目が覚めたら古代メソポタミアにいたんですが 作:加藤ブドウ糖液糖
・気付いたらツタンカーメンが実装されていて泣いちゃった。エジプト編もう書いちゃったよ
・ギリシャ編は史実と叙事詩世界とFate/時空の整合性が取れなくなったので適当に書くことにしたぞ!
古き時代のオード
――けれども〈美〉は、あのとき、それを見たわれわれの眼に燦然とかがやいていた。
プラトン『パイドロス』より――
ヨーロッパの東南、アナトリア半島の向かい側には地中海に突き出た小さなギリシャ半島がある。切り立った崖から紺碧の海が見下ろせる国だ。山がちで、海岸線が入り組んだ土地である。川幅も狭く、地図の上だけで見ればギリシャは常に豊かで強大な国々に囲まれた、取るに足らない小国である。
しかしまた、古代ギリシャ人ほど歴史に偉大な足跡を残した国民も少ない。古代ギリシャ人は神々について面白い物語を書き、英雄や人間についてもっと面白い物語を書いた。美しい建築や彫刻を残し、不朽の悲劇や喜劇を何作も世に送り出した。西洋文明はギリシャから始まった。私たちは今なお彼らが始めた数学を学び、彼らの作品を読み、彼らの遺跡の前にたたずみ、ため息をつくかもしれない。ああ、そうだ。古代にはこんな人間がいたのだ。
険しい山の中には必ず一筋の道がある。それは遠い過去に歩いた人たちの足跡によって踏みかためられた、長い風雪の歴史である。私と同じ時代を生き、そして死んでいった一人一人の顔が思い浮かぶ。悲劇や英雄譚をめくれば彼らの苦悩や勝利の喜びが聞こえてくるようだ――などと言えば、感傷的にすぎるだろうか。
ギリシャには様々な顔があった。遠くの森の梟や小石まではっきりと見える清澄な空気。どこまでも澄んだ青い空、紺碧の海、かぎりなく透明な真昼の空に光を放つオリーブの葉。峻厳な岩肌を剥き出しにした山々や、人間の足を無残に潰す岩が転がってくる道。山を登れば潮風と松だけでなく、動物の強烈な臭いを感じる。鼻をつくふんの匂いと、見晴るかす山頂からの眺め。旅人をわざわざ自分の馬にのせてやる村人もいれば、山賊と共に罠にかける村人もいた。魔獣の鋭い爪に引き裂かれた狩人や、神々の寵愛を受けた旅人がいた。
悲惨な終わりがあった。素晴らしい時代があった。人生は、激しく多彩だった。幸せを追い求めることが人間の本性だった。鮮烈に生きた彼らの生涯は、おぞましくも過酷な生活と、万古不易の名誉の両方に力強く彩られている。何から何まで話すわけにもいかないが、美しい面も険しい面も全て含めて、私はあのギリシャを愛しているのだ。
狩猟の女神アルテミスが、英雄オリオンに惹かれながらも兄アポロンの奸計によって彼を誤射したこと。
不死のケンタウロス、ケイローンが弟子ヘラクレスの毒矢に倒れ、不滅の苦痛に耐えかねて死を選んだこと。
『アルゴナウティカ』の船長イアソンが、輝かしい冒険の果てに孤独のうちにアルゴー号の残骸の下でその生を閉じたこと。
死を克服し、冥府の神の怒りに触れた医師アスクレピオスが神に撃たれたこと。
やがて必ずトロイアは滅ぶであろうこと。
私は彼らの生きざまと悲惨な結末を知っている。だからこそ、昔のことを語りたいのだ。あたかも全てが白紙であるかのように、生き生きと。
――さて、世界がまだ若かった頃の話をしよう。昔のことを、過ぎ去った時代に生きて、世界の舞台で大きな役割を果たした人間たちのことを、何か述べることにしよう。
――サラミスの彼方に沈む落日に映えて、山肌を覆う木々は薔薇色に染まる。そんな夕暮れ時に、私はペリオン山に程近い海岸に乗り上げた。
――名を名乗ろう。
――かつて詩人だったときの古き名前を。
こういう出だしで申し訳ないが、彼と出会ったのは、私がタコのぬめりを取るために手を洗っていた時である。空気が澄み渡って星々がはっきりと見える晴天の夜に、泉の傍らにじっと座り込んで、私は船の上で釣り上げたタコを洗っていた。はるかなるオリュンポスの神々の地を目指して、入り組んだ海岸線を持つギリシャ北部のテッサリア地方に、やっとの思いで一枚の枯葉のような浮舟を寄せたところだった。
