脱兎の戦闘力はほとんどゼロだ。攻撃力も防御力も回避力も全てが低い。
しかし核となる一匹から無限に増殖出来る特性から攪乱として非常に優秀であり、例えば通路や視界を埋め尽くし得るだけの物量がある。視界内に思い浮かべるだけで動きを作れる投射呪法を、出だしから妨害出来る数少ない方法の一つだった。
とはいえ直毘人相手にそれが何分も足止めとして機能するかというとそんな事は無い。
直毘人は記憶の間取りから虎杖目掛けて改めて投射呪法で攻撃する。その移動の追突だけで脱兎は十分殺せていた。
しかしこの数秒、或いはもっと短く一秒程度だったかもしれない時間差によって虎杖は移動させられており、直毘人の蹴りは壁を砕くに留まった。
「玉犬か」
先に出していたのだから使わない筈はない。まだ虎杖を咥え引きずる姿が捉えられる範囲に居るが、多少開けていた視界もすぐに兎の式神で埋まる。そしてこの隙に伏黒は通路を抜け、虎杖を地上まで戻してしまうだろう。
そうなれば【
視認出来る内ならば『上に逃げる相手』程度は造作も無い。直毘人はまず玉犬を追う。
故に、彼に攻撃する真希に背を向ける形となり、またもその回避に投射を使わされた。
(っ……! 通してしまうか!)
その投射の移動の余波でまた脱兎が潰れ視界が開ける。
伏黒は一旦玉犬を消し【
このカエルのような式神もまた単体性能は低いが、長い舌で術者を掴み高速に移動させられる。これを直毘人を挟んだ反対側に出して出口側まで伏黒は抜けていた。
正史では伏黒恵は、フィジカルギフテッドの禪院甚爾からすらも何分も逃げる。ロケーションの差、荷物が一人、相手のやる気、多くの変化点は存在するが、ここでもまた同じように禪院が伏黒を追う構図となった。
伏黒が逃走に使う式神は、まず攪乱の脱兎は必須、そして最高速の運搬を考えるならばやはり基本は玉犬だった。
複雑な駅構内には何か所も分かれ道や隠れる部分がある。本来であれば真っ直ぐに地上へ上がるのが理想とは言えそれをみすみす許すほど禪院家当主は甘くない。駅構内の回り道は必然だった。
そして生まれた時間でただ息を殺し続けるほど伏黒恵という男は愚鈍ではない。思考を回し続け着実に解析を重ねていた。
(あの超スピードは自由度が思ったより高くない。宿儺と違って素のスペックじゃない、間違いなくあの爺さんの術式が絡んでる。真希さんと七海さんが言ってた相手をフリーズさせる技も、触られない限り発動しない)
禪院家の術式ではあるが、真希も直哉戦で相対して初めて詳細を理解する事になる投射呪法の情報は現時点では多くない。
しかし伏黒恵の観察眼は術師の中でも、何発かの攻撃のやり取りで【あべこべ】を見抜けるほどに明らかにずば抜けていた。
狭い通路の床に脱兎を敷き詰めつつ、曲がり角の向こうへ虎杖を隠して一旦玉犬を消した。
その通路の向こう側で肩から流れる血に疲れ始めている直毘人の姿がある。だが相手も警戒心を持つ。
(今まで視界を埋め続けていたのに、今になって掃けた。この狭い道、確実に何か仕掛けて来るな)
直毘人はいくつかの攻撃を予測し、その際の最適な自身の動きを想像しておく。複数の動きのパターン、一秒の投射の後に連続で畳み掛け、相手の攻撃すらも読んだカウンター前提の動き。
一方同じく伏黒もカウンター狙いだ。
(コースは絞った、あの超スピードは後手に回ると流石に反応しきれない。目で追うな、タイミングだ。タイミングを外せば虎杖は殺される)
ピリピリとした読み合いが二人の思考に交錯した。
直毘人の術式が稼働する。
その軌道は一直線……ではない。
(脱兎を影にして足を取るつもりだろう?)
禪院家相伝の術式を用いた戦法を、禪院家当主が想定出来ない筈が無かった。
その軌道は壁を蹴り、天井を跳ね、床に無数に埋まる脱兎を一匹たりとも踏まなかった。その拳は伏黒の少し後方、曲がり角に隠された虎杖悠仁へと直接向かい、目撃した。
虎杖の更に向こうで隠れ構えていた蝦蟇の舌が、虎杖を狙う自分の位置に向かってあらかじめ伸びているのを。
伏黒は、直毘人が【
冷静に考えて、伏黒の術式の事を調べ指導していたのは五条悟、つまり五条家の人間だ。御三家間に於いて他家の人間が知れる情報を本家の人間が知らないという事は無いだろう。
しかも特に相伝の術式に関しては情報が多い。自分が思いつくような事を過去の人間が思いつかない筈はないと伏黒は考え、相手が裏をかきやすい土台を整えていた。
更に幸運は続く。
(よし、合わせた!)
