ノクチルの四人が通う学校で、放課後に男子生徒が階段から落ちて怪我をした。事故かと思われていたが、その男子生徒は不思議なことを言い出した。曰く、「踊り場の鏡に手招きされた」と。浅倉たちはその言葉を受けて、学校に伝わる七不思議の幽霊を探し始める。
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七題の不思議
「あ、いた」
六時間目も終わりに差し掛かった頃、教室の隅でそんな声があてどなく響いた。声の主——
透はそろそろと、人差し指の傷に親指の腹を当てがって、血を止めようと押さえつける。かろうじて指に乗っていた血が親指に押し潰されて、赤い模様をさらに広げる。鋭い痛みはだんだんと強くなる。透は恨めしそうに指を見つめ続けた。
その姿勢のまま数分が経っただろうか。黒板に問題の答えを書きつける教師の声を遮って、授業の終了を告げるチャイムが鳴った。教壇で声を張り上げる、まだ話し足りない様子の彼には目もくれず、生徒たちは教科書を机の中にしまい始める。教室がにわかに騒がしくなるこの瞬間は、青春の熱気を最も端的に表している。彼らにとって勉強とは、若さの副作用のようなものなのだ。
そして透も例に漏れず、机に掛けてあったリュックサックを机の上に無造作に置いて、早々と帰り支度を始める。辺りでは、放課後の予定を楽しげに話すかしましい声が鳴り響いている。透は、自分とは無関係に奏でられるその交響を聞くともなく聞きながら、静かに痛みを主張する人差し指に意識を向ける。自分だけの静寂にその身を置いて、潰れた鞄に突っ伏し、帰りのホームルームが始まって終わるのをただ待っていた。
しばらくして、六時間めの授業を担当していた教師と入れ替わる形で、クラス担任が騒がしい教室の中に入ってきた。彼は教卓の前に到着するや否や、片手を振って日直に号令の合図を出す。速やかにホームルームが開始される。形式的な手順をなるべく簡潔に行う点は、彼が生徒からの支持を集めている理由の一つだ。連絡事項の伝達、明日の予定、そして帰りの挨拶まで、全ての演目がベルトコンベアに乗っているように済まされる。ひと足さきにホームルームを終えたどこかのクラスが廊下を歩いていくのを横目に見ながら、透はその担任の言葉を全て聞き流していた。やがて号令がかかり、クラスメイトが我先にとカバンを引っ提げて出口に歩き出す。少ししてその波も収まると、教室には、友人と話しながら部活の開始を待つ数人の女子生徒と、携帯電話の画面を見せ合いながら熱心に何かを話す男子生徒の一群しか残らなかった。
ややあって、それらを眺めていた透がやおらに立ち上がるのと同時に、一人の女子生徒が教室へ入ってきた。透はその来客を見つけると、机の上で干物みたいに平たく伸ばされた鞄を掴んで彼女の方へと向き直る。彼女——
「また筆箱忘れてるでしょ。教科書も入ってないし」
「あ、そうじゃん。グッジョブ樋口」
円香はため息をついて、いそいそと帰りの準備を始めた幼馴染を見る。机の中から筆箱と教科書を数冊取り出して、潰れた鞄のなかに押し込んでいるところだ。教室に差し込む西日の中で、浮き足だった埃がちらちらと光る。
「英語のプリント、明日までだっけ」
「クラス違うんだから知ってるわけないでしょ」
「そっか。……これは?」
透は教科書と教科書の隙間から滑り落ちてきた紙を拾って机の上に置いた。扇子のように折り畳まれたそれには数学の問題が印刷されている。
「それ、たしか先月のじゃない? もう手遅れ」
「あちゃー、残念。出さなきゃいけないやつ?」
当たり前だ、と答えようとした円香は、透が出してきた紙に赤い液体が付いているのに気づいた。それがまだ乾いていないことを見てとると、円香は教科書の上に置かれた透の右手を取って見る。
「これ——」
「あー、さっき刺さっちゃった。眠くて」
「意味不明。なんでそんな……」そこまで言って、円香は込み上げていたため息を吐いた。「保健室行って、絆創膏とか貰ってきたら」
「やっぱ、したほうがいいのかな。絆創膏」
「撮影のときに傷が残ってたら面倒でしょ」
