★★ろくでなしSpace Journey★★(連載版) 作:埴輪庭
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ここからはフロンティア・ゼロに参加した者たちの話をしよう。
出発に先立ち、ディープダイブ・ドライブという技術について少し補足しておきたい。
広告のナレーションは空間の「下の層に潜る」という表現を使ったが、これは正確ではない。正確に述べるとなると量子重力理論の専門用語が百個くらい必要になり、その九割九分は読者諸氏のみならず筆者にとっても外国語であるので、だいぶ乱暴に要約する。
我々の宇宙は「膜」である。
非常に薄い膜の上に三次元空間と時間が乗っかっていて、物質も光もエネルギーも我々が知覚できるものは全てこの膜の表面に張り付いている。
テーブルの上にラップを一枚敷いたところを想像してほしい。ラップの表面に砂粒を撒く。砂粒がくっつき合い、くっつかなかった部分は透明なままだ。この砂粒が星であり銀河であり、透明な部分が宇宙空間であり、ラップそのものが我々の宇宙だ。雑な比喩であることは承知している。
ではラップの裏側には何があるのか。
バルクと呼ばれる高次元空間がある。テーブルの天板に相当するものだが、テーブルと違って底がない。上下もない。方角もない。広さという概念自体が意味をなさない空間が膜の裏側に広がっている。
ここで言う「広がっている」は便宜的な表現で、実際にはバルクを「空間」と呼ぶこと自体が正確ではない。温度がない。色がない。距離の概念が成立しない。時間が均一に流れるという保障もない。人間の五感が前提としている物理的基盤が根こそぎ存在しないのだ。
ディープダイブ・ドライブはこのバルクに船ごと「沈める」。
ラップに穴を開け、船体を裏側に押し出す。裏側を少し移動してから別の場所に穴を開けて表に戻る。ラップの表面の距離で百億光年離れた二点も、裏側ではなぜか至近距離に折り畳まれていることがある。従来のワープ航法がラップの上で紙を折るのに対し、ディープダイブはラップを突き破って裏を歩く。
発想としては画期的である。
結果としては──まあ、お察しだ。
ところでこのバルクなのだが、重力しか伝わらないと言う事は死にかけたスカンクでも知っている基礎的な知識だ。だが敢えて説明する。
光は通らない。電磁波も通らない。つまりバルクの中では何も「見えない」し何も「聞こえない」。船の外殻に張り付いた観測装置はバルク内では全て沈黙する。窓の外は暗黒か。いや、暗黒と呼ぶのも正確ではない。暗闇というのは光が無い状態のことだ。バルクでは「光が無い」のではなく「光という概念が存在しない」。闇ですらない空間。人間の目がそれをどう処理するかは、誰も試したことがなかった。
誰も。
これが最初の有人航行である。
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大型輸送船ヴァナディース号は標準的な事業団仕様の輸送艦を改造した船だった。
船体中央にディープダイブ・ドライブの球状モジュールが据え付けられ、百五十の二段式寝台と最低限の共用施設を備えている。医療区画はベッドが六つ。食堂は立ち食いカウンターが二本。娯楽設備は皆無。要するに人間を詰め込んで運ぶための箱だ。
出発の日、C66の軌道ステーション第三ドックに三百二十七人が集まった。
下層の人間が大半だった。金が要る連中ばかりだ。借金を抱えた者、逆手術の費用を貯めている者、家族への仕送りが足りない者。全員に共通しているのは報酬額の数字を見て目の色を変えたということだけで、フロンティア・ゼロの科学的意義に関心を持っている者は一人もいなかっただろう。
蛍光グリーンの逆立った髪がドックの雑踏の中でやけに目立っていた。BBモチダ。両腕のホログラムタトゥーのドラゴンが興奮に同期するかのように激しく火を噴いている。
「やべえ! やべえって! 宇宙の果てだぞ!?」
モチダは隣にいた男の肩を叩いた。ドンキー。灰色の肌をした惑星F440出身の大男で本名は誰も知らない。左腕が肘から先まるごとサイバネ義手に換わっていて、その無骨な金属の指でプロテインバーの包装を剥いている最中だった。
「うるせえ。食ってんだろ」
「だって果てだぜ? 観測限界の
モチダが大袈裟に両手を広げた。この男はもう何年も前から事業団の支社でターミナルの前に張り付いては依頼書を漁り続けている。Cランクにもなれないまま。報酬が高ければ高いほど飛びつく。条件を読まない。読んでも考えない。考える機能がそもそも実装されていない。
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出発前のブリーフィングは笑えるほど短かった。
事業団の背広がモニターの前に立ち、七分間で全てを済ませた。名前は記録に残っていない。
