目が覚めたら古代メソポタミアにいたんですが   作:加藤ブドウ糖液糖

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エジプト編最終話です。少し長いかもしれません。


エジプトに日は昇る

 

 

 

 

――われわれ一人一人は、何らかの形でこれまでに死んでいった全ての人間なのです。

 J.L.ボルヘス『語るボルヘス――書物・不死性・時間ほか』「不死性」より――

 

 

 

 

 

 

 

 

 エジプトの統一からおよそ六世紀。最後の女王ニトクリスの死とともに、古王国時代は終わりを告げた。兄王の死を経たのちに王位に就いたファラオがなしたことは、人々へのわずかな支援と、エジプト各地への巡幸。そして兄弟たちの復讐だった。短い治世の中で行われた巨大な地下室の建造。ニトクリスはその落成式を祝うと称して大臣たちを呼び出し、宴のさなかに地下室をナイル川の水で満たして彼らを沈めた。彼女は殺された兄王の復讐を終えると、辱めを免れるため熾火の中に身を投じて命を絶ったと言いつたえられている。

 

 古代エジプト人にとって、死は絶対のものではなかった。体が保存されていれば、人々は神に導かれ、再び永遠の国によみがえるからだ。ゆえにかつてのファラオは自分の肉体を保存し、偉大なピラミッドの中に眠らせていた。楽園で、イアルの野で、もういちど幸福に生きるために。――しかし、そこにニトクリスはいないだろう。死後肉体の埋葬を経なかった彼女は、けっして永遠の国にたどり着くことはない。彼女の墓は小さく、豪奢な副葬品もカノプスの壺も、そこにはないからだ。

 

 にもかかわらず、あるいは()()()()()、彼女にまつわる伝説は現代まで語り継がれている。ファラオらしからぬ人間性と共に、復讐や、船に乗ったなんでもない逸話が。よみがえりの起こりえぬ彼女の墓が存在するのは、決して彼女自身の命令によるものではなかった。それはただ、ひとえに後世の人がニトクリスの幸福を心から祈ったからなのではあるまいか。

 第六王朝が滅んだ後に、この国には第一中間期という分裂の時代が訪れる。五十年の内に四つの王朝がおこり、また斃れる混乱の時代である。苦しみは世界にあふれ、エジプトに暮らす人々は安住の地を求めて逃げまどう。しかしニトクリスの復讐がなければ、さらに激しい混乱が起こっていた可能性もいなめない。エジプト第十九王朝、オジマンディアスの時代に、ニトクリスの墓は改修された。

 

 在りし日に、神から授かった指輪。それは今も隠形の力を秘めて、彼女の空っぽの墓に隠されている。

 

 

 

 ――アトラス院で告げ知らされた人類滅亡の要因は、確かに今の人類には抗いがたい難題だった。月蝕が地球自身の影によって起こるのにも似て、我々を待ち受ける処刑人は、我々の影から生まれる。自業自得の結末である。文明の自滅機構(アポトーシス)や、星の哀歌(エレゲイア)。魔術の撞着語法(オクシモロン)の解決策はすでになく、いずれ遠からず我々に降りかかるべき災厄の予感が、確かにそこにあった。人類の滅亡を確定した未来だと言えば、それはやはり恐ろしげに響く。解決策の発見はアトラスの錬金術師たちにすら重かった。今を生きる人々には、この重荷は背負いがたい。

 だからこそ、こうも思うのだ。私が生き永らえたのは、この日のためではなかったかと。

 

「――確かに、解決策はないように思える。これらすべての危機に対処するには、人類はあまりに未熟だ」

 

 良きにつけ悪しきにつけ、私には一つだけ案があった。それは至極単純な理屈である。確かに現状では解決策がない。そして、ないのであれば、解決策が生まれるまで待ち続けようではないか。

 

「不可能だ。不可能に決まっている」

 

 六源の声がする。己自身の身体を余すところなく回路として使用する錬金術師たちは、常人の数百倍を優に超える思考能力を持つ。彼らに読み抜けがない限りは、私如きが思いつくような案など、数億分の一秒程度で分岐の枝葉の終わりまで演算を済ませてしまうに違いない。しかし、私にはなぜか確信があった。彼らが考えもしない方法があるのではないか、という確信が。イシュタリオにクルドリス、エルトナム。懐かしい友人たちの面影を残す人々に笑いかけながら、私はその案を語った。

