目が覚めたら古代メソポタミアにいたんですが   作:加藤ブドウ糖液糖

11 / 14
来るべき終わり

 

 

 

 

――肉体を捨てても思いを捨てはしない。

灰になっても感覚を持つだろう。

私は塵になるだろう、しかし恋する塵に。

フランシスコ・デ・ケベード『死の彼方の変わることなき愛』より――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第六王朝が終わるのは、おおよそ紀元前2100年ごろの話である。エジプトの統一から時は流れ、官僚の任免権が王のもとから離れている。ナイルの水位は低下していた。短命な王が続き、地方長官の権威は日に日に大きくなっていた。権力争いは終わることなく、民は常に貧困と戦火にあえいでいた。太陽は沈む。自然の摂理にのっとって、ゆっくりと、確実に。日没がどこか悲しいのは、あれだけ大きな空が少しずつ死んでゆくからだ。

 

 黄金の国エジプト、その建国からおよそ1000年。千古の歴史に遺るピラミッドや開口の議を終えた凛々しいスフィンクスは、もう建設されることもない。第六王朝の崩壊と共に、古い王国はその幕を閉じる。とめどない人類史の流れは、後世の国家にもまた従うべき範型を与えている。つまり、栄華の終わりを。私も幾度となく眺めた、大いなる夕焼けを。

 

 国内の分裂は避けがたかった。かつての栄華や、対外的な威信も、揺らいでいた。ファラオはもはや神などではなかった。偉大であったはずのファラオの位が、有名無実化の一途を辿っている。若いファラオたちは、既にその運命が定められた、宮廷に蠢く魑魅魍魎の上に載せられた小さな装飾品だった。ニトクリス様は、古王国最後の王だった。

 

 やはり、彼女は悲劇のファラオだったのだろうか。無力で、若くして亡くなった悲劇の王。そういう側面もあるだろう。にも関わらず、決してそれだけではない。彼女は確かに、己の無力さに打ちひしがれていたかもしれない。歴代の偉大なるファラオたちの墓を眺め、己が成し遂げたことがちっぽけに見えて、幾度となく悩む夜を過ごしていた。しかし、ニトクリス様をこれらの言葉で片づけることは、私には受け入れがたい。だからと言って、なんと言えばいいのか、分かっているわけではないが。

 昔日の栄光を思い出すというと、少し気取りすぎる。ゆえに友人に倣ってこう言おう。王の話をするとしよう、と。灼熱の砂漠には、まだ太陽が照り付けている。

 

 

 

「いや、それにしても美しい。さすがは聖牛アピス。幻想種、太陽の円盤、メンフィスの主神プタハの化身――」

 

 暑い日だった。御者としてとりたてられた私は牛の傍につき、車を引く幻獣の姿をこっそり目に焼き付ける。ファラオを乗せた車は臣下を引き連れ、列をなして地方都市へと向かっている。近頃は各地に見られる動植物を記録するのが日課であるが、どうもこの癖のせいで仕事がおろそかになっているような気もしていた。ファラオの不機嫌そうな声に、あわてて手綱を取り直す。まさかないとは思うが、これでファラオの身に何かあれば一大事である。

 

「――聞いているのですか、カムトセチェイ?」

「ええ、むろん聞いております」

「……ならば、もう少し"私は聞いております"みたいな態度をとったらどうなのですか!」

 

 再びニトクリス様の声がした。聖牛アピスの観察はとりやめにして、ファラオに応えた。少し険のある言い方に、微かに親しみのこもった声。私は笑いながら砂漠を眺める。そうか、"私は聞いております"みたいな態度ときた。私は前を向いていた。ゆえにファラオから私の顔は見えないと思ったのだが、それでも態度でバレてしまったか。全くよく人を見ているものである。暑さの割には意欲的らしい。なおも軽口を叩いてみれば、思っていたよりも柔らかい反応が返ってくる。

 

「では、これからはそのような態度をとるとお約束しましょう」

「ええ。今後は十分に気を付けるように。私もあなたを罰したくはありませんので」

「恐悦至極に存じます。流石はファラオ、寛大でいらっしゃる」

「当然です」

 