航行の手順。バルクへの潜行に際して意識の一時的な混濁が生じる可能性がある。生命維持装置は自動で稼働する。到着後の滞在は最大十二時間。復路も同様の手順で帰還する。質問は。
一つだけ手が上がった。
「安全なのか」
後方の席から低い声が言った。顔は見えなかった。
背広は零点三秒の間を置いて答えた。
「十分なシミュレーションを経ています」
シミュレーション、と背広は言ったがテストとは言わなかった。実証実験、とも言わなかった。三百二十七人の誰もその言い回しの微妙な差異に気付かなかった。気付いていたとしても気にしなかっただろう。彼らは報酬の額を見てここに来たのだ。安全の保障を求めてここに来たわけではない。
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ヴァナディース号がC66の軌道ステーションを離脱したのは標準時〇六〇〇だった。
まず通常のワープ航法でフロンティア・ゼロ作戦の中継ポイントであるセクターX―90宙域まで跳ぶ。そこでディープダイブ・ドライブを起動しバルクに潜行する。所要時間は潜行から浮上まで推定七分。七分で観測可能な宇宙の外に出る。
中継ポイントまでの通常ワープは問題なく完了した。窓の外に見慣れない星系が広がっていたがまだ「見慣れない」で済む程度の光景だ。既知の星座がいくつか歪んで見えるだけで、宇宙は宇宙である。
船内スピーカーからアナウンスが流れた。
『ディープダイブ・ドライブ起動シークエンスを開始します。全乗員は着座してください。潜行中は意識の一時的な混濁が生じる場合があります。これは正常な反応です。浮上後に回復しますので、ご安心ください』
安心しろ、と言われて安心できる人間はこの船にはいなかった。だが寝台に横になるか椅子に座るかした。全員がハーネスを締めた。
ドライブの起動音が船体を震わせた。
低い唸り。腹に響く重低音。歯の裏側に振動が伝わる。船の照明が一度明滅する。
七秒後──世界が沈んだ。
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沈む、という表現は比喩ではない。
エレベーターが下降するときの、あの内臓がふわりと浮く感覚。それに似ているがもっと深い。体が沈むのではなく自分という存在の位相が丸ごと下がっていく。骨も肉も意識もこの宇宙に自分を繋ぎ止めている全てのアンカーが外れて、底のない場所に向かって滑り落ちていく。
窓の外が消えたように見える。
だが消えたのではない。
窓の外に何もなくなったのでもない。
窓の外という概念が消滅したのだ。
人間の視覚は光の反射を処理するようにできている。光がない場所では「暗い」と感じる。だがバルクには光を伝える媒質そのものが存在しない。網膜に入力がない。脳の視覚野が処理すべき信号がゼロになる。
乗員の大半はこの時何を見たのだろうか。
暗闇ではなかった。暗闇は見たことがある。寝る前に明かりを消せば暗闇だ。瞼を閉じれば暗闇だ。これは違う。
入力がゼロになった視覚野が暴走する。信号がないのに像を生成しようとする。脳が見たことのない色の幻覚を映し始める。名前のない色。スペクトル上に存在しない波長。目を開けているのに目を閉じているのか分からなくなる。自分の手を顔の前にかざしても見えない。見えないのではなく「手」という概念が空間から剥落しているような感覚がある。
同時に、耳の奥で何かが聞こえた。
いや、聞こえたと書くのは語弊があるかもしれない。バルクでは音波も伝播しない。だが内耳の有毛細胞が何かを拾ったのだ。重力の微細な揺らぎだろうか。脳がそれを「音」として解釈したわけだ。
非常に低い。地面の下から這い上がってくるような唸り。周波数にして二十ヘルツを下回る超低周波。意味をなさない音だ。だが聞いていると腹の底が冷えてくる。歯の根が合わなくなる。何か途方もなく大きいものが、このバルクのどこかに、いる。いるのか。分からない。分からないことが何より気持ち悪い。
そして七分後、浮上。
ドライブの唸りが止まり船体が一瞬だけ大きく揺れて、窓の外に光が戻った。
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最初に声を上げたのはモチダだった。
ハーネスを外し千鳥足で窓際に駆け寄り、外を見て、黙った。
それからゆっくりと振り返ってこう言った。
「…………なんだよ、これ」
窓の外に宇宙があった。
だがそれは彼らの知る宇宙ではなかった。
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夜空を見上げたことのある人間なら誰でも知っていることだが、星と星の間は暗い。当たり前だ。宇宙の体積の約八割はボイドと呼ばれる超空洞で、そこにはほとんど何もない。人間が「星空」と呼ぶものは実のところ泡の膜の上にまばらに散った光の粒にすぎず、泡の中身は空っぽなのである。
