目が覚めたら古代メソポタミアにいたんですが 作:加藤ブドウ糖液糖
――それゆえにこそ、医家のなかでも最も偉大な医家の発言がある。いわく「生は短く術は長し」と。
セネカ『人生の短さについて』より――
医学が生まれる前、病はすべて神の指先であった。これは比喩ではない。古代の人々にとって、熱に浮かされることも、腹の中に石ができることも、子供が朝になって冷たくなっていることも、その一切が神々の御手による裁定だった。原因は罪であり、治療は贖罪であり、薬草は供物の一種にすぎない。誰かが死ねば、遺された者は必ず「何がいけなかったのか」を探した。豚を捧げなかったからだ。祭日に働いたからだ。あるいは、先祖の誰かが神域で小便をしたからだ。理屈はいくらでも見つかる。そうやって人間は、意味のない死に意味を与え、なんとか正気を保ってきたのである。私はそれを愚かだとは思わない。ウルクでも、メンフィスでも、まったく同じことが行われていた。人間は、理由のない苦しみにだけは耐えられない生き物なのだ。だから、癒やしの神が生まれる必要があった。
やがて地中海のいたるところに、その神を祀る聖域が建つことになる。後世の著述家が名を挙げたものだけで三百を超える。エピダウロス、クニドス、コス、アテナイ、ペルガモン、キュレネ。どこも申し合わせたように、森があり、鉱泉が湧き、そして途方もなく見晴らしのよい土地に築かれた。白い柱が並び、大理石の座席を一万も備えた劇場を併せ持つ聖域さえある。病院というよりは、保養地と言ったほうが近い。人間というのは四千年経っても同じことをする。体を壊した者にまず必要なのは、景色と、湯と、暇なのだ。
治療の手順は、おおよそ次のようなものだった。病人はまず身を清め、断食をする。祭壇に近づく許しが出ると、神をなだめる儀式が執り行われる。それが済んではじめて、聖域のもっとも奥――アバトンと呼ばれる区画に入ることが許される。彼らは覆いをかけられ、断食で疲れ切った体に眠り薬を一服飲まされ、羊の皮の上に横たえられて、眠りに落ちる。眠ったところで、ようやく治療がはじまるのである。神官が聖なる蛇を連れ、眠る病人たちのあいだをゆっくりと行き来する。痛むという場所を、蛇に舐めさせるのだ。翌朝、目を覚ました者は見た夢を余さず語らねばならない。神官はそれを解き、しかるべき処方を告げる。参籠という。種を明かせば、そこで実際に行われていたのは、休養と、食事の管理と、鉱泉浴と、そしていくらかの外科であった。それで治る者は治った。治らなかった者には、神官があらかじめ用意しておいた文句を返す。曰く、言われた通りに厳密にやらなかったからだ。曰く、治療のあいだ、信心が足りなかったからだ。笑ってはいけない。私はこれとまったく同じ台詞を、あらゆる時代のあらゆる土地で、何百回聞いたか分からない。
神域の柱には、必ず蛇が彫られていた。一本の杖に、一匹の蛇が巻きついた意匠である。あれは四千年近くを生き延びて、今なお救急車の腹に描かれている。地上でもっとも長く使われ続けた記号のひとつだ。その神の名を、アスクレピオスという。
彼は二人の息子に、それぞれ異なる才を分け与えたと言われている。マカオンには、矢を抜き、腹を裂き、炎症と傷を鎮める手を。ポダレイリオスには、目に見えぬものを見抜き、魔術に頼らずとも病を捉える眼を。外科と内科という区別を人類で最初に立てたのはこの父子である、と後の世の学者は書いた。彼らはやがてトロイアの野に立つ。矢傷を負ったギリシャ方の英雄たちを、血まみれの天幕の中で片端から縫い直していく男たちだ。
