目が覚めたら古代メソポタミアにいたんですが 作:加藤ブドウ糖液糖
――人生とは神々を楽しませるための見世物にすぎない。
アドルフォ・ビオイ=カサーレス『パウリーナの思い出に』「愛のからくり」より――
メソポタミアの古い空気を知りたければ、ウルクの曲がりくねった通路を歩くとよい。旅人はその中で様々なことを発見するだろう。皮なめし職人の家からは、乾いた魔獣の肉をこそげ落とす音が聞こえること。織物工の近くからは、水に浸けられた亜麻の奇妙な匂いがすること。それは、シュメールに生きた人ならば、みな知っていることだ。私が好きだったのは、木こりたちの地区であった。そこには新たに伐採された杉の匂いに満ちていて、深呼吸するとその香りが胸いっぱいに入ってくるのだ。
もちろん、他の区域を好むものもいた。石工の集まる区域からは、風に吹かれて石の塵が飛んでくるだろう。鍛冶屋の通りからは、小気味よいハンマーの響きや、銅と錫を溶かす炉の赤い光や金属の輝きが見えるはずである。酒飲み男は赤子の鳴き声や酒場のふざけた声を懐かしく思う。総じてごみごみした、賑やかな街の記憶がある。
当時のウルクの街並みは、決して整然としている訳ではなかった。確かに神話の地である。加えて、メソポタミアで栄えに栄えた。しかし人類でもっとも古い文明の一つと言っても、そのはじまりは当然小さな街にすぎない。先を見通して発展するなど、神でもない身には不可能なことだったのである。
小さなウルクは、今では考えられないようなゆっくりとした歩みで、少しずつ発展を遂げてゆく。取るに足らない街だった。そこの人口が稠密になってようやく、折り重なるように少しずつ建物が付け加えられてゆくのだ。路地は狭くてごちゃついている。生活に余裕ができれば、だんだんと職も増えていった。そのうち同じ職業の者どうしが固まって住む区域が誕生し、人々は日夜ライバルから新しい刺激を受け取ることになった。
大神殿も、ウルクを語るには欠かせない要素と言えよう。都市の核には至高神アヌとイシュタル女神を祀る神殿の二つがあった。私は昔から断然アヌ神派だ。イシュタル女神は、とてもではないが信仰する気になれない。それというのも遥か昔に掛けられた言葉が原因なのである。
ただし、神殿に罪があるわけでもない。確かに威容を誇っていたのだし、それは語るに値するものだ。
イシュタル女神を祀る神殿には、基壇と中庭が存在する。壁は日干しレンガに陶製の円錐釘がびっしり刺さったもので、その表面は赤色や黄色、黒色の――何と言うべきか――強烈な色のモザイクで彩られていた。円錐釘は鋲打ちのような具合に打ち付けられている。それはデザイン性を担保すると同時に、奥にある日干しレンガを水から守る役割を果たしているのである。その先には八本の見事な柱廊が二列に並んでいる。さらに火で焼き固められたレンガで壁が造られており、あの女神には勿体ない程の出来である。
その影でさえ見事なものだ。太陽の光が斜めに射しこむ月などには、柱は強烈な光を浴びて、白と黒のストライプをその地に描き出す。イシュタル女神でこれほどなのだから、アヌ神の聖地は当然さらに素晴らしい。だが、これもまたの機会に語るとしよう。
――遠い昔、ほんの戯れに、ウルクの地図を書き出してみたことがあった。石工の家がどこそこにあり、王宮はこの程度の大きさで、至高神アヌの聖域がうんぬん、といった具合に。いや、本当に懐かしいことだ。なにせギルガメシュ様が城壁を作る前のことである。何かの折にしたことだろうが、とうの昔に忘れてしまったらしい。現代ではそちらの地図は残っていないのだという。
少し残念に感じてはいる。まあ、それで構わないのだ。思い出に閉じ籠っては、目の前の現実が貧しくなってしまう――それではきっと、またあの二人に叱られるだろうから。
「何か申し開きはあるか、雑種」
「いえ、全く! 滅相もございません!」
――そして私は叱られていた。具体的には土下座である。それというのも、目の前で数日前にエルキドゥと死闘を演じたばかりのギルガメシュ王が、いかにもご機嫌斜めであるという雰囲気で椅子に腰かけていたからだ。
数日間にわたる天地を揺るがすような死闘にも関わらず、ウルクへの被害は――私の家のことを度外視すれば――ほぼ皆無、と言ってよかった。私の家以外は。その為お呼び出しがかかった時は天の相を見ている途中だったが、「おや、とうとう私にもウルク特別功労賞とかそういったものが貰える日が来たのかな」、と仕事をほっぽり出して来たのだ。その結果がこのざまである。こうなるなら早めに教えてほしかった。
「そ、それではギルガメシュ様は、初めからウルクの一部を取り壊すご予定だったと……?」
「ああ。ある程度の区画を更地にした後、我の計画に従って再建する算段であったわ。そもそも今のウルクには不必要に複雑な区域が多すぎる――それを、いらぬところで貴様が力を出すからであろう。この戯け」
「あわ、あわわわわ……」
なにせ、ちょっと前の会話がこれなのだ。明らかに勲章などではない、むしろ不穏、というのが分かっていただけるだろう。
エルキドゥとギルガメシュ様は、死闘を演じた後に親友となった。それはよい。めでたいことだ。とはいえ、折角街を守ったと思ったらこういう理不尽なお説教をされるのだからやるせない。ちょっとめちゃくちゃな理屈ではないか!