 

 それは人類の集合的無意識、そして星の魂との対話。人間の可能性をこの手で示し、この惑星の運営を担う膨大な意識情報と言葉を交わし、破滅を可能な限り抑え込むという無謀な提案。理論上は可能だが、凡そ常人には許されざる禁忌である。我ながらむちゃくちゃなことを言っているという自覚はあった。しかし僅かながら可能性がある案でもある。それに、実行するとなれば私が適任だ。

 

 六源たちは苦々しげに私の目を見る。次元が異なる領域、人間の魂が触れ得ない抑止の力の奔流。自我のほぼ確実な崩壊に、私の神秘と記憶がどこまで耐えられるか。それを相手にしてなお、私が正気でいるかどうか――いや、正確に言えば、私の意識などは彼らにとってどうでもよい。彼らが演算していたのは、私が世界をどれほどの時間延命できるか、そしてその時間には私と引き換えにするほどの価値があるか、ということだった。

 

「前々から変わった男だとは聞かされていたが、ここまでとはな」

「おや、昔からそういう噂が立っていたのか。ご先祖様から聞いたのかね」

 

 エルトナム家の子孫が口を開いた。確か、私が数百年前に共に五次元チェスをした男の家だった。不機嫌そうな彼の物言いや、気が緩んだ私が汚した棋譜のことを思い出して思わず苦笑する。六源は、この時点で既に結論を出していたように思う。人類の進歩が間に合う可能性は全くの無ではない。だが、限りなくゼロに近いのではないか、と。気難しい錬金術師との付き合いには慣れている。表情を読むこともお手の物だ。これで可能性がゼロなのであれば、私はこの提案を後悔するところだった。しかし、そうではない。どれだけ低いにせよ、可能性はあった。

 

「あなた方には研究を続けてほしい。私は、その時間を作れるように努力してみよう」

 

 だが、それにしても――自分で言いだしておいてなんだが――私にこのような仕事が務まるのか。不安でないと言えば嘘になる。私はわが身に普通でないことが起こっただけの普通の人間にすぎない。さらに言えば、普通すら下回っていたかもしれない。人類のためになどと一体どの口が言うのだろう。神秘のない遥か未来の日本で生まれ、遠くメソポタミアまで流れ着いた。若き日にルガルバンダ王に付き添った戦場で、王権を握った後幾度となく立つことになる戦場で、様々な人間をこの手で殺めた。国の統治でも失態を犯した。

 そして今、数百年もパンを焼き続け、何かに導かれるようにしてこの場所にいる。

 

「星が相手だ。いくら貴様が不死とはいえ、魂は急速に摩耗していく」

「別にいいさ。私にできることなら、少しでも希望があるのなら、やるに値する」

 

 私は年若いエジプトの女王のことを想った。次いで一握りの土となった緑の髪の友を、いつかその墓に植えた花々のことを想った。シドゥリのことを想った。私は神と人とを繋ぎとめる楔として生まれ、人間の可能性に賭けた尊大な教え子のことを想い――そして、ウルクの民一人ひとりの人生のことを想った。その外に広がる大地と海洋に暮らすまだ見もしない人々のことを想った。

 四十の世紀を繰り返し旅を続ける。祈りと対話を繰り返し、魂を世界に還す巡礼のように。苦しみは大きい。私は死にきれもせず世界を巡り、出会う人々の命も救わぬままに、この異様なる旅を続けることだろう。

 

 私は遥か昔に、幼い王の前で粘土板に地図を描いた日のことを想った。同じ夢を見てほしいと願った賢王に申し上げた言葉のことを思った。例え暴君に変貌した後であっても、ギルガメシュ様は人間たちを見捨てなかった。

 

 ――夢があるのです。世界の形を証明するという夢が。

 

 その夢はきっと、人生には生きる意味があると証明するという夢でもある。苦痛に満ちた世界で生きることの輝きを。異界の魂は、想像を絶する苦しみの中で疲弊する。私はいつまで人らしくいられるか。あるいは、既に人間らしくはないのかもしれない。

