★★ろくでなしSpace Journey★★(連載版) 作:埴輪庭
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ヴァナディース号のディープダイブ・ドライブが二度目の起動シークエンスに入ったのは滞在終了から四十分後だった。
乗員は全員着座しハーネスを締めている。一度経験した潜行だ。記憶の混濁と不気味な超低周波と名前のない色の幻覚は愉快なものではなかったがしかし、耐えられないものでもなかった。そもそもだがこの場にいる者の大部分が違法なドラッグでさらにプリミティブな原風景を幻視した事がある。耐性はあるのだ。ゆえに大半の者が「まあ七分くらいならね」という顔をしていた。
ドライブが唸り始めた。
船が沈む。
二度目の潜行は最初の三秒で違いが分かった。
一度目は「滑り落ちていく」だった。今度は「引きずり込まれる」だ。エレベーターの下降ではなく溺れる感覚に近い。水面にいたはずなのにいつの間にか水中にいて、足が底につかない。
窓の外から光が消え、あの概念以前の「何もなさ」が船を包んだ。
超低周波が来た。往路の時よりも明確に聞こえた。唸り。地面の下からではなく、船体の外殻そのものが振動しているかのような。奥歯がきしむ。眼球の裏側がじんじんする。
七分が経った。
浮上。
ドライブが止まり窓の外に光が戻る。船内の照明が明滅してから安定した。
モチダが目を開けた。
「…………」
隣を見た。ドンキーが座っている。目は開いている。口も少し開いている。
「おい、ドンキー。着いたぞ」
返事がない。
モチダがドンキーの肩を叩く。ドンキーの体が揺れた。目は開いている。呼吸はしている。だが応答がない。
船内を見回すと同じ状態の者が何人かいた。座席に座ったまま目を開けて呼吸だけをしている。それ以外の機能が停止している。
「体調不良だろう」と誰かが言った。
ここでこの航行を中止する判断がなされていれば何人かは助かったかもしれない。だがヴァナディース号にはそんな判断を下す権限を持った者が誰も乗っていなかった。この船に乗っているのは三百二十七人の日雇いとAIの自動操縦だけだ。事業団の職員は一人も乗っていない。
観測スキル持ちの男が計器を見て首を傾げていた。
浮上座標がずれている。
往路の潜行開始地点に戻るはずが、予定座標から約〇・八光年ずれた地点に浮上していた。この時点ではまだ致命的な問題ではない。通常ワープで修正可能な範囲だ。
AIの自動操縦が修正ワープを提案し、その前にもう一度ディープダイブで予定座標まで跳ぶことを試みた。
三度目の潜行。
船が沈んだ。
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三度目の浮上で、船は予定座標に戻らなかった。
今度は〇・八光年どころか、十二光年ずれていた。
AIが再計算し四度目の潜行。
浮上。座標ずれ。今度は九十光年。
潜るたびにずれが拡大していた。
そして五度目の潜行の後、船は浮上しなかった。
正確に言えば浮上できなかった。ドライブは浮上シークエンスを実行している。だがバルクの膜を突き破る工程が完了しない。沈んだまま浮かない。船体がバルクの中に留まり続ける。
七分が経っても浮上しない。十分。十五分。
超低周波がいよいよ大きくなる。船体の壁が共振して低い唸りを上げ始めた。照明が明滅を繰り返す。
船内でまともに動ける者はすでに半数を割っていた。三度、四度と潜行を繰り返すたびに「戻ってこない」者が増えている。座席に座ったまま呼吸だけをしている体が増えている。
モチダは動けた。
「なんだよこれ! なんで浮かねえんだよ!」
叫んでいた。蛍光グリーンの髪を両手で掴んで叫んでいた。
二十三分後。
唐突に浮上した。
だがそれはまともな浮上ではなかった。浮上と同時にまた沈む。沈んでまた浮く。浮いてまた沈む。膜の表と裏を痙攣的に行き来し始めた。
バウンスである。
制御系が完全に崩壊していた。ドライブが膜を突き破るたびに船体が大きく揺れ、照明が消え、数秒後にまた点く。消え、点く。そのたびに乗員の脳は「分解」と「再統合」を強いられる。バルクの中では意識を構成する情報が薄く引き延ばされる。膜の表に戻ると再び凝縮される。それが数十秒おきに起こる。
分解。凝縮。分解。凝縮。
七回目のバウンスの後にはパニックを起こす者はいなくなった。パニックを起こす能力が脳から剥がれ落ちたからだ。
モチダが叫んでいた声が途切れた。
「……あれ」
蛍光グリーンの髪から手を離し、ぼんやりと虚空を見つめている。
「俺、なんで叫んでた?」
誰にともなくそう呟いて、静かになった。
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十一回目のバウンスで、座標ずれが船の内部に波及した。
最初に気づいたのは通路にいた男だった。
右手を壁についていた。壁から手を離そうとした。離れない。
見ると小指が壁にめり込んでいた。
めり込んでいるのではなかった。小指の骨と肉と爪が、壁の合金とモザイク状に混合していた。小指の内側に灰色の金属の粒子が散在し、壁の表面に小指の爪の白い断片が埋まっている。接合面がない。どこまでが指でどこからが壁なのか判別できない。