透は円香の言葉を受けて鷹揚に頷いた。先ほどより少し重くなった鞄を肩に掛け、円香に、「行こ」と短く呼びかけて、ゆっくりと歩き出す。円香はその後を追って、これまたゆっくりと歩く。まるでこの二人の間でだけ共有されている特定のリズムがあるかのように、二人はゆっくりと同じペースを保ったまま教室を後にした。
保健室へと向かう透とその一行は、昼間の喧騒を忘れていく校舎の中を歩きながら、毒にも薬にもならないような会話に花を咲かせていた。こういった会話が生産される場所として、学校は最たるものだろう。道中で合流した後輩二人組——市川雛菜と福丸小糸も加えて、四人は人の気配が失せた廊下を歩いていく。
薄暗くなった教室に囲まれて、未だ煌々と明かりのついた保健室は一際目立っていた。透が引き戸に手をかけて躊躇いがちに開ける。ドアの開いた音で保健医が顔を上げると、透は血の滲む人差し指を立てて、「怪我しちゃいました」と告げた。その言葉を聞いた保健医は、掛けていた椅子から立ち上がって透のもとへ歩く。
「傷はそんなに大きくないね。針でも刺さったの?」
「シャーペンが刺さっちゃったんです。眠くて」
「眠くてって、眠気覚ましにシャーペンで指をチクチクやってたわけ? それで怪我してちゃ世話ないよ」
彼女はそう言って、透を部屋へと招き入れた。所在無げに立つ透を壁際の硬いソファに座らせて、キャスター付きワゴンを引き寄せる。手慣れた仕草で消毒液とガーゼを取り出して処置を始める。傷が沁みたのか、透の眉間に皺がよる。
「これいつの怪我? そんなに時間は経ってないみたいだけど」
「えっと、六時間めの終わり頃です」
透が保健医からの質疑応答をしている間、三人は扉の外で彼女を待っている。一人は心配を顔に浮かべながら、一人は退屈そうに保健室を眺めながら、一人は無関心な風でスマホを触りながら。三者三様に保健室の透を待っていると、図らずも扉前を占拠する形になっていた三人へ、背後から声がかけられた。
「ごめんね。急患だからそこ、空けてくれるかしら?」
「——すみません、塞いでましたか」
声に振り向いた三人は、左足を庇うようにしながら立つ男子生徒と、彼に肩を貸す女子生徒を見て、扉の傍に身を寄せた。女子生徒は三人に礼を言うと、肩を持つ彼のぎこちない歩きを支えながら、保健室に入っていく。透の時より数倍増しの心配を顔に湛えた保健医が、彼女らの元に駆け寄る。二人がかりで彼を小さな丸椅子に腰掛けさせ、先ほどから浮かせていた左足を診はじめた。治療を終えた透が、彼女らを避けて出口へと歩いていく。
「透ちゃん、指大丈夫だった?」
「うん、このままで治るって」
保健室の様子を気にしながら、透は小糸の質問に答えた。絆創膏が巻かれた指を億劫そうに何度か曲げ伸ばしして、違和感の残るアクセサリーを指に馴染ませようとする。保健室の中では、顰め面で足首を撫でながら保健医の問診に答える男子生徒がいる。どうやら透はそれが気がかりなようだ。
「透先輩?」雛菜が透の顔を覗き込む。
「今日ってさ、ダンスの日だっけ。レッスン」足首を挫いた彼を見て思い出したのか、透が尋ねる。
四人が予定を思い出そうと、脳内のカレンダーを検索する。降って湧いた沈黙の中で、保健室からの声が唐突に響いた。
「七不思議の幽霊に手招きされたんですよ! 四階西階段の幽霊に!」
二本の枯尾花
保健室からの声に透が振り返る。厄介事の訪れを予感して、頭の中で警鐘が鳴りはじめる。この類の直感が外れたことは、残念ながら一度もない。新しいおもちゃをプレゼントされた子供のように見開かれた彼女のこの目を、私はこれまで幾度となく見てきた。透の突発的な興味のセンサーは、降ってわいた不思議にことさら強く反応するようにできているのだろう。長らく幼馴染として隣に立ってきたからこそ、彼女の興味があの男子学生の妄言に移ったことは手に取るようにわかった。
「七不思議……」
透が小さく呟く。ここから大人しく家に帰るよう軌道修正するのは、もはや不可能だ。私はこれまで幼馴染として、間近で透の振る舞いを見てきた——その経験から見るに、透はいま、あの男子生徒が発した七不思議という言葉に魅了されている。こうなった透を動かしているのは、幼児的とも言えるような直感だ。
「透ちゃん……。早く帰らないと、レッスン、遅れちゃうよ?」小糸が心配を眉に乗せて問いかける。