 

 ――ああ、しかし。

 

 偉大な王の留守を預かるのは、臣下の務めではないか。

 

 

 

 アトラス山脈を出てメンフィスへと向かう。そこまで長い間離れてはいないはずだが、何かが決定的に変わっていた。街の中心部に近づくにつれてざわめきは大きくなっていった。少し目をこらせば、武器を手に王宮へと向かう兵士が見える。いったい何が起きたのだろうか。私がそう尋ねると、人々は口々に答える。事故が起こり、悪しき大臣たちが殺された。兵士たちはこの凶行を起こしたファラオを誅殺するために、王宮へと向かっているのだ。

 

 その日はちょうど、地下室の完成を祝う落成式が行われるはずの日だった。何が起こったかはすぐに分かった。ニトクリス様が最後に訪れそうな部屋にはなんとなく心当たりがある。あわただしい人混みの中に紛れて、私は王宮近くの職人街へ歩き出す。見なれたパン工房に入り、淡い午前の光の内にファラオの影を探した。復讐を終えた彼女はかつて何度も見た眼をしていた。強い決意が秘められていて、どこか寂しそうな紫色の美しい眼を。

 

「ニトクリス様、それがあなたの選択ですか」

 

 私の声を認め、ニトクリス様が振り向いた。歯車はすでに回りだしていた。ファラオの表情には疲労の色がつよく残っている。遠くの不確かな蜃気楼を見るように、彼女ははじめ少し驚いたような顔をしていた。いなくなったはずの人間を見て、怒りたそうな、それでいて安心したような目つき。だが、それもやがては微かな笑みに変わる。

 ええ。私の問いに、彼女はきっぱりと、手短に答えた。相手の目に映る自分の最後の姿が、せめて少しでも凛々しい統治者であるように――埃の積もりはじめたパン焼き窯の前で、カムトセチェイ、と私の名を呼ぶ。

 

「しばし、話をしませんか」

「……ええ。もちろんですとも」

 

 私が初めてニトクリス様を見たのはいつのことだったか。有力者たちによって玉座に押し上げられた彼女は、その短い治世の中で言い知れぬ激情に襲われることもあったに違いない。ファラオは神の化身であり、この国の精神そのものだった。その畏怖すべき地位があのように汚されたのだ。慕っていた兄弟は人形のように弄ばれ、若いままに殺される。

 

「落成式には間に合いませんでしたか、私は。ファラオに手を汚させてしまった」

「何を言っているのです。あなたが居ても居なくても、きっと同じことをしました……これは私の仕事。パン焼きはパン焼きらしく、ふかふかのパンでも焼いていればよかったのです」

 

 幼い頃の彼女の怒りと絶望は察するに余りある。どれだけの怨念を燃やし、どれだけの涙を流してファラオはここまで生きてきたのか。玉座の上では全てが色あせている。今もそうだろう。兄弟たちの復讐を成し遂げるとき、ニトクリス様はどのような思いで落成式の部屋を後にしたのか。この国の宿痾を一身に引き受けながら、この女王は自らと神のほかの誰にも涙を見せまいとしていた。

 私は彼女が抱えていた孤独を知らない。見たものは何もかも覚えているにもかかわらず、幼い兄弟を殺められた絶望を、玉座に座るだけの一日を終えた後の星々がどのように輝いているかを知らない。限られた命を持つ人々の苦しみや喜びを、本当の意味で知ることは二度とない。

 

「覚えていらっしゃいますか。初めてニトクリス様にパンの焼き方を指南させていただいたのも、この場所でした」

「そうですね。あなたが微妙そうな顔をしていたのも、はーっきりと覚えています」

 

 すべて覚えていた。メジェドの姿を借りて彼女の前に姿を現したこと。パンを焼き、共にナイル川に浮かぶ船に乗ったこと。行幸の供についたこと。その間に起ったことを私は全て記憶している。絶えざる川の水流、植物の枯死した大地。氾濫によって再び潤いを取り戻し、ふたたび芽を出す草木の双葉。小麦を選別する農夫と巡る季節、孤独な女王のことを覚えている。特異な力を授かりながら、目の前の人間一人救うことすらしなかった自分のことも。

