目が覚めたら古代メソポタミアにいたんですが 作:加藤ブドウ糖液糖
年一回の年末特番ヅラで颯爽と投稿――
(終章ってあれで本当に終わりなんですか?)
――人は自然と融け合ひ、自然の懐に抱かれて、限りある人生を哀み、限りなき永遠を慕ふ。
徳富蘆花『自然と人生』より――
彼らと過ごす間に、ギリシャでいくつかの詩を記した。占星術に関する数え歌のようなものを少々。そして漫遊の最中、まだ心を歌うことに慣れていない、緑色のざわめく海の光を写し取ろうとした拙い歌がある。あるいはそれらの詩に混じって、やや冗談的なもの、一方では年少の、美しい毛並みを持った教え子にむけて愛を歌ったものもないではない。それらの詩はすべて失われてしまった。ただ、幾つかの詩はもしかしたら、それを聞いた僅かな神々や、子供たちに些か思うところがあるとするならば、記憶されているのかもしれない。
かつて作った数篇は、今や――それどころか当時から、その韻律といい、表現といい、聞くに堪えないものであったと思う。人間の記録は、それが良いものであれ悪いものであれ、掛け替えのないものだと私は信じる。しかしながら、当時歌ったあの歌が、歴史からさっぱり姿を消したことは、私にとってはありがたいことだったと言わねばならない。願わくは、このホメロスが歌った詩が二篇だけであり続けることを。
どこまで話したのだったか。ギリシャの英雄も、神々も、決して完璧であったわけではない。時に選択を誤り、運命に導かれるままに悲劇へと突き進み、人々の嫉視と幾千の怨嗟の声を浴びている。私が彼らの未来を知りつつ、あえて時には見殺しにしたことも否定はすまい。ただ私は彼らを理想化し偶像視することなく、平らかにその善悪を見、私が見たままの彼を語ろうと心がけるのみである。私はこの旅の果てに、様々な山を見ることになるだろう。クレタの嶺を、パルナッソスの頂を、地中海の波が洗う石灰岩の白い崖を。
ただ何よりも忘れがたいのは、彼を誘い、数日かけてテッサリアの平原を駆けて見に行った、山頂にみ雪するオリュンポス山であった。
――ケイローンとともに一度だけ登ったオリュンポス山の頂には、雪が降っていた。いくつかの嶺に分かたれ、今ではミティカスであるとか、ゼウスの玉座であるとか、そういう大層な名前を戴いてはいるが、かつてはそんな名前はなかった。冬が近づいていた。木枯らしが少しずつ寒さを呼んでくる。麓ではヤギや羊が放し飼いにされ、見慣れない旅人を遠巻きに眺めながら、寒さに赤らんだ膚をさする羊飼いの傍らで、身を寄せ合って草を食んでいる。
オリュンポスに雪が降るのにはさらなる理由があった。オリュンポスにはエーゲ海からの風が吹きつける。そこからの上昇気流が山頂を雲で隠すことになる。冷やされた上昇気流は、神々の住む天界を覆い隠すように雲を作り、やがて雪を降らせるだろう。何か目に見えぬ薄絹のカーテンが、神とそうでない者を分かつように微かに大気圏を震わせている。ケイローンがわずかに濡れて光を写す馬体から湯気を立ち昇らせていた。
一人でこの山に来たことは何度もあった。その時私がケイローンを連れてきた理由は、彼が悲しそうだったからだと思う。
――かつて人々は、オリュンポスの雪の向こうに大いなる神々を夢見た。アンブロシアを食べ、その血管にはイコルと呼ばれる神の血が流れている、偉大にして不死なる神を。
ペリオン山の洞窟に居候を決め込んでから、数か月が経つ。
季節は巡り、山肌を彩る緑は深さを増し、やがて鮮やかな実りの季節へと移ろいつつあった。ブドウの収穫期が慌ただしく過ぎていく。トネリコや白楊の落ち葉が落ちていく頃ともなれば、ここ地中海沿岸の地域のいきものはまた、冬を思わずにはいられなくなる。私たちは洞窟の奥に蓄えた甕に、この秋に搾ったばかりの若いワインを満たし、その芳醇な香りが岩肌に染み付くのを待つような生活を送っていた。
教師役になってから数ヶ月、ケイローンは非常によく学んだ。天文学においては位置天文学に始まり、未来で言えばビリアルの定理やゼーマン効果に至るまで、半ば無理矢理聞き出される形で教えさせられることになった。パンの焼き方についても一通りマスターし、多分やらないであろう治水事業についても完璧に身に付けたのではないかと思う。私が教えられることといえばあっという間に魔術と諸外国語、無手勝流の解剖学ぐらいしかなくなった。だから小鳥の声を聴きながら、ギリシャの自然には似つかわしくない血なまぐさい話をするのも、今では日課となっていたわけである。
「人間というのは脆いものでね。エジプトでミイラを作っていた頃、突然倒れてそのまま亡くなった貴族の遺体を調べる機会があった。外傷もないのに死ぬ。そういうときに多かったのは、やはり頭の中、脳からの出血なんだが……」
私は手元の石に、簡単な脳の断面図を描いて見せる。
「……その中でも脳の深部、身体の動きを司る神経の束へ向かう、極めて細い血管がある。私のところではレンズ核線条体動脈などと呼んでいたんだけど。ここの破裂による出血が最も多かった」