「……いやあ、なんとも良い夜に恵まれたものだ」
ざぶざぶとタコを塩揉みすれば、どこからかかすかに蹄の音が聞こえてきた。少し驚いて周囲を見回すと、ペリオン山の清冽な泉から少し離れた木陰に誰かが見えた。
――無論、ふつうの人影ではなかった。体は半人半馬だったし、どこか人の世界から離れた、近寄りがたい雰囲気を纏っていた。長く、やわらかい金髪が風に揺れていた。そこまで近くにいたわけではないから、姿をはっきりと確認できたわけではない。それでも彼の毛並みが人並外れて美しいことははっきりと分かる。
いや、万全の状態の私であれば警戒を期してそそくさとタコを手に撤収していたところではあろう。しかし、この時は疲れていた。長いこと舟を漕いでようやくギリシャに上陸したところだった。多少危険なところでも、食べちゃっていいや、というのが正直な感想であった。
「――旅の方ですか?」
蹄が大地を叩く音がして、少年が近づいてきた。美しい下半身の毛並み。少しの赤みを帯びた健康な肌や、形のいい引き絞られた筋肉。固く弦の張られた弓――ケンタウロスだ、と思った。小柄ではあったが、優れて美しく、将来は凛々しい顔つきの英雄となることが確約されているような彼は、あくまで穏やかな口調で私に話しかけてきた。
「ああ。エジプトの――南方のあたりから来てね。素敵な場所だったから、お邪魔でなければ今夜はここで過ごそうかと思っていたところだ。ご迷惑だったかな」
「いえ、そうではなく……この辺りには私の他にもケンタウロスがいますから、少々危険かと」
ご丁寧にありがとう、と私は言った。ありがたいことである。エルキドゥといいこの少年といい、森に住むイケメンには優しい奴が多いのかもしれない。すると少年は何やらまだ成長していない若者らしいあどけない微笑を浮かべて、よろしければ今夜は私の家に泊まっていかれますか、と言ってくれた。
お言葉に甘えて、ありがたくそうさせてもらうことにした。彼に連れられて森の中に分け入っていく。当然、社交辞令や罠の可能性も考えなかったわけではない。とはいえ今は無性に疲れていた。それに彼の、木漏れ日の差す森のような優しさを湛えた瞳を見ると、なんとなくついていきたいような気持ちになるのである。
実際、彼――ケイローン君は、涙が出るほど良い奴だった。彼の住む洞窟に向かう途中で、私たちはお互いの名を名乗り合った。トゥラバラニ、ルシガアルブ、カムトセチェイ。色々な名前はあったけれど、不思議と彼に名乗る名前は、新しいものにしようと思った。
「私の名前はケイローン――神クロノスと妖精ピリュラの子です。あなたは?」
「ケイローン君か。私は――ホメロス。ホメロスと呼んでくれ」
そして、みなさんお気付きの通り――私のギリシャ上陸は、とんでもなく情けないものだった。
山の斜面の中で、ケイローンの蹄はおそろしく滑らかに動いた。馬の脚は平原を駆けるのにこそ適しているとばかり思っていたが、あながち山にも向いていない訳でもないらしい。月明かりが梢を透かし、まだ整備されていない道を白銀に染め上げている。足元に柔らかな苔が広がり、遠くからは梟の鳴き声が聞こえる。
「ペースを落とさなくても大丈夫ですか?」
「うん。これでも伊達に旅はしていない。良いものだね、夜の山の空気は」
「私も、ペリオン山を駆けるのが好きです。時折鳥たちをおどろかせてしまいますが」
「いいじゃないか。鳥の逃げ足が鈍らずに済む」
軽快な蹄の音が夜道に響く。ケイローンの健脚に合わせて、彼を見失わないように夜の山を駆けていく。彼は私の動きに少し目を見開いて、だが年頃の、活力にあふれる自らの体を加減せずに動かせることに、やはりどこか嬉しそうな笑みを浮かべていた。