 

 できなかったのではない。下らない言い訳にかまけ、結局はやらなかったのだ。彼女は辱めを避けるために、あらかじめ熾火の中に身を投じる算段を立てていた。

 私は何をしていたのだろう。

 

 ふいにニトクリス様が口を開いた。あなたに言いたかったことがありました。

 

「……私はファラオです。自由を貰ったなどとは言いません」

 

 それでも、あなたは知らせてくれた。真夜中に一人で祈る子供の頃の私にも自由があること。狭い小部屋の外に民がいること。恩や感謝の気持ちなんて簡単な言葉に代えられない大切なことを。

 

「――それでも。私をあの部屋から連れだしたのは、確かにあなただった」

 

 この言葉をかけることで、目の前の人間が何を思ったか彼女は知っているだろうか。滑稽なものだ。私は自分より遥かに年下の人間の言葉に縋り、己の行いは間違ってはいなかったなどと思おうとしている。

 

 だが――そんなことは関係ない、とばかりに、ファラオは私の手を握った。彼女はこんなに指が細かったのか、と思った。熱せられた鉄板に触れ続けたことが分かる分厚い手の皮に、なぜか指にできている硬いたこを包むように、ニトクリス様は私の手を取った。

 

「……あなたが何に責任を感じているかは知りませんが、心配無用です。私はファラオなのですから。死なないために生きたわけではありません――まして、あなたに憐れまれるために生きたわけではない!」

 

 例えあなたがどのように思っていようと知ったことではない。彼女はその身の限り力強く吠えた。いつか彼女を救った言葉が、目の前の人間を救うように。

 

 聞きなさい。あなたは私の苦しみを知らないかもしれない。けれど、それと同じように。

 あなたは、私がどれほどあなたに勇気づけられたかも知らないでしょう。

 

 

 

 ――忘れ難い声や音、風景があった。揺れる影が、匂いが、光があった。

 

 それは、行幸の帰路の何でもない一幕。アピスの背中をじっと眺めながら溢した、誰の記憶にも留まらないはずの話だった。

 

「あなたの一族はどこの王だったのですか?」

「ウルクという都市です。両河地帯にある、素晴らしい街でした」

「帰りたい、とは思いませんでしたか――?」

「ありますよ、勿論。ありますが……追い出されてますからね、私。それに、あなたのようなファラオが奮闘しているのを見ると、まだこの国も悪くないと思える」

 

 辺りには風が吹いていた。太陽は空高く上り、砂漠には小さく色濃い影が落ちている。私も聞きたいことが、と従者が言った。なんですか、とニトクリス。天と地ほどの身分差があるにもかかわらず、彼は驚くほどの気安さでファラオに訊ね返した。

 

「ニトクリス様、雪をご覧になったことはありますか?」

「聞いたことはあるのですが。あなたは見たことがあるのですか?」

「ええ、一応は」

「……雪、ですか。私も見てみたいものです」

 

 聖なる牛はのろのろと歩みを進め、少しずつ空気の動く砂漠に、いずれ消えゆく足跡を転々と残していた。そうですなあ。聖牛アピスの背についた虫を払いながら、間の抜けた声を伸ばす。

 

「では、いつか共に見ましょう」

 

 そして、不意に。従者は穏やかに、悪戯っぽく言った。

 たとえ一瞬にすぎないとしても、たとえ幻想にすぎないとしても――なんでもない口約束の数々が、どうしようもなく嬉しかったのだ。

 

 太陽が傾いていく。王宮のざわめきはその輪を広げ、女王の捜索範囲は大臣たちの屋敷へ、職人街へ、だんだんと広がっている。ファラオは己がもう行かなければならないことを察しながら、最後の会話を続けた。自分がこの世界で何を成し遂げたのかをひとつづつ確かめるように、私は記憶を引き出しながら彼女の問いに答える。少しだけ沈黙があって、ニトクリス様は私に訊ねた。

 

「あなたはこの先どうするのです?」

「旧友と、いろいろと相談しましてね。旅に出るつもりです。ひとまずはギリシアの方に」

「……そうですか。無事を祈ります」

 