小糸の言葉に生返事を返して、透は依然、保健室を見つめている。正確には、保健室で足首の処置を受けている、名も知らぬ男子生徒をだ。いま透の頭の中では、彼女にしか理解できない計算式が目の前の不思議を解こうと忙しく走り回っているのだろう。一度そのスイッチが入ったら、透はそれ以外の雑多な信号を全てシャットアウトしてしまう傾向がある。
先の小糸の言葉通り、今日はダンスレッスンの予定が入っている。透をこのまま七不思議とやらに拘泥させるのは得策ではない——頭の中の冷静な私はそう告げる。ならばどうするか。私の思考はそこで止まる。目的地に辿り着くには谷を飛び越えなくてはならないことに気づいた旅人のように、私の思考はある一つの結論を導き出していながら、それを前にして足を踏み出すことに躊躇していた。
ゆっくりと頭を切り替える。意味の無い脳内会議を切り上げて、一つため息をついた。実のところ、この状況に陥った透を家に帰す方法を、私は知っている。透が自分の中にある大きな疑問に足を取られて進めなくなっているのなら、その疑問を解決してやればいいのだ。私の経験上、無理やり手を引いてこの場を離脱するよりも、即興で謎解きを演じて見せて、透の疑問を解決したように見せた方が何倍も効果がある。一般に、力でどうにかするよりも上手く言いくるめたほうが、かかる労力は少ない(私はこの個人的な教訓を、北風と太陽のメソッドと呼んでいる)。問題は、私が当意即妙に透の納得できる虚構を作り上げる、という方法の労力と道徳性だろう。
私は思考を切り上げて透の手を掴む。透が鷹揚に私の方を向いた。
「浅倉、邪魔になってる。どうするの? 帰るか、それとも——」
私はそこまで言って、透を見遣る。視線が交錯する。
「——うん。気になるかも、七不思議。樋口も?」
「そんなわけ……。さっさと終わらせたほうが、早くレッスンに行けるでしょ。先に片付けたほうが合理的ってだけ」
透は私の言葉に満足そうに頷いて、人気のない廊下を歩き出した。目的地はおそらく、男子生徒が言っていた四階だろう。雛菜と小糸も、浮かべている表情に差はあれど、先頭の透についていく。私は半分ほど開いたままだった保健室の扉に手をかけて、ゆっくりとスライドさせる。過度なダイエットに注意を促す張り紙が目に入る。閉められた扉の向こうからは、談笑するような声が聞こえてきた。私は大きなため息を一つ吐く。
話がついてから、私の胸の中では後悔が大きく膨らみ始めていた。いつかのような探偵の真似事を再演しなければならないことに対する、自己嫌悪の混じった後悔だ。数学の問題ならいざ知らず、現実の物事に対して都合の良い答えを張り付けて納得させるという行いは面白いものではない。どう理由付けをしてみたところで、結局のところ私はこれから透を騙して、丸め込もうとしているのだから。赤の他人相手ならまだしも、透たち三人の幼馴染相手にその場しのぎの嘘をつこうとしているという事実は、そう簡単に割り切れる話ではない。
私は保健室の扉から手を放して、透の後ろについて歩く。沈殿した憂鬱を再びため息にしながら、これからやることになる謎解きごっこの内容を考える。透はいつも通りの歩調で寒々しい校舎を進んでいる。雛菜は透の腕を持ってその横に並んでいる。小糸は七不思議の話題が出たときから浮かべている不安そうな顔のまま二人の後を追って歩いている。校庭から聞こえてくる号令の声が、ラジオの混線のように遠く聞こえていた。
「透先輩、うちの高校の七不思議の話、知らなかったの?」
夕焼けの色をした階段を上りながら、雛菜は透に尋ねた。彼女の高い声は、静まり返った校舎の中で、至る所に反響する。まるで放課後という時間の全てが、数時間前のうるさかった学校を懐かしんでいるように思える。
「うん。聞いたこと、ないかも。昔からあったやつ?」
「雛菜が入学したときにはあったと思うけど……。小糸ちゃん、初めて聞いたときすっごい怖がってたもんね〜」
「だ、だって、あの先生が怖そうに話すから……。みんなも怖いって言ってたし……」
話を聞いた時のことを思い出したのか、小糸が顔を青くして応える。
「それで、その『四階西階段の幽霊』は、どんな話なの」
私は小糸に尋ねた。
「えっとね、確か——四階の西階段では昔、足を滑らせて死んじゃった女の子がいるんだって。そして、その女の子が恨みを持って幽霊になって、四階西階段の鏡から手招きして、階段を降りている人を落とそうとする、って話だったと思う」
