目が覚めたら古代メソポタミアにいたんですが   作:加藤ブドウ糖液糖

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次回はたぶんメソポタミア編のエピローグですが、そんなことよりも。新選組イベントが来ましたよみなさん。ちょっと触ってみましたが、伊東甲子太郎は裏切らないと思います。裏切りそうなキャラほど裏切らないって相場は決まっているんですよね。裏切ったら桜の木の下に埋めてもらってもかまいません。


我が王のために

 

 

 

 

 ――世界の果てまで万物を見しものについて、

 

   万物を洞察せしもの、万物を悟りしものについて。

 

   かれは読めりあらゆる書物を、

 

   あらゆる至賢の深奥を。

 

   秘められたるものを見、隠されたるものを見、

 

   しかしてかれは洪水以前の日々について報せたり。

 

   かれは行けり遥かなる道を、さりながら疲れ帰りて、

 

   石に刻めり己が勲を。

   

 『ギルガメシュ叙事詩』より――

 

 

 

 

 

 『ギルガメシュ叙事詩』において、王は不死を求めて長い旅に出る。聡明な知恵と頑健な肉体を備えた、三分の二が神である王が。神の手になる盟友エンキドゥを待ち受けていた死の運命を嘆き、友の像を建てながらも自らは荒野をさまよった。かつてひとかたまりの泥であったエンキドゥは、聖娼と、そしてかの王の傍で腹いっぱいに食べる喜びを、音楽の楽しみを、花を愛でる雅を知った。人間らしく油で髪を撫でつけた。エンキドゥはもはや全く人間としかみえなかった。それもなんと美しい人間であることよ、そうウルクの民は思った。

 

 ギルガメシュ王は杉薫る森に住むフンババに挑んだ。エンキドゥに宥められながらも、俺は後世に名を遺すのだ、そう息巻くかと思えば、直前になって怖気づきエンキドゥに励まされる。まことに人間的な王である。彼は闘いの果てにフンババの首を刎ね、ウルクで光を帯び、身を美しく着飾った。イシュタルがやってきたときも、先王ドゥムジや軍馬、獣に変えられた牧人の哀れな運命を数え上げ、恋多き女神の求婚をはねつけた。そして女神は憤り、アヌ神を頼ってウルクに天の牡牛を遣わすのだ。父神の言葉も聞き入れずに、イシュタルは手綱を引いていく。我々の目には見えない、天の手綱である。

 

 もし君に僕の手が届いたならば、必ずや天の牡牛と同じ運命を辿らせる――そうエンキドゥは言っていた。

 

 二人の英雄によって天の牡牛が打倒された時、人々はこぞって喜び祝宴を催した。その晩、エンキドゥは夢を見る。神々がなにやら話しているというのだ。夢の謎は解かれ、そして神々の会議のすえに、エンキドゥの上に死の運命が下った。ギルガメシュは祈ったが、それは空しい結果に終わった。エンキドゥは死の床で人々を呪った。何と恨めしいことか、私にこのような運命をもたらしたものが、と。しかしシャマシュが彼を諭し、エンキドゥは安らかに冥界へと赴いた。民は皆、嘆き悲しんでいたという。

 

 王は不死を求める。私が思うに、不死にそこまでの価値はないのだが。彼は月の下で眠る獅子を見た。腰から下がサソリである奇妙な人間と出会い、長い暗闇が続く門をくぐった。シャマシュと言葉を交わし、ギルガメシュ王はとうとう喜びの溢れる庭にたどり着く。海辺の酒場には美しい女神がいた。彼女いわく、不死は人には過ぎたるもの、今生きる喜びをもとめなさい。王は聞き入れなかった。船頭であるウルシャナビを捕まえ、彼は死の海を渡ってゆく。

 

 そうして彼はようやく大洪水を生き延びたものに出会う。ウトナピシュティムはギルガメシュに、こんこんとこの世の理を諭す。王はそれでもなお不死を求めていた。六日と七晩眠らなければ不死を得られるやもしれぬとウトナピシュティムは答えたが、なにぶんこの世のものとは思えぬ長旅のあとである。ギルガメシュは霧に包まれるように眠りに落ち、彼が起きていたかを試すために焼かれたパンはとても食べられない姿に変わっていた。

 