「ほんの僅かな管が破れるだけで、人の命は失われるのですね」
「ああ。神や怪物のように頑丈にはできていない。人間そんなものだ。しかし、だからこそ愛おしいし、面白いともいえる」
私がケイローンに教えられることと言ったら、本当に些細で、役に立つのか分からないことばかりだ。美味しいパンの焼き方――これはエジプト仕込みの自慢の腕だ――や、国家間の揉め事をいかに事を荒立てずなあなあに済ますかという、ろくでもない大人の処世術。あとはアトラス院で自分の体をサンプルとして教わった、多少の解剖学ぐらいしかない。対して彼は、乾いたスポンジが水を吸うように私の知識を吸収し、それを瞬く間に自らの血肉としていった。
「で、今話した血管の太い部分。内頚動脈とか大脳動脈とか呼んでいたんだが、この部分が破れたり詰まったりしたら、普通の人間はこの時代の技術ではまず助からない。もっとも、君がこのような病気になるとはまず思わないけど」
「……その、ホメロスさんは」
「私?私は見送る側だったなあ。しかし人というのは案外バカみたいな理由でいなくなってしまう。置いて行かれるのも寂しいもんでね」
武術に医術、音楽に天文学。神童という言葉さえ陳腐に聞こえるほどの速度で、彼はあらゆる分野で才能を開花させつつある。遥かに経験を積んできた私ではあるが、この勢いを目の当たりにしてはこういう話をする羽目になるのも仕方がないことではあるまいか。なにしろ小学校から大学程度の話なら一日で学び終えてしまうのだ。実際、ネアンデルタール人でさえ我々と同程度の脳の容積を持っていたという。だとすれば、彼が勢いよく現代のわれわれの頭上を飛び越えていったとしても、何の不思議もないではないか。
時折思う。私が彼を教えているのではない。彼という巨大な器が満たされる過程に、私がたまたま立ち会っているだけなのではないかと。
オリオンがペリオン山に来るようになったことも言っておかなければなるまい。アクティブな男である。英雄色を好むという言葉は真実なのか、いささかでも暇ができると、たちまち、さほど遠くはない野山へ赴き、誰かしら新しい出会いを探したくなる。プレイボーイとして近隣に名を馳せ、ニンフの水浴びを覗き、マイナデスの薄衣に心を躍らせる。実際に凄腕の狩人であるのが余計たちの悪いところだ。
海神ポセイドンの血を引くというこの巨漢は、まるで自分の家であるかのようにペリオン山を訪れては、私の穏やかな生活を豪快に打ち破ってくる。
「おう、今日もいい匂いがするじゃねえの!こりゃ今夜も宴会か?」
質素だが一応はこだわりを持って焼いた魚料理を作っている時に、彼は決まって顔を出す。そして、さも当然とでもいうようにそのうち何匹かを骨まで平らげ、あげくの果てに「これだけ?」というような顔をしてくる。更に私が洞窟の奥から秘蔵の酒を出してくるまで、いつまでもいつまでも居座るのだ。あんな男に食事を出すべきではないといつもケイローンには言うのだが、そう言われて彼が客人を冷遇できるはずもない。
「お前の分は用意してないぞ、こっちは……」
「細かいこと言いなさんなって。せっかくの客なんだ。俺はそこの先生みたいな、ひねた考え方はできねえんでね」
「別にひねてはないだろう」
「いやいや、俺はアンタよりもずっとまともだぜ?ケイローンはな、まあ確かに真面目すぎるところはある。だがよ、アンタと違って飯に困ったやつを追い出しちゃいねえだろ?」
「お前は生肉が嫌だから飯を食いにくるだけだろうが」
――ケイローン、オリオン、私。三人で焚火を囲んで食事を共にするのが、このところの日常となっていた。オリオンの言葉に軽く睨みを利かせれば、彼は肩をすくめてみせた。
パタパタと火を扇ぎながら、溜息をついた。オリオンといると調子が狂う。しかしこんな彼の陽気な性格が、山中の静寂を和ませるのもまた事実だ。そういう男なのである。そうして、彼が酒を飲めば何をするか。弓の腕前を披露したり、あるいは手土産に持ち込んだ獲物をケイローンに振舞うこともある。山菜を採ってきたりもする。彼が狩りをしてくれば、必ずその獲物を自分よりも幼いケイローンに渡し、調理を頼む。これがまたケイローンが弱いところである。豪放磊落な男である。それにも拘らず母性本能というか、何というか、そういうものを刺激する。だからこそアルテミスは彼に心を惹かれた。この男はそういうところがあるのだ。
「どうだ。またアルテミス様の機嫌を損ねたのか?オリオン」
焚火を囲みながら、オリオンが語る近況は飽きることがなかった。彼の武勇伝はどれも鮮烈で、聞く者の胸を躍らせた。彼が語る一つひとつの出来事が、まるで壮大な叙事詩の一節のように、夜の静寂の中で息づいている。
「いいや、よろしくやったさ。まあ待て、今話してやるよ」
そう言うと彼はにやりと笑い、魚にかぶりついた。その横顔は、狩猟の女神アルテミスに愛された、まさに男の中の男といった趣だった。太い眉とぎらついた眼差し、そのすぐ傍には笑い皺が刻まれている。厚く張った胸板に、いかにも持久力がありそうな肩幅の広さと足腰の強靭さ。彼はよく笑った。豪快に肩を揺らし、時に天を仰いで大声を上げる。その笑顔は、まるで彼の心の中から湧き上がる熱意や情熱そのものを表しているかのようだった。その笑顔に触れるたび、私もケイローンも自然と頬を緩めてしまう。
