目が覚めたら古代メソポタミアにいたんですが 作:加藤ブドウ糖液糖
――私たちは、いわば、二度生まれる。一度目は存在するために、二度目は生きるために。
ルソー『エミール』より――
古代エジプトのミイラは現在に至るまで、およそ3000年以上の月日を眠り続けている。その中で最も有名なミイラは何か。これは世界の誰であれ、ツタンカーメンという答えに異論を唱える者はいないだろう。彼と同じく、歴代のファラオのミイラも、状態を問わなければかなりの数残存している。その内ペピ二世の先代のファラオであるメルエンラー一世は、現存するファラオのミイラの中では最古のものだ。それらは古代エジプトの大司祭のように、髪がそり落とされ、頭には法帽を被せられている。生前の姿を現したマスクにはコブラをつけた冠を戴いており、胸部には生前ファラオが好んでいた胸飾りが何重にもつけてあるのだ。
壁画やアクセサリー、神を表すシンボル。ピラミッドに代表される厚葬の風習は、言うまでもなく来世の幸福に繋がるものであった。しかし我々の目から見れば、ミイラが単なる干からびた死体であることも確かだ。我々が精神の座として認知している脳は、古代においてさほど重要視されてはいなかった。脳はかき混ぜて液状にし、鼻から流して捨てるもの。ミイラを作る人々は、この灰色の柔らかいゼリーを概ねそのように認識していたことだろう。
死者の書を紐解いてみよう。脳と内臓を抜き取られた干からびた死体に、古代エジプト人はどのような願いをかけたのか。おおむね一致する内容は、うまくいけば魂は保存された肉体に還り、永遠に生き続けるだろう、ということである。そんな死後の生を与えること。ところが永遠の生というその願いは、決して現世からの逃避を意味するものではなかった。エジプトの庶民が愛唱した歌の一つには、今を楽しむことの重要性が冗談めかして語られているからだ。飲め、食らえ、かつ楽しめ。明日我々は亡いのだから。
つまるところ、古代エジプトの蘇りとは、辛い現世から逃避しようという願いとは性質を異にしているようなのだ。ナイルの理想郷こそがこの世の楽土であり、あの世はその延長にすぎなかったのではないか。もしそうであれば、わが世界を謳歌したファラオが、永遠の悦楽を望もうとするのも無理のないことだろう――そしてそのような中にあって、蘇りを諦めたファラオもまた存在する。ニトクリスである。
彼女は幼い兄弟を弄ぶ逆臣を討ち、自らも仇を討ったのちに辱めを避けるため命を絶った。その際、死後の蘇りを保証するミイラは作られなかったという。彼女の墓そのものがないわけではない。後世の人びとは永遠の命よりも復讐を選んだニトクリスに、一定の共感を持っていたようである。未だ民に愛される彼女。精緻に作られたミイラが欠けた部屋にある様々なもののうち、特に興味を引くのは碑文である。碑文にはメジェドと生前のファラオが船に乗り、どこかへ旅する様を模した――未だにこの由来は分かっていない――質素な浮彫りとともに、印象深いこのような一節が刻まれている。
――偉大なる王。人として生きんとする全ての者のための。
ニトクリス女王と私の縁は、思えば奇妙なものだった。メルエンラー二世のミイラ作りで初めてファラオの姿を見てからというもの、神を騙って冬の夜に、歴代の王たちが眠るピラミッドの上に、エジプトを守ろうと神前に誓った彼女に指輪をくれてやったわけである。陰謀渦巻く宮廷でかけられる程度の呪いなら跳ね返せる程度の力と、アトラス院にしては造りの甘い隠形の魔術が組み合わさった指輪を渡し、それから記憶を消したのだ。
しかしニトクリス女王は、時折、私が日々を営むパン工房に気配を消し、またある時はそのまま入ってきた。穀物を量り、篩にかけるときに。大きな石臼で粉をひいているときや、生地をこねるとき、形を整えるとき、パンが焼きあがるときに。