 これが最後である。不死であるウトナピシュティムは、ギルガメシュを憐れんで霊草――シーブ・イッサヒル・アメール――のありかを示した。王は喜びをあらわにする。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。王は最後に、身を清めてウルクに帰還しようとする。長年留守にしていたのだ。再び王にふさわしい姿で帰還しよう、と。しかしこの霊草は、水浴びの途中であっさりと蛇に盗み去られてしまうのであった。

 

 もしこの話が少しでも違っていたら、いかなる結末が待っていたのだろうか。つまり、ギルガメシュ王が霊草を持ち帰っていたら。ウルクの人々は永遠の若さを享受し、王はやがて文字通り世界を手に入れたのであろうか。古代ギリシャにおいては、神と人との違いはわずかにその不死性のみであった。人間が不死となること。それは聖なることであり、驚くべきことであり――

 

 

 

 

 

 ――ルシガアルブを殺せ。それは我らが王に、天に仇なした者。

 

 反乱が起きていた。ウルクに帰還したギルガメッシュの耳に入ったのは、憤る民の声と、聞いたこともない王の名前だった。民は喜んでギルガメッシュを迎えた。どうかあの者を倒してくださいまし。長い旅から戻った王は、いつのまにやら出来ていた、天に浮かぶ巨大な図書庫へと足を踏み入れた。

 

 『記憶の図書館』。ウルク市に反乱が起こってから、大結界を張り巡らせ、ルシガアルブなるものが中に住まうという異形の建造物。その最奥部に、ルシガアルブと呼ばれた人間はいた。綿のように白く、手まりのように大きな痰の塊がしゃがれた喉に引っかかっている。その部屋の覗き窓からは未だに活気づくウルクが見えた――昔と比べて、多少殺気立ってはいるが。ずいぶんと堅牢になったはずの結界をものともせずに破って、彼の教え子は不死を求める旅路から帰ってきた。その手には剣を、懐には不死の霊草を携えて。

 

「おや、まあ。ずいぶんと、長い家出でしたな。ギルガメシュ様」

「……一言目がそれか、戯け」

 

 その老人を見た時、聡明な王は全てを悟った。懐かしい声が図書館に響く。朝の太陽が、黄金の剣にきらめいた。

 

 

 

 ――ギルガメッシュの旅は長かった。永遠の生命を求めて、その秘密を知るウトナピシュティムを探す旅だ。彼は誰にも、何も言わずに、何者も目覚めていない真夜中に部屋を出た。一人の旅人として、脳裏に浮かぶ二人の影を振り払った。緑髪のヒトにも、太った男にも、ギルガメッシュは何も告げていなかった。

 曲がりくねった街の角には黒い水がたまっていた。王は密かに月の神に己の旅を見守るように言いながら、ウルクの門を出た。貧しい自由民のこしらえた簡素な墓場が目についた。月光に、瞬く星の中に、天の闇のもとに。まことに人は病んでいる、死の重みからは逃れがたい。それは万人に等しく降りかかるのだ。イシュタル女神の求婚をにべもなく撥ねつけた英雄にも、何も知らずに眠っている祭祀長にも。朝日が窓に差し込み、彼らは王の姿が見られないことを訝しんだ。少し時間が経った頃、宮殿の人々はウルクの門へ続くギルガメッシュの足跡を辿ることにした。それは決別の印だった。それを知って、彼らの眼は悲嘆に潤む。ウルクの城門を出たのち、人々はついにギルガメッシュの痕跡を見つけることはできなかったからである。

 

「思えばずいぶんと苦労したものです。どう考えてもとんでもないことですよ、王たるものが何も告げずに国を出ていくなど。いえ、何か告げていたとしても問題ではあるのですがね」

 

 私はあの時のことを思い返しながら、王と言葉を交わす。ギルガメッシュ様がウルクを出て行った時、果たして民はこの地に残った。私とシドゥリが王の代わりに政務を行い、人々を繋ぎとめようとしたからだ。しかし、誤算があった。王の傍若無人な振る舞いは、他の都市国家に対する抑止力として働いていたのだ。それらの国は禿鷹のように攻めてきた。人々を守ることはできる。それは、ギルガメシュ様ならばともかく、私には疲れるものだった。

 

