目が覚めたら古代メソポタミアにいたんですが   作:加藤ブドウ糖液糖

16 / 16
総合評価20000ptありがとう記念


外伝:The Return of Gilgamesh / われらの時代

 

 

 

 

 ――円筒印章だ。軟らかな粘土板の上で彫刻された円筒をころがすと、円筒がそこに残した跡はひとつの絵になる。粘土板の上では、ふたりの人物がその両端にいるように見えても、円筒の表面では横にくっついて並んでいる。全世界はその円筒とおなじなのだ。

 テッド・チャン『あなたの人生の物語』「バビロンの塔」より――

 

 

 

 

 

 

 

 あの方は、最悪の摂政でした。

 

 いつか誰かに問われる日が来たなら、私はそう答えると決めている。

 

 倉を私し、民を絞り、あろうことか玉座を望んだ大罪人。都の公文書にはそう記されているし、市場で誰に訊いても同じ答えが返ってくるはずだ。皆が口を揃えて言うのだから、きっとそれが真実なのだろう。

 

 ――真実というものが、口を揃えた者の頭数で決まるのならば、の話だけれど。

 

 私はウルクの宮殿に仕える酌婦である。名をシドゥリという。

 

 王の御前に酒を捧げ、大臣たちの杯を満たすのが役目だ。酌婦というのは不思議な仕事で、誰もが私たちの前では口が軽くなる。酒のせいもあるだろうが、それだけではないと思う。人は、卓の脇に立つ者を、家具のひとつとして数えるのだ。壺や燭台の前で嘘をつく者はいない。だから私は、たぶんこの都の誰よりも多くの言葉を聞いてきた。誓いも、自慢も、泣き言も。

 

 それから――嘘も。

 

 これから記すのは、私が六十年のあいだに聞いたうちで、いちばん大きくて、いちばん優しい嘘についての話である。

 

 誰に命じられたわけでもない。書いたところで、読んでくださる方がいるとも思えない。

 

 それでも、せめて、記しておこうと思う。

 

 どなたかが、覚えていなければならないから。

 

 

 

 断頭は、一瞬だった。

 

 夜明けの、天の館エアンナの前庭。人は城壁の上にまで鈴なりになって、皆が同じ言葉を叫んでいた。奸臣に死を。偽王に死を。何百、何千という口がひとつの喉になって鳴る様は、遠くで聞けば潮騒に似ていたかもしれない。近くで聞いた私には、そうは思えなかったが。

 

 七年に及んだ戦役は、ウルクを疲れさせていた。倉の麦は戦車に変わり、男たちは名簿に変わり、名簿は数に変わって、数は帰ってこなかった。王の不在。外敵の侵攻。重い徴発。膿んだ不満は行き場を探していて、そして行き場は、あらかじめ用意されていたのである。

 

 引き据えられた摂政トゥラバラニは、記憶にあるよりずっと痩せて見えた。後ろ手に縛められ、白いものの混じった頭を垂れて、それでも罪状を問われるたび、朗々と答えた。私は倉を盗んだ。私は玉座を望んだ。私は諸君の子らを私のために死なせた。――ひとつひとつ、丁寧に、憎まれるための言葉を積み上げていく。最後の一言まで、前庭の隅々に届く声で。

 

 私の前では、書板と算盤しか持たなかった方だ。あんな声がどこに仕舞ってあったのか、私は今でも不思議でならない。

 

 王は段上から、それを見下ろしておられた。

 

 抜かれたのは、飾りのない青銅の剣だった。あの黄金の武具の一つも用いられなかったことを、民は「宝で斬る価値もない」と受け取ったようだった。実際のところどうであったのかは、誰にも分からない。王ご自身にも、たぶん、分からないのだと思う。

 

 考えない、と決めておられる顔をしていらしたから。

 

 振り下ろされる寸前、老人が顔を上げて、王を見た。

 

 その眼は死に怯えていなかった。恨んでもいなかった。ただ――遠くから帰ってきた者を門口で迎えるときの、あの緩んだ、少し間の抜けた顔をしていた。六十年前、宮殿に上がってきた日から何ひとつ変わらなかったという、あの顔である。