この兄弟の名から、アスクレピアダイという呼び名が生まれる。神の血筋のことではない。神殿とはまるで縁のない、ただの医学生たちの呼称である。初めのうち、医術は父から子へと手渡されるものだった。やがて学校が大きくなると、弟子たちは養子同然に師の家へ住み込み、寝食を共にして学ぶようになる。紀元前六世紀ともなれば、医者は一個の職業になるだろう。評議会に開業の免許を申請し、医院を構え、助手を雇い、患者を診て料金を取る。軍付きの医者がいた。体育館付きの医者もいた。そして――これがいちばん大事なところなのだが――コス島の医学校は、その島に神殿が建つよりも古い。
その学校から、やがて一人の男が出る。ヒポクラテスという。病を神の手から取り上げ、人間の手の中に置いた男である。
その始祖が、どうなったか。
――アスクレピオスは死者を蘇らせ、雷に撃たれて死んだ。
私は彼が生まれた夜のことを覚えている。
――いや、正確に言えば、生まれた夜ではない。母親の腹から引き出された夜のことを、である。
その冬、ペリオン山にはまだ雪が降っていなかった。
オリュンポスから戻って幾日か経ち、山はすっかり葉を落としていた。裸になったブナやトネリコの枝が空を細かく区切っていて、そのあいだから鉛色の雲が見える。風は乾いて冷たい。洞窟の奥に据えた甕の中では、秋に搾ったばかりのワインが眠っている。私は入り口近くに石を積んだ即席の窯をこしらえ、火を焚いて、大麦のパンを焼いていた。ギリシャに来てからというもの、私の生活はこの窯を中心に回っている。六百年ものあいだ同じことをしていれば、人間はどこにいてもパンを焼く生き物になるらしい。
「ホメロスさん。粉はまだありますか」
「ある。あるが、君はさっき四つ食べたろう」
「……三つです」
「四つだ。私は記憶力だけが取り柄なんだぞ」
ケイローンは弓の弦を張り直しながら、少しばつが悪そうに耳を伏せた。この時期の彼は本当によく食べた。育ち盛りの、それも馬体を抱えた若者である。当然といえば当然なのだが、あの底なしの胃袋の中に私の一日の労働が消えていくのを見るのは、なかなか感慨深いものがあった。
オリオンはいなかった。北の方の魔獣退治に出ていて、しばらく帰ってこない。アルテミス様の姿もない。あの晩、木立の中で彼女と話をして以来、私は一度も彼女を見ていなかった。そのことを、私はさして気にも留めていなかった。神々は気まぐれである。数日姿を消すことなど珍しくもない。
愚かなことだ。私はこの時、まだ何も知らなかった。
窯から一つ目のパンを取り出したとき、火がふいに縦に伸びた。
風のせいではない。空気そのものが張り詰めて、山の音という音が一斉に消えたのだ。梟が鳴きやみ、枝の軋みが止まり、私の耳の奥で血の巡る音だけがやけに大きく響いた。神が近い。それも、機嫌のいい神ではない。ケイローンが弓を置いて立ち上がる。
洞窟の外の暗がりから、金色が滲むように現れた。
「やあ。夜分にすまないね」
アポロンだった。相変わらず完璧に整った顔をしている。乱れた髪の一筋もない。だがその白い衣の胸から腹にかけて、黒っぽい染みが大きく広がっていた。彼はそれを気にする素振りも見せない。両腕に、羊毛の布でぐるぐる巻きにした包みを抱えていた。
匂いで分かった。昔から嗅ぎ慣れた、しかし最近は嗅ぐことがなかった匂い。
血と、脂と、焦げた肉の匂いである。
「ケイローン。頼みがあるんだ」
「……アポロン様。それは」
「預かってほしい」
その口調があまりに軽やかだったので、一瞬、意味が取れなかった。アポロンは腕を伸ばし、包みをケイローンの方へ差し出す。布の端から、小さな、赤黒いものがのぞいていた。
赤ん坊だった。
生まれたばかりの、へその緒を乱暴に千切っただけの、人間の男の子である。
「母親は死んだ」
アポロンは、天気の話でもするような調子で言った。