蝦蟇の舌は直毘人に命中する。本来蝦蟇の舌は打撃力が低いが、直毘人の速度が生み出す相対的な威力によってのダメージと、相手の動きの鈍りを伏黒は狙っていたのだが、伏黒が得たのは一つの情報だ。即ち……
(あれは、動きのフリーズ!?)
直毘人の作った動きが蝦蟇によって阻害され、直毘人は一秒間のフリーズを受ける。本来ならば攻撃がそのまま伝わり静止画化が割れてしまうのだが、蝦蟇の威力の低さが功を奏し、逆にフリーズを維持させた。
フリーズ時間は一秒。
伏黒がこれで逃げ切れるというわけではないが、しかし相手にもペナルティの存在する術式であるという情報は伏黒にとっては大き過ぎる戦果だ。
(流石に焦ったか……!)
直毘人が焦る間にも蝦蟇で虎杖は回収され、その後脱兎がまた空間を埋め尽くす。伏黒本人から叩いていればまだ勝てただろうと後になって気付いても、結局その判断が先に出来ていない以上は読み切られていたと認めるしか無かった。
(相手も動きがフリーズするならそれを狙わない手は無い! 問題は条件だ。攻撃を当てたらなのか、別の条件を満たしたのか)
逃げながら伏黒は思考を続ける。
この条件を彼が割り出すのは時間の問題だった。
一方で残された七海と真希にはあの二人を追うだけの足は無い。
しかしこの場に来た事は無駄では無い。無駄にしてはならない。
「虎杖君の事は今は伏黒君を信じるしかありませんね。それよりも貴方達に訊かなければならない事があります」
七海は半身に深い負傷を負っているが、しかし漏瑚の炎を受けていないお陰もあり、これでもまだ余力が存在している。
通路の端で事態に置いて行かれた少女二人に彼は詰め寄り、鈍い声で尋ねた。
「仲間の数と配置は?」
答えが来る事を期待してはいない。大人としてこの問答を通らずに相手を殴る事を割り切れない、七海の生真面目さが生んだだけの言葉だった。
美々子は黒い髪の下から深い敵愾心を向け睨んだが、反面菜々子は彼女の手を繋ぎつつも地面に落ちたスマホの残骸に目を向け、震える声で切り出した。
「じゃあ教える代わりに、こっちの願いを聞いて」
「……言ってみてください」
七海は低い声でそう返し、菜々子は決死の形相で告げる。
「……下に
彼女達には知識が無かった。故に黒幕との協力契約に於いて、協力の暁に夏油の肉体を解放するという約束を『縛り』にし損ねてしまっていた。だがそれは逆に言えば、彼女達は縛りという概念に触れる事が意図的に遠ざけられていた反証とも言える。
もしも黒幕側の情報を喋らないという縛りを結ばされていたのならば、彼女達もまたそれに倣い黒幕との契約を縛りとして取り扱うに至った筈だ。
彼女達の口封じのし易さも理由としてあるが、つまり、彼女達の協力条件を縛りにしないために、彼女達には情報隠蔽の縛りが掛けられなかったのだ。
だがそれもある意味では、彼女達の自意識の弱みでもある。
正常な取引関係を知らないが故に、彼女達は自分達の立場の弱さを弁える事が出来ていない。もし取引を持ち掛ける相手を見誤っていれば、いくら態度が
実際今の状態であろうとも七海と真希を相手にするには、美々子と菜々子は弱過ぎる。
「夏油さんの肉体を乗っ取り五条さんを封印した相手となると、私一人ではまず出来ません。何よりそれは前提として、貴方達の情報が先に必要です」
しかしここに居るのは、唯我独尊の怪物ではない。
社会を経験している一人の大人だ。
「ただ、夏油さんを解放したいというのが願いであれば、情報を喋るのであれば私達は協力します」
美々子と菜々子の人生に於いて、頼る事の出来る存在は夏油とその仲間のみだった。
生まれ育った村でも迫害され、自分達を拾った夏油は呪詛師、自分達も去年の百鬼夜行では何人も殺している。高専に顔を出せた筈も無い。夏油の肉体を乗っ取った者に自分達では勝てない。残る望みは宿儺くらいのものだったのだ。
しかしこの異常事態を以ってして、奇跡的に彼女達は初めて、正しい頼り方というものの片鱗を認識したような気がしていた。