 夕闇はもうすぐそこまで迫っていた。ファラオは別れの言葉を告げようとしている。永遠の国に行けぬ身である自分の最後の言葉。それを自覚していてなお、彼女は毅然とした態度を崩そうとはしなかった。

 

「未練は数えきれません。私のような未熟なファラオに救いを求めた民の手の痛ましさを忘れることはないでしょう」

 

 そう言ったニトクリス様の眦から、小さな涙が零れた。おかしいですね。最後まで笑って別れようと思っていたのに。透き通った雫は静かに、そして時が経つにつれとめどなく、血の通った褐色の頬を流れ落ちていく。

 

「――それでも、後悔はしていない。ファラオであったことは私の誇りです」

 

 色々言いたいことはありますが、最後に。

 

「さようなら、カムトセチェイ。良い旅を……!」

 

 彼女が指輪の力を使うと、メンフィスの闇にその身が溶けてゆく。私は静かに頭を下げた。未熟な幼い王にではなく、偉大な英雄に捧げる最敬礼のように。

 

 

 

 日が沈むのを待って、私はメンフィスを出る。灰になった彼女と、彼女の指輪を埋めるために。肉体が消えようと、ニトクリス様の記憶は消えはしない。古い王国が沈む。永い旅がはじまる。長い年月をかけて、この国にはまた緑が蘇るだろう。ナイルの沃土に人々は憩い、この地に君臨する王のために再び働き始める。

 

 思い出の英雄たちは綺麗なままだ。本当はそうではないかもしれない、あるいはまだ覚えているにも拘らず、私たちは死んだ人の姿を、日々忘れようとしたり、歪めたりしている。

 全く時間とは恐ろしい。彼女のこともいずれ、全く違う形で伝わることになるだろう。古代社会の犠牲者か、苛烈で残酷な復讐者か、世を儚んで消えた偶像的少女か。そして私もまたこの国を去ろうとしている。細やかな砂粒が流れ落ちる。私もまた彼らの人生を弄び、気付けば変えているのだろう。

 

 かつての夥しい記憶の重みに耐えかねる人類は、彼らを忘れ、歪めることによって存在する。ある英雄の人生が心を打つ。人々は乏しい記憶力の中で必死に、その人を忘れまいと語り継ぐ。例え不完全であるのが分かっていようと構わない。物語は常に紡がれ、変奏される。良きにつけ悪しきにつけ、彼らと共にあるために。炎を継ぐために、この世界を歩む道しるべとするために。それが常人に唯一許された、死者と共に生きる術であるがゆえに。

 

 ニトクリス様には夢があった。民を守り正義を守り抜く、理想のファラオでありたいという夢が。よく晴れた夏の夜や、空気の澄んだ冬の夜に、広く寂しい部屋の窓の側に立って――信頼できる召使いも護衛も、あの方にはほとんどいなかったわけだが――じっと空を仰ぎ、神の導きがあるように、星々の奥に願いをかけていた。そして大人になってからは、静かに死者たちの冥福を祈ろうとしていたのを、私は覚えている。

 それと同時に、年頃の少女として生きたいという思いもまた強かっただろう。この建物を出て、一人の子供としてみんなで過ごせたらどんなに良かっただろう、と。

 

 私は覚えている。メルエンラー二世が亡くなり、ニトクリスがファラオに据えられた時のことを。敬虔ではあるが、あまりに非力だった。外敵の侵入も止まなかった。ノマルコスは召使をぞろぞろと引き連れ、我が物顔で宮殿を闊歩していた。後世からみれば決して素晴らしいファラオではなかったかもしれない。歴代のファラオに比肩する大事業も、現在にまで残る遺産もない。たしかに復讐は成し遂げた。兄弟と共に遊んだ思い出をなぞり、その無念を晴らさんとする思いをいつも心に秘めていた。しかし――ただ、それだけの人間だった。

 

 女王ニトクリスは自分の無力さに打ちひしがれて、その時が来るまでずっと悩んでいた。ギルガメシュ様のように生まれついての王ではなかった。神との決別も、死との戦いも、あの方の人生の内にはない。戦ったのは臣下であるはずの人間だった。それはエジプトを脅かす敵であり、また守るべき民でもあった。