 共に船に乗ったあの日以来、ニトクリス様は以前にもまして柔らかい笑みを浮かべるようになった。張りつめていた見えない糸が少し緩み、立ち居振る舞いからも不要な角がとれつつある。これが錯覚でなければよいと思う。増えつつある行幸の際に、ファラオは隠形の指輪の力を使い私に声をかけて下さる。それが息の詰まる政務の癒しになればよいとは思う一方で、こんな年寄りと話して楽しいのだろうかという気もしている。

 

「……それにしても、長いですなあ」

「いつものことです」

 

 砂漠を進むたびにアピスの筋肉が盛り上がるのを眺めつつ、様々なことを考える。実際、聖牛アピスの体躯は大したものだ。二つ文句を言うとすれば、グガランナを彷彿とさせる見た目と、少しばかり歩みが遅い点か。馬でもいればよいけれども、エジプトに馬や戦車がもたらされるのは、紀元前18世紀頃にヒクソスが侵入してからだった。

 エジプトを守る聖なる獣。ねじくれた角に引き絞られた体、首元には華麗なタペストリーを思わせる黄金と鮮やかな色の模様。かたい蹄と深い叡智を湛えた目のほかに、額の白い斑点がこの獣にいっそうの神秘を与えている。王都から少し離れて、聖獣はファラオを乗せた車をのろのろと引いている。

 

「それにしても、行幸は骨が折れますね。お休みになられないのですか」

「弱音を吐いている暇はありません。この国を立て直さなくては――」

 

 行幸。ファラオが直に街を訪れ、その威光を示すこと。聖牛は砂漠に点々と足跡を残しながら、民草の暮らす町々へと向かう。地方においてファラオの権威を取り戻すには、その姿を人々の前に表すのがもっとも手っ取り早いというわけだ。それは立場の弱い彼女に残された、失われたファラオの威光と民衆の支持を回復するための手段だった。

 

「全く頭が下がる思いです。もう少し平和な世の中ならば、歴代のファラオにも並ぶ名君であったやもしれない」

「もう少し平和な世の中ならば、そもそも私が王になることもありませんでした」

「それはまあ、そうですが」

「……いずれにせよ、私はできる限りのことをします。あなたは――」

 

 はるか遠くに見える煙を目印に私たちは進む。古代の国家は、現代に生きる我々のイメージするようなものとは、全く違う。ニュースが光の速さで海を越えることもなければ、一国の長が全世界のスクリーンに映る、なんてこともない。ファラオを見ずに生涯を終える人間が、どれほど多くこの国にいたことか。町に暮らす人々にとって、王というのは夢や噂以上のものではなかった。

 

「あなたは?」

「……っいえ、なんでもありません。見えてきましたよ、カムトセチェイ。準備を」

「――御意に」

 

 ファラオの一行が街に入ると同時に、その土地には大地が割れるような歓声が轟く。人々はファラオへの信頼を、希望を失ってはいない。事実として、この行幸を行う前に比べれば確実にニトクリス様の発言力は増しつつある。問題はただ、それが王朝の寿命に間に合わないことだ。

 

 行幸は、土地に根付く支配者を超えて民衆に働きかける方法の一つである。彼女がそれを避けて通ることはない。例えいかなる危険を伴うにしても。

 私はこの変化を好ましく思う。しかし、だからこそ、それは悲しい。いくら心臓が力強く脈打ったとしても、瀕死の体を蘇らせるには至らない。エジプトは斃れようとしている。それは瀕死の白鳥が、最後の力を振り絞ってふたたび空を飛ぶのにも似ていた。

 

 彼女は賢い。ニトクリス様はそれを分かっていて、なお王であることを望んでいる。

 

 

 

 

 ファラオを出迎えたのは、でっぷりと肥え太った男だった。

 

「ようこそおいでくださいました、ファラオ。ここは私が統治する街。政務のことはしばしお忘れになり、どうかゆるりとお寛ぎください」

 

 ノマルコス。州侯、あるいは現代風に言えば、知事ということになるだろう。彼は笑みを浮かべながらニトクリス様を迎えた。彼女はこの笑みの裏に隠された意図を見抜いてはいるが、表立って為せることは少ない。実際、州知事にとってファラオは歓迎すべき客人ではない。いまごろ彼の厚い脂肪の中には、若く無力な女王への侮蔑が渦巻いていることだろう。特にこのような状況下においては。以前から王の権威が弱まり、有力な地方の権力者は水面下でしのぎを削っている。いまさら古い王などお呼びではないのだ。

 

「極端な国になりました」

 