実際、夏のギリシャには湿っぽいところがない。エジプトの動乱を抜けて、神々がいた頃のギリシャの空気にはどこかすがすがしいものがあった。そうして彼が蹄を滑らせる度に、私は力強い筋肉の躍動を眺めたり、彼の髪から漂う柔らかな香りに驚きながら、彼の肉体がどれほど強靱で、どれほどの鍛錬を積んできたものであるのかを考えたりした。
やがて木々の密集がまばらになって、小さな洞窟に差し掛かった。
「ここが私の家です。少し狭く感じるかもしれません」
ケイローンは若者らしい軽やかな身のこなしで足を止め、私に向き直って口を開く。
「謙遜がすぎるな。立派な場所だし、私はもう寝場所さえあれば十分だ」
「そうですか。それはよかった」
彼は軽く微笑んで、私の手元に目をやった。食事をとるのがまだだった。洞窟の入り口で火を熾し、木の枝に串刺しにしたタコを炙る。焦げ臭い匂いがあたりに漂っていた。炎が舌のようにちろちろと揺れ、山の岩肌に、地面に、私たちの影を大小に映し出していた。
「タコは少し焦げたぐらいの方が旨いんだ」
私は焼きあがったタコの足をケイローンに差し出し、自らもそれを食べてみせる。足を一本口に入れた瞬間に、強い旨みが舌に広がり、口の中に潮の香りが溢れだしてくる。疲れた体に染み渡るような味だ。それを見たケイローンは少しだけ戸惑いながらタコを受け取り、恐る恐る口に運んだ。
「……おいしいです。こんなおいしいものは初めて食べました」
「喜んでもらえてうれしいよ。食事は生きる歓びだから」
私たちはしばらくタコを頬張って、様々なことについて話した。自分がかつて占星術師であったことや、それぞれの地域の星空の印象。砂漠の空が思慮深い濃紺の宇宙だとすれば、ギリシャの空はあくまで明るい、爽やかな蒼穹だった。メソポタミアからエジプトへ、そしてギリシャへ。
「――では、旅の途中ですか」
「うん。長い旅路でね。まあ、色々とあったものだ。ペリオン山でケイローン君に出会ったのは幸運だったが、迷惑をかけていたら済まない」
「いえ、面白いお話をしてもらいましたから。むしろ私が礼を言わなければ」
空の表情は地域によって全く違うものとなる。私が見た限りでは、この地の天空は無邪気に笑う子供に似ている――眩しく、優美で、残酷なこの世ならぬ子供たちの笑いに。そういう風に言うと、ケイローンは図星を突かれたように苦笑いをした。
タコを食べ終わると、ケイローンは洞窟にある瓶から飲み水を汲んで持ってきてくれた。私はその間ひたすら恐縮しきりだったが、彼は気にする様子はなかった。
「旅の中でもこんな食事を?」
気を取り直してケイローンの問いかけに耳を傾ける。彼が旅について聞く表情は、普段よりどことなく紅潮しているように見えた。大人びてはいるものの、ギリシャの若者としてはやはり興味があるらしい。
「タコはそんなに食べられなかったな。エジプトを出て海の上ではもう……海魔……海魔しかないからそればっかり食ってたんだが」
「その、エジプトというのはどんな場所なのですか――?」
「不思議な場所だったよ。太陽を崇めていて、とてつもなく大きい石を積み上げて作った山と岩の柱があった。あとは研究者とか――立派な王様がいた。私にとってとても立派な王様が」
火を見ていると、エジプトでパンを焼いていた頃の様々なことが思い出された。アトラス院での出来事。砂漠の灼熱、ナイル川のほとりで見た星空、そこで出会った無数の人々の無数の表情。燃える炎を見ていたら、私の中の血がうずきだした。自分よりもはるかに重い運命を背負った人々が見せる、英雄としての光り輝くような姿ではなく、もっと人間的な、内面の柔らかい部分を覚えていたいと願った。
「聞かせて下さい。あなたが、どんな旅をしてきたのかを」
「うん。ケイローン君――旅の話をしよう。私は旅をしてきたんだ。長い旅を」
旅をした。百年を越す旅だった。飢饉に悩むエジプトの各地域を回りながらパンを焼いた。出来る範囲で農地の再灌漑を、小競り合いの平定を進めてきた。南方へ向かう中で様々な人間に出会った。私を売り渡した労働者の子孫にも出会った。何の因果か、そいつはあの頃の私と同じパン焼きになり、ビール造りにも挑戦していた。