「――麦を篩にかけるんです。こうやって……」
「……こ、これで合っているのですか?」
「ええ。たいへん筋がいいと思います」
ファラオとパン焼きという立場の差をきちんと弁えている割には、彼女は時折不自然なほど不用意な行動をとる。ははーと平伏させたかと思えば、やや食い気味に顔を上げさせるのである。そして、まれに、ではあるが、不安げで臆病な素顔が見えもする。
何も知らない人間が見ればいびつな関係に見えるだろう。それは多分、私たちも分かっていたことだったと思う。まず片方が仮面をかぶっている時点で怪しい。クロである。そんなことだから、ファラオが気まぐれに、自らの手でパンを焼いてみたい、という時まで、少しぎくしゃくした関係が続いていた。中身がバレていた、とは確言できない。何となく正体に感付いているのだろうな、という予感はあった。ただ、それを言い出す瞬間は、最期まで来なかった。
「本当に、いつもこれを回しているのですか?」
「仕、事、ですから。まあ、やらずに、済むんな、ら、やりたくは、ない、作業です」
「そうですか。それなら良いのですが」
実際、私は女王の手を取ってパンの焼き方を指南したこともある。その度に彼女の表情は柔らかくなっていた。まさかこんな日が来るとは思わなかったわけだが、人間生きていればこんな瞬間が来るものらしい。
粉を引いているときは雑念が薄れる。足腰に力を溜め、肩から腕を一体にして重たい石臼を回すのだ。ファラオは御身を楽しませるためにパフォーマンスをしていると思われたようだが、そんなことはない。大量のパンを作らねばならないから、常にこれなのである。古代エジプトに居るというのに、私の方法はアメリカ的ですらあった。
「ほら、見なさい。どうです。焼きあがりましたよ」
小麦パンの匂いが辺りに漂う。柔らかいパンが好きなファラオだった。そして二度か三度、ファラオがお作りになったパンを頂いたこともある。激しく、また繊細な方でもあった。心づかいがとても嬉しかった。当たり前のことではあるけれど、私が焼いた方が味は美味しい。その当時はあまり料理上手ではなかったはずで、私が焼いたものと食べ比べ、眉を顰めながら、美味しい、と呟いていたあの人のことを、まだ覚えている。
「それで、私めのようなものに、何か御用でしょうか」
「……ええ。頼みたいことがあるのです」
二度目にニトクリス様がパンを焼いたとき、私はあの方に、秘密裏に呼び出されたのだ。すわ気付かれたかと戦々恐々としていると、ピラミッドを見たことはあるか、という質問をされた。理由を訊くと、見たことがないようなら忠義に報いたい、と仰られた。見たことがあっても、もう一度見るのは悪いことではないだろう、とも。
「レバノン杉でできた舟です。漕ぎ手も付けましょう」
「そんな、恐れ多いことを。自分で漕げますから」
「……あなたは、私を不誠実なファラオにしたいのですか? 神聖な木でできた舟ですよ。貴族のように、漕ぎ手もつける、と言っているのです」
「そんなつもりは無いのですが、私は今でも十二分に報われていますので」
忠義に報いる。昔なら当然の仕事をしているだけだったが、ファラオの求心力が落ちた今となると、その意図は分からなくもない。エジプトの民ならば、ピラミッドを見てファラオの威光に打ち震えることも確かに幸福ではあるだろう。しかし、それにしても唐突だった。不自然だった。どことなくだが、私をここから遠ざけようとしているように感じた。そして私は、その気になれば何時でもピラミッドを見ることができた。受けても良かったが、その日は固辞した。冗談としてこう言った――ファラオの御傍で見ることが出来れば、これ以上ない幸せなのですが。あの方は何を言っているのかという表情になり、それから顔を顰めて、小さく唸った。しまった、と私は思った。何百年も経つのに口が軽いままだと。