鏡から幽霊が手招きするとは、いかにも恐ろしげな場面だ。もし本当にそんなものが見えたなら、階段で足を滑らせるのも無理はないだろう。その七不思議自体は寡聞にして知らなかったが、学校の怪談としてはありそうな話だ。
「そんなの、どうせ嘘。誰かの作り話でしょ」
「え〜。円香先輩、つまんないの〜」
「それに、あの怪我してた人も一緒にいた人も、両方とも生徒会の人だよ。一緒にいた人は副会長さんだったはず……。すごく真面目な人みたいだし、そんな嘘つくかなぁ……」
私の理性的な見解は即座に却下されてしまった。おおかた雛菜も面白半分でついてきているだけなのだろうが、この件を手早く終わらせたい私の味方は、どうやらここにはいないらしい。
少しして、目的地である四階に到着した。この時間の西階段には窓から西日が差し込んで、あたりの一角を橙に染め上げている。金属の手すりに光が反射して、階段には奇妙な光の模様が描かれていた。透は階段の一番上に立って、踊り場を見下ろす。面積の広い踊り場の上には大きな窓が開けていて、そこからはもう人のいない中庭が一望できる。踊り場の横の壁には大きな姿見が据え付けられている。姿見の額には掠れた文字で、「第一六期卒業生寄贈」と書かれてあるのがかろうじて読める。
私はその鏡に触れる。鏡面に少し傷の目立つ、冷たい鏡だ。掃除が行き届いていないのか、灰色の粉のような埃が額に付いている。こうして踊り場に立って正面から向かい合わないと、この鏡に全身を映すことはできない。入学してから今まで、この鏡を何度、視界のうちに収めたことだろう。私は数えきれないほどこの鏡の前を通り、自分の姿を写している。それなのに、私はこの鏡が七不思議とやらの題材になっていることも、学校の卒業生が寄贈したものであることも、全く知りもしなかった。いくつかの偶然がなければ、私はこの鏡を
「これがその鏡? なんか、普通ってかんじ〜」
雛菜が私の横に立って鏡を覗き込む。雛菜の言う通り、この鏡自体に、怪談の種となるようなおどろおどろしさは感じられない。学校の中に溶け込んで、一切の奇怪さも嗅ぎ取れそうにない。例の怪談において重要なのは、この鏡ではなさそうだ。
透に呼ばれて、私は鏡の前から離れて階段を登る。透の横に並ぶと、踊り場の大きな窓から、鮮烈な西陽が街の家々を覆う景色が見える。私は思わず目を細めた。隣を見ると、透はまばゆい陽を正面から受け止めるように、目を開いて外を見ていた。その透き通った瞳に琥珀のような輝きを宿して。透は、暗い夜に最後の置き土産を残そうとする太陽の輝きを、すっかりその双眸に取り込んでしまった。そしてそのまま、静かに立っている。
私は透を見つめる。茜色の西日の中で、彼女は悠然と立っている。私は、ステージの上でライトを向けられる映画スターを連想した。強いスポットライトの光を浴びながら、彼女は一層に輝いている——端に埃の寄った階段や、壁に張られた部活動の勧誘ポスター、私たちの声が反響する廊下、そんなものをすべて上塗りするように、煌びやかなステージの幻想が辺りを埋める。最後には私まで、この空間と時間から乖離して、そのイメージの中に浮遊する。
——一瞬の思考。
ちら、と脳裏に、小さな発想のかけらが生まれた。
そのインスピレーションは、私を現実へと引き戻した。
「樋口、なんか分かった?」
透が私に尋ねる。
「いや、特に。あの言葉が嘘だったってだけでしょ」
私は少し逡巡した末に答えた。透はわずかな落胆を顔に滲ませて、また正面に向き直る。私の胸では、いやに実感的な後悔が芽を出していた。
「そっか。嘘だったんだ、やっぱ」
寂しげなその声を聞いて、私の後悔は震える。この後悔は、いわば二重の後悔だ。探偵の真似事などはなから断るべきだった、という後悔と、透に嘘をついた、という後悔。私は本当なら、透の「何か分かったか」の問いかけには肯定を返すべきだった。それを否定したのは、ただ私の臆病さに由来する恐怖心のためだった。私の飛躍したインスピレーションが、私の内面にある欲望を反映した鏡像のように思えたからだった。それを透に話すのが、ただ怖かったのだ。