 

 どよめきが天に届き、ウルクは沸いた。膿は抜け、亀裂は塞がり、民の憎しみは骸ひとつに纏め上げられて、綺麗に焼き払われた。布告が読み上げられる。逆賊に墓は許されぬ。骸はユーフラテスに流し、魚の餌とせよ。記録より、その名を削れ。

 

 ――名を、削るべし。

 

 あの布告の文面を書いたのが、河へ運ばれていく当の本人であることを、あのとき知っていたのは、この都でふたりだけだった。

 

 ひとりは、王。

 

 もうひとりは、酌婦の私である。

 

 

 

 

 処刑から七日のあいだ、私は普段どおり、大臣たちの杯を満たして回った。

 

 宴席の彼らは、実によく喋った。あの男には昔から不審な点があった。倉の勘定が合わなかった。目つきが卑しかった。儂は前々から怪しんでおったのだ――異邦人風情が王の傍に就くなど、馬鹿馬鹿しい。酔いが回るほど、記憶は鮮明になっていくらしかった。誰ひとり嘘をついているつもりはないのだろう。三月ものあいだ、彼らの酒に少しずつ細工を施し、暗示を重ね、ありもしない横領の帳簿をわざわざ拵えて摑ませた者がいたなどとは、夢にも思っていないのだから。

 

 あの方は、ご自分が憎まれるための証拠を、ご自分の手で植えて回られたのだ。

 

 私だけが、その杯を受け取らなかった。理由を訊かれて、こう答えたのを覚えている。

 

 ――どなたかが、覚えていなければなりませんから。

 

 あの方は困った顔で笑って、それ以上は勧めなかった。代わりに、小さな青銅の鍵をひとつ、私に預けていかれた。

 

 王が帰還されたら、これを。

 

 それだけ言って。

 

 七日目の夜、私は王をお呼びした。正確には、鍵をお見せしたら、王のほうが立ち上がられた。

 

 

 

 

 書庫の最奥の、その扉を開けたとき、最初に来たのは匂いだった。黴と、乾いた粘土と、微かな葦の匂い。灯を掲げると、狭い部屋の壁が、床から天井まで粘土板(ドゥブ)で埋まっているのが見えた。

 

 王は無造作に一枚を取り上げ、それきり黙られた。

 

 肩越しに覗くことは憚られたが、後に写すことを許されたので、ここに幾つかを記しておく。

 

 

 

 ――本日、王が執務を抜け出された。三度目である。世界一偉い子供の世話ほど疲れる仕事はこの世にない。給金の引き上げを検討されたし。

 

 ――本日、王が執務を抜け出された。七度目である。もう数えるのをやめようと思う。

 

 

 

 日誌だった。それも、六十年ぶんの。

 

 王は、床にお座りになった。

 

 断っておくが、普段の王は埃ひとつで席を立たれる方である。敷物の織りが粗いと言っては眉をひそめ、酒がぬるいと言っては杯を突き返される。その方が、この夜ばかりは埃の積もった書庫の床に直に胡座をかき、灯の油を三度も注ぎ足させて、六十年ぶんの小言を一枚ずつ読み通されたのだ。私は口を挟まず、ただ灯を近くに置いた。

 

 板は年を追って乾いていき、筆致は年を追って深くなっていった。

 

 

 

 ――長老たちが神々に嘆願したそうだ。新しき王の暴威を鎮めたまえ、と。教師としては、胃の痛い話である。

 

 ――王が友を得られた。都のすべてが明るい。

 

 ――泥より生まれた御方に文字をお教えした。一日で覚えられた。

 

 ――王が杉の山へ発たれた。留守の執務は私に回ってくる。

 

 ――天の牡牛が市場を三つ潰した。神々に請求書を書けたら、どれほど良いだろう。

 

 ――今日は、何も書くことがない。

 

 

 

 王は、その一枚を長く見ておられた。日付は刻まれていなかった。刻む必要が、なかったのだと思う。次の板へ移られるまで、灯の油が爆ぜる音を、私は二度数えた。

 

 

 

 ――王が眠っておられない。灯を持って行ったら、追い返された。

 