「……分かりました。いいでしょう」
――ところが予想に反して、ニトクリス様はそのお許しを出されたのである。
「ファラオよ、船酔いはしていませんか」
「あなたは私をなんだと思っているのですか」
私たちはレバノン杉で作られた頑丈な小舟でナイル川を下った。しっかりした舟だった。粗挽きの穀物の味がするパンと、水をたっぷり入れた瓶が二つ積んである。頑丈な櫂もあった。ナイル川は北の方へ流れる。ピラミッドのあるギザは、メンフィスのほんの少し北に位置している。だから行きは急がずともよい。ならば帰りは懸命に漕がなければならないか、というと、こちらもそうでもない。ナイルの風は南に向かって吹く。それを捕まえれば、舟は緩やかに南へ進んでいくだろう。真ん中に立ったマストには、その為に、真っ白な帆が畳んであった。
ナイル川の匂いは海に近い。近いが、決して同じ匂いではない。舟に乗ってその只中にいると、それがよく分かる。乾季と雨季でも少し匂いが変わる。この国は多くのものをナイルに負うている。もしも川が流れていなければ、極度に気候の乾燥しているエジプトは、サハラ砂漠のように不毛な乾燥地帯と化していたかもしれない。
「釣り竿があればマシなのですがね。ナイルの魚は中々いける……ファラオ、魚はお好きでしたか」
「ええ、それなりに頂きますよ。子どもの頃、兄妹たちと一緒に捕まえようともしましたから」
夕暮れになるまで、ニトクリス様と私は様々なことを語り合った――正直に言えば、私が一方的に語った、ということになるのだろう。エジプトの神々や建築、風土がいかに素晴らしいものであるか。植物で編まれた船を実際に目の当たりにしたとき、自分がどれだけの感動に襲われたか。今年はファイユームの周辺で獲れる大麦の質がよく、たいへん嬉しい。そういうことを言って、ニトクリス様は複雑そうな表情でそれを聞いてくださっていた。
「おお……」
アブシール、ダハシュール、そしてサッカーラ。ギザからサッカーラにかけての一連の景色を見て、私は感嘆のため息をついた。クフ王、カフラー王、メンカウラー王の三連ピラミッド。カフラー王を表す大スフィンクスが、ナイル河畔の祭壇の側に座っている。暮れなずむ夕日に赤い極彩色の体が光り、浄罪の火に燃えているようだ。スフィンクスの神殿、カフラー王のための葬祭殿の長い回廊。この全てがファラオの、死の国への旅立つための巨大な方舟である。この広大な聖域に古王国諸ファラオの叱咤が飛び、血と汗を流す無数の人々の怨嗟の声が、その残響が木霊する。
櫂を動かす肩を止めて、しばしこの光景に耽溺した。ピラミッド。一度砂漠に足を取られれば儚く消える人間が、当代ただ一人の男のためにあらゆる力を結集して造った、がらんどうの墓。なんと罪深い。恐ろしい。そして――
「――あまりにも、美しい。この偉大さを、一体何に例えられましょう。凄まじい景色です、ファラオ」
「この国にいて、良かったと思えますか」
「……ええ。それは、勿論です。勿論ですとも」
私がこう答えると、ニトクリス様の表情が曇った。
「あれらのピラミッドは、比類なく立派な王墓です」
そして多少唐突ではあったが、ぐっと水を飲んで、切なそうにこう言った。
「彼らにはファラオとして成し遂げたことがある。私にはありません。私たちには、何もない。私には――ファラオとは、ホルスの化身です。ですが、あまりにも無力でした」
「……大丈夫です、きっと。歴代の王が、神々がご覧になっている」
「駄目ですよ。私なんかじゃ」
彼女は船の上で震えた。そして一瞬空中で何かを探すように小さく手を彷徨わせ、呟くように言った。