 ――夜になり、ギルガメッシュは山の狭間に差し掛かった。炎熱の日も、凍える雨も彼を犯すことはできなかった。その体には力が漲っていた。魂には黄金の鍵が封じられ、万人の羨む財宝をおのれの倉に納めている王である。肩も足も寒さに震えることなく、灼けることもなく、彼は一振りの剣を手に歩みを進めた。その時、一匹の獅子が彼の心を捉えた。それは流れやまぬ清い川のような月あかりの下で、うずくまって眠る獅子であった。その瞬間、再び死の恐れが彼の心に入り込んだ。

 幻想種だった。その獅子は透き通るような氷色のたてがみを持ち、その爪と牙は空間を、凝固した脂にナイフの刃を入れるように、いともたやすく引き裂くだろう。ただ、王はその程度の獣を恐れているわけではなかった。あの獣を通して、なにものにも訪れる疲れと眠りを、そして死を甘受させる時間というものに恐れを抱いたのだ。

 

 ――人間はいずれ死ぬ、それは構わぬ。だが我は違うぞ。

 

「いかがでしたか、世界の形は。かなり正確だった筈ですが」

「全く違っているではないか。あの地図には冥界も、老人がいる島も記されていはしない。へぼ魔術師もよいところだ、雑種が」

「……ん"んっ、何から何まで記してはつまらないでしょう。それは王のために楽しみを取っておいたのですよ」

 

 旅を終えた王を迎えるために、私はいくらか冗談を飛ばした。上手に行かなかったはずだ、途中でひどく咳き込んでしまったから。そうか、私の地図は間違っていたのか。4600年も前のことだ、地理が多少違ってもおかしくはない。まして神がいる世界では、このような世界地図もあまり役には立たないらしい。少し残念に思った。この調子では、一年の長さが365.22日であることも、もしかすると外れているかもしれない。

 

 ――王はまた、死の具現とも思われる者どもに出会った。その二人は腰から下が蠍であり、足はエルキドゥの魂を掴み去った鷲のものに似ていた。

 

「神の肉体を持つものよ、何故このような場所にやってきたのか。先は暗く、あらゆるものが行き詰まるこの山まで」

 

 その者どもは大きな門を守っていた。彼が問うと多くの足がかさかさと鳴り、それらは甲殻が濡れた青銅のように光った。

 ギルガメッシュは門番にこれまでのいきさつを語った。

 

「生死の奥義をウトナピシュティムに尋ねるためだ」

 

 蠍人間は王を引き留めたが、やがて門を通ることを認めた。ギルガメッシュは長い暗黒の中に足を踏み入れた。いくらか光を発する財宝を引き抜いたが、それもあまり役には立たなかった。しかし彼は進んだ。

 

「使節を迎えるのに緊張しましたし、王名としてついた名前もおかしい」

 

 私はまた下らない愚痴をこぼした。王の旅の話も聞かないままだった。その後半は私も見守っていたし、ギルガメシュ様もまた、私がその旅を見ていたことを知っているだろう。

 

「前半はトゥラバラニで、後半はルシガアルブでした。どちらもろくな王名ではない、後世の記録に残ると思うと恥ずかしい限りですよ。トゥラバラニなんかはタラバガニの聞き間違いですし、ルシガアルブの意味などは特にひどい。"カニにも劣るもの"ですから。"カニにも劣るもの"王。どうです、これはひどいでしょう」

「名は体を表すと言う。貴様にお似合いの名ではないか」

「いえ、実は私もそう思っているのですがね。王の道について説いたくせに、自分も王の器ではありませんでした。これじゃお笑いですよ」

 

 私たちはお互いに笑いあった。

 図書庫の外で、民たちはギルガメシュ様の身を案じて静まり返っていた。

 王の顔には相変わらずの嘲笑と、ありがたいことに、私に対する少しの憐憫が浮かんでいる。

 

 ――長い暗闇の果てに、王は輝かしい庭をその赤い目の中におさめた。木の幹は金銀、枝の先には広いラピスラズリの葉が茂っている。たわわに実を実らせたぶどうの一粒一粒はその全てが磨き上げられた宝玉でできていた。風が吹くたびに、庭の中は異様にきらめいた。その土にはダイヤモンドのちりが混じり、ときおり見つかる砂利には、目にもあざやかな虹色の貝殻が含まれていた。

 ギルガメッシュは、もとより富んだ王である。この程度の庭ならばウルクにも作ることはできよう。しかし暗闇から出てきたばかりの彼はこう思った。

 

 ――これほど素晴らしい太陽の下に生きる喜びを、死は我から奪い去ってしまうのか。

 