小糸の話では、あの男子生徒は生徒会の役員で、保健室まで肩を貸していた女子生徒も、同じく生徒会の副会長だという。嘘などつきそうにない真面目な性格、他の生徒からはそう思われている。
ここからは私の勝手な想像だ——おそらく、あの二人は恋愛関係にあるのだろう。それも、周りにそれを隠した形での。
彼らは放課後、この四階西階段からほど近い生徒会室で作業をしていたのだろう。作業がひと段落して、彼らは二人で一緒に帰ることにした。そうして茜色に染まる西階段までやってきた。恋人同士で見るこの光景は、作業終わりで疲れた彼らにとってさぞロマンチックに映ったことだろう。もしかしたら、二、三の睦言を交わしたかもしれない。そしてその最中——男子生徒が見惚れて足下の注意を疎かにしたか、あるいはキスでもしようと歩み寄ったか——男子生徒は足を滑らせて、階段を転げてしまった。保健室に行くと怪我の原因を訊かれるが、スキャンダルを恐れる彼らは、本当のことを言うことができない。そのため、二人で咄嗟に四階西階段に伝わる怪談話を元にした作り話をすることによって、難を逃れようとした。もしかしたらその共謀までも、秘密の交際を続けるあの二人流の戯れだったのかもしれない。
もしかすると、四階西階段の鏡についての怪談は、昔にあの階段で西陽にあてあられて転んだ慌て者が、転んだ理由を訊かれて作った笑い話だったのかもしれない。時間が経つにつれて、その話から怪談の部分だけが語り継がれるようになった——いかにもありそうな話だ。そもそも、階段を降りている時には視線と鏡面が平行になるので、鏡が何を写しているのかを見ることはできない。踊り場に立たないと鏡を見ることはできないが、その状況は怪談と矛盾する。もとより粗製された無理のある話なのだ。
私は再び横の透を見遣る。今の彼女は、初めの勢いはどこへやら、すっかり気落ちして口をつぐんでいる。落胆と納得を混ぜ合わせた顔——昔、透に付き合ってクリスマスにサンタクロースを捕まえようとした時のことを思い出す。あの時もこんな顔をしていた——を浮かべて、幽霊などとても出そうにない鏡を見つめている。窓から差し込む日を反射するそれは、おどろおどろしい怪異譚とはあまりにもかけ離れている。
「樋口」
透が呟く。私は彼女の方へ顔を向ける。
「やっぱ、いないのかな。幽霊」
透が問いかけた。寂しげな声だった。私は何か言葉を返そうと思い、頭に湧き出たいくつかのフレーズを脳裏に並べてみる。そのいずれもが、今の透の望むものではなさそうに思えた。次の台詞に迷う私を見て、透は何かを察したように口を開く。その幻滅を言わせたくなくて、私は咄嗟に言葉を吐く。
「もしかしたら——」
そこまで言って、私の言葉は喉につかえた。これは、あまりにも幼稚な発想だ。下手なジョークのような私の考えを言うべきか迷い、一瞬の沈黙が作り出される。
「樋口?」
透が首を傾げる。覗き込むように目が合う。私が隠した言葉を見つけ出そうとしているように、その目は離されない。私は慎重に言葉を続けた。
「——死んだ後なら分かるんじゃない。もしかしたら、自分が幽霊になるかもしれないし」
透は驚いたように目を開く。ゆっくりと口角が上がっていく。どうやら私の答えはお気に召したらしい。私の型落ちの偽善も、少しは役に立ったみたいだ。透はゆっくりと口を開く。
「そうじゃん。幽霊になったら、見えるようになるかも、幽霊」
「かもね。知らないけど」
「じゃあ、行くよ。幽霊になったら、樋口のとこに。幽霊になったよーって、言いに行く」
透はいつも通りの穏やかな笑みでそう言う。私はその時の場面を少し想像した。よくある怪談話のように、曇った鏡に文字でも書いてくれるのだろうか。あるいは夢枕に立って、あの世の近況でも教えてくれるのか。そのさまが少しおかしくて、私は微笑む。
「やめて。——そうなったら、きっと死ぬほどびっくりするから。私まで幽霊にしないで」
「ふふっ。樋口、お化け怖いの?」
透の言葉を黙殺して、私はポケットから取り出した携帯の画面を透に見せた。ロック画面には、太陽の傾き具合に相応しい、そして今の私たちにとっては少々都合の悪い時刻が表示されている。透は数秒のあいだそれを見つめる。やばい、と囁くように透が言った。
一篇の怪談話