「まだ、何も為していないのに」
それから彼女は堰を切ったように思っていたことを話し始めた。涼しい風が吹いていた。私は舟を漕ぐ手を止めたまま、黙ってニトクリス女王の独白を聞いていた。真っ白な帆がナイルの風を受け止めて膨らんでいた。彼女は続けた。
「私だって、自由に生きたかった。皆に生きていて欲しかった。恋がしたかった。普通の人間として、生きてみたかった。まだ、認められていない。いつ死ぬかも分からない、仇を討つ力もない……本当なら、あなたには逃げてもらうつもりだったのです。地下室の建設が、始まっていますから。落成式の日に逆臣を罰するための――」
ニトクリス様はピラミッドを見つめ、それからファラオの家臣たちが大勢眠っている、夥しい数のマスタバを見つけ、絞り出すような、殆ど消えそうな声で言った。
「兄弟の、墓が……私の兄も、立派な人でした。私には似ていない、将来は素晴らしい王になるはずだった。まして何より辛いのは、言い訳を並べ立てて何もしない自分なのです」
だって、私はファラオなのに――夜風の中で、緩やかにギザが遠ざかっていく。マスタバが、赤いスフィンクスが、岩と汗、砂と血で形作られた祈りと怨嗟の塊が。つまり、途方もなく偉大なピラミッドが。
「……謝りは、しません。ただ申し訳なく思います。エジプトを離れるあなたには、きっと分からない方がいいのです」
少し考えてから、ええ、と答えた。一瞬だけ、あの夜に見た彼女の孤独を、色褪せた希望を私も嚙み締めてみようとしたが、それは無理なことだと分かった。希望も絶望も、怒りも喜びも、全て目の前にいる一人の人間のものだった。
「ええ、分かりません。残念なことに、私には分からない」
私は、だから、手を動かすことにした。水を搔き分けて舟を動かす。ナイル川の流れに逆らう様にして、風と共に少しだけ進む力を加える。メンフィスに着くまでの間、物のついでに話をするつもりだった。
「――昔の話をさせてください。私も古くは王に仕えた一族でした。そしてまた、王に即位した一族でもありました。まあ、話半分に聞いていただければよいのです」
「あなたが?」
「ええ。私がです。反乱が起き、国を追われた愚かな王の一族でした。高い塔から世界を見下ろし、人々のことが見えていない、記憶力だけが取り柄の頭でっかちの王です。そして仕えていた王は、あまりにも偉大だった。無論、自分もその王たちに並ぼうと、日々理想の王であるための努力はします。こめかみが大きく腫れ、手の皮が破れ指が切れるような。ですが、意味はありません。考えただけの理想が、本当に実現できるはずもない」
徐々にその姿を現す星空を眺めながら、私はメソポタミアでの失敗を思い返していた。いつだったか、幼いギルガメシュ様にこう教えた時のことを思い出す。遥か北や南に移動すれば、天には違う星が見えるものです、と。メソポタミアとは違う星が見える。ここに、メソポタミアとは、全く違う王がいた。あのような王が何人もいたら、今でも少し困ってしまうが。
「だから、皆と言葉を交わした。激務の合間を縫って、地を這うような生活をする孤児に、枯れ木を齧り命を繋ぐ寡婦に、腕を失った軍人に。それでも足りなかった。いつしか反乱が起きました。皆が死んでゆく。いま話に挙げた人々も、その中で命を散らしたことでしょう。王様のために? 王が生半可に近づいたせいで、彼らは最後まで王を裏切らなかった。ゆえに民衆に罵られて、惨めに死んでゆく。馬鹿なことに、初めは寝ているだけだと思った。そして手をついて転がしてみると――口の中に、蛆虫が湧きだしていた。そりゃ、死ねば、誰だってそうなる。ですが、彼らはそれでよかったんだろうか」