確かにウルクは悪く言えば猥雑なところのある街だ。けれど、王の一存でよし壊したれ、というのもそれはそれでおかしな話である。ギルガメシュ王は本質的に立派な方だ。が、その性格にはやはり独善的なところがある。人類の未来のために、などとと言って孤独になろうとするのも勝手なことだ。第一、ずっと見てきた王のこと。一人で行くなど、私がそのような勝手な真似を許せるはずがないのである。
「で、あるならば。私も以降は気を付けることに致します。ですが民自身の意向を汲むことも、また王の務め。次からは私にも一言お声掛けいただきたく……」
だが、それはそれ、これはこれ。私の口から出てくるのは超絶ソフトな言葉であった。面と向かって反論できるかと言われれば、そりゃ出来る道理がない。怖いんだもの。目の前にいるのはあの英雄王ギルガメシュ。ただ座っているだけでも威圧感がある。そんな何をしでかすか分からない威圧感がある男が、ピリピリしたオーラ全開でこちらに目を向けているのだ。
そりゃ口答えするのはキツいよ。第一、そうでなくてもあの戦いを見た後。あの夜は妙なアドレナリンが出ていたが、冷静になってみれば私なんぞ矮小な人間、小さな芋虫に過ぎない。流れ弾を一本や二本防いだ程度でデカい顔ができるはずもない。
できると思うならやってみなさいよ。無理だよ、そんなこと。
「思い上がるなよ、雑種。世界の全ては我の庭だ。であれば、その中の花一つ好きにできない主人が一体どこにいる」
そんな感じで私が結構好き放題言われていた時、空気の張り詰めた部屋に澄んだ声が響いた。私に助け舟を出すためであろうか、それとも純粋な疑問ゆえであろうか。王宮に天使が現れたのだ。エルキドゥである。
「ギル、先生にそんなこと言っていいのかい?」
「エルキドゥ……まあいい、趣が無くなった」
天界もさぞ寂しいことだろう、こんなにも美しい天使が地上に舞い降りてしまったのだから。その美しさたるや、あのギルガメシュ様が一瞬で大人しくなる程なのだ。猫に木天蓼をやるように、ギルガメシュ様にはエルキドゥを会わせればよい。そんなことを呟きたくなってしまう程度には効き目がよい、清涼感ある存在なのである。かくして私はエルキドゥ大天使の手によりギルガメシュ様から解放され、職務に戻ることができたのであった。
ウルクを守り抜いた男の背中が徐々に小さくなっていく。軽く手を振り終えたエルキドゥが、ギルガメッシュに顔を向け、口を開いた。
「……ねえ。本当は、嬉しかったんじゃないのかい」
「なんだ、急に。お前も忌々しいことを言う」
「本当なら、多忙な王である君がこんなことに時間を割くはずがない。人間の可能性を誰より見たがっていた君だ。久々に自分の先生のことを見直した――そんなところだと、思ったんだけどね」
ギルガメッシュは心底うんざりしたように答える。奴隷から生活を始め、先々代の王からウルクに仕える異国の男。若々しかった喉に空咳が増え、少し太々しくなった古い教師のことについて。
「唾棄すべき記憶だ。一度でもあれを師と仰いだなどと」
「僕は、いいヒトだと思っているよ」
「だからどうした。幼少期ならいざ知らず、今の我には取るに足らない雑種の一人に過ぎん」
エルキドゥはにこやかに言った――でも、笑ってるじゃないか。ギルガメッシュは、確かに口許を緩めながら答える。
「ハッ、気のせいだろうよ」
「金星が……東方。東方で消失、と。これは婚姻と出奔の予兆だったかな。なるほど婚姻ですか。誰と誰だろう」
硝子のレンズを覗きつつ、一人でぶつくさ呟きながら、今日も今日とてお仕事である。高官たるもの、どんどん働けどんどん稼げ。ということで、私は今、ウルクの中でも一際高い建物の中で、占星術師としての仕事をこなしているのであった。私有農園で収穫されたナツメヤシの実を摘まみながら、星を見て色々と記録するのがメインの業務である。んまーい。