 私が未だにニトクリスを人間だと言っていることを知れば、きっと無理やり怒ろうとする。

 だが、内心はあたふたしている。あの方はそういう人だ。

 

 兄弟を殺され、傀儡として玉座に座った。あの方はファラオとしての使命を一身に負い、人家の窓からもれる暖かい灯に救いを求めようとして、それでも己の役目から最後まで目を逸らすことはなかった。彼女は、確かに素晴らしいファラオだったのだ。私はあの時代を思い出せる。血が流れた。神のように笑わず、人のように涙を流した。死の影の傍で、ほんの一瞬生きたに過ぎぬ泥塗れの人生の中で、いつか見上げた天にきらめく星を、精一杯掬い上げようとした人々の姿を。

 

 暖を取るために火を焚けば、煙を目にした盗賊や難民が集ってくるだろう。このような国で、生きることを求めて。人は常々殺し合い、血で血を洗う争いが尚どこかで続いていく。私はそれを見た。再び舟は動き出す。白い帆を畳んだ。ナイルには今日も風が吹く。ふと振り返っても、時は決して戻らない。小舟はギリシアへ向かう。大きな機械仕掛けの神。それに、臆病で尊大な金髪の男がいる、あのギリシアへ。

 

 春は舟の上で過ごすだろう。鳥は人々の死肉を啄み、ザクロのように叩き割られた人の頭が見える。それでもまた、誰かがパンを焼いている。まだ見もしない誰かのために。いずれいなくなる人々のために。私はその全てを記憶に焼き付け、レバノン杉の舟に乗って、地中海沿岸をエジプトに向かってきた陸路に沿い、ゆっくりと北上する。

 世界は遠く、しかし避けられない終局へと動き出した。大いなる日は翳り、人々が受け継いだ炎は果てしない雨に、為すすべなく消える。我が王もとんだ土産を残してくれたものだ。足元のことすら覚束ない私が、永遠や世界の滅亡といった課題を請け負うことになろうとは。今振り返ってみるに、不死になるとは人の身には耐えがたいことなのだろう。

 

 しかし、それも無駄ではない。ニトクリス様は諦めなかった。ならば、私が絶望などできるはずがないではないか。ともあれ世界は存在し、我々もまだ存在する。ならば記そう。語り伝えよう。私は私の場所で、魂を擦り減らしても、世界の全てのことを。私を殺そうとする人々や、私が殺した人々のことを。全ての人間のことを。限りない宇宙のことを。

 今を生きる人々の記憶の中で、死者たちは旅を続ける。いつの日か誰かが、幾世紀も前の一瞬一瞬のうちに生きていた人々のことを見つけ出す。古い地層の沈黙の奥に、誰かが一つの言葉を聞き取る。いつか再び、かの国に日が昇る。

 

 この世界で後にエジプトを訪れるヘロドトスは、ニトクリスの治世を"最高とは言い難いが、僅かに降る恵みの雨のような善政"だったと評している。その中に果たして、カムトセチェイという名の人間の影響があったかどうか。

 

 額を流れる汗を拭いながら、私は呟いた。

 

 

 

 女王陛下(ニトクリスさま)、よいお旅を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――この世界の中でわれわれはさまざまな形で協力し合っています。誰もがこの世界がもっとよくなるようにと願っています。もしこの世界が本当によくなれば(それが永遠の願いなのです)、もし祖国が救われれば(必ず救われることでしょう)、われわれは救済という一点で永遠の存在になるはずです。

 

 ――その時、自分の名前が知られているかいないかは問題ではありません。そんなことは取るに足らないことです。大切なのは不死であることです。不死になるというのは、成し遂げた仕事の中で、他者の記憶に残された思い出の中で達成されるものなのです。

 

 J.L.ボルヘス『語るボルヘス――書物・不死性・時間ほか』「不死性」より――

 

 

 

 

 

 

 

 




エジプト編完結です。読んでくださった皆様のおかげでどうにか二章目が終わりました。次はギリシャ編で、たぶんここからが本番になると思います。資料がかなりたくさんあるので、うまくまとめられるように頑張りたいところです(ただしエタる可能性もあります)。
感想、誤字脱字報告、評価、ここすき等非常に励みになりました。ひとまず、ここまでお付き合いくださってありがとうございました。
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