喉に渇きを覚えて、持ってきた甕から水を汲み上げた。やけに味が濃いと思って杯を見た。今更、間違えて酒を持ってきていることに気付いた。ファラオの方の壺には水が入っているから、どうやら自分の分だけらしい。怪我の功名というやつ、だろうか。だがまあ、仕方がないから、飲むことにした。自分で作った酒なのだ。であれば自分の限界も分かっているはずではないか。
――実際はそんなことはない。ただ、とりあえずそう思うことにした。夜は飲むのに丁度いい時間だ。それに今からする話は、酔っていなければ恥ずかしくてとても出来るものではない。
「追放された王は、うじうじして生きることにしたらしい。理想の王なんかとは程遠い結末だ。メソポタミアからここに流れ着いて、パンを作り始める。勿論、初めは下手だった。酒だって粗末なものだ。アルコールの入った泥水だよ。ただ少しずつ腕を上げ、続けていくうちにとうとう買い手がつくようになった。ようやく誰かがパンを食う。うまいじゃないか――それで酒を飲み笑う。その度に何か分からないものが報われるような気分になる」
エジプトに来るまでの日々と来てからの日々を思い出す。地中海沿岸を南下する中で見かけたフェニキア人とその船。物を売り食費を切り詰めて、海に飛び込み魚を追い、掘っ立て小屋を作った。エジプトではやっとの思いでパン屋を開き、評判が上がってきたと思えば知らない地方に連れていかれる。その間に、一体どれだけの人間と出会ってきたのだろう。
「何万人と見てきたわけだ。良いやつがいて、清々しいほどのクズがいた。思い出したくもない人間もです……数えやしないが全員覚えてますよ。ふざけた世界だ、奴らはみな死ぬのに、パンを焼いた程度でこれですよ。ぱったり死んでいく客に取り残され、薄汚れた世界で自分だけ、得体の知れない命の淀みに体を浸し、呪いの塊として日に日に膨れ上がっていく。私の血にはそちらの方がよほど相応しい――しかし、ある一言があった。理由は分からないが、旨いという一言で、何よりも嬉しく、救われる日があった」
そうだ。私には、救われる日があった。救われる日が存在してしまった。だから醜く、反吐が出そうな温々とした甘い思いを握りしめながら、このような国まで辿り着けた。
「あの夕暮れに、確かに奴らは私のパンを旨いと言ったんだ。そいつの性根が腐っていたからどうした。たとえ誰かが私を騙していたとしても、そして世界が滅びても、そういう言葉は決して無かったことにはならないはずだ」
陽は沈んでいた。地平線を微かに染めていた果実のような色が、ファラオの髪のような暗色に飲み込まれる。街の灯が見えた。ニトクリス様はそこに一瞬だけ目をやって、それから表情が見えなくなった。
「まだまだ少ないが、人を見てきました。子供が生まれて、旨いものをたらふく食べて。あんな素晴らしい瞬間をもう一度と思って、調子に乗って、それで呆気なく死ぬ奴もいた。だとしても、誰の人生にも一つくらい、生きてて楽しかったという瞬間があっていいじゃないですか。馬鹿な王だって、生きていた。生きてよかったと思える瞬間があった。あなたにそんな瞬間が来ない道理なんかない――まだ、これからじゃないか」
私はギルガメシュ様の大きくなった姿を見た日のことを思い出せる。エルキドゥが苦いザクロを食べたときの顔を思い出せる。シドゥリが私のために泣いてくれた日のことを思い出せる。思い出せることがある。私にはまだ、思い出したいことがあった――この方には、そのような瞬間があるだろうか。
「下らなくたって構わないんですよ。無辜の人々という言葉では纏められない、一人ひとりの過去を背負った血が流されている。本当に大変だったはずだ。ただ少なくとも、あなたはそれを覚えているでしょう。ニトクリス様はそこから目を逸らしていない」