家が無くなった影響を受けて、ここ最近、私は塔の上で空を見つめながら暮らしている。マイホームは現在再建中である。幸いにしてウルクの職人有志も支援してくれているので、前回よりも気合の入ったものになりそうだ。私はそれだけを楽しみにして生きているのであった――
「やあ、先生。精が出るね」
「おや、エルキドゥ――様。何度も来ていただいてすみません、おもてなしの用意もできていないのですが」
「構わないよ」
――いや、それだけが楽しみと言うと嘘になる。昔のようにはいかないが時折王と会話を交わし、今はこうしてエルキドゥ様が私の仕事を覗きに来て下さることもある。と言っても、その実態は私が酔っ払って寂しさを吐露したことから始まるのだから、気を使わせているということになるのだが。それは分かっていても、なかなかどうして心が満たされるのだ。気分はキャバクラ通いである。私はエルキドゥ様にナツメヤシの実を差し上げようかとも考えたが、今日はもっと良いものがあることに思い至った。
「ああ、そうだ。ザクロでもいかがですか? 今取ってきましょう」
「いいのかい?」
「もちろん。家は壊れましたが、農園は無事でして。美味しいんですよ……本当は果実酒にでもできればよいのですが、そこはまあ、ご愛嬌ということで」
置換魔術の詠唱を組み立てながら、私はエルキドゥ様に尋ねる。ギルガメシュ王に連れられて、糸杉の森の怪物を倒しに行った時のこと。私もピンチになったら駆け付けられるように水盤で覗き見ていたが、あれは無理である。私にはその全貌は見えなかった。しかし見えた部分だけでも対魔力を纏った牡牛のような鋭い角と禿鷹の巨大な爪を併せ持ち、その先に呪われた蛇の毒が込められていたのだからたまらない。あれでは設定を盛りすぎというものだ。結局ぽこんと一発魔術で叩いて退散したけれども、その効果のほどは怪しい。
「ザクロはここに。ああ、それと飲み物も用意しましょう――はい、どうぞ。エルキドゥ様、フンババ討伐のことはお疲れ様です。さぞ大変だったでしょう」
「ありがとう。思うところがない訳じゃないけれど、ね……これ、蜂蜜水かい?」
「ああ、最近は養蜂にも挑戦しておりまして。蜂蜜は今はこれだけなのです。魅了が使えれば容易かろうと踏んでいたんですが、思いのほか難しいものです。賢いですよミツバチは。ここだけの話、今の王よりもミツバチの方が社会性がある。昔は素直な方でした。今も根っこは変わっていませんが、素直になれぬお年頃と言うか――」
これ、内緒で頼みますよ。そんなことを言いながら私はザクロをつまんだ。
「あ苦っ……」
――まずい、間違えて苦い方のザクロを持ってきてしまった。エルキドゥ様、すみませんがこっちは苦い方の――そう伝えようとしたが時すでに遅く、種が弾ける音が聞こえてくる。
「ああ、うん。やっぱり美味しいね」
緊張から、私は言葉を発することができなくなっていた。行儀良く、律儀に食べる方である。それでももしかすれば咀嚼音が聞こえるのではないかと言う沈黙が広がり、やがて穏やかな声が聞こえてくる。奇跡的にお口に合ったのだろうか。そう思い振り向いた先にあるエルキドゥ様の顔は――どう表すべきか、笑みを浮かべているのは分かるけれども、すっごくしわしわになっていた。
――なんとお詫び申し上げてよいやら、己が不甲斐ないばかりにございます。
その顔に思わず笑ってしまい、そしてすぐさま土下座した。最近私の土下座の価値が大暴落しているが、仕方のないことである。エルキドゥ様へのお詫びを済ませ、今度こそ蜜のかかったように甘いザクロを差し上げた後で、話題は私の職務の話へと移った。私が改築したウルク天文台に備わっているのは原始的な望遠鏡とアストロラーベ、そして場違いな水盤であった。そもそも占星術とは一種の天体魔術であり、星の性質とその天球における位置関係から様々な運命を占うものである。関連性を考えると、確かに高い塔はより天に近く、望遠鏡は精密な観測を可能にする。アストロラーベもまた、直感的に操作が可能な優れた器具であると言える。