オリオンは、その見た目通りの力強さを持ち合わせている。しかし、彼が私たちに向ける視線は、決して粗野なものではなかった。
食いっぷりも、見ていて清々しいほどである。神の血を引きながら、これほどまでに人間の営み――食べること、飲むこと、笑うこと――を愛する男を、私は他に知らない。
彼はわざとやっているのではないか。むしろわざとやっているのであればどんなに良いか。だが、彼の瞳には一点の曇りもない。ただ純粋に、腹が減ったから食い、喉が渇いたから飲む。それは、ある意味でオリオンがこのギリシャという土地で、英雄であり続けるための宿命的な行動だったのかもしれない。彼は私たちの記憶に深く刻まれるように、そしてこの物語に鮮やかに彩りを与えるために、自らの存在を語り継いでいく。
しかし、問題はその後だ。翌日になると、決まって洞窟の外の空気が凍てつく。無論、原因はアルテミス様である。
彼女はオリオンが私たちに見せるそういう一面――だらしなく酔っ払い、下世話な話に腹を抱えて笑うような顔――を、彼女には見せないことにご立腹らしい。彼女は肩書だけ見れば純白の処女神であり、その心は月の光のように冷たく澄み渡っている……はずなのだが、実際は感情的にすぎる節がある。表現に迷うが、神々には人間についているはずのブレーキがないのだと思う。彼女の場合、惚れた男が他の女に――それどころか、他の男にさえ――いい顔をすることなど到底許せないらしい。
彼女の怒りは山々に響き渡り、風は激しく吹き荒れる。時折、洞窟の壁にヒビが入ったり、棚に置いていた陶器が割れたりすることもあった。それでも、私たちはその苛立ちを理解できないわけではない。誰かが自分の知らないところで誰かに好意を見せている――あるいは、自分だけを見てほしいという欲求は、神であれ人間であれ変わらないのかもしれない。
「この前会ったときは随分と楽しげだったそうじゃない。ケイローンとホメロスとご一緒だったのかしら?」
「ああ、まあそうだな。でもあいつらは……ほら、友人っていうか……まあ、そんな感じだろ? な? だからちょーっと優しくしてくれると嬉しいなーなんて――ダァーッ!?」
もちろん、この光景も見慣れたものだ。冷や汗を流しながら誤魔化そうとして、大抵はオリオンが散々に痛めつけられて癇癪が終わる。たまに三日三晩かけて追いまわされることもあるけれど。そういう場面を見るにつけ、私は思わず苦笑してしまう。もちろん、それが彼らの関係性なのだから口出しはしないが、せめてケイローンに責任が及ぶことがないように配慮してほしいところではある。
そんなある夜のことだ。
その日は珍しく、もう一柱の神が地上に降りてきていた。いつも通りの宴のなか、焚き火を囲んでいるのは、私とケイローン。そして、招かれざる客である豪快な狩人オリオンと、彼を追ってきたアルテミス。それに加えて輝くような金髪と、完璧な均整美を持つ青年。芸術と光明、そして予言を司る神、アポロンである。
「やあ、ケイローン。相変わらずむさ苦しいところで暮らしているね」
アポロンは、竪琴を爪弾きながら軽薄に言った。その声は音楽のように美しいが、響きには温度がない。彼らにとって、地上の洞窟など獣の巣と変わらないのだろう。ケイローンは恭しく頭を下げる。彼は神々の教え子であり、同時に神々に仕える者でもある。その態度は完璧だったが、私には彼の表情筋が僅かに強張っているのが見て取れた。アポロンの口角が少しだけ上がり、その目が細められた。
アポロンほど恐ろしい神はいない、と思う。軽妙で、時に傲慢で、人間とは比較にならぬほど輝くような魅力を放っている。しかしその瞳の奥に常に冷たい光が宿っている。人を愛し、しかしそれは人が獣を愛するように愛する。狩りの対象として。神々のための、演劇の演者として。
狩猟の女神アルテミスは彼の妹だ。妹の寵愛を受けるオリオンは、彼にとって狩りや宴の際によく見かける存在でもあっただろう。しかし彼がオリオンを見る眼差しは、決して温かいものではなかった。むしろ、妹の寵愛を受ける不届き者――そう言わんばかりの険のある光を湛えている。
宴もたけなわ、というよりはオリオンが泥酔し、アルテミスがそれをしぶしぶ介抱し始めた頃、アポロンがふらりと私の隣にやってきた。彼は手に持った杯を軽く掲げると、静かに口を開く。
「……見ていられない、とは思わないかい」
口調は穏やかだが、その瞳は値踏みするように私の内面を探っているようだった。私は努めて平静を装い、浅く杯を干した。アポロンは私の様子を一瞥すると、口元に薄い笑みを浮かべた。
「何がですか、アポロン様?」
「あれさ」
