目が覚めたら古代メソポタミアにいたんですが 作:加藤ブドウ糖液糖
――ゆっくりお休み、と彼は呟いた。いつもの決まりだったが、しかしもうずいぶん前から、お休み、ぐっすり寝るんだよ、と答えてくれる者はいなくなっていた。
ガブリエル・ガルシア=マルケス『族長の秋』より――
巨大な雲が崩れ落ちていく。頭から蹄の先に至るまで、ざっと10kmはあろうかという高さの雲が。大河はその息吹に震え、山々もその頷きで砕ける。牡牛である。女神イシュタルがギルガメシュ王を罰するために遣わした、天の牡牛の体は、まるで絡まった毛玉が解けるように、儚くも空に溶けていく。
街の外には、肩で息をする見目麗しい若者が二人。その白い体躯は吹き飛んでいく砂丘にも見える。渦を巻いていた暗雲は晴れて、雷鳴は夢のように消えた。ラピスラズリの角が力なく垂れ下がり、やがて金色の背骨が、その死を象徴するかのごとく、雲の中から静かに現れる。観測所にこもっていた天文官もまた、その役目を終えたことだろう。今ごろは疲れ果てて、ザクロでもつまみながら横になっているに違いない。
――グガランナ。それを倒すことは、人間には禁じられている。神に逆らった愚か者の末路はいつの時代も変わらない。それは死、あるいは苦悶、永遠の放浪。
住民たちはまた、鬨の声をあげるだろう。悪辣な女神は敗れ、いまここに人間の時代がもたらされたのだ。儀式魔術による大結界が解かれる。二人の英雄が洪水を終わらせた。ウルクに再び平和がもたらされたのである。おお、素晴らしきかな! かくして神の怒りを鎮めた二人の偉人、ギルガメッシュとエルキドゥの名は、メソポタミアの民の内に永遠に記憶されたのだった。
――それは幸福な終わりだった。それゆえ、これ以上物語を続けるのは、本来は無粋というものだ。争っていた二人が力を合わせ、民の間には再び笑顔が戻る。どこにでもある、美しい物語だ。古い人間はここで幕を引くべきだったのである。この先はいと賢き王がウルクに君臨し、その隣には美しい緑のヒトがいつまでも控えていることだろう。
だからここから始まるのは、長い長い、全くの蛇足である。死ぬべきでないものが死に、生きながらえるべきでないものが生きるなど。だが一たび道を歩き始めた以上、歩みを止めるわけにもいかないのだ。君もそう思うだろうか、エルキドゥ。この物語の意味ははっきりしているのだと。
――死とは安らかで親切なものだ。しかし悲しくて、避けることができない。
エルキドゥが亡くなってからしばらく経ったある朝、私は気付いた。王が彼女の――あるいは彼の――亡骸を横たえた場所に、小さな草花の芽が出ていることに。私は嬉しくなった、それは王がエルキドゥと共に訪れた森の奥に咲く花だった。そして悲しくもなった。あのヒトが消えた瞬間から、世界は常に遠ざかりつつあると感じたからだ。何ものも時を止めることはできないとは分かっていた。メソポタミアに飛ばされてから、友と呼べる人間を何人か見送ることもあった。
私は痛む膝を庇いながら、そっと花の傍にかがんでみる。もうじき私もアラフィフになるのだ。先のことを考えなければいけない。ただこの時は、何とはなしに思い出に耽りたい気分だった。
――それは人でも道具でもない。友と言うのだ、エルキドゥ。
ああ。なんて、罪深い。死の間際に、エルキドゥは微かに唇を動かしていた。私よりも後に王と出会い、私よりも王を理解し、私よりも強く――そして今、それゆえに朽ち果てる。自分が代われたらどんなにいいだろう、と思った。
「僕は兵器だ。君にとって数ある財宝の一つにすぎない」
降りしきる雨の中で、私は二人の英雄の姿を傍でじっと見つめていた。止めたかった。言いたいことは限りなくあった。限りなくあった、そのはずなのだ。それが今わの際に言うべきこととなると、全く浮かんでこない。己が情けなかった。これほどまでに恩を受けながら、何もできはしないのかと。エルキドゥは私にも目を向けて、少しだけ微笑んだ。
「だいじょうぶ。僕がいなくても、王にはあなたが――」
驚いたことに、あの英雄は自分に価値など無いと言ったのだ。神々に道具と定義され、魂を後から吹き込まれたという取るに足らない理由で。それは私の方ではないか。常日頃から天文台に控えながら、いざという時になって何の役にも立ちはしないのだから。
