宿儺が伏黒を救う理由は術式ではない。
確かに十種影法術は宿儺ほどの実力者が運用すれば、そのポテンシャルを十全に発揮するに至る超強力な術式と呼べるだろう。しかしその術式を奪う事自体は目的に対する付随効果でしかない。
あくまでも目的は受肉。
宿儺の指を取り込んだ時に絶命しない器としての耐性が伏黒恵には存在し、自身を封じ込める虎杖の肉体から移り変わり自由となる事が、宿儺が伏黒を救う理由の神髄と言える。
魔虚羅を処理した今、もちろんここで伏黒に移り変わる事も出来なくはない。
しかし虎杖悠仁という前例がある以上は、肉体の主導権を得るのは確実なタイミングを狙う必要があると考えており、そのために宿儺は伏黒の精神が大きく揺らぐ瞬間を見定めている。
今はまだその時ではない。
生まれて初めての殺人をこなすだけの覚悟、魔虚羅を呼び出して自己犠牲すら組み込む度胸。
気絶しているとは言えある意味で今の伏黒のメンタルは絶好調。【
(そう考えれば裏梅はいい時に来てくれた、相変わらず痒い所に手が届く。さて、伏黒恵を術師共に届けたはいいが……)
家入硝子が待機している場所へ気絶した伏黒を届けておけば後は勝手に治療される。そこは問題無い。そもそも宿儺にとって問題らしい問題など無い。
だが、問題が残る。
「……まだ時間が余っているな」
正史に於いて虎杖と宿儺が入れ替わった正確な時刻は不明だ。
渋谷事変の報告書は後に高専上層部へ提出されているが、七海達と陀艮との会敵が二十二時二十分頃であるのを最後に、その後宿儺が現れた後まで報告書には時間が掲載されていない。
前述の次の報告時刻は家入硝子が
また日下部が夏油一派の残党に遭遇する直前が二十三時一分である事は報告されており、直後の戦闘余波から既にこの頃宿儺と漏瑚は戦い始めていた可能性が高い。その直前の美々子と菜々子との問答や漏瑚が指十本全てを食わせる時間、また漏瑚と宿儺の会話時間も存在しているが、高専の術師が現場に居なかったためこの一連は報告書に記載が無い。
その後伏黒恵が呪詛師の重面相手に魔虚羅を使用したのが二十三時五分から七分の間。この間に伏黒の居る現場からも漏瑚の落とした隕石の振動が伝わっている事が確認されている。
そして宿儺と魔虚羅の決着の後に道玄坂109前にて虎杖悠仁が肉体の主導権を取り戻したのは二十三時十四分である事が分かっている。
ここで仮に、無理やり導き出す場合を考える。
要点となるのは宿儺と漏瑚の戦闘時間だ。これを今回は魔虚羅との戦闘時間を参考に仮定する。
二十三時七分に宿儺と魔虚羅が相対し、戦闘、勝利、その後に宿儺は重面を殺害し伏黒恵を家入の元へ届けてから、道玄坂SHIBUYA109前に二十三時十四分に戻り虎杖と入れ替わる。
この一連が七分である。
次に宿儺の速度を考える。
というのも、伏黒恵が倒れている109付近から家入の待機する首都高速三号渋谷線渋谷料金所までは直線距離にして約八百メートルある。宿儺はこれを往復しているため最低でも千六百メートルの移動が伴う計算になる。
宿儺の限界速度は全く判明していないが、遭遇した術師達の報告から目にも止まらぬ速さである事が分かっている。
人間の動体視力の限界を超えるためには、対象との距離や個人差によって必要速度が異なる。人間の視野角は両目で計およそ百二十度と言われており、また人間が捉えられる景色の変化速度の限界は多くの場合、毎秒百二十回程度だと言われている。勿論その内の一回だけにある変化を意識的に感知できるかはまた別の話だが、術師のような戦闘に身を置くような人間はそう言った機微に敏感だ。
つまり百二十分の一秒で視野角を駆け抜ける速度がいわゆる『目にも止まらない速度』のラインとなる。
詳細な計算は記述を省くが、もしも宿儺が目撃者の十メートル先中央から視野外まで移動し、これで目にも止まらぬ速度を発揮する場合は秒速約二千メートルの速度が出る事になる。
即ち宿儺は往復千六百メートルを数秒で移動するポテンシャルが十分にあると言えるだろう。
負傷した伏黒恵の運搬に際しての負荷を考慮すればこの速度を宿儺が出しているかは疑問が残るものの、基本的に渋谷内での移動について時間を考慮する必要は無い事が伺える。