アポロンは顎で二人をしゃくった。泥酔したオリオンは、自分の家はここだと主張するかのように草木の茂みに体を投げ出している。傍らに寄り添うアルテミスはどこかむくれたような表情をしながら、オリオンの髪に手を伸ばし、その硬い髪の感触を確かめるように指先で弄んでいる。その様子を、アポロンは眉一つ動かさずに見つめていた。
「アルテミス。あの妹が、あんな人間に執着している。理解に苦しむよ。不変であるはずの神が、定命の者に心を乱されるなんて」
「あなたも美少年の尻を追いかけまわしているじゃありませんか」
「私のは遊びだ。あれとは違う」
「違いますか?」
「違うさ」
アポロンは杯を傾けた。彼の唇が、薄く紅を引いたように艶めかしく濡れている。月明かりがその横顔を照らし出す。完璧に整えられた鼻梁に、彫刻のように端正な唇。彼の言葉に含まれるのはなにも悪意だけではない。純粋な困惑と、ある種の憐憫が含まれているように聞こえた。美しい星々は、ときとして人間を狂わせる。しかし、人間に星々が狂うことはあってはならない。星が狂えば、人も狂う。全てが狂う。世界の運行を定める神々は、決して永遠を過ごさない者と深く結ばれるべきではない。
「人間と神。定命の者と不滅の者。交わるはずのない平行線だ。オリオンはいずれ死に、腐り、土に還る。アルテミスは永遠に変わらない。その絶望的な差を、どう埋めるつもりだい?」
私は答えなかった。埋める必要などないと言ってもよかった。あるいは、その差こそが愛おしいとも言えたはずだ。だが、彼の主張も痛いほど分かっているつもりだった。かつて私が不死を与えられた時にいたウルクの民は、もう誰一人としてこの世にいない。アポロンはさらに続ける。今度は視線を、忙しく給仕をして回るケイローンへと向けた。
「ケイローンもそうだ」
彼の声色が、ふっと柔らかく、しかし残酷な響きを帯びる。
「彼は賢い。不死だ。我々に近い。だが、彼もまた神ではない。半神半馬。神と獣の混じり物。……悲しいねえ」
「どういう意味で?」
「言葉通りの意味だよ。ケイローンでさえ母親に疎まれたんだ。神の血を引きながら、その姿ゆえに愛されなかった。彼がどれほど知恵をつけようとも、その出自の歪さは消えない。神々の列に加わるには野生が過ぎ、獣の群れに下るには理知が過ぎる。人間は理解してくれても、やがて彼らに置いていかれる。所詮寿命に限りがあるからね」
アポロンは杯を呷り、哀れむような目で二人を見やった。
「不変の神々であれば知らずに済む、苦悩や悲しみや、孤独を、彼は全て知ることになる。その知恵の故にね。可哀想に」
「……あなたの口から出てくる言葉とは思えませんな」
「本心だよ。嘘偽りない本音さ」
アルテミスの指先が、オリオンの頬を撫でている。オリオンはその感触に安心したのか、表情をだらしなく溶かして深く眠っているようだ。この人間の人生を見届けたいと思うことも、かつて神々にはあっただろう。そのような人間が無数にいることの歓びは、同時にそのような人間の全てに別れを告げなければいけないことの悲しみと同義だ。永遠の愛は、永遠の命を持つ者には耐えられない枷となりうる。
「人は定められた命を生きる。神々は永久に在る。不幸を産みたくなければ、どこかですれ違い、交わらぬ方が幸福というものだ」
その時、皿を運んでいたケイローンの手が、ぴたりと止まった。アポロンの声は小さかったはずだ。だが、夜のしじまにおいて、神の言葉はあまりにもよく通る。あるいは、ケイローンの耳が良すぎたのか。
彼は一瞬だけ私を見て、それから小さく震え、目を伏せた。
「おやおや。少し喋りすぎたかな。ごめんよ、ケイローン。なかなか楽しかったよ」
アポロンは悪戯っぽく笑い、私の肩を軽く叩くと、瞬く間に夜の闇に溶けていった。月が雲に隠れ、辺りが急に暗くなる。後には、薪がぱちぱちと爆ぜる音だけが残された。ケイローンの沈んだような表情が気になった。私は焚き火を掻き回しながら、しばし無言で座っていた。すると、足元からくぐもった声が聞こえた。オリオンが地面の上で寝返りを打っている。その声はどこか間延びしていて、夜風に乗って鼓膜を震わせる。再びケイローンの方を見ると、彼はもう元の穏やかな表情に戻っていた。
「……まあ、何だ。気にすることはない」
残された言葉は、夜露のように冷たく降り注ぐ。ケイローンは無言で立ち尽くしていたが、やがて私に向かって静かに一礼した。
「……少しだけ、夜風に当たってきます」
――ケイローンの様子は、明らかにおかしかったというわけではない。それでもふとした瞬間や、独りでいる時の影が濃くなった。いつもなら、どんな困難にも凛とした態度で臨む彼がどこか陰りを帯びている。アポロンの言葉は、きっと彼の心の一番脆い部分に触れてしまったのだと思う。
残された言葉は夜露のように冷たく降り注いでいた。焚き火の爆ぜる音が、妙に大きく響く。私は黙って、火の粉が闇の中に吸い込まれていくのを眺めていた。アポロンの言ったことは真実なのだろう。しかし、真実というものは、時として毒よりも鋭く心を抉るものだ。
ケイローンは賢い。賢すぎるがゆえに、自分がどこにも属せないことを、誰よりも正確に理解してしまっている。
「……あいつ、行っちまったのか?」