このことを口には出せなかった。自分が人であることを否定するのはエルキドゥへの侮辱であると思ったからだ。天が泣いているのが嬉しかった。この年になって臣下が啜り泣くものでもあるまい。王と、そのご友人の御前にいたのだから。代わりにただ、次のようなことを言ったと思う。この年に有るまじきたどたどしさで。他に何を言えば良いのか、全く分からなかったのだ。
「……あなたが儚げに歩く庭の陰で、密かに追い求められていたものがありました。自由と、魂です。それゆえに、それがないために、あなたは自分に価値がないなどとおっしゃる」
強い雨の中で、エルキドゥの体が崩れていく。比類なき王の指の隙間から、かつてエルキドゥの体を形作っていた土が零れてしまう。その時は雨音の他、かすかに誰かの泣き声が聞こえていた。それはもしかすると、情けないことではあるが、私の物だったのかもしれない。
悲しい。とても悲しい。だが、伝えなければならなかった。伝えたかったのだ、己の言葉で、私は、孤独な王の友となってくれた人に。ですが、ですが。エルキドゥ様。
「……知っていますか? 何かを追い求めることを、誰かがいなくなるとこんなにも悲しいことを、人がなんと呼ぶべきなのか――それが自由であり、それが魂なのです、エルキドゥ様。ウルクの民は、あなたのことを忘れないでしょう。メソポタミアに生きる人々は、あなたのことをずっと語り継ぐでしょう」
――エルキドゥ様、私たちにとって、あなたには初めからずっと、自由と魂が宿っていたのですよ。
あのヒトが浮かべた笑みは、生涯に見た表情の中で最も美しいもののひとつだと、私は断言できるだろう。
あの日不躾な求婚者にギルガメシュ王が放ったのは、色々と衝撃的な一言だった。
「貴様にはそこの雑種がお似合いだ。結婚するなら祝いの言葉ぐらいくれてやる」
「はぁ? こんな男と結婚するぐらいならそのへんのカニと結婚したほうがまだマシだわ」
「イシュタル女神よ、私がカニ以下というのはちょっとひどいんじゃないでしょうか」
「何言ってんのよ。以下じゃなくて未満に決まってるじゃない」
「か、か、か、カニ未満!?」
涼やかに笑うエルキドゥの指先から、僅かに塵が落ちているのを私は見た――それはこうしたイシュタル女神の騒がしい求婚の後、天の牡牛が遣わされる前のことだった。
我々のやり取りを見守りつつ、エルキドゥは既に自らの運命を予感していた。それはあの日から決まっていたことなのだ。強い雨の中でエルキドゥの体が崩れていく。泥から作られた神の人形。それは王の腕の中で乾いた土くれに戻っていった。
慟哭は途切れ、王はただ静かに佇んでいた。悲嘆に暮れている、という言葉は王には似合わない。下らぬ英雄譚の数々を思い出していたのであろう、あの方はずっと沈黙を虚空に捧げている。
「……約束していたのです。次に来たときは、蜂蜜をたっぷり差し上げようと」
「暢気なものだ。お前らしいと言えばお前らしいがな」
何日が経っただろう。ギルガメシュ様はウルクを治める王であり、私もまた曲がりなりにも高官である。いつまでも死を悼んでいるわけにはいかなかった。ウルクの民は普段通り家畜の様子を見て、畑を耕しに出かける。日時計の影はまた少しずつ回り始める。
「仕事に戻りますか。そろそろ叱られてしまいそうだ」
「その年で、まだ叱られたくないと? まるで赤子ではないか、雑種」
「まあ、最近シドゥリという女が来ましてね。なかなかどうしておっかない娘ですよ。王もお気を付けください」
――おい、誰にものを言っている。
それは勿論、ギルガメッシュ様に。
仕事の時間になり、私はすっかり重くなった腰を上げた。花の芽は朝露に濡れ、いずれ私たちが出会った場所のように、美しい花を咲かせるだろう。観測所に戻ろう。シドゥリの説教は長いから。そうだ、仕事が終われば養蜂が上手くいっているかを確認しなければならない。再建が終わった家で、ステーキでも焼いてのんびりするのだ。
「一輪では、ちょっと寂しい。もう少し植えてみよう。甘い蜜を貯める、きれいな花を」
――再び機能しだした私の耳にとんでもない報せが入るのは、それから数か月後のことである。
曰く、ギルガメッシュ王、ウルクを脱走した模様。