 ――王が旅立たれた。行き先は告げられなかった。麦酒(カシュ)を仕込んで待つことにする。

 

 ――東より軍勢。城壁は保つ。七賢人(アブガル)の仕事は確かだ。あとは、われらの仕事である。

 

 ――摂政となって、今日で七年。水盤を覗いたら、知らない老人と目が合った。カニのような目をしていた。

 

 ――徴兵の名簿に千二百の名を記した。

 

 ――星を読んだ。王のご帰還は近い。ならば、そろそろ私も、仕度をせねばならない。

 

 ――大臣たちの酒に細工をした。皆、素直に私を憎んでくれるようになった。人の記憶とは、哀しいほど素直だ。シドゥリ殿だけは杯を受け取らなかった。どなたかが覚えていなければなりませんから、と言われた。強情なものだ。彼女がこれからのウルクに居てくれることを、嬉しく思う。

 

 

 

 ――王が、帰ってこられた。

 

 

 

 日誌は、そこで終わっていた。

 王は最後の一枚を、長いあいだ手の中で裏返しておられた。何かを仰るかと思ったが、何も仰らなかった。代わりに顔を上げ、部屋の最奥――布の掛けられた一角を、顎で示された。

 布を引くと、そこだけ真新しい粘土板が、几帳面に番号を振られて積まれていた。

 一枚目の冒頭の表題を、王が声に出して読まれた。

 

「――人間の理(メ・ナムルル)

 

 それから、私を振り返って仰ったのである。

 

「シドゥリ。この題の意味が分かるか」

「……いえ」

()とは、神々の権能の目録だ。天の理、王の理、戦の理、書板の理。知恵の主エンキが百を数え上げ、女主人イナンナが天の舟に載せてこのウルクへ運んだ。天地にあるすべての技と制度は、あの百の目録のどれかに載っている。――載っていないものは、この世に存在せぬことになっている」

 

 王はもう一度、表題を指で叩かれた。

 

ナム・ルガル(王権)が"王であること"なら、ナム・ルル(人間)は『人間であること』だ。つまりこの男は、神々の目録に百一番目の項を書き足すと言っている。人間の理。神々が数え忘れた理を、道具ごときが勝手に起草すると、そういう題だ」

 

 仰る声が、笑っておられるのか怒っておられるのか、私には判じかねた。たぶん、両方だったのだと思う。

 

 

 

 

 草案の全文をここに写すことは、私には許されていない。心に残ったところだけを記す。

 

 第一の板は、天地の来歴だった。はじめに原初の海(ナンム)があったこと。大気の主(エンリル)が天と地を引き剥がし、(アン)がアヌのものに、()がエンリルのものに、冥界(クル)が暗黒の女王エレシュキガルのものになったこと。神々が労役に倦み、粘土に屠られた神の血を混ぜて、われら黒き頭の民(サグ・ギガ)を道具として造ったこと。王権(ナム・ルガル)が天より降り、鷲の背で天へ昇ろうとした王エタナや、牧者の王ドゥムジを経て、大いなる洪水(アマル)がすべてを洗い流し、シュルッパクの賢王ジウスドゥラだけが舟で生き延びたこと。そして聖王ルガルバンダと女神リマト=ニンスンのあいだに、三分の二を神、三分の一を人とする御方――われらが(ルガル)、ギルガメシュ様がお生まれになり、七賢人(アブガル)が礎を据えた大城壁を、卵を抱く腕のごとく都に巡らせたこと。

 

 ここまでが神々の時代の物語である、と板は結んでいた。

 

 その次の一枚を、王は二度、読み返された。

 

 

 

 ――だが、時間を後戻りさせるわけにはいかない。

 

 我々は知っている。永遠などというものはなく、いかなる偉大なものであろうと、いつかは死を迎え、移り変わっていくのだと。

 

 神々を離れ、暗闇へ向かえ。

 

 我らが王が送り出してくださった大地へ、我々は歩まなければならない。

 

 ――神々の時代の次に来る時代に、まだ名はない。ゆえに私は、仮にこう呼ぶことにする。

 