それぞれの都市の上で、はげしい砂嵐が吹き荒れていた。強大な中央政府が分裂し、長大なナイル川を統一された政府が管理することは、もはや不可能となっていた。エジプトはナイルの賜物――ヘロドトスは著書『歴史』にそう記していたけれど、ナイル川の灌漑網の手入れが不可能になった以上、一般市民がその賜物を受け取ることは、ひどく難しい。案の定というべきか、飢饉が起こる。
ナイル川を移動する中で様々なものを見た。ニトクリス様亡きあとのエジプトは混乱をきわめていた。農地は放棄され、戦乱の炎が相次いで巻き起こった。若くして命を散らしたパン焼きや、飢饉のせいでほとんど骨と皮だけになった親子がいる。王座を狙う知事の墓には、自分が生前いかに貧しきものに恵みを与え、人々を憐れんだかということが、ひどく誇張されて刻まれていた。
だが――彼らは立ち上がった。無様だったが、どこか生き生きとしていた。
私は毎晩のように旅の話をした。メソポタミアで起こった出来事や酒造り、"記憶の図書館"の顛末について、多くのことをあけすけに。ある晩は森の獣を、またある晩は私が釣ってきた魚を食べた。気付けば私は、ほぼ毎日ケイローン君の洞窟に居座るほどの仲になっていた。われながらふてぶてしいものである。そのおかげというべきか、今ではケイローンの住む洞窟にはワインの瓶が鎮座している。
もっとも、そういうよそ者を好まないものは一定数いる。ケイローンの教育にはギリシャの神々が携わっている。だから洞窟に乱入してきたアルテミスに射殺されかけたり、アポロンが私の語る内容について訳知り顔で講釈を垂れることもあった。
それでもまあ、おおむね悪くない結果ではあったはずだ。オリュンポスの神々でも、なんだかんだ外の世界のことは知りたがっていた。時には手合わせを申し込まれたりもして、その度にあれこれと理由をつけて逃れたり。今はアルテミスが自分の恋心をなかなか認めたがらないのを、にやにやしながら見守っている。
夕暮れ時、ペリオン山の麓に差し掛かると、澄んだ空気の中に独特の香りが漂っていた。草木の芳香と、どこか懐かしい薬草の匂いが混ざり合ったような匂いがしている。ケイローンに狩猟の技を教えているアルテミスの姿がある。
目の前に広がる景色を見渡せば、茜色の山裾にはどこまでも続く緑の絨毯が広がり、その中にぽつりと、神か精霊でも宿っていそうな、一本の大きな樹が立っていた。樹の根元には小さな泉が湧き、澄んだ水は細い流れとなって大地を潤していた。
「今日もあの英雄にご執心ですか、アルテミス様」
私が声をかけると、木にもたれていた彼女がふわりと身を起こす。結い上げた髪と、服の裾に織り込まれた紋様から漂う雰囲気がひどく神々しかった。
「別に。あなたが来ているって聞いてちょっとからかいにきただけ」
彼女は静かに足を組み、鋭い瞳でこちらを見上げる。風と枝葉のざわめきは静謐な音楽のようで、私は思わず息をのんだ。これでもずいぶんと打ち解けたのだ。前は問答無用で射られていたのだから。
「それはそれは。でもまあ、今日は少しお話をしたいと思って」
「話? 珍しいわね。何?」
「はい。ケイローンに弟子を取らせるという話を聞いたものですから」
「ああ、その話ね! もうアポロンったら勝手に決めちゃって。賛成だけど、一言くらいあってもいいと思わない?」
彼女は少しむくれたような口調で言う。ケイローンは優れた戦士であると同時に、優れた教師の素質を持ってもいる。そして、神々はその類稀な教育を後世に伝えていくことを望んでいた。
「ここ最近は悩ましいことが続きますねえ。あなたはすっかりあの英雄に夢中だし。ケイローンは――」
夕焼けの中で、ケイローンは熱心に弓を引いている。柔らかな夕日の中で、弓を構えて狙いを定める彼はいつもよりもさらに若々しく、伸びやかに見える。ぴりりとした殺気と緊張があたりに漂っている。木々は風にざわめいて、鳥の羽ばたく音や、狐かなにかの獣が葉擦れする音が山の周りまで響いている。