男は叫ぼうとしたが声が出なかった。九回のバウンスで声を出す機能がすでに剥がれ落ちていた。
十三回目のバウンスの後。
通路の壁から腕が一本突き出していた。肘から先。指が五本広がっている。壁面から直角に生えている。根元は壁面と融合しており、引き抜くことは不可能だ。腕はまだ動いていた。指がゆっくりと握られたり開いたりしている。
天井から脚が垂れ下がっていた。膝から下。裸足の足指が照明の光の中でぶらぶら揺れている。
食堂の床のパネルから人間の顔が覗いていた。半分だけ。左目と鼻と口の左半分が床の表面に露出し、右半分はパネルの下に沈んでいる。露出した左目が瞬きをしていた。口が動いているが声は聞こえない。口腔が床の金属と融合しているからだ。
医療区画の隔壁に胴体が半分埋まった男がいた。胸から上は通路側に出ているが腰から下は隔壁の向こう側にある。心臓は動いている。肺も動いている。隔壁の反対側に回ると、そこからは男の臀部と両脚が突き出していた。上半身と下半身が隔壁を挟んで別々の空間に存在している。男は息をしていた。息だけを。
融合部分を詳しく見ると、それは「めり込んだ」のでも「貫通した」のでもないことが分かる。人体と船体が分子レベルで混合しているのだ。金属の格子構造の中にコラーゲンの繊維が組み込まれ、骨のハイドロキシアパタイトの結晶と合金の結晶が交互に配列されている。鋸で切ること自体は可能だろう。だが人体と金属の境界がない。どこで切れば人体だけを取り出せるのか誰にも分からない。
ドンキーのサイバネ義手について書いておく。
十五回目のバウンスの後、ドンキーの左腕は座席の肘掛けと融合していた。サイバネ義手の金属と座席のフレームの金属がシームレスに繋がっている。元の義手のチタン合金と座席のステンレスが一つの連続した合金になっている。人間の肉体と船体の融合と違って接合面が滑らかだ。金属同士の融合は生体と金属の融合よりもずっと自然に見える。ドンキーは自分の左腕が座席と一体化していることに気づいていなかった。その頃にはもう何かに気づく機能が残っていなかったからだ。
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二十三回目のバウンスを最後に、船は浮上した。
今度は沈まなかった。
ドライブが停止した。座標を確認するとC66の軌道ステーションから約二百万キロの地点だった。バルクの中を痙攣的に跳ね回った末にほぼ正確に出発地点の近くに戻ってきたことになる。
自動操縦が生きていた。通常推進で軌道ステーションに向かう航路が設定される。
船内の照明は点いている。生命維持装置は稼働している。空調が低い音で回っている。
座席に座っている者たちがいた。
融合を免れた者たちだ。約百名。全体の三分の一弱。ハーネスに固定されたまま座席に座っている。目は開いている。呼吸は正常だ。心拍も正常だ。
だがそこに人間はいない。
二十三回の分解と再統合を経て意識はバルクに取り残された。肉の箱だけが膜の表に戻ってきた。
蛍光グリーンの逆立った髪はそのままだった。ホログラムタトゥーのドラゴンは沈黙している。もう火を噴かない。両腕のホログラム回路に電力を供給する体内の小型バッテリーは動いている。だがタトゥーの表示パターンを制御する脳の信号が来ない。ドラゴンは炎を上げる命令を永遠に待ち続けるだろう。
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ヴァナディース号がC66の軌道ステーション第三ドックに自動接舷したのは出発から七十二時間後だった。
通信に応答がなかった。
事業団の回収班がハッチを開けた。
以下は回収班の報告書から抜粋した数字である。
船体構造と融合した腕:四十七本。
船体構造と融合した脚:三十一本。
床面から露出した頭部(完全または部分的):十二。
天井から垂下した四肢:九。
隔壁内に胴体が埋没した状態で心肺機能を維持していた個体:五。
座席に着座したまま自発呼吸のみを行っていた個体:百三。
上記いずれにも該当しない遺体(完全な形を保ったもの):ゼロ。
回収班の班長が船内を一周した後、ハッチの外に出て嘔吐した。
事業団は「航行中の制御系異常による事故」として処理した。参加者三百二十七名。生還者ゼロ。この数字は後日C66の地方紙に小さく掲載されたがトップ記事にはならなかった。同日の一面はグリーゼ581星系で新種の鉱石が発見されたというニュースだった。
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君はコイントスに救われた。表が出たら行く、裏が出たら行かない──そしてコインは裏を向いた。それだけの話だ。
そしてモチダの死はペイシェンスのそれほど君の心をかき乱す事はなかった。依頼でたまたま出会った男である。せいぜい、「あらら……」くらいのものだ。ただ、君があのコイントスで表を出していたら。あの三百二十七人の中に君の名前があったら──。
君は今ここにはいなかっただろう。