結論として、魔虚羅との戦闘開始から虎杖と入れ替わるまでの七分間のうち、会話分などを差し引いてもおよそ六分は全て戦闘に費やす時間と考える事が十分に出来る。
続いて漏瑚戦だ。
魔虚羅と漏瑚の上下関係は不明だが、仮に漏瑚との戦闘が魔虚羅との戦闘と同じ時間行われたと考えた場合、これも少なく見積もって六分程度となる。
決着は伏黒が術式の開示をしている最中。
二十三時五分から七分の間で、仮に中間の六分だとした場合の漏瑚との戦闘開始はその六分前である二十三時。
日下部が夏油一派に遭遇する直前の時刻が二十三時一分であった事を加味しても矛盾は無い。
そして漏瑚との戦闘前の美々子と菜々子、漏瑚との会話については多く見積もった場合でも五分、現実的には二分か三分程度となると考えざるを得ないだろう。
魔虚羅との戦闘とその他の細事を含めた七分。
漏瑚との戦闘を六分。
その前後の会話を少なく見積もった場合は二分。
計、十五分。
これが指十一本を一度に摂取した宿儺の、最も短く見積もった顕現時間だ。
今回ある男が一秒だけ変えたこの世界では、一本を取り込んだ後に十分適応に足る時間が空く。仮に十五分を等しく十一分割し、十本分に重ね直すとおよそ十三分半は宿儺が肉体の主導権を得る。
そして宿儺が現れたのは二十三時五分。
魔虚羅の召喚も術式開示を行わなかった分で手前にずれ込みそのまますぐに戦闘が開始され、六分後の二十三時十一分に魔虚羅は撃破され、伏黒の治療運搬で計一分弱を費やした。
現在七分。
最低で残り六分半を宿儺は自由に過ごす事になる。
しかし最早この戦場に、宿儺と戦う駒は無い。
(……裏梅が居たという事はこれを仕掛けたのは恐らく
一時的に自由を得た宿儺の目的は、自分がまた戻った時に虎杖の苦しむ様子を眺めて
そして既に一般人の大量虐殺を果たした上で、加えてそれが最も効果的に成せるのは当然一つ。
「確か術師は五条悟を助けに向かっているんだったな」
高専術師の殺戮だ。
松濤文化村ストリートの帳外で救急隊が一人の女性に肩を貸していた。その女性は自分に背中を向け帳へ戻ろうとする二人に対して声を掛ける。
「ダメっすよ釘崎さん、真希さん……!」
声を掛けるのは補助監督の新田だ。彼女は重面との戦闘により下半身を負傷しているため救急隊員に支えられているが、しかしこの場で戦う覚悟を決める術師二人は違う。
とはいえそれをみすみす良しとする事も出来ず、健気に新田は説得し続ける。
「七海さんも言ってたでしょ、それに……家入さんのことを釘崎さんに黙ってたのは」
「私がこういう無茶に出るのを防ぐためでしょ。
釘崎は新田の台詞の続きを奪って自己評価を示す。何も自分は何も分かっていない意地っ張りなわけではなく、冷静さと覚悟を持って戦い続けるために行くと判断したのだと。
「私もそもそも捕まえた呪詛師を連行するために一時離脱しただけだからな」
真希も同じように戦場へ戻るつもりだが、彼女は釘崎とまた一段階だけ別の感情を宿している。
確かに建前上は美々子と菜々子の連行役を与えられたが、あれは明らかに七海によって危険な戦場から逃がされた形だった。それも決して気遣いではなく純粋に足手纏いだった。それ自体は認めた。
だがそれでも釘崎と同じように、真希もまだ戦っている友人や後輩が居る中で自分だけは待っているなど出来ない。
二人とも七海によって守られて、同じ理由で歩み出す。
そのうち禪院真希だけが『七海の傷の重さ』も背負う。
この二人が言葉で踵を返す事は無く、そして釘崎と真希を仮に無理やり止めようとしても、それが果たせる実力がある人間はこの場には居なかった。
しかもこの問答をする時間は真希の到着によって、新田がわざと遅らせた分の回収予定時刻より四分だけ早くなっていた。
正史の場合は帳に入る手前、本来であれば道玄坂の小道にて釘崎は真人の分身と遭遇する。
だがこの世界では真人の分身は魔虚羅によって消滅した。釘崎と真希が渋谷駅へ向かう道中に居たのは、
「あっ、パンダ!」
「おっ、野薔薇と真希!」
目立つ白黒の呪骸と二人の顔見知りの術師だった。