 寝る前のひと時に、私はパンを届けることにしている。ファラオは毒に気を配り、実のところろくにものを食べていなかった。窓から差す月明かりの下で、ニトクリス様の姿はなんとなく寂しげだった。

 

 極端な国になった――ファラオはそう呟いた。富めるものはますます富み、貧しいものはますます貧しくなってゆく。片方にはああまで豊かなものがいて、もう一方には若く、飢えて死ぬものがいる。細やかな風に長い髪を揺らして、彼女はしばし、何かを思い出すように目を瞑っていた。私にはかける言葉が見つからなかった。ありふれたことなのだ。王の見る景色が、我々の夢見るようなものではない、などということも。

 

 行幸は続く。ニトクリス様は群衆に囲まれている。ファラオは昨夜あれほど儚げだったのが嘘のように、ひときわ神々しく見えた。町は信じがたいほどの賑わいを見せ、集った人々は全員が同じ夢を見ているかのように、ファラオがやってくるという方向を見て口々に何か呟いていた。本当に夢のようだったことだろう。内乱におびえ、いつ絶えるかも分からないナイルの恵みに縋っている人々の目に、ファラオはどれほど眩しく映ったことか。

 

 それでも、民衆がいつまでも王を信じられるわけではない。彼らにも日々の暮らしがあり、彼女らにも彼女らの世界がある。神ならぬ身には、所詮正しいことなど分かりはしないのだ。

 

 

 

「……そうですか。かの街の長官といえば、珍しくファラオの味方だったはずですが」

 

 パンを焼くのが私の日課だった。巡幸の日はどうにかしてパン焼き窯を探さなければならないが、それというのもたまにファラオがふらっと私のもとを訪れ、あるいは呼びつけるからだった。顔を見れば、その日どのようなやり取りをしてきたかはすぐに分かった。そのようなパンを食べたがっているか、どのような気分でいるか。ニトクリス様は柔らかく甘いパンを好んでいたが、それを知られるのは好ましくない、と考えているようだった。その度に私は、口にこそ出さないが、蜜を多めに練り込んだパンを焼いていた。

 

「お召し上がりください。あれほど毒を警戒なさっていれば、お腹も空こうというものですから」

 

 誰にも知られていない夜に、私はまたパン籠を持ってファラオの元を訪れた。不思議なこともあるもので、隠形の指輪の効力は使い込んでいくうちに向上していたらしい。気付かれることもなく私がここに来られるのも、この力のお陰である。

 

「……では、一つだけいただきましょうか。本当は満腹なのですが、下僕の好意をないがしろにするのもよくありません」

「おや、これは余計な気を使わせてしまったようで。お気に召しませんでしたか?」

「……やっぱり、もう二つほどいただきます」

 

 無理に元気を出そうとしているファラオはなんとも痛々しい。彼女の姿を見るのは相変わらず月明かりの下だ。太陽の化身の名を戴いているというのに。まだ暖かいパンを二つに割ると、真っ白な中身が白い月光に照らされて透き通るように見える。ニトクリス様は黙ってパンを頬張った。自分から話を切り出す気はないらしかった。

 

「惜しい方を亡くしました」

「……ええ」

 

 地方長官同士の勢力争いは熾烈を極める。第六王朝末期のエジプトにはファラオを凌ぐ力を持つ者が何人も存在し、それが様々な派閥に分かれて争っている。巨大な闘争の中では、ファラオの行幸さえ大した力を持たない。しかし凄惨な陰謀渦巻く中にあって、ファラオの下に古き良きエジプトを取り戻そうとする者もまた、少数ながら存在した。

 その内の一人が、殺されたわけだ。扇動された民衆の反乱によって。

 

「――ここまでくると、流砂に呑まれているような感覚に陥ります。ままならないものですな、ファラオ。あなたがどれだけ励んでも……民意とは恐ろしいものだ。周りが何をしているかによって流される」

 

 彼女が背負わされた王という立場、そして私以上の器量。それを以てしても、たった一つのボタンの掛け違えで崩れ行く国の物悲しさ。言いたいことは色々とあったが、古い後悔と安易な憐憫、と言えばそれまでだ。私もファラオと同じ、蜜を練り込んだ大麦パンを食べた。こんな時でもおいしい。

 冗談めかして、少し前の夜と同じことを再び言った。ねえ、ニトクリス様。

 