「そこはエルキドゥ様の仰る通り、水盤は天体魔術にはほとんど関係ないのです。いえ、全く関係がないわけでもないのですが」
エルキドゥ様はザクロを気に入って下さったのか、鮮やかな赤紫の皮を丁寧に剝きながら、言外に尋ねた――では、どうして置いているんだい。
「一言でいえば良いとこどりですね。水盤に月が映れば、その水には月の魔力が転移する……とまあ、そのような使い方もあるにはありますが、普通は未来視のための道具です。予言の材料は当然多い方がよいのですよ。候補が増えては混乱するとはいえ、近い未来同士はそう大きく乖離するものでもありません。足して割り、平均を出す、そうやって試行錯誤していくのです。ゲテモノ魔術ですが、三つも占えば二つは当たります」
私はどことなく誇らしい気持ちで、この天文台からウルクの都市を見渡した。年月が経ち、ギルガメシュ叙事詩の世界だという感覚は薄れてきている。代わりに絶え間なく思い浮かぶのは、この先ウルクが末永く発展する為の未実現の方途。
当時の私は、無邪気にもそれがその通りになると思い込んでしまっていた。それもまたやむを得ないことかもしれない。なにせ私は、あのギルガメシュ王のもとにいたのだ。彼の人はあまりにも聡明だった。
――汝、神の身に非ず。人を超えた人。だからこそ、どんなに優れた者でも死からは逃れられないと。
二人の英雄がその象徴として選ばれたのだということを、私は忘れかけていたのだ。
「どれ、試しに何か占ってみましょうか。何がよろしいか……」
エルキドゥ様に尋ねると、あのお方は私に耳打ちをされた――では、それで。星々が示していた言葉は、生命、求婚、家畜の三つ。どういうことで、何がはずれなんだろう、とエルキドゥ様は首をひねった。ナツメヤシを食べながら、概ね求婚が外れでありましょう、などと私は言った。
「では、また今度。次は蜂蜜をたっぷりご用意してお待ちしております」
甘いザクロを持ち帰るエルキドゥ様の背中を見つめながら、ふと、何かを忘れているような気がした。私は思い出せぬままに彼を見送り、やがて星を占う作業に戻ろうとする。風はなかった。だが、視界の端で水盤の上に、かすかに波紋が現れた気がする。他都市の干渉であろうか? 魔力を通しても異常は見られなかった。覗き込めばそこに映るのは、白髪の増えてきた自分の髪、はっきりした二重の細い目、年を取り少しふっくらした頬だった。古代の平均寿命は低い。その影響を受けてか、私にも死が近づいている気がする。まあ、それは後でよい。まずは水盤のことだ。どうやら波紋は気のせいだったらしく、私は顔を上げ、再び天を見た。硝子を目の上にかざす前でも、それははっきりと見えた。
「雨か……」
天からの雫が滴り落ちてきた。雨雲に隠れて、メソポタミアの空には数々の星が出ている。そしてその中に、今日は見えなかったはずの星が一つ。人騒がせな女神が天を駆けているのである。もう一度占ってみるとしよう、その日とうとう私が突き止めなかった事実について。
やがて神々の世は終わり、人の世が始まることだろう。神と人とを繋ぎ止める鎖は切り離され、地の楔はそこに刺さったままで、人々の上に君臨する。
私は女神の求婚を見るだろう。私は天の家畜を見るだろう。しかしあの占術において外れたのは生命の未来、天の鎖と楔がともに生き残る未来を、私はついに見ることはないだろう。
――求めるのは、ある都市の運命。
そこに示された言葉は、分断、破局、訣別である。