不意に、茂みの中から聞き慣れた、しかし少し濁った声がした。オリオンだ。寝たふりをしていたのか、あるいは神の気配が消えたことで目を覚ましたのか。彼はのろのろと身を起こすと、太い腕で頭をかいた。
「嫌なことばっかり言いやがるな、アポロンは」
「……聞いていたのか」
「半分くらいはな……ケイローンのやつは?」
「風に当たってくるとさ。一人にしておいてやれ」
オリオンは鼻を鳴らし、残っていたワインの瓶を掴んで一気に煽った。
「馬鹿らしい。神だの獣だの、そんなことが何になる。あいつはケイローンだ。飯が旨くて、弓が上手くて、俺の面倒をよく見てくれる。それで十分じゃねえか」
オリオンらしい、直截な物言いだ。彼は空いた瓶を放り出すと、赤く光る星を見上げて笑った。
「アンタはアンタの仕事をしろよ」
「言われなくとも。ろくなことは出来んだろうがな」
「何も気にするな、お前はお前だ。そう言うだけだぜ」
彼の思考回路からすれば、そう考える方が自然なのかもしれない。なにせ相手が処女神でも構わずにちょっかいをかけるプレイボーイだ。オリオンの言う通り、伝えるべきことはそれだ。彼のように何も気にせず生きていけるのなら、どんなにいいだろう。しかし生憎、ケイローンがそんな人間ではないことはよく知っている。
背筋を伸ばし、夜の冷たい空気を肺いっぱいに吸い込む。もう木々からは冬の匂いがした。
翌朝、まだ露が草木を濡らしている頃、私はケイローンを呼び止めた。彼は昨夜のことが嘘のように穏やかな顔をしていたが、その瞳の奥には、出口のない迷宮に迷い込んだような疲労が滲んでいた。私は何も言わず、ただ指先で北の空を指し示した。
「ケイローン。少し、足を延ばそう。テッサリアを抜けて、オリュンポスまで」
「……オリュンポスに、ですか?神々の座へ?」
「いいや。神々に会いに行くわけじゃない。ただ、雪を見に行くだけだ。君なら、一日もあれば私を背負って頂上まで行けるだろう?」
ケイローンは驚いたように目を見開いたが、やがて静かに頷いた。私の意図を測りかねているようだったが、彼はそれ以上何も訊かなかった。残念なことに、我々は魔法使いではない。今この瞬間に彼の悩みを全て解決してしまうことは、私には到底できない。第一、他人の悩みを勝手に解決できると思うことが、傲慢以外の何なのだろう。彼には彼なりの悩みがあり、向き合う時間が必要だ。しかしまた、何もしないでいることも、私には到底無理な話だった。だからオリュンポス山を見に行ったのだ。
大層な目的があるわけではない。ただの旅だ。誰もいない山頂まで行って、雪を被った峰を一緒に見る。それだけの旅。どうやら私には、悩んでいる人間を見ると旅に連れ出したくなるという悪癖があるらしい。いや、今回は旅というほど大袈裟なものですらないけれど。
――ケンタウロスの健脚は、大地を滑るように進んだ。
テッサリアの広大な平原。オリーブの銀色の葉が風に揺れ、羊たちがのどかに草を食む光景が後方へと流れ去っていく。私は彼の広く、熱い背中の上に揺られながら、かつてエジプトやメソポタミアで見てきた景色を思い出していた。メソポタミアにも、エジプトにも、神の存在を表す山はなかった。
彼の背に乗るのは初めてのことではなかったが、山道を行くのと平野を往くのとでは全く異なる感覚がある。平野はどこまでもまっすぐに、水平に続いており、丘陵地を駆けると、緑の波間に大小の凹凸が見える。しかし山岳はそうではない。山道は途切れ途切れに、登っては下り、下りては登り、右に左に蛇行しながら標高を上げていく。
人はなぜ、山に登るのか。それは、天に近づきたいからではない。己がどれほど小さく、しかしその小さな瞳にどれほど広大な世界を収められるかを確認するためなのだ。
オリュンポスの麓に差し掛かると、空気は一変した。切り立った岩肌。立ち込める霧。エーゲ海から吹き付ける風が、山の斜面にぶつかって激しい上昇気流を作る。山頂を厚い雲が覆い、世界は荘厳な色に塗りこめられる。不意に、視界が開けた。
ミティカスの峰。いくつもの嶺が牙のように空を突き刺し、そこには音のない雪がしんしんと降り積もっていた。かつて人々が神々の宮殿と呼んだその場所には、ただ、圧倒的な沈黙と、透明な冬の光があるだけだった。
ケイローンは足を止め、荒い吐息を白い霧のように吐き出しながら、眼下に広がるギリシャの大地を眺めた。遥か遠く、紫色の海が夕日に煌めいている。平原は幾何学的な模様を描き、ヤギが、羊が、麓で身を寄せ合って草を食んでいる。やがて寒さが極まれば、裏背戸の狭い囲いに閉じこもって、厳しい冬を乗り切ろうとするだろう。大きな火を燃やしたて、麻を織り羊の毛を紡ぎ、やがて活発な子供たちは鶫やムクドリを取りに行くこともあるかもしれない。人々の営みは、蟻の行列よりも小さく、儚い。
雲海の上に突き出た神々の座は、あまりにも遠く、高く、冷たかった。オリュンポス。彼を捨てた父がかつて君臨し、彼を疎んだ母が逃げ出した世界。神話の舞台。彼は自分の手のひらを握りしめた。指の硬い感触が皮膚に食い込む。そして、私はその痛みを想像する。