「間違いなくいい教師になるでしょう。けれど、彼自身にとってそれがいいことなのかどうか」
彼の弟子が彼のように、知恵と力をつけて英雄として世界に羽ばたくこと。ケイローン自身も含めて、それを喜ばない者などいない。だが、高潔でしなやかだからこそ、彼はあまりに多くのものを背負うことになろう。教え子たちの死を見ることもあるだろう。英雄にはそういう一面がある。例え人並みの苦悩からどれほど遠く見えたとしても、だ。
私の言葉はアルテミスの耳に届いている。彼女は視線をケイローンから逸らし、私には見えないほどの遠くで、オリオンが何かしたことを、おそらくは察知した。ケイローンは弓を引き絞り、矢を放つ。風切り音が耳に残る。
「気にかけるわね。好きなの? 好きなんでしょ」
「そりゃ純粋に好きですよ。涙が出るほどいい青年だと思います」
「人間って不思議よねー……愛とか、恋心なんて錯覚なはずなのに。こちとら女神よ? 恋なんてしたことないもの」
「私はそうは思いませんけどねえ。しかしまあ、錯覚だとしても、偉大な錯覚でしょう。全宇宙でも騙せるほどの。なにせ処女神アルテミスさえクラっと来ているわけですし――ちなみに、あなたの英雄殿は今何を?」
「なんで教えなきゃいけないのよ。ぶち殺すわよ?」
私はケイローンの笑った顔、嫌味にならない程度の謙虚さを持って、どこか困ったように笑う顔が好きだった。ペリオン山にいる者で大なり小なり彼の厄介にならない者はないが、その場合も決して相手に負担を感じさせるような態度はとらない。流れるような弓捌きや、私の占星術の話を聞くときの、あの水が乾いた土に染みわたるような吸収力もさることながら、私は彼の、誰かに世話を焼く時の決して押し付けがましくない、自分の義務だというような微笑をもっとも印象深く思う。
ねえ、とアルテミスが言った。
「あなた、ケイローンの教師役をやらない?」
「いきなり?」
「だって自分から言ってたじゃない。メソポタミアで王の教師をやってたんだぞーって。信じられないくらいだらしない顔で。何の取り柄もないあなたでもこれならできるでしょ?」
「なんでいちいち言わなくていいことを言うかね、アルテミス様はね」
彼女と私はしばらくの間、風に揺れる木の葉を眺めていた。ケイローンの狩りが終わって、小気味いい蹄の音がこちらに近づいてくる。教師となるであろうケイローンの教師となる。私が彼に何を教えられるというのかという思いがある。彼女の話は分かるような気もするし、分からないような気もする。もしかすると私も似たようなことを考えているのかもしれないとふと思う。
「じゃ、あの子に何かあったら許さないから!」
アルテミスはそう言って愛しのオリオンがいる方へ飛び去って行った。ケイローンは弓を肩に担ぐようにして、私の方へ歩いてくる。私は彼をねぎらって、先ほどアルテミスに言われたことを話した。
「……まあ、そういう訳でね。君がもし嫌でなければ、私が君の先生になるというのはどうだろう」
「あ……」
「ああいや、必要なければまったくそれでいいんだが。ちょっと言ってみただけでな」
私が笑いながら取り下げようとすると、彼は頬をうっすらと紅潮させたままで言った。
「いえ、そうではないのです。すでに数えきれないほど多くのことを教わっているので、正式に、そう申し出てくれたのが嬉しくて。つい取り乱してしまいました」
「――おかしい、人間ができすぎている。私が教えることってないんじゃないか」
「!?」
私はアルテミスがいた場所に腰を下ろして、しばらく黙って景色を見ていた。日が落ちて、あたりが暗くなるまで、私たちはただそこにいた。
――自分より遥かに若い青年に、最初から最後まで人間性で負けている。私のギリシャでの生活は、こんな自分に何が教えられるんだと思いながら段々と動き出すのである。
たまに活動報告も書いてるので、進捗が気になる人はそっちも見てね。
良いお年を!