 われらの時代、と。

 

 

 

 条文の板に移ると、王は独り言が増えた。読み上げては、突き返すように評をつけていかれるのである。まるで出来の悪い弟子の書板を検分する、書板の家(エドゥバ)の教師のように。

 

 

 

 ――一つ。書板の家(エドゥバ)の戸を、すべての子に開け。男児にも、女児にも、奴隷の子にも。文字は神官と書記(ドゥブサル)の独占物ではない。

 

 ――一つ。裁きを、川に問うてはならない。人を水に沈め、浮かべば無実、沈めば有罪とする裁きを、私は認めない。裁きは証と、証人と、記録によって行え。神意は、人の裁きの怠慢の言い訳ではない。

 

(イド)に裁かせねば、裁判官が賄賂で肥えるだけであろうに。……ふん。"記録によって行え"か。書記あがりの言いそうなことよ」

 

 ――一つ。血の代価を、血で払わせてはならない。潰れた目は、目を潰し返しても帰らない。償いは銀と労役をもって定めよ。

 

(ぬる)い。それで遺された者が収まると思うか」

 

 と仰ってから、王は少し黙られた。

 

 ――一つ。秤を偽る者、(シラ)を偽る者、境界石を動かす者は、その偽りの十倍を償え。

 

「これは良い。今からでも布告できる」

 

 王はその板だけ、別の場所に置かれた。四千年待つ必要のない条文が、少なくとも一枚はあったということになる。あの方がこれを知ったら、どんな顔をなさるだろうと私は思った。

 

 ――一つ。医師(ア・ズ)は、病人の持つ銀の重さで、手当てを変えてはならない。癒やしの技を秘伝とせず、書板に記して、学ぶ者すべてに開け。

 

「医者どもが飢えるな。現実が見えておらぬ」

 

 仰ってから、王は次の行を読んで、鼻で笑われた。

 

「――足りぬ代金は、都の倉が払え、と。……抜け目のない」

 

 ――一つ。言葉(エメ)の違いを、罪としてはならない。異邦の民を裁くときは、その者の言葉を解する者を、必ず立てよ。

 

 王は、何も仰らなかった。私は七日前の宴席を思い出していた。異邦人風情が、と嗤った大臣たちの声を。六十年前突然現れたという、ひとりの若い異邦人のことを。

 

 ――一つ。身分によって、罰を変えてはならない。

 

 これには、何も仰らなかった。

 

 ――一つ。集会(ウンケン)の同意なくして、王は戦を始めてはならない。戦で死ぬのは、集会に座る者たちである。ならば、死ぬ者の同意なき戦があってはならない。

 

「我に許しを乞えだと? 図に乗るな、雑種」

 

 仰りながら、王はその板を捨てる山ではなく、残す山に置かれた。私は見なかったことにした。

 そして、最後から二番目の板で――王の指が、止まった。

 

 

 

 ――一つ。人は、人の所有物ではない。負債ゆえに身を売られた者は、年季を限って必ず自由(アマルギ)に帰せ。アマルギ、「母のもとへ帰る」を意味するこの古き言葉が、いつの日か、生まれながらのすべての人間のものとなるように。

 

 

 

 私は、灯を持ったまま動けなかった。

 王は何も仰らなかった。ただその一枚だけが、他のどの板よりも長く、お手の中にあった。

 

 

 

 

「……時に、シドゥリ。星は読めるか」

 

 最後の板に進まれたところで、唐突にそう訊かれた。

 

「いえ。酌婦ですので」

「では教えてやろう。ありがたく聞け」

 

 その声音が、少し弾んでいるのが分かった。不機嫌の底からふいに浮上して、好きな話題だけ滔々と語り出される。王にはそういうところがある、と宰相はよく言っていた。

 

「春分の朝、日の出の直前に東の空へ昇る星々がある。今の世では、それは天の牡牛(グガランナ)の星々だ。だがな、あの星々は動く。人の一生ではまず気づかん。百年で、ようやく指の幅ひとつ。数千年をかけて、春分の暁はとなりの宿りへ移っていく。――で、だ」

 

 王は最後の板を、私に向けて掲げられた。

 