「……聞いていいものか迷うが、自分のことを話してくれないか」
ケイローンは私の問いかけに驚く様子もない。ただ静かにオリュンポスを見つめ続けたままだった。
風が吹く。夜の風は冷たく、彼の長い尾を揺らした。やがて、彼はゆっくりと振り返り、私に視線を向けた。夜の湖のような目だと思った。彼のことを何も知らなかったのだ、と改めて考えた。こんな顔もできるのかと。
「……私は、母の顔を知りません」
長い沈黙の後、彼がぽつりと零した。寒さが肌に応え、夜の霧が立ち込めてくる。かつてオリュンポスを統べる神々の前に、クロノスという大神がいた。紺碧の海に浮かぶ島々に人々が生まれる前、大いなるウラノスとガイアの間に儲けられ、息子たちに討たれた巨いなる神。
「物心ついた時には、私は一人でした。父も、母もいない。あるのは、この異形の身体と、神々から授かった知識だけ。……太陽の神は言いました。お前は賢い、と。月の女神は言いました。お前は役に立つ、と」
彼は自分の蹄を見下ろした。岩を砕くほど強靭で、テッサリアの野山を駆けるのに適した、紛れもない獣の足だ。
「ですが、母は……ピリュラは、私を産んだことを恥じ、木になったと聞きました。怪物を生み出してしまった絶望に耐えきれず、自らの存在を植物へと変えたのだと。分かっています、初めから父母に愛情がなかったことなど。それでも、時折考えてしまうのです。もしも私が、普通の人間であったなら……と。私が神であったなら。あるいは、ただの人間であったら。このような知恵がなかったなら。弟子たちもまた、私と同じように不死であったなら。あなたと出会わず、何も知らないままでいられたなら」
彼の声が震えるのを初めて聞いた。風が吹き荒れる。彼の髪が激しく靡いている。神々の血を受け継ぎながら、人でも獣でもない中途半端な存在として生まれ落ちたこと。母に見捨てられ、父にも顧みられず、ただ世界から疎外されたこと。神々は彼の知識に、彼の理性に価値を見出したかもしれない。だが、生真面目な彼のことだ。それも所詮は道具としての価値ではないのかと感じながら、しかし自分の役割を知り、割り切ろうと過ごしてきていたのだろう。それはどれほどの諦観を要したことだろう。どれほどの悲しみを抱えたことだろう。
「……なにか気の利いた警句でも言えればよかったのだが、生憎と持ち合わせがない。神ならぬ身では、たくさん食べて、体を動かして、ぐっすり眠れと言うしかない。悩む暇がないくらいに」
「……あなたらしい言葉だ。少しだけ安心します」
ケイローンが力なく笑う。その笑顔を見て、私は衝動的に手を伸ばしていた。彼の人としての肩――馬の胴体へと続く、逞しい背中――に手を置く。温かい、赤い血が脈打つ身体だ。筋肉が躍動し、心臓が早鐘を打っている。冷徹な彫像ではない。ここに生きている、確かな生命の熱が掌にある。私の行動に、彼は困ったように眉を下げ、自らの蹄を見つめた。
「……私には、役割があります。英雄たちを導き、育て上げ、神々の意志を地上に行うこと。それが私の存在意義です」
「それは神が決めたことだろう。あるいは、君がそうあらねばならないと思い込んでいるだけだ」
何千年生きようとも、どれほど星の巡りを学ぼうとも、彼ははじめから欠落を抱え続けて生きていくのかもしれない。どこにも属さず、帰るべき家を持たない。その出自の歪さは彼自身が誰よりも深く理解している。等身大に悩み、そしてそんな人間くさい感情に振り回される自分の未熟さを恥じている。私は、肺の中の空気をすべて入れ替えるように、深く息を吐き出した。
「それさえ否定されたら――私は一体何のために生まれたというのですか?」
星々に秩序を課す神々の空が、音もなく私たちを見下ろしている。風が唸る。ウラノスの声が響くように。オリュンポスに雪が降り積もる。神々が用意した舞台の上で、台本がモイラから手渡される。黄金の時代、銀の時代、青銅の時代を経て、英雄もまた運命の描いた劇を演じる。もしかしたら、彼は神々の意志によってこの世に生まれたのかもしれない。神々は彼の才能を利用し、しかし彼自身の痛みには何も関心がなかったのかもしれない。死なないことだけが彼の唯一の救いであり、呪いなのかもしれない。
彼の背後にそびえ立つ神々の宮殿を思う。そこに住まう者は、一体何を考え、何を感じているのだろう。なぜ彼を生み、そして見捨てたのか。それは私には永遠にわからないことだ。だが。
「生きるためだよ」
私は彼に向き直り、その目を真っ直ぐに見据えた。何の意味もない同語反復(トートロジー)だ。続きを促すように、ケイローンはしばらく黙っていた。
「この世界に生まれてきたことが尊くないわけがない」
あるいは、人類が生まれてきたこと自体に、なんらかの意味があるのだろうか。
「君の母がどう思ったか、父がどうしたか、そんなことは関係ない。君が気にしたいなら気にすればいいが、君は今、ここにいる。私の目の前に立っている。私の頼りない説教を聞いて、パンを美味いと言って食べ、私のくだらない冗談に笑ってくれる。……それだけで、十分すぎるんだよ、私には。全てが夢のようだった」
