目が覚めたら古代メソポタミアにいたんですが 作:加藤ブドウ糖液糖
――1人の人間が世界を描くという仕事をもくろむ。長い歳月をかけて、地方、王国、山岳、内海、船、島、魚、部屋、器具、星、馬、人などのイメージで空間を埋める。しかし、死の直前に気付く、その忍耐強い線の迷路は彼自身の顔をなぞっているのだと。
J.L.ボルヘス『創造者』「エピローグ」より――
偽王ルシガアルブとは、いったい何者であったのか。謎多き男である。他国――その肖像を見る限りは、東方の血が混じっていたであろう――から流れ着き、軍人に仕える奴隷から、王宮付きの占星術師に成り上り、ついに玉座にまで至る。魔術に長けていた、という噂が流れるのも頷ける経歴だ。一時は生贄にまで落ち込んだこの人間に、果たして何が起こっていたのか。ルシガアルブ。ギルガメッシュ王を追放した、欲塗れの逆臣。しかしながら、彼にはもう一つの名があった。トゥラバラニ。即ち、病を癒やすもの、である。メソポタミアに養蜂と一時的な太陽暦、そして世界初の王立図書館をもたらしたとされるトゥラバラニの名は、ウルク市と交戦した諸国に記録されている。
先にも書いたとおり、ギルガメッシュ王がウルクに不在の時、記録ではトゥラバラニ(tur-bal-anir)、あるいはルシガアルブ(lusiga-allub)と名乗る高官が政務を担当したとされる。一説にはギルガメッシュの教育を担当したともいわれる官僚である。トゥラバラニという名は、直訳すれば病を回復する専門家、つまりは医者を意味していた。もう一つの名、ルシガアルブを意訳すれば、「カニにも劣るもの」となるだろうか。奇妙な名前である。むろん、現在は奇妙に聞こえる名前も昔は一般的だった、ということは往々にしてある。だが、これが当時のシュメールでは一般的な名前だったのかというと、それも違う。いずれの名をとっても、当時から見てかなり奇天烈な名前であったことだろう。
医者。あるいは、カニにも劣るもの。我々の耳にはどちらの名も王には相応しくないように響く。そして、実際そうであったらしい。彼は王がいない間の中継ぎであって、正式な王ではないという意味が含まれているのは間違いない。その治世はよく言えば寛容、悪く言えば優柔不断である。文化面においてはまずまずの成果を残していると言えよう。対外戦争でも特に失敗することはなく、若い時には前線で棍棒を振るうこともあったという。だが国内で起きた反乱の鎮圧には失敗し、ギルガメッシュ王の帰還とともに、高官ルシガアルブは王自らの手によって処刑、あるいはウルクを追放されることとなる。少なくとも広場で斬られたことは間違いないが、それが死刑であったのか身体刑であったのかは記録されていない。
ルシガアルブが生き残ったとする資料では、彼はその後エジプトの方面へ逃れていったとの記述がある。全くの一人旅、よほどのことが無いかぎりは死んでしまうだろう。彼の老いた肉体を切り裂くとき、ギルガメッシュ王はどのような感慨を抱いていたのであろうか。広場に飛び散った血はどのような色をしていたのか、それを見た民衆は、曲がりなりにも自分たちの国を維持した老人に対して、何を思っていたのだろうか。
二つの名を持つ、偽りの王。それは記録者から悪感情を伴って呼ばれていたのか、あるいは――もしかすると、自分から謙遜して名乗り始めたのか。それは定かではない。
「いや、歩ける歩ける。若いってのはいいね、素晴らしいことだ」
――人を訪ねてなんとやら、である。ギルガメシュ様が帰ってきてから半年、私は節くれだった杖を片手に、広い川沿いを歩いていた。今夜は星が輝いている。月夜のかすかな明かりに、両河地帯の湿った空気の中に、私は立っている。ウルクから遠く離れてのことだ。燃えにくい木片に愚痴をこぼしながら、指先に恒星の火を灯した。天体魔術というのも便利なものだ。色々と応用が利くし、ライターを持ち歩かなくて済む。
「まあまあ歩いたかね。この辺で寝ようか」
アストロラーベで星々の距離を測定し、現在地を割り出す。占星術師であった経験が役に立った。寝るのにちょうどいい窪みを探し、ユーフラテス川に反射する自分の顔を見て、若い頃はこんな顔をしていたのか、などとぼやく。追放されてから旅にも慣れつつある。エジプトにピラミッドでも見に行こう、私はそう思っていた。
私を知るものが見れば、こんなことはあり得ないと思うだろう。少し前まで地域でも有数の街を支配していた老人が、このような辺鄙な場所をさすらう若者になっているのだから。体は若く、足腰は強い。服は粗末なものだが、革の簡素なサンダルを履いている。私に言わせれば、魔術があるし神がいる世界なのだから、何が起こっても不思議ではないのだが。
ウルクからエジプトまではおよそ1300km、ひたすら西方へ進めばたどり着く計算であった。ところが、私は単なる西方ではなく、北西の地中海の方へ歩みを進めている。1300kmと言えば短いように聞こえるが、しかしてその道中はほぼ全てが乾燥地帯であり、魔獣が群れをなし、ときおり幻想種のルフが上空を飛んでいるからだ。
こうなるともう、めんどくさいわけである。なるほど準備をすれば通れないことはないだろうが、準備に時間をかけて、しかも細心の注意を払いながらエジプトまで進んでいくとなると、本末転倒なわけだ。バカみたいではないか。そんなことをするぐらいならば、海と川の側を通る方がよい。土地は肥沃で、街を見つけるには困らない。地中海の沿岸にも、また都市があるだろうから。
さて、ざっと事の顛末を話そう。悪逆非道の臣ルシガアルブは、英雄ギルガメッシュ王の手によって栄えある都市ウルクから追放されることとなった。
王には申し訳ないことをしたと思う。悔やんでも悔やみきれないほどだ。なにせ長い旅路の末に、貴重な霊草をこのような老いぼれに使ってしまったのだから。そのようなことを考えながら、私は焚火に当たる。
簡素な日干し煉瓦の家で目を覚ました時、私の中には様々な感情が渦巻いていた。若い体を見てすぐさま思い出した、ギルガメシュ叙事詩には霊草が出てきたと。己の不甲斐なさが腹立たしかった。裁定者でありえた王の決意を鈍らせてしまい、悲しかった。そして、彼が人々と共に