二十三時五分。渋谷マークシティエスカレーター横ESPACE日拓前の路地付近。
伏黒が丁度魔虚羅を召喚したのと同時刻の出来事だった。
「あの呪霊が私欲に走った以上、これは私の役目だ」
重面との戦闘開始時に伏黒が隠した虎杖を見つけ出し、裏梅が漏瑚から回収した宿儺の指を取り込ませた。虎杖悠仁の肉体は十本もの指を同時に摂取する事に適応が追い付かず、これにより宿儺を抑え込む事が一時的に出来なくなる。
裏梅としてはこの時代に於いて宿儺への挨拶をまずしたいというのが内心だったが、表出した宿儺は即座に魔虚羅の気配を感じ取り伏黒の死亡回避を優先事項としてこの場を去り、一旦裏梅はその判断に従って言葉早々に引き下がった。呼び出しの本来の目的である肉体の主導権を得る縛りを虎杖と結ばせるという点にも、宿儺が気にする素振りが無ければ問題ないのだろうと裏梅は信頼した。
宿儺表出のタイミングの差と重面の術式の後押しが絡まなかった事により、正史に於いては間に合った魔虚羅の標的である重面の救出が今回の真人には間に合わなかったが、それでも撃破直後には到着する事が出来た。
そして真人の分身が消えた今でも伏黒が仮死状態である事から宿儺であれば十分推測が成り立つ。
(恐らく道連れの形で調伏の儀に巻き込んだ呪霊の本体が別の場所に居るな。そっちに向かわせ祓われると儀式終了、伏黒恵の死も確定してしまう)
宿儺は易々と反転術式により致命傷のみは蘇生しておき、ひとまず魔虚羅が沈んでも伏黒が死亡しないようにする。
「死ぬな、オマエにはやってもらわねばならんことがある」
あべこべ戦、陀艮戦、直毘人戦、重面戦、分身真人戦、その数々の傷が塞がり伏黒恵の心臓は再び安定した鼓動を得た。それから宿儺は魔虚羅へと近付き、反応するように魔虚羅も宿儺へ近付く。
(伏黒恵を生かすには異分子の俺がこの式神を倒し、調伏の儀を無かった事とする)
宿儺の内心で決まる方針も、対戦カードも場所も時刻も同じ。
「……味見、といった所だな」
分岐した世界の先でこの戦闘だけは唯一、正史と全く同じ流れを辿る事になる。
幾多の攻防、破壊の影響、宿儺の解析、魔虚羅の適応、それは決め手の手段も同様。
【領域展開
巨大な口を中身に宿し頭蓋を祀る生得領域の象徴が、井の頭通りと宇田川通りの分かれ道の手前に現れた。
この領域は他の者とは異なり結界で空間を分断しない。敢えて逃げ道を与える縛りにより最大半径は二百メートルの必中効果範囲を持つが、今回は伏黒恵への影響を考慮し半径を百四十メートル地上のみに絞る。
しかし宿儺の考慮はあくまでも伏黒恵ただ一人。その範囲に存在する敵味方市民建物その一切を絶え間なく切り刻み続けるのだが、避難する一般人を誘導していた狗巻棘はこの攻撃に巻き込まれる範囲に丁度立つ事になってしまう。
領域が結界で閉じられない故に、最終的に狗巻の負傷は片腕に留まる事になるのが正史の流れだ。
そしてこの世界でも狗巻棘の行動は基本的に変化が無い。
細かい事象に変化が波及しながらも、特異点のように結局変わらない宿儺と魔虚羅の戦いは同じく激化する。
狗巻棘はメガホンを持ち呪言で人々を誘導する。場所は文化村通り付近。宿儺の領域範囲のギリギリ。
そして全てを切り刻む鋭い呪力が空気に満たされ、この時も変わる事無く狗巻棘の左腕はその効果範囲に食い込んでいた。
ただし、
「――【シン・陰流 簡易領域】ッ!」
生き残る事にずば抜けた男、
正史に於いて漏瑚の隕が墜落する地点に居た事で日下部は長時間瓦礫に埋まり、崩れて潰される事を避けるためにパンダの救助まで全く動かなくなるが、今回の凍星には宿儺の遊び心のような誘導が存在していない。故に落下地点は渋谷ストリーム前から更に北北東へと逸れる事となり、そこから遠ざかって渋谷駅を回り込む形で宿儺の領域地点の付近まで移動していた。
丁度この寸前で狗巻と合流していた日下部は、頭でまさかと思いながらもこれに咄嗟に狗巻を巻き込み、事が始まるのを視認して直感が正しかったと分かった瞬間に狗巻を引っ張って自分も共に逃げた。
簡易領域は基本的に領域展開を使えない者が領域から身を守るための領域であり、術式が付与されていない。
宿儺の領域相手に日下部の簡易領域が稼いだ時間は僅か一秒。
しかしその一秒で腕一本分、狗巻の体を数十センチ引っ張って助ける事は十分に可能だった。
(結界が閉じてないのに領域だなんてあり得ねえだろが!)