オリュンポスの山肌が、雲の切れ間から注ぐ月光に溺れていく。山頂の雪が星の光を受けて仄かに輝いている。天上からの祝福などではない。今ここにある全てが、誰の意志でもない、一つの奇蹟によって始まった。あるいは誰かがもし仕組んだ、最後には破滅する物語だったとしても。今ここに生きている私と彼を。大地と大空を。海原を。大空を取り巻くすべての星座を。七つ星を、雨星を、引いていく潮を。人間でも獣でも、神の遣いでも役割を果たすために生まれてきたのだとしても。あるいは私が生かされた意味を知りたいと思う心は、同じではないのだろうか。その全てを否定することは、喩え創造主にでもできないことではないだろうか。
「曲がりなりにも私は君の師匠になったわけだ。君より狩りが下手で、がさつで、気配りが足りないとしても、私には責任がある。この人生が楽しいと、心の底から君が生きていてよかったと思わせる責任だ。君が世界を聴くために、君が世界を読むために、私は何でもしよう」
風が吹き抜け、ケイローンの金色の髪を揺らす。彼は噛み締めるように私の言葉を聞いていた。親代わりになどはなれない。私には、親の愛を教えることはできないかもしれない。神の愛し方も分からない。だが、あなたがそこにいてくれて嬉しいと伝えることはできる。
「――孤独なんかじゃないんだ、ケイローン。私は君のことを誇りに思う」
それ以外の何を私が彼に語れるだろう。彼はきっと多くの答えを見つけるはずだ。彼は聡明だから。
「……あなたは、私に何かを求めているわけではないのですね。ただ、私が私であることを」
「当たり前だろう。それ以外に何を求めればいいんだ?ああ、もっとわがままを言えとは思うがね。自分のために生きなさい」
「アポロン様やアルテミス様から命じられて私を教えているというのに、何も求めていらっしゃらない。ここオリュンポス山に登っておきながら、神罰も恐れない方を初めて見ました」
「…………うん。確かにね、そうだね。その可能性はあったね。まあ、まあ、そんなことより。楽しいことを考えた方がいいと思うんだ私は。何かしたいことはないのかね?」
「旅に出てみたいかもしれません。あなたのように。もし運命が許すなら」
唐突に、彼が言った。それは、ずっと彼の中にあった願いなのかもしれない。あるいは私に気を使っている可能性もなくはないのが彼のしたたかなところなのだが、その可能性はもう考えないことにした。ケイローンの視線は、遥か彼方、闇に沈む海の向こうへと向けられている。そこは神々の支配するギリシャの外。まだ見ぬ世界だ。
「運命なんかないさ。人間は諦める理由を欲しがる生き物だ。君のその健脚なら、どこへだって行ける。なんだってできる。海を越え、山を越え、世界の果てまでだって行けるだろう。私が保証する」
「いいのでしょうか、自分の望みを抱くなど」
「いいに決まってるだろう。好きにやればいいんだ。私だってそうしてる」
「神々から与えられた使命ではなく、自分自身の願いを」
人々は畏敬の念を込めてこの山を仰ぎ見る。だが、ケイローンはこの山の頂を見上げた時、一体何を思っていたのだろう。ケイローンは、その整った顔立ちを歪め、微かに息を漏らした。泣き声と呼ぶにはあまりにも静かで、優しい声を。
「ありがとう、ございます」
「こちらこそ」
「私の師匠になってくださって、ありがとうございます……!」
ケイローンが落ち着きを取り戻し、先に洞窟へ帰っていった数日後。私は忘却の彼方にあった神罰の予感に怯えながら、一人で森の中を歩いていた。冬の気配を含んだ夜風が木々を揺らし、カサカサという乾いた葉擦れの音だけが響く。落葉が足元で砕ける感触を確かめながら進んでいると、不意に、背筋が粟立つような鋭い気配を感じた。
彼女は一人で、木立の中に佇んでいた。薄い衣の裾を冷たく翻して、弓に細く透き通るような指をかけている。アルテミス様だった。
先ほどまで降っていた霧雨は止み、雲間から覗く月光が、ちらちらと彼女の足元に降り注いでいる。彼女の周囲だけひんやりとした空気が漂い、神聖な静けさに包まれていた。まるで、そこだけ世界から切り取られたかのように。
私は立ち止まり、息を潜める。逃げるべきか、ひれ伏すべきか。そんな迷いを、彼女の澄んだ声が断ち切った。
「別に、罰なんて下さないわよ。たまたま通りかかっただけ」
あんまり軽んじてると殺しちゃうけど。彼女が、私を見ずに言った。その視線は虚空に向けられているようで、同時に森のすべての生命を見通しているようでもあった。
「アポロンが言ってることは合ってると思うの」
アルテミス様が見えない弓の弦を指で弾いた。ピン、と鋭い音が夜の森に響く。それは矢を放つ音ではなく、張り詰めた何かが切れそうな音に聞こえた。
「神と人とは違う。交われば、歪みが生まれる。ケイローンを見れば分かるでしょう? あの子はあんなに苦しんでる。賢すぎるがゆえに、神にも獣にもなれない孤独に震えている」