 彼は物思いにふけりながら、人々を楽しませる涼しい風の中で、海辺に出る。

 

「この趣味の悪い建物はなんだ。我のウルクを汚しおって」

 

 ギルガメシュ様が不満げに言った。私が王の代わりに権力を握ってからというもの、政務が本当に大変であった。記憶に関わる魔術と分割思考を覚えてからは多少楽にはなったが、王ほど有能ではないし、私のやっていた仕事を引き継げるものもいない。そこで死ぬ前にせめて自分の記憶を残そうと、私は合間を縫って記録をつけることにしたのである。今は手足のように操れる魔術で自分の脳を掘り返し、分不相応な未来の知識や、古くはギルガメッシュ王が幼かったころの、エルキドゥが笑っていた頃のことを書き留めた。それがこの図書館の始まりだった。

 

 ――タカラガイの打ちあげられる砂浜で、波の音のささやく海辺で、王はそこに佇む女神を視界におさめた。あいかわらず涼しい風の中にあって、彼女の頬はバラのように鮮やかで、唇にみずみずしい露が浮かんでいた。イシュタルのものとはまた違う、美しい横顔だった。神の血を引いた、輝かしい顔。そこに悲嘆の色が浮かんでいるのを見て、女神は思った。この瞳は血に染まった夕日のようではないか。

 女神は彼を恐れて館の門を閉ざす。海風は王の嘆きをかき消そうとしているが、扉の外で、ギルガメッシュは構わずこう尋ねた。

 

「エルキドゥは土に還り、我は荒野を、暗闇の中をさまよい来たのだ。教えてくれ、我の幸福を永遠にし、心の渇きを鎮め、人間の運命から解き放つものはないのか」

 

 女神は答えた。ギルガメッシュよ、お前が飽くまで食らいなさい。民を守り、暖かい寝床で眠り、女を歓ばせなさい。良く働き、今を楽しみ、人の運命を全うしなさい。ギルガメッシュはなおも諦めなかった。その喜びは十分に知っている。しかし我は、それを見守るためにこそ不死を求める。女神は言った。

 

「もし求めるならば、森にいるウルシャナビがお前の力になるでしょう」

 

「王も、ずいぶんお年を召されましたな」

「貴様ほどではない。醜い枯れ木かと思ったぞ」

 

 激動の日々だった。政務で忙しくしているうちに、はじめは好意的だった民の中にも、やがて不穏な動きが起きてくる。星降るような"あの戦い"を知らない、血気盛んな若者が、人々を扇動し始めたのだ。体が動くうちは宥めることもできた。だが一度王の激務で体を壊すと、もう止められない。反乱が起き、血が流れた。私はいつの間にか、ギルガメシュ様を追放した悪臣となっていた。

 

 ――その森は、王の中にエルキドゥとの思い出をはっきりと呼び起こした。糸杉の森に呪われる前の、人間を知り始めたあの美しい友のなめらかな手、軽やかに大地から浮かび上がるかたちの良い足、自分を激励したまっすぐな声などだ。木漏れ日のあふれる深い森の中で、化身フンババを討ったあの日が思い返され、涙を流しそうになった。

 海辺で女神に告げられたことがこだまする。人の運命を全うしなさい。遠くからは小気味いい斧の音が響いていた。ウルシャナビのものだった。ギルガメッシュは切りかぶの若芽を切り出している者を見つけ、それを縛り上げる。その者は黒いローブを身にまとい、黒いフードに、『石守り』を身に着けていた。王は『石守り』を強引に奪い取り、波の荒立つ海に漕ぎ出した。櫂は重たい。泥沼を漕ぐような心地だった。『石守り』を砕いてようやく、船は沖へと向かいだした。

 

 ギルガメッシュを乗せた船は、やがて死の海に差し掛かる。櫂の一本は死に侵されて腐り落ちてしまった。王はこれを嘆いて、再びウルシャナビの元へ戻った。

 

「情けないことです。本当なら、ウルクの皆と共に王の帰還を迎えたかったのですが。私一人で寂しく、こんな場所に引きこもってあなたと話すとは」

 

 人びとの反乱は、力任せにいけば抑えることはできただろう。我が国の兵士は強く、忠誠心も残っていた。王のウルクを損なう訳にはいかない、この考えが私の判断を鈍らせたのだ。今更どうなるものでもない。だが、殺しておくべきだったのではないか。ルガルバンダ王の遠征に付き添ったときのように。私は再び結界を張り、図書庫に閉じ籠った。