透は、すでに放課後のアトラクションに飽きた様子の雛菜と、しきりに時計を気にしている小糸に声をかけた。レッスンに遅れるからもう帰る、という旨のことを告げて、透はゆっくりと階段を降り始める。雛菜は透の肩に手を置いて、同じペースで足を出している。他の七不思議も見てみたいな、と透が呟く。七不思議をよく知らないから分からない、と雛菜は答える。小糸はそんな二人の後を歩いている。もう七不思議は怖くなくなったのか、恐る恐るに辺りを見渡してはいない。
来た時より少しだけ伸びた三人の影を踏むように、私も四階に背を向けて階段を下り始める。きっと、あの三人の中では、もはや四階西階段の幽霊は興味を引く対象ではなくなったのだろう。結局、謎解きなど始めから不要だった。そんな大層なことをしなくとも、今の時分に幽霊の存在を心から信じているのは少数派だ。科学の進歩が声高に叫ばれる現代において、もはや幽霊や妖怪の類は居場所を失ったのだ。私が否定しなくとも、既に幽霊の存在は世界に否定されている。
だからこそ透は、その絶滅した神秘を追い求めたがったのだろうか——私はそこまで考えて、思考をシャットダウンした。明らかに考えすぎだ。脳の中の想像力豊かな部分が暴走しているらしい。私は大きく息を吐いて、肩のカバンを掛け直した。
「樋口、帰らないの?」
しばらく立ち止まっていたのを不審がったのか、透が階下から私に尋ねた。
「いや、忘れ物がなかったか、思い出してただけ」
私の答えに頷いて、透は前に向き直る。さっぱり人気のない校舎という見慣れない景色の中で、あの三人だけが浮き彫りにされて、眩しいほどの光が当たっている。校舎に満ちる薄暗い静寂と、それを破るように響く話し声が、さながら放課後の二側面性を表しているようだった。それはある種の希望を伴う解放であって、また空恐ろしいほどの虚脱でもある。
踊り場まで降ったところで、ふと壁の姿見に目を向ける。今回の小さな騒動の中心でもあり、そして脇役でもあった鏡だ。この学校の七不思議の一つに数えられているらしい(この鏡にまつわる話以外の六つを、私は寡聞にして知らない)が、正面からじっと見据えてみても、恐ろしげな印象な微塵も受けない。思えばそれがいちばんの不思議かもしれない——こんな怖くなさそうな鏡の話が、七不思議としていまだに語り継がれているという不自然さ。もしかしたらこちらの問題は少し考える価値がありそうだが、私はそれも早々に切り上げて、姿見の前から離れた。
そのまま踊り場を下ろうとしたところで、視界の端に何か動くものがあるのを感じた。それから、私の横を誰かが通ったような感覚。階段を下ろうと一歩を踏み下ろそうとしていた私の右側で、誰かが小走りのまま階段を登っているのを感じた。私は思わず振り返る。
当然だが、振り返った先には何もない。その姿勢のままで動けずにいると、再び視界の端に何かを捉えた。例の姿見のある方向だ。私はそれに目を向ける。
鏡の中に写っていたのはほんの一瞬だけだった。私と同じ制服を着ている女生徒。私が見えたのは彼女のスカートの端と細い脚だけで、それ以外の部分は鏡に見切れて見えなかった。彼女は鏡の中の校舎で、急いだ様子で階段を登って四階へと向かっていったように見えた。
はたして、私が見たものが本当に実際として存在していたのかは分からない。だが、少なくとも私はそれを目にした。答えの見つからない疑問が生み出した幻視か、あるいは「幽霊はいる」という彼女からの秘密のメッセージか、何にせよ私にはそれが見えた。
「——樋口、どうしたの?」
驚いて硬直する私を見かねて、階下から再び透が声をかけた。私はそれを受けて、透の方を向く。彼女の眉は明白に心配を表明している。
「いや、大丈夫」私は答える。「忘れ物は見つかったから」
「円香先輩、急ぐんじゃないんですか〜?」
「あんたらに追いつけないと思ってるの? すぐ行く」
私は少し急いで階段を降りて、小糸の横に並んだ。何かあったのか、と言いたげな目を向ける小糸の頭を撫でて、私は階段を降りていく。
もしかしたら、私は後で保健室に寄って、鏡の中の彼女の冤罪を晴らしてやるべきなのかもしれない——そう考えて、私は少し笑った。
「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだから決して間違うはずはない」といった。
という見物人の台詞の一段落。