彼女の声は、自分自身に言い聞かせるようだった。冬の到来を告げる冷たい風のように、淡々と、しかし確かな拒絶を含んで。
「オリオンもそう。あいつは人間。すぐに死ぬ。脆くて、弱くて、馬鹿で、どうしようもない。……なのに」
ふいに、彼女の言葉が途切れた。女神は自分の胸元を、純白の衣の上からぎゅっと掴んだ。まるで、そこにあるはずのない痛みを抑え込むかのように。
「……なのに、あいつの心臓の音を聞くたびに、こんなにも体が熱くなる。あいつが笑うと、心がどうしようもなく波立つ。狂ったのかしら」
「アルテミス様は、オリオンに永遠になってほしいんでしょう。そしてアポロン様はそうでないのが気に食わない。人間と神が幸せになれるものかと。私もね、そう思ったことがありました。置いて行かれるのは苦しいから。寂しいから」
私は自分の言葉に、我ながら苦笑した。本当に、なぜだろう。論理的な説明などつけようもない。ただ、そうしたいと、そうしなければと、胸の奥で誰かが叫んでいるような気がするのだ。
「永遠を生きるものは、愛するものにもまた永遠を望む。それは自然なことです。かつて、不老不死の霊草を求めた王がいました。永遠の国で蘇ることを願ったファラオたちがいました。いずれにせよ、人間は世界を立ち去るでしょう。帰っていくのです、苦しむ誰かをここに置いて」
アルテミスは、私を見つめた。その瞳は、絶対的な冷たさと、人間的な揺らぎの間を行き来している。オリュンポスの雪のように冷たく、けれどその下で燃える火のように熱く。
「あなたのような神にとって、それは耐え難い損失であり欠陥なのかもしれません。理解ができないかもしれない。愛するものが消えてなくなる。永遠が失われる。それは恐怖だ」
ですが、と私は言葉を継ぐ。冬枯れの森に、春の到来を告げる鶫の声のように、静かに、しかしはっきりと。遠い昔のことを思い出した。メソポタミアの王と泥の人形を。彼らもまた、神と人の狭間で足掻き、そして永遠に対して別れを告げた。エジプトの砂漠で見た、復讐の果てに不死を諦めた女王のことを思い出した。
「人間は、どうあっても不死を手に入れたいと思っているわけじゃない」
一瞬間をおいて、私は言葉を続けた。
「ただ死にたくないだけだ。人間は生きていたいんですよ、アルテミス様。足の下に地面を感じ、頭上に雲を眺め、他人を愛し、一緒に暮し、彼らのことを考えたいんです。ただそれだけのことだ」
不老不死になりたい。神になりたい。永遠に名を残したい。そんな大層な願いの根底にあるのは、いつだってただ一つのことだ。今、この瞬間、あなたと一緒にいたいという、切実でささやかな渇望。
「それ以上の主張は全部嘘だよ。無意識についた嘘だ。オリオンもそうでしょう。彼はあなたと永遠に一緒にいたいと願うかもしれない。だが、それ以上に、彼は今、あなたと笑い合い、アルテミス様と同じ時間を過ごし、あなたの隣で眠りたいと思っている。明日死ぬとしても、今日のアルテミス様を愛していたいと思っている」
アルテミス様は呆気にとられたような顔をしていた。その表情は、神殿に祀られた彫像よりもずっと人間らしく、愛おしいものに見えた。
「……そんなの、変よ」
「変ですよ。でもそれが人間だ。そしてアルテミス様はそんな変な男に恋した。それだけのことですよ」
私は苦笑した。
アルテミス様はしばらく黙っていたが、やがて頬を赤らめてふいっと顔を背けた。夜の闇に、白い項が艶めかしく浮かび上がる。
「……気っ持ち悪~い! 人間風情が、神に説教なんて生意気よね? 殺しちゃおうかしら」
そう言うなり、彼女はバキュン、と弓を放つジェスチャーをしてから、くるりと踵を返した。その動きは軽やかで、まるで枝から飛び立つ鳥のようだった。しかし次の瞬間、彼女は肩越しに振り返り、いたずらっぽく、しかしどこか寂しげに微笑んだ。
「……でもまあ、ちょっとだけ、見逃してあげる。オリオンも、あなたも。人間って変な生き物ね」
「ちょっとだけ?後で殺されるんですか?」
彼女の言葉は、冷たい夜風の中で、まるで花弁が舞うように軽やかだった。
彼女はそのまま、木々の間に溶けるように姿を消した。私は一人、木立の中に立ち尽くしていた。風が吹き、乾いた枯れ葉が私の足元でクルクルと踊った。月光が差し込み、私の影を地面に長く伸ばす。森は再び静寂に包まれた。遠くで梟の鳴く声だけが聞こえる。
――舞台の上で、役者たちは軽やかに舞う。まったく人生とは神々を楽しませるための見世物にすぎない。神は愛を知り、人間は永遠を諦める。だが、神々に運命がないとは誰が言ったのか? プロメテウスはその不死ゆえに内臓を啄ばまれ、シシュポスは永劫の時を重い岩を転がす苦役に過ごすことになる。では、永久に願いの叶わぬ存在は、永久に舞台から降りることができぬのではないか。
「ワイン飲んで忘れよ」
私は洞窟へと歩き出す。夜風が、ブドウの甘い香りを運んできた。
――ギリシャに、また新しい年が来る。
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