「――一度だけ、二人で遠くの国へ行きませんか。エジプトはあなたならきっと救える。ですが……ただ、今は間が悪い。自分で言うのもなんですが、私のパンはうまい。どの国に行っても、きっとその国で一番のパン屋になるでしょう。その金で、援軍を引き連れて帰りましょう」

 

 ファラオは少し押し黙って、考えるようなそぶりを見せた。窓の外を見上げれば瞬く星が彼女の目に映る。瞬きをして、煌々と輝く月を見上げた。そして彼女は今、決して届かない月を求めて、指輪の嵌っている左手をエジプトの夜に翳している。あなたらしい提案ですね、と困ったように言う。

 

「お断りします――まあ、少しも惹かれないと言えば噓になりますが。私には為すべきことがあります」

「あのような行いをした民を、それでも見捨てない、と」

「そうですね。それに、あなたの先祖が王だった頃は民を見捨てたのですか?」

 

 しばしのやり取りをした後、ニトクリス様からの質問に私は押し黙った。ああ、そうだった。外野から云々とヤジを飛ばすのは気楽なものだ。すっかり忘れていた――敬愛する方から預かった国を、命に代えても守り通そうという思いには、私も強く共感を覚える。

 

「あなたにも分かるでしょう。ファラオとは、そういうものです」

 

 どことなく、ギルガメシュ様と同じだ、と思った。

 

 真夜中を過ぎた。彼女の部屋には、冷えてもなお暖かい印象を与えるパン籠があった。小腹が空き、未だにふわふわの食感を保つ大麦パンを手に取ったところで、ファラオは口を開いた――カムトセチェイ。今からする話は他言無用ですよ。

 

「――実は、即位した頃に一度、ある神にそう問われたことがあるのです。それでもエジプトを守るのか、と」

「おや、そうなのですか。ニトクリス様程の方であれば、そういうこともありましょう」

「ふふっ……初めて人に話しました。随分あっさりと信じるのですね?」

 

 思いもよらぬ発言に、随分と驚いた。平然と誤魔化したは良いものの、馬鹿である。あっさりと信じるも何も、それの正体は私なのだから。考えてみれば当然の帰結だ。記憶を消したとばかり思っていたが、今思うと魔術をかける順序がおかしかった。動揺を悟られぬようにして、減らず口を叩こうとする。

 

「立場が立場ですからね。ファラオがそのように仰れば、私は頷くほかない」

 

 とはいえ、思うところがあった。

 

「いえ。正直に言えば、あなただからです。生真面目で、きっと偉大であろうファラオが仰ったことですから」

 

 ニトクリス様は一瞬だけ呆気にとられたような顔になって、それからしばらく経ち、不敬だ、不敬だ、と怒り出した。むくれた顔はまだ年相応に幼く、改めてこのような若者が重責を負っていることに驚く。いずれこの時間にも終わりが来るだろう。その時に私がエジプトにいるかも、彼女がこの国を治められるかどうかも、定かではない。

 

 嫌な予感は当たるものだ。終わりは恐らく私が思っている以上に近い。私が想像する以上に悪しきものかもしれない。地下室の竣工は終わり、アトラス院は世界の終末を演算している。だとしても、今はまだ、何も確定していない。

 

 彼女に別れを告げ、部屋を出た。周囲は暗く、澄んだ空気が一層夜の闇を際立たせる。

 

 ふと思い立ち、祈ろうと思った。折角だ。メジェド様に願いをかけよう。太陽が沈む夜明け前の最も暗い時に、せめて月光が若いファラオの傍に差すように。

 

 不可思議に長い人生の中で、何度も確かめたことがある。一つ、人類は常に自らを新しく作り上げ、それを乗り越えていくということ。二つ、運命は砂のように、指の間から零れ落ちてゆくこと。

 

 

 

 アトラス院からの知らせが来たのは、明くる朝のことだった。その内容は、避けがたい人類の滅亡。

 

「――クルドリス。まさか君が直々に出向くとは」

「……我々は、演算した。貴様には率直に言わねばなるまい――この世界は破局へと向かっている。あたかもそれが自然であるかのように、全ては起こるべくして起こる」

 

 それはアトラス院が覗く最初の滅び。あの日から、私の旅は再び始まった。

 

 

 

 

 

 

 




エジプト編もうちっとだけ続くんじゃ
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。