、斬空閃!!」
フラスコが爆発し襲いくる氷の嵐を、気を篭めた斬撃でもって相殺する。
私の意識が頭上へ向いた隙を狙ったように茶々丸さんが身を屈めて接近し、左腕を突き出してくるのを自分で後方に飛ぶことで威力を弱める。受け身を取って体勢を立て直し、
「斬岩剣!!」
コンクリートの地面に向けて、刀を振るう。細かな石の礫となったそれは放たれた技の衝撃のままに吹き飛ばされ、追って来た茶々丸さんに弾丸となって襲いかかる。
「捕縛結界、五角楼」
「ッ」
茶々丸さんが怯んだ瞬間、彼女の背後に回り込みお札を貼りつけ体を拘束する。
捕縛結界、五角楼は相手を拘束、捕縛するためのものだ。相手の体に貼ったお札で体を拘束し動けなくすると同時に、標的を囲むようにして五枚の見えない壁が形成され外から遮断される。
自力で拘束を解くか、外部から結界を破壊するか。どちらにしろ、これで少しは時間が稼げるだろう。
「ほう、東洋の結界か。さすがにそれは、解除まで時間が必要かな?」
「はい、マスター。申し訳ありません」
背後から聞こえた声に、その場から飛び退いた。
可笑しそうに笑っていたエヴァンジェリンさんだが、何やら納得がいかないという表情をして私に問うてきた。
「しかし、何故だ? 最初のお前の一撃は、茶々丸を壊すつもりだっただろう?」
「クラスメイトの体を斬るのも、どうかと思ったんです。それに、絡繰さんを壊したらエヴァンジェリンさん、怒るんじゃないですか?」
「なんだ、私を怒らせたくないのか?」
「ええ」
力を制御されて魔法を満足に使えないとはいえ、勝ち負け以前に彼女とは戦いたくない。もっとも、彼女がそれを許してくれるとは到底、思えなかったが。
「どうしたら見逃してもらえますか?」
「言っただろう? 私はお前をそこまで変えたのが何か知りたいんだ。それが分かれば、まあとりあえずは、考えてやらんでもない」
「……分かったところで、なんだかんだ襲ってきそうな言い方ですね」
「ふっ、どうかな」
にしても、参ったな。答えたくないし、答えなければこのまま戦うのに変わりは無さそうだ。
考える私に、ああ、そうだ、とエヴァンジェリンさんは思いついたように笑う。
「お前のやる気を出させてやろう」
「なにをする気ですか?」
「そうだな、今ここで、私を倒せなければ―――近衛木乃香の血を貰う」
「………」
ドクンッ、と心臓が音を立てるのを聞きながら、そして脳の血管が何本か纏めてブチリと切れた感覚に気づきながら、けれど私は冷静だった。
エヴァンジェリンさんの言葉は、私が予想していたものと大差なかった。
このちゃんを引き合いに出された瞬間、過去の私なら激昂して斬りかかったことだろう。そういう私も、冷静に思考しながら怒りを抱いている事に変わりは無い。
「どうした、お前のその鞘にしまった刀で斬れるなら、存分に来るがいい。そこまでして近衛を守りたいならな」
「―――ええ、そうさせてもらいます」
ただし、
「刀から布は取りますし、鞘からも抜きますけどね」
湧き上がる怒りに身を任せるのではなく、理性で、冷静に、布を払って刀を鞘から引き抜く。
静かに、怒りで湧き上がる力は理性で制御して、私はこの刀を振るおう。
「神鳴流―――斬鉄閃」
放つと同時に走り出し、躱したエヴァンジェリンさんの懐に入り込んで右手に握った刀を振り抜く。
大きく横薙ぎに振るわれた刀を紙一重で躱した彼女の唇がニヤリと笑った。
「はっ、隙だらけだよ」
「そうでしょうか?」
飛び退く瞬間にフラスコをばら撒かれる。振り抜き伸びきった腕をそのままに、体を回転させてフラスコを宙へと巻き上げた。
頭上で爆発が起きる。足に気を篭めて地面を蹴り飛ばし、一気に詰めた距離で左手を突き出した。
「ッ!?」
彼女の脇腹を狙った左手は、けれど躱されるが確かにその肌を裂き血を流させる。
「なんだ……?」
躱したはずなのに負った傷に、エヴァンジェリンさんは訝しむようにこちらを睨んできたが、私の左手を見てすぐに納得がいったらしい。
「なるほど、気を使っているのか」
「あたりです」
斬魔掌、弐の太刀。手の先に気を集めて剣を成し、敵を斬る技だ。
本来ならば青山宗家ゆかりの者にしか伝承されない弐の太刀だが、幸いにも私はその技を教わる機会に恵まれた。
「っ……」
くらり、とほんの一瞬だが襲った眩暈に舌打ち。霞んだ視界に、浅く息を吐いた。