日下部が内心でそう悪態を吐いても、自分が何かしらの攻撃の気配を感知して構えた簡易領域が『剥がされる』という事象は通常の術式攻撃の影響とは明らかに違う。
だが今はその現実を見るしか無く、そしてそれ以上に目の前で避難していた一般人が粉微塵と化す凄まじい光景から、パンダと狗巻を連れ遠ざかる事だけが日下部に今出来る事だった。
七海の顔の寸前まで来ていた真人の手が消える。
しかし七海の視界から消えたわけではなく、その姿は『薄い一枚の板に閉じ込められた姿』としてまだあった。
「コイツが
禪院直毘人の合流、その投射呪法の術式効果によって真人は一秒間フリーズする。
その隙を七海は逃さず渾身の一撃を七対三に当てる。
「っ、助かりました……!」
満身創痍で七海が礼を告げると、隻腕の老人はその隣で吹き飛んだ真人の方へと向き直る。
「礼は後で貰い受ける。もっとも儂ら両方生き残れたらだが」
「確かにあの呪霊はまだ立ってきます。もっとまともに攻撃を通すには虎杖君の力が必要ですが……」
「これはまた因果だな」
真人は再び立ち上がる。形だけは流血したりしているのだが、これが実際にダメージになっているというのは希望的観測だろう。七海は経験上この真人に対する攻撃が異様に通じにくい事、虎杖の攻撃が自分と比べてかなり効きが良い事を認識している。
だがしかし事態はそこまで簡単ではない。
「直毘人さんに訊くのは変ですが、虎杖君と伏黒君はその後どうなりましたか?」
七海が尋ねると直毘人の顔からいつもの荘厳な笑みは薄まる。今この場でこうして会話しているのは、真人が直毘人の向かいたい方向を塞ぐような立ち位置に居るからだが、内心では七海を囮にする選択肢すら一考するほどだった。
その理由は虎杖の状況にある。
「今、上では宿儺が暴れている。指を食わせる前に器を殺す事が出来なかった以上、あとは五条悟の奪還しかない」
禪院直毘人の狙いは一貫して虎杖悠仁の殺害にあったが、逃げ切られた伏黒をそのまま早期に発見しても虎杖は重面との戦いの前に隠されていた。そして最終的に虎杖を発見出来たのは、既に裏梅が指を食わせ終わり宿儺が目覚めた瞬間だったのだ。
そうなれば最早対処は不可能。唯一現状に希望を見出すとすれば当初の目的に立ち返る、即ち渋谷駅地下五階で獄門疆に封印されている五条悟を救うしかもう道が無かった。
それを七海は重々理解した。そして真人が自分の身に何が起きたのかを考えている間に鈍い声で提案する。
「直毘人さんは先に地下五階へ向かってください。ここは私が引き受けます」
一片も驚く事なく、むしろこの判断こそが正常だと考えているかのように直毘人は聞いているが、冗談抜きの真剣さで言った。
「両腕があったらそうしたが、呪霊のレベルを見ている限り今の儂が一人で向かってもそれは実現しない。囮には下でなってもらう必要があるな」
それは七海を助けたいという意味では到底無い。現実的な話としての事実を羅列しただけだ。
一級術師二人の意見は同じだった。今目の前に居る真人の危険性以上に、メカ丸と美々子菜々子から共有された、地下五階で待ち構えている夏油の肉体を乗っ取った黒幕の実力は計り知れない。
故に七海を連れて行かなければいくら直毘人でも話にならない。
そのためにはここで真人を祓い切るしかなかった。