 

 ――ウルシャナビはもの静かな人間だった。顔は新月のようにフードの暗闇の中に溶け込んで、その鼻先も見えない。『石守り』は壊れ、旅人を死の水から守るものはなくなってしまったのだ。海を越えるために、300本の櫂を積んだ船が海辺を発った。時計のように正確なリズムを刻むウルシャナビのオールを見て、ふと王は思い出した。ウルクでも時は経ったはずだ。ギルガメッシュがあの都市で、あの家庭教師と出会い、粘土からこねられた友と戦い、威容をほこる牛を打ち倒すまでと同じくらいの年月が。

 今ごろ、あの国はどうなっているだろうか。しかしながら、その思案もすぐに止まる。水底ではぞっとするような空虚がギルガメッシュ王を見つめていた。

 

「この街は変わりました。あなたを知らない子供たちが育ち、エルキドゥ様の記憶も少しずつ薄れてゆきます。シドゥリもすっかり大人になりまして――今はまあ、私のものではない政府で働いているのですがね。よろしければ、後でお会いになってください。あれの説教は恐ろしい。あれの泣き顔も、悲しい」

 

 ギルガメシュ様に伝えたい事は数限りなくあった。三番目の角に住む石工に孫が生まれたこと、アヌ神との間に盟約を交わしたこと、洪水のこと、肥沃な大地のこと、蜂蜜がとれたこと、エルキドゥの消えた地の花は今も咲き続けていること。王宮にかわいらしい鳥の巣ができたという、つまらないことの数々だった。心臓は弱り、ボソボソ喋るだけで精一杯である。老いぼれた私の体力はもうそれを許さない。何もかも昔のように、という訳にはいかないのだ。

 

 ――死の海では、その水に触れたあらゆるものが侵されてゆく。ただ船だけがそれを免れていた。ギルガメッシュもまたこの水を恐れた。船に積んだ櫂は、ひと漕ぎするたびに先の方から崩れ、何も生み出さない細かい砂になるまで、ゆっくりと、残された時を噛みしめるように黒い水の内に引きずり込まれていった。

 すべての櫂を使い切ったのちに、ようやくウトナピシュティムの暮らす島が見えた。死の水はもはやない。だが、代わりに広い海が、未だに人間と神を隔てていた。ギルガメッシュは己の着ていた衣を脱いで帆の代わりとする。船はよく進んだ。掲げられた帆は既に、王宮の滑らかな布などではなくなっていた。

 

「……いつか言っていたな。民の声に耳を傾けるのも王の務め、と」

「ああ、なんともはや、懐かしい――。まだ、覚えていらっしゃったのですね」

「当然である。我が覚えていないと思ったか? 脳みそが溶けたらしいな。その民曰く、お前は王位の簒奪者であるらしいが」

「まぁ、そう見えるのもやむなしですな。本当はいつも、こう……玉座には、少しだけ尻を浮かせて座っていたのですが。その眼で見ていただければ、すぐにでもお分かりになりましょう」

「フン。今さら疑う気も起きんわ」

「……はっはっは、ありがたき幸せにございます」

 

 反乱で、私を擁護した知り合いもたくさん死んだ。体力は落ち、代わりに地に満ちるマナへの感覚だけが敏感になっていった。柔らかい病床の中で、せめて巻き込まれて死んだ人々の記憶だけでも拾おうとした。やがて図書庫に納められる記憶の数は膨らみ、ついに図書館は異形となった。兵士たちを動かしたが、もはや手遅れだった。

 愚かなものだ。メソポタミアに落ちてから数十年。きっとこの辺りが潮時であろう。

 

 ――遥かなる島で、ギルガメッシュはとうとうウトナピシュティムを見つけた。彼は大洪水の真実をまだ若い王に伝えた。眠らずの試練を王は超えることはできなかった。焼かれたパンが朽ちていく、およそあらゆる生命のミニチュアであるかのように。夜ごと王は眠った。その間少しも休むことなく、日は照り、月は輝いていた。

 

「さて、ギルガメシュ様。お分かりの通り、もう民は私を殺さなければ満足しないでしょう。あなたがここに足を踏み入れたということは、人々の意識は既にどちらかのみの勝利を信じている。我々が和解してどうなるのです。万事元通り、そのように行く時期も、もう過ぎ去りました。愚かなことに私はウルクの物を損なった。全くの力不足でございました。これは罰に値するでしょう」