「(これだけで、か……厄介な体だ)」
斬魔掌、弐の太刀。過去の私は未だ習得していない技だが、使えはするもののその代償もなかなかに大きいようだ。
無駄な気を使っているのか、体への負担が大きい。多用は出来ないな。
「考え事とは、随分と余裕じゃないか」
「くあっ!!」
至近距離で、無数の爆発が起きる。体の全面で腕を構えて守りはしたが、その爆発の中からヒュッとエヴァンジェリンさんが飛び込んできた。
いくら今のエヴァンジェリンさんの腕力が小学生並みだと言っても、爆発による追い風と、的確に急所を狙って来た拳によるダメージは大きい。
「チィッ!!」
この距離なら刀を握る右手よりも、左手の方が早い。気を集め剣を作った左手を振るうと、エヴァンジェリンさんが急な動きでその場から飛び退いた。
「ははっ、その刀はなかなかに面白いな」
「そうですか」
「そうだ、桜咲刹那。訂正しよう、お前は昨日までのお前より―――面白くなった!!」
カラリ、と地面に転がったフラスコ。飛び退く瞬間に置いて行った置き土産に気づいてその中心から後退しようとした矢先、エヴァンジェリンさんが更にフラスコをばら撒いた。
私の頭上から降ってくるフラスコの雨に、一秒の半分にも満たない思考の後、刀を振るった。
「斬空閃!!」
「氷瀑」
爆発の寸前に、私は頭上へと斬撃を放った。直後に魔法の発動、襲いくる爆発から空へと跳躍する。
撃ち漏らしもあり、多少のダメージは覚悟の上。頭上へと回避した私の下で大きな爆発が起きる。
「凍れ」
「っな!?」
私の動きは読まれていた。飛びあがった私の背後に現れたエヴァンジェリンさんを振り向くよりも早く、魔法が私を襲う。
「っあああああああああ!!!」
至近距離で放たれたそれに、私は無様にも地面へと落とされた。
「っ、ぐぅ、う……」
どしゃりと叩き付けられた地面に、倒れた体を起き上がらせようと腕に力を篭めて、失敗する。
時折ぶれる視界の中、映った右腕と左腕はところどころが凍りついていた。足や頬も冷たいことから、おそらくはそこも凍っているのだろう。
体の芯から襲ってくる冷たさと受けた傷に、体が言う事を聞かない。視線だけを巡らせてエヴァンジェリンさんの姿を探すと、彼女は私の前に下り立った。
「この程度か。まあ、中々に楽しませてもらったよ」
「こっちは、楽しくない、ですけど……」
出来るならこれで終わりにしたいけれど、それは出来ない。私はまだ、彼女を倒せていない。
起き上がろうと、腕に力を篭めて体を僅かに浮かせては、地面へと落ちる。エヴァンジェリンさんが驚いたように目を瞠った。
「まだ立ち上がれるのか?」
「ええ、まあ………貴女を、倒さないといけない、ですから」
「近衛の為か」
不意に、不機嫌そうに彼女の眉間に皺が寄って、見下ろされる。
冷え切る体に浅く短い呼吸を繰り返しながら、私はそんな彼女の変化に首を傾げた。
「あの女の為に、どうしてそこまで頑張れる」
「それは……」
「昨日までのお前しかり、今日のお前も表面上は変わったが、結局は同じだ。何を思って、そうまでする」
「……エヴァンジェリンさんには、無いんですか?」
「なに?」
「護りたいもの」
体の内側に呼びかけて、背中に意識を集中させた。
大丈夫だ、私はやれる。まだ倒れない、まだ、まだまだ、戦える。
「護りたいもの、だと?」
「ええ」
「はっ、くだらん。悪の魔法使いである私が、護るだと?ありえんな」
「そうでしょうか。私には、貴女の護りたいものが、少なくとも一つは分かるつもりですけど」
「……なんだと?」
「茶々丸さんを傷つけたら、怒りますよね?」
大切だから、護りたいと思う。大切だから、傷つけられたら怒る。
それがたとえ物だろうと、人だろうと、家族だろうと、友人だろうと。大切ならば、何も変わりはしない。
大切だから、大好きだから。護りたいと思う気持ちに、違いなど無い。
「私は、このちゃんを護りたいんです」
このちゃんが大好きで、大切。
だから飛ぼう。護る為にこの翼を広げて、今度こそ。
「もう二度と、傷つけたくないから」
真っ白な翼が広がる。体の底から気が溢れて、パキパキと体を凍らせる氷を剥がす。
そうして私は、空高くまで飛んでいく。翼を広げて、空へと。
「護ると、決めたんです」
その為なら何処へでも飛んで行こう。誰よりも高く、飛んでみせる―――今度こそ。