 

 ――本法の施行を、以下の日と定める。

 

 ――春分の暁。日の出に先立つ星々が、天の牡牛(グガランナ)の宿りを離れ、雇夫(ルゥ・フンガ)の宿りを渡り、(シム・マハ)の尾を過ぎ、大いなるもの(グ・ラ)――すなわち知恵の主エンキが甕を傾け、尽きせぬ水を地に注ぐ宿りへと至った年。その年の新年祭(アキティ)、最初の朝をもって、この法は目を覚ます。

 

 

「施行の日を、星で指定している。牡牛からグ・ラまで、宿り三つ分だ」

「……それは、いつなのですか」

 

 王は目を閉じ、片手の指を、算盤を弾くように二度、三度と折られた。

 

「およそ――四千と七百年、先だ」

 

 私は、自分が何を聞いたのか、すぐには分からなかった。

 四千七百年。都がいくつ生まれて、いくつ滅びる歳月だろう。この施行の日を、いま生きている者は誰も見ない。あの方も見ない。あの方の孫の孫の、そのまた孫も見ない。つまりこれは、法として書かれていながら、書いた本人が、誰ひとり間に合わないと知っていて書いた法なのだ。

 実際、最後の板の余白には、こうあった。

 

 

 ――暦を読める者ならば、笑ってくれていい。

 

 ――しかし法とは、まだ生まれぬ者と交わす契約である。ならば施行の日が遠いことは、恥ではない。契約の相手が、それだけ遠くにいるという、ただそれだけの話だ。

 

 ――運河を掘る者は、水が畑に届く日を見ずに死ぬ。それでも運河は掘られてきた。だから今年もウルクの麦は実る。この粘土板は、私の運河である。

 

 

「……愚かなことを、と仰いますか」

 

 思わず、訊いてしまった。

 

 王は答えず、代わりに、ふ、と鼻を鳴らされた。

 

「起点を見ろ、シドゥリ。数え始めの宿りは牡牛だ。天の牡牛(グガランナ)――女神の怒りとともに天より放たれ、我が友とふたりで屠った獣よ。あれは天に還って、いまは春分の暁を担いでいる」

 

 そこで王は、こらえきれなくなったように、喉の奥で笑われた。

 

「分かるか。この男、我の武勲を暦の針に使いおったのだ。人の時代への数え始めは、我が牡牛を屠った日からだと。四千七百年の秒読みは、もう始まっているのだと。――そういう追従(ついしょう)を、死んだ後にだけ寄越すか。生きているうちに一度でも言えば、褒めてやったものを」

 

 それから王は、しばらく黙って板の山を眺め、誰にともなく仰った。

 

「……終いの一枚は、読んでやらん」

 

 最後の板の裏には、宛名のない短い文が刻まれていた。読むことを許されたのは、ずっと後になってからだ。ここに写すことも、たぶん許されてはいないのだろう。だから一行だけにしておく。

 

 それは、またお会いしましょう、という言葉だった。

 

 何度でも、という言葉が、二度あった。

 

 

 

 その後のことを、順に記す。

 

 王の双眸が、金色に凪いだ。あの眼が時の彼方を映すのだということは、都の誰もが知っている。何が視えているのか、私には無論分からない。ただ、王は視たものを、珍しく声に出された。灯の油が焦げる音の合間に、独り言のように。

 

 二百年ののち、ラガシュの若い王が改革の布告を粘土に刻み、そこに「アマルギ」の三音を書きつけること。それが「自由」という言葉が文字になる、人の歴史で最初の瞬間であること。

 

 五百年ののち、ウルの王が「強き者は寡婦を害するなかれ、孤児を害するなかれ」と、法典の冒頭に正義(ニグシサ)を掲げること。

 

 八百年ののち、バビロンの王が黒い石の柱に二百八十二の条文を刻むこと。その石柱が四千年を経ても砕かれず、遥か西の見知らぬ都の館に立てられ、日ごとに数千の人間の眼に晒され続けること。

 

 どの板にも、どの石にも、あの方の名はないこと。

 

「当然だ」

 

 と、王は仰った。

 