櫂を漕ぐ手は震えていた。アルコールのせいだろうか。酔った勢いで私は言った――あなたの前で言うのもなんだが、今の国は、私は好きじゃないんだ。そもそも救う力もないし、仮にあったとしても、自分なら救えるんだ、なんて傲慢なこと思っちゃいない。強いだけの奴が手を突っ込んでもぐちゃぐちゃに壊れて終わるだろう。力は必要ですよ。しかし重要なのはそこじゃない。
綺麗事を言っているという自覚はあった。世の中そんな上手くできてはいない。それは、私も身にしみて分かっている。綺麗ごとを騙るのは、それ以外のものは多かれ少なかれ、皆汚れているからだ。
それでも、と思った。傍から見れば、天下のファラオに向かい、一介のパン屋如きが大向こうを張っているように見えただろう。ただ、本当は逆だった。私が話しかけていたのは一人の少女だった。
――信じてやって下さいよ。ニトクリス様には出来る。あなたの神々は、あなたの人生は、世界は、それでも自分自身の可能性を託す値打ちがあるんだって。
闇の中で、思うままに立ち上がって、ニトクリス女王の顔を見ようとした。瞼に残る夕焼けが滲んでよく見えなかった。足元が不安定な船の上ということもあり、私はひどく酔っ払い、バランスを崩した。船のへりに頭をしたたかに打ち付ける。目の前で火花が散った。体が小さな水飛沫を立てナイルの中へ滑り落ち、鮮やかに水面に映る星々の中に顔を突っ込んだ。川の冷たい水が鼻の中に入り込んだ。頭がスッと冷え、脳みそのしわの奥まで染み込んだアルコールが洗い流されていくような気分になった。
細い腕が差し出されて、その手を掴んだ。私を引き上げられるほどの力はない。極端に言えば大人と子供で、私は筋肉ががっしりついていて、メソポタミアの頃から更に太っていたから。
私は殆ど独力で舟の上に戻った。この手を差し伸べるという単純な行為の中に、どれだけの意味があったことか。少しの空白があって、ファラオは困惑したように私の顔を見ていたが、特に何も言わなかった。しばらくして、仮面が取れていたことに気付いた。まあ、気にしなかった。お互いの顔は、暗闇でよく見えなかったから。
「……すみません。遅くなりましたね」
メンフィスに帰り着くころには、すっかり夜中になっていた。ファラオを探して宮廷が騒然となっているのではないか、そう心配していたが、ニトクリス様は何かしら上手くやっているらしかった。
「名前は、なんと言うのですか」
「元は、ルシガアルブ、という名前でした。けれども、この名前はあまり気に入っていない」
びしょ濡れだった。パン工房の中に入り、窯に火をつける。ファラオも夜風に長く当たっていて、少し体が冷えた様子だった。ニトクリス女王は真っ白な衣を体に巻き付けていた。私が名付けましょう。ファラオはふと思いついたように、しかし威厳を込めて言った。
「そうですね。カムトセチェイ、という名前ではどうでしょうか」
「カムット麦の香り、ですか」
「……気に入りませんか?」
――そんな、滅相もない。大切にしますよ。さて、お腹が空いたでしょう。私カムトセチェイが、パンを焼いて差し上げます。
私は生地をこねた。めらめらと燃えるパン焼き窯の前で暖を取り、ファラオにパンを焼いた。窯の中に揺れる炎は小さな太陽のようだった。
「いっぱい食べてください。喜ぶでも悲しむでもお腹が空きます。好きなだけ食べてください。沢山焼けます。いくらでもあるんです」
平焼きパン、ロールパン、丸パン。焼き立てのパンを2つに割ると、弾力のある生地の間から白い湯気が立ち昇る。しっとりして、少し高級感がある。口が焼けるほど熱かった。甘い麦の香りがした。
「パンを食べに来てください。私はここにいますから」
そう私は言った。夜が明ければ、再び仮面をつけてパンを焼く。ファラオも政務に戻るだろう。生活は続く。しかし陽がまた昇るまで、私たちはゆっくりと語り続けた。
エジプト編次回でいったん最終回です