 

 口数が多いのは、私の恐怖の表れだろうか。ギルガメッシュ様は、その千里眼をもってその過去を、未来を見通したことだろう。ああ、どうして自分は、いつもこう、うまくいかないのか。私が裁かれずに済む未来はいくらでもあろう。だが、それは誰も望んでいないのだ。ギルガメッシュは霊草を手にしていた。人々の裁定者となる未来が、彼の前には開けているのだ。これはどこまでも人の業であった。神から離れた人間が歴史に刻んだ、最初の、これから先何度も続くであろう、ありふれた失敗だ。私はウルクを損ない、いずれ死に至る。王はそれを躊躇わずに処断してくださるだろう。いや、しなければならない。いみじくも彼が裁定者であろうと欲するならば。悲しいことではない。これは自業自得の結末なのだから。

 

「みな、分かりやすい物語が好きなのです。私も好きだ。ただの人間というものは、みな……少しだけお待ちください。王宮を血で汚したくはない」

 

 それにしても口惜しい。王の記憶の中に、これ以上の苦しみを刻むまいと思っていたのだが。

 

 王はウトナピシュティムに、深淵に生える霊草の根のことを伝えられた。老いたものは若返る(シーブ・イッサヒル・アメール)。その草を取り、歓喜に満ちて彼は叫んだ。人類を見定める己のことを思い、次いで人々のことを思い返すときに、ふと気付いた――そうだ、あの街にはまだ間に合う者がいるのだ。王はウルクに帰り来る途中で水を浴び、その最中に、忍び寄る蛇の気配に()()()()()()()()()

 

「祭壇に参りましょう。そして民の前で、私を斬り捨てるのです」

 

 いかなる心境か、ギルガメッシュはひどく乱暴ではあったが、老いた人の手を取って寝床から引き起こした。硬く冷えた手には分厚いタコができていた。尖筆(スタイラス)の取っ手に紐を巻き付け、ウルクに死した人々の記録を取り続けた。

 ウルクの人々の歓声が、次いで悲しげな溜息が聞こえた。全く嫌われていたわけではないらしいと知って、言うのも忍びないことだが、私はちょっと腹が立った――いや、今悔やむくらいなら反乱を起こさないでほしかったわけである。そりゃそうだ。ここで泣かれても困るのだ、もう私は死ぬんだから。

 ギルガメッシュは前口上を述べ、民の目の前で、その男の胸を斬り裂いた。黒い血が細かいしぶきとなって、広場に飛び散った。私のものではない泣き声が聞こえた。あまり痛くないのが救いかもしれない。王は剣技にも通じていたのだ。私にも、体の感覚はあまりなかった。照りつける太陽が眩しかった。

 

 ――かくて王はウルクに帰り来た。その手には剣を、懐には不死の霊草を携えて。

 

 王になどなるものではない。心底そう思う。うまくいかないものだ、次落ちるならべつの場所が良い。

 いや、それは嘘だ。次があれば、もっと、うまくやってやるのだ。そう思いながらもなんとか安らかな顔で、エルキドゥのように眠ろうとしたが、体はもう動かなかった。ふっくらした体が浮き上がる。そして最後に、暗くなっていくぼやけた視界の端に、一筋の輝きが映った。

 

 ――おお、本当に、大きくなられた。

 

「……愚昧であり、間抜けであり、ひどく凡庸である。だがその忠誠、大儀であった。これは全世界を見、全世界のものを手にした王ギルガメッシュからの、貴様に与える最後の褒美だ。ひれ伏して受け取るがいい――我が、愚かな師よ」

 

 そして人々から影となるところで、王は言った。その瞬間、霊草の一葉が私の体内を燃やし尽くした。

 

 もしこの話が少しでも違っていたら、いかなる結末が待っていたのだろうか。つまり、ギルガメシュ王が霊草を持ち帰っていたら。ウルクの人々は永遠の若さを享受し、王はやがて文字通り世界を手に入れたのであろうか。古代ギリシャにおいては、神と人との違いはわずかにその不死性のみであった。人間が不死となること。それは聖なることであり、驚くべきことであり――

 

 ――そして同時に、恐るべきことでもある。

 

 

 

 さて、私は不死となったわけである。これからどうすればいいのだろう。

 

 

 

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