「種を蒔いた者の名を、麦は知らぬ。……遅い、遅い。貴様ら人間は、どうしようもなく遅い。たかがこれだけのことに、四千年かけるか」

 

 それから、私に窯を焚かせた。生乾きの粘土は百年で崩れるが、焼き締めた板は四千年を保つのだという。日誌も、草案も、一枚残らず。焼く手間を省いてあったのは、どうせ焼く前に王に読ませて訂正を仰ぐつもりだったのだろう、図々しい――と、王は決めつけておられたが、私もたぶんその通りだと思う。

 

 焼き上がった板を櫃に納め、封泥を盛り、王は懐から円筒印章を取り出された。

 

 王権の印である。これを転がした粘土は、ウルクの(ルガル)その人の裁可を意味する。

 

 印章に彫られているのは、玉座の王と、地図が描かれた書板を捧げ持つ従者の像だ。よくある図柄である。彫らせたのは何十年も前のはずで、王も気に留めたことなどなかっただろう。

 

 柔らかな封泥の上を、印章が、ひと転がりした。

 

 粘土の上に写された二人の像は、封泥の右の端と、左の端。遠く離れて立っている。

 

 けれど――円筒の表面では、あの二人は、横にぴったりと並んでいるのだ。

 

 王が印章を仕舞われるまで、私はそのことを考えていた。

 

「これで、人間の理(メ・ナムルル)の草案は、王の認可を得たわけだ」

 

 と、王は仰った。この世でそれを知る者は、王と私しかいない。公の記録には、逆賊は処刑され、河に流された、とだけ残る。あの方の書いた筋書きどおりに、永遠に。

 

 ならば真実の置き場所はひとつしかない、と王は仰った。

 

「我が蔵に納める。人類の法の、これが原典となる。原典と名のつくものは、すべからく我が財である。よって、これは我のものだ。文句は言わせん」

 

 私は頭を下げた。下げた顔が笑っていたのは、見逃していただけたようだった。

 

「……時に、シドゥリ。ひとつ問う」

「はい」

「あの男の麦酒は、残っているのか」

「――ひどいものでした」

 

 我ながら、即答だった。

 

「ですが、戦のあいだ、麦は残らず前線へ送られましたので。あの薄い酒だけが、都に残った者たちの酒でした。……皆で、飲みました。ひと甕だけ、残っています」

「そうか」

 

 王はそれ以上、何もお訊きにならなかった。

 

 

 

 夜明け前、王は櫃を蔵へ運ばせたあと、ひとりで城壁に上られた。

 

 ついて来いとも言われなかったが、帰れとも言われなかったので、私は灯を持って、少し離れて従った。酌婦とはそういう仕事である。

 ユーフラテスが、白み始めた光を鈍く返しながら流れていた。七日前、ひとつの骸を呑んだ河だ。下流の漁村をいくつ探させても、骸は上がらなかったという。

 生きていてくださればいい、と私は思う。

 あの人は王ではない。罪人でもない。荷を降ろし損ねた、ただの人なのだから。

 王は長いこと、黙って河を見ておられた。それから、誰に聞かせるでもなく、こう仰った。

 

「――励め」

 

 命令の声ではなかった。期待の声とも、違ったと思う。すでに走り出してしまった者の背中にだけ掛けられる、あれは餞の声だった。

 

「貴様の言う時代とやら、この我が検分してやる。四千年かけてよいと言ったのは貴様のほうだ。半端な出来であれば、承知せんぞ」

 

 朝日が、ジッグラトの頂を金に染めた。

 

 麦を積んだ舟が桟橋を離れ、市場が開き、書板の家(エドゥバ)では子供らが眠い目をこすりながら葦の筆を握る。誰ひとり、自分たちの都の蔵の奥に、四千年早い法が眠っていることを知らない。誰ひとり知らなくて、いいのだと思う。

 

 種は、土の中では見えないものだから。

 

 

 

 ――以上が、私の覚えていることのすべてである。

 