ここには泡がなかった。
光を放つ球体がぎっしりと空間を埋め尽くしていた。隙間がない。星と星の間に闇がない。C66の下層居住区で夜空を見上げると小指の爪ほどの面積に星が三つか四つ見えるが、ここでは同じ面積に数百、数千の光源がひしめいている。空全体が一枚の発光する壁と化していた。
色がおかしかった。
我々の宇宙の恒星は赤か黄か白か青だ。スペクトルの中に収まる。ここの光源は収まらない。窓の正面に見える星が橙色だった。橙色なのは確かだ。だが視線を少し外して窓の端のほうでその同じ星を見ると青緑に変わっている。正面に戻すと橙色。視線を外すと青緑。玉虫の羽に光を当てた時に角度で色が変わるやつを思い出してほしい。あれだ。あれの宇宙版。ただし玉虫の羽は構造色という物理現象で説明がつくが、こちらは説明がつかない。
モチダは窓に額を押し付けたまま盛大に嘔吐した。人間の脳は見ている色を処理できない時に吐く。三半規管がおかしくなった時の船酔いに近い。色酔い、とでも言うべき現象だった。
もう一つ、おかしなものがあった。
光の繊維だ。
我々の宇宙にも銀河フィラメントと呼ばれる大規模構造がある。銀河が数珠つなぎになって数億光年規模の繊維を形成し、宇宙全体に網の目のように張り巡らされている。だがそれは静止画のようなものだ。動かない。人間のスケールで見れば石の彫刻みたいに微動だにしない構造である。
ここのフィラメントは動いていた。
数百万光年規模の光の繊維がゆっくりと収縮し弛緩し、また収縮する。心臓の拍動をスローモーションで見ているような律動。視界の右端から左端まで延びる光の筋が、数秒に一度びくりと痙攣する。
生きている、と誰かが呟いた。
もちろん生きてはいない。フィラメントは生物ではない。だが人間の脳は「周期的に動くもの」を「生き物」と分類する傾向がある。脈動する光の繊維が視界を埋め尽くしているとき、それを「風景」と認識し続けるのはかなり難しい。巨大な生き物の体内にいるような感覚がじわじわと這い上がってくる。
大半の参加者が窓に張り付いてぽかんと口を開けていた。恐怖を感じるには、まず眼前の光景を理解しなければならない。理解できないものを怖がることは人間にはできない。だから彼らは怖がらなかった。ただ呆然としていた。
最初にそれを言語化したのは参加者の中にいた男だった。以前別の船で観測技師をやっていたらしく、個人のデータロガーを持ち込んでいた。
「……規模がおかしい」
男はデータロガーの画面を見ていた。バルクを抜けた今、通常の電磁波観測は再び機能する。船のセンサーが拾った数値を読み顔色を変えた。
「この構造のスケール、俺たちの宇宙の銀河フィラメントの数千倍ある。こんな密度で物質が集まったら自重で潰れるはずなんだ。なのに安定してる」
男はそこで口を閉じた。
物理定数が我々の宇宙と異なる。口に出すと本当になりそうで怖かったのかもしれない。なぜならそれが意味する所は、この場ではあらゆる常識が覆され、どんなトンチキな事でも起こりうるという事だからだ。
この宇宙世紀に於いても、「景気が悪い事を言うとそれが実現してしまう」というような非科学的な戯言が一部で信じられている。
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滞在時間は十二時間と決められていた。
その十二時間のあいだに参加者たちはこのおかしな宇宙を眺め続けた。例の男はデータロガーで黙々と数値を記録し続けていた。科学的な成果としてはそれなりに意義のあるデータだったのかもしれない。
だが参加者たちの大半にとってその十二時間は「見たことのない景色を見た」以上の意味を持たなかった。
金のために来た連中だ。宇宙の果てがどれだけ壮大だろうが星の色が何色だろうが、報酬が振り込まれるかどうかのほうが千倍重要である。
だがもし。
もしも彼らに数億年の寿命があったなら。もしもこの船がここに数億年間留まり、窓の外をずっと眺め続けることができたなら。彼らは目の前に広がるこの一面の光がゆっくりと同じ方向へ動いていることに気づいただろう。
光源の一つ一つがではない。一面の光の全体が。一枚の巨大な面として。
何百万光年規模のフィラメントを血管のように走らせ、スペクトルに収まらない色で明滅するこの光の面が、途方もなく緩慢に、だが途切れることなく、一方向へ移動している。
それが何を意味するのか──。
だが彼らの寿命は数億年もなかった。十二時間の滞在では何一つ動いていないように見えた。だから彼らは何にも気づかなかったし、気づかなかったことを知ることもなかった。
十二時間が経った。
船内スピーカーが復路のアナウンスを流した。
『帰還シークエンスを開始します。全乗員は着座してください』
なんだよ、楽勝じゃねえかというような笑みを浮かべて席につくろくでなし共。彼らは皆、無事に、五体満足で帰れると思っていた──おめでたい話だ。