「コロニスという。テッサリアの、ラピテス族の王の娘だ。私の女だった。私が北へ発っているあいだに、イスキュスという男と寝た。人間の男だ。よりによって、ただの人間の男とだよ。おかしいだろう?白い烏が知らせに来た。私は褒美に、あの鳥の羽を灼いてやった。あれはもう二度と白くならない」
ケイローンは動かなかった。動けなかったのだと思う。
「妹に射させた」
私の指の先が冷たくなっていくのが分かった。
「私が射てもよかったが、あれは私の女だったからね。手を汚したくはない。アルテミスの矢は正確だ。一射で心臓を貫いた。苦しませはしなかったよ、私は優しいだろう?薪を積んで、火を点けて――だが、燃えはじめてから気付いたのさ。腹の中に、私の子がいた」
彼は、包みを見下ろした。その視線には、憎しみも愛情もなかった。ただ、拾ってきた石を検分するような、静かな関心だけがあった。
「だから引きずり出した。火の中から。……ねえ先生、あなた死体をいじるのが得意なんだろう。ちょっと診てくれないか。生きているとは思うんだが、私はそういうことが分からない」
この男は本気で言っている。私はそれを理解するのに、たっぷり三つ数えるだけの時間を必要とした。包みを受け取る。軽い。信じられないほど軽い。羊毛を開くと、湯気のような熱が私の顔に当たった。まだ母親の体温が残っているのだ。
私の手は勝手に動いた。六百年、それをやってきた手である。ミイラを作るとき、私はまず死体の全体を見る。皮膚の色、乾き具合、腐敗の進行、外傷の有無。同じ順序で、私はこの子を見た。
皮膚は蝋のように白く、末端だけが紫色になっている。左の肩から脇腹にかけて、火に舐められた痕があった。水疱にはなっていない。ごく浅い。母親の肉が壁になったのだろう。臍帯は付け根から二寸ほどのところで千切られ、まだ湿っていた。結紮はされていない。当然だ、そんなことをする者がいなかったのだから。私は自分の外套の裾を裂き、細く縒って、それを縛った。指先が震えていたので、二度やり直した。
胸に耳を当てると、馬鹿げた速さで、小さな心臓が鳴っていた。人間の心臓というのは、生まれたばかりの頃がいちばん速く打つ。まるで、これから先の何十年ぶんかを今のうちに使い果たそうとしているかのように。
「生きています」
そう言った途端、赤ん坊が泣いた。喉のどこかが引き攣れたような、みっともない、割れた声だった。生まれて初めて彼が吸った空気は、母を焼いた煤まみれのものだった。私は指を口の中に差し入れて羊水と煤の混じったものを掻き出し、背中を叩いた。二度、三度。四度目でようやく、まともな泣き声になった。
「いい泣き声だ」
私は言った。誰に言ったわけでもない。
「泣くといい。泣くのは、ちゃんと息をしている証拠なのだ」
小さな手が、私の指の腹を掴んだ。力というほどの力ではない。掴めるものがあったから掴んだというだけの、ただの反射である。人間の赤子は生まれて数か月のあいだ、これをやる。まだ木の枝にぶら下がっていた頃の名残だと言う者もいる。つまりそこに意思はない。意思はないのだが、掴まれた側はどうしても、そこに意味を読み取ってしまうようにできている。私はしばらく動かなかった。窯の中で炭の崩れる音がした。焼けたパンの匂いと、母親の血の匂いが、洞窟の中で混ざり合っていた。ひどい取り合わせだ、と思った。
「では、名をやろう」
アポロンは満足げに頷いた。母親の血が乾いて張り付いた衣のまま、彼は光を纏うように立っている。
「うん。アスクレピオス。これの名はアスクレピオスだ。ケイローン。お前に預ける。医術を教えてやれ。お前が知っていることを全部だ。この子はいずれ、人間たちの病を癒やす者になる」
いい名だろう、と彼は自慢げに言った。
「……なぜ、私に」
「お前が育つのを見てきたからさ」
アポロンは笑った。心底優しげな笑い方だった。ケイローンの毛並みを撫で、顔を撫で、楽しげに微笑みかける。
「私はお前を気に入っているんだよ、ケイローン。お前は捨てられた子だ。だから捨てられた子の扱いを知っている。違うかい?」
ケイローンは何も答えず、両腕を差し出した。私は赤ん坊をそこに移した。半人半馬の、まだ少年と呼んでいい年頃の彼が、火の傍にゆっくりと膝を折り、その大きな手で赤ん坊の頭を支える。あまりに慎重な手つきだったので、見ているこちらの息が詰まった。
あの晩、彼はオリュンポスの雪の下でこう言ったのだ。私は、母の顔を知りません、と。そして今、彼の腕の中には、母の顔を知らない子供がいる。
「……はい。お預かりします」
ケイローンの声はしっかりしていた。表情も落ち着いていた。それでも私には分かった。彼の首筋の脈が、腕の中の赤ん坊とほとんど同じ速さで打っていることが。
「結構」
アポロンは踵を返し、それから思い出したように振り向いた。
「ああ、そうだ。先生。この前、妹に何か吹き込んだそうだね」
「はて……何のことでしょう」
「人間はべつに不死になりたいわけではない、ただ死にたくないだけだ、と。そう言ったそうじゃないか」
彼は、心から愉快そうに目を細めた。
「彼女も同じことを言ったよ。矢が刺さってから、火が点くまでのあいだにね。死にたくない、と」
「あなたの子を守るためでしょう」
そう言って、私は火の傍を一度だけ見た。ケイローンの腕の中で、包みが小さく上下している。それを確かめてから、この上なく美しい神の顔を正面から見た。
アポロンは静かに笑った。
「君、いい顔をしているねえ。さっきからずうっと同じ顔をしている。君はさっき、あの子を死体を見るのと同じ順で見たじゃないか。君も、人の心が分からなくなってきているだろう。分かるかい?」
夜の中に、金色の光が溶けて消えた。
「――私と同じ顔だ。何故かは知らないが、君は神に似てきている」
アルテミス様は、洞窟から少し下ったところの木立にいた。私が薪を取りに出て、たまたま見つけたのである。彼女は木にもたれてもいなかった。ただ立っていた。弓は持っていなかった。あの、いつも指に引っ掛けていた弓を、彼女は持っていなかった。
声をかけるべきかどうか、私はしばらく迷った。迷った末に、結局こう言った。
「アルテミス様。パンを焼いています。よろしければ」
「……いらない」
彼女はこちらを見なかった。
「あの女ね、最後まで抵抗しなかったのよ」
風が枝を鳴らした。
「わたしのこと、見てた。ずっと見てた。腹を抱えて、こっちを見てたの。逃げればよかったのに、走ればよかったのに、あの女、腹を抱えて立ってた。走ったら子供に障ると思ったのかしらね。人間って、本当に馬鹿」
「……」
「兄さんの命令だもの。当然でしょ。わたしは狩りの女神。射れと言われたら射る。それだけ。何も間違ってない」
彼女は自分の右手を持ち上げ、しばらくそれを見つめていた。月のない夜だった。その指がどんな色をしているのか、私には見えなかった。
「ねえ」
「はい」
「あの子、生きてるの」
「生きています。よく泣きます」
「――そう」
それだけだった。彼女は木立の奥へ歩いていき、それきり姿を消した。
私はその夜、彼女を追わなかった。追ったところで、私に何が言えたというのだろう。神の所業を責める資格が私にあるとは思えない。私もまた王を僭称し、数のために幾人もの人間を殺した男であった。敵国の者を。臣下を。そして私は段々と、限りある生のことを忘れようとしている。
その夜、ペリオン山に、今年はじめての雪が降った。
薄い、粉のような雪だった。積もりはしない。枝先に触れた端から溶けて、黒い地面に染みを作っていく。私は窯の火が落ちるまでその場に座り込んで、それを眺めていた。
洞窟の中からは、ときおり赤ん坊の泣き声と、それをあやすケイローンの、ひどく不慣れな、しかし辛抱強い声が聞こえてくる。彼は一晩じゅう起きているつもりらしかったし、私もまたそうするつもりだった。
「オリュンポスのことを思い出すなあ。君もあの時、ちょうどこんな風に泣いていた」
「それは……どうか、お忘れください」
「無理を言う。私は記憶力だけが取り柄なんだぞ」
ケイローンは眉を下げ、少しだけ頬を染めて腕の中に目を落とした。
「恥ずかしがる必要はない、ケイローン。誰だって泣く権利はある。我が王も、無二の親友が斃れたときには滂沱の涙を流した。太陽の御子もそうだった。私もそうだ」
「……この子は、覚えていないでしょうね。母のことも、火のことも、今夜のことも」
「そうだな。だから、君が覚えていてやりなさい」
ケイローンはしばらく黙っていた。それから、ひどく静かに言った。
「……では、そうします。この子の泣いた夜のことを、覚えておくことにします」
ケイローンの横顔が、ふと、懐かしい人に重なって見えた。
――ニトクリス様、雪をご覧になったことはありますか。
私は、なぜだかそのことを思い出していた。
聖牛アピスの背を眺めながら交わした、何でもない口約束だった。あの日、砂漠には短く濃い影が落ちていて、風が吹いていて、私は虫を払いながら間の抜けた声で言ったのだ。では、いつか共に見ましょう、と。
彼女はそれを見ることなく、熾火の中に身を投じた。
そして私は、
何度でもこういうことが起こるのだろう。私は誰かに何かを約束し、その誰かが死に、私だけが残って、まったく別の場所で、まったく別の人間と、その約束の景色を見る。そのたびに私は思い出すのだろう。思い出せるということが、私に許された唯一の贅沢だった。それはまた唯一の罰でもある。私はこの先、もう二度と会えない死者たちの顔を抱えながら、長い生を生きていかなければならない。
――さて。ここからは、私が長らく書きたくなかったことを書かねばならない。
私は知っていた。あの赤ん坊が長じて、ケイローンから薬草を、外科を、骨と血脈の理を学ぶことを知っていた。彼が父の光をその身に宿し、地中海じゅうの病人に手を伸ばすことを知っていた。そして――あるとき彼が一線を越え、死んだ人間を土の下から引き上げ、その報いとしてゼウスの雷に灼かれることを、私は知っていた。
それだけではない。私はこの数か月、ケイローンに何を教えてきたか。
脳の深部を走る細い血管の名を教えた。人間の腹を開いたとき、どの膜の下にどの臓器が並んでいるかを教えた。傷口を煮沸した布で覆うことの意味を教えた。それらはすべて、この時代の誰も知らないはずのことだった。私はそれを、教え子に喜んでもらえるのが嬉しくて、洞窟の中で得意げに、石に図まで描いて教えたのだ。
ケイローンは聡い青年だ。何一つ忘れない。そして今夜から、彼はそれを、腕の中の子供に伝えていく。
人間の手が死を追い越そうとするとき、天は必ずそれを撃つ。私はメソポタミアでそれを見た。エジプトでもそれを見た。神々というのはそういうものだ。だとすれば、あの子の胸を貫くことになる雷の中には、間違いなく私の指紋が付いている。
私は、それを誰にも言わなかった。
言えば、ケイローンは教えるのをやめるかもしれない。やめれば、あの子は死なずに済むかもしれない。しかしそのとき、エピダウロスの白い柱は建たず、参籠する病人は癒えず、トロイアの天幕で傷を縫う二人の兄弟は生まれない。コス島の男は生まれず、四千年後の救急車の腹に蛇の杖は描かれない。
――何万人の命と、目の前の一人の命を、私は秤にかけた。
そして、黙っていることを選んだ。私は英雄ではない。役目を果たそうとしただけだ。そんな言い訳を、この先何度使うことになるのだろう。
雪はまだ降っていた。顔を上げると、雲の切れ間に冬の星が出ている。
東の空に、まだ何の名も付いていない、暗い星の集まりがある。後の世に、あの一角には杖を握った男の姿が描かれることになる。両手で大蛇を掴み、それを引き裂こうとしている男だ。蛇遣い。撃ち殺された医神を憐れんだ誰かが、せめて空にだけは置いてやったのだと言われている。占星術師というのも因果なものだ。そして星空に彼の仲間が増えていくのを、私はこの先幾度となく目撃し、それを占うことになるだろう。
六百年を生きた。あと何度、こういう夜を数えるのかは分からない。洞窟の中で、また泣き声が上がった。私は立ち上がって、雪を払い、まだ温かい窯からパンを一つ取り出した。
「ケイローン。少し代わろう」
「……いえ、大丈夫です。私が起きています」
「馬鹿を言うな。腹が減っているだろう」
その夜、私たちは交代で赤ん坊を抱いた。朝になっても、雪はまだ降っていた。
オリオンが北から帰ってきたのは、雪が消え、山裾のほうから花の匂いが上がってくる頃だった。
相変わらず何かの獣の首を担いでいて、相変わらず土産だと言って血の滴るそれを地面に放り出し、相変わらず私の焼いたパンを断りもなく三つ攫っていった。それから洞窟の奥で這っている小さなものを見つけて、目を丸くした。
「あんだこりゃ。しわしわだなおめぇ」
「触るな。手を洗ってこい」
「なあ先生よ、こいつ、俺に似てねえか?」
「どこがだ。アポロン様に殺されるぞ、お前」
「いや、顔だよ、顔。いい男の顔してるだろうが」
オリオンは渋々川で手を洗ってから戻ってきて、あの太い両腕で、おっかなびっくり赤ん坊を抱き上げた。天井近くまで持ち上げられた小さな体が、きゃっきゃと声を上げる。あの巨体のどこにそんな加減が仕舞ってあったのかというほど、彼の手つきは慎重だった。
「よぉーし、いい子だ。でっかくなれよ。腹いっぱい食って、よく寝て、それからいっぱい笑え。それだけでいいんだ。それだけでな」
――アルテミス様は、洞窟の外に立っていた。
中には入ってこなかった。ただ入り口の岩に手をかけて、そこから覗いていた。自分が射た女の子供が、自分の惚れた男の腕の中で笑っている。彼女はそれを、長いあいだ見ていた。表情は、私のいた場所からは見えなかった。
この日のことを、私は後に何度も思い返すことになる。
――さて。神々に運命はあるのか。
あるのだ、と私は思う。ただし、それは決して神々自身の上には落ちない。彼らは死なず、老いず、裂かれた傷も一夜で塞がる。落ちる場所がないのだ。だから天罰というものは、必ず、その神がもっとも愛したものの上に落ちる。
アポロンは火の中から自分の子を拾った。ゆえにいずれ、彼はその子を喪う。そして、妹君のほうも同じであった。
オリオンはよく笑う男だった。何度でも書くが、本当によく笑う男だった。飯を食っては笑い、酒を飲んでは笑い、殴られては笑い、女神に山を三つ越えて追い回されてもなお、腹を抱えて笑っていた。
――ギリシャにまた、初夏が来る。
ノンデリアポロン
感想・高評価・お気に入り登録・ここすきなどしていただけるとたいへん励みになります。特に評価がありがたいです!
更新はゆっくりになりますが、完結はさせるつもりです。総合評価20000ptを目指して細々やっていこうかと。
こちらの作品とは直接関係はありませんが活動報告や新作などもやっていますので、生存確認がしたい方はそちらからお願いします。
遅れてごめんね!これからもよければぜひ読んでやって下さい―。