 この記録を、私は数枚の粘土板に写した。文字は、あの方に教わっていた。誰に命じられたわけでもない。どなたかが、覚えていなければならないからだ。

 後日、王に見つかって、没収された。曰く、ウルクのものはすべからく我が財である、とのことだった。焼き締めて櫃に入れておく、貴様の分もだ、と。

 

 最後に、ひとつだけ書き添えておく。

 あの最後の板――王が「読んでやらん」と仰った、宛名のない一枚のことである。

 仰った、だけである。焼き上がった板を櫃に納めるとき、王はご自分の手で、その一枚をいちばん上に置かれた。文字の面を、上にして。

 

 これで本当に、私の覚えていることの、すべてになる。

 

 

 

 

 

――しかし、もし。

 

もし、このくだらない粘土板を、読んでくださっているのならば。

 

あなたは、帰ってきた。

 

またお会いしましょう。

 

何度でも。

 

今度こそ、あなたに誇れる姿となったわれらと。

 

何度でも。

 

この、メソポタミアの大地で。

 

 

 




メソポタミア編 本当におわり
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
一言
0文字 一言(任意:500文字まで)
※評価値0,10は一言の入力が必須です。参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

【外伝開始】メソポタミアの冥界でエレちゃんに仕えたいだけの人生だった…。(作者:土野小太郎/土ノ子)(原作:Fate/)

【第一部完結】▼・現代から転生したテンション高めのガルラ霊がメソポタミア冥界でエレちゃんを助けようと頑張るお話▼・達成偉業:【冥界DASH企画達成】【■■■■神撃退完了】【神性:EX獲得】【都市国家ウルク守護完遂】【汝、冥府を■らす■】▼・原点:召喚触媒用短編▼・エレちゃんはいいぞエレちゃんはいいぞエレちゃんはいいぞエレちゃんはいいぞエレちゃんはいいぞエレち…


総合評価:30332/評価:9.01/連載:204話/更新日時:2024年07月06日(土) 06:00 小説情報

ゲマトリア所属の強欲の権化(作者:ぬこぱんち)(原作:ブルーアーカイブ)

転生してノミ以下の存在になってしまった男が、強欲を振りかざしてキヴォトスを蹂躙(きゅうさい)する話。▼なお、強欲の権能は強欲ムーブしないと発動しないものとする。


総合評価:11176/評価:8.96/連載:61話/更新日時:2026年08月16日(日) 19:00 小説情報

Fate/世界で超絶美形と魅了:EXになって転生したった(作者:プル山門左衛門)(原作:Fate/)

尚、転生先は神代ギリシャに加えて男にも女にもなれる身体な模様。▼そんな主人公が様々な冒険をしたり求婚を断ったり、女神に愛されたりする話。▼ボーイズラブ、ガールズラブのタグはギリシャ神話だから念の為入れてます。


総合評価:3814/評価:8.33/連載:6話/更新日時:2026年08月15日(土) 07:01 小説情報

とある黒猫になった男の後悔日誌(作者:rikka)(原作:ONE PIECE)

これは目が覚めたら、少年時代のキャプテン・クロになっていた男の後悔だらけの航海日誌である。▼少年漫画で海賊の世界とか暴力必須間違いなしじゃねぇか!▼海賊になんかなってたまるか俺は静かに生きるんだ!▼残念、現実は非情である。▼※頂き物ファンアートは数が増えて文字数制限に近づいたため、活動報告にてページを作ってまとめさせていただきました▼『FA保管庫』▼http…


総合評価:120148/評価:9.45/連載:204話/更新日時:2026年08月18日(火) 19:00 小説情報

テスカになって冥界で魂を導く話(作者:ナイ神父)(原作:Fate/)

▼此処はミクトランパ、なんの因果か死後に冥府の神に成った男は今日も冥府にて死者と語らい魂を導く▼だがここに来る戦士は皆違う世界の存在で…?▼・作者が思いついた死んでほしくかったり諸々様々な作品の人を冥界でテスカトリポカ成り代わり主が導く話です▼・その都合上多重クロスオーバータグを付けていますが各々のシリーズではテスカトリポカ以外は他作品と繋がることはありませ…


総合評価:5835/評価:8.56/連載:7話/更新日時:2026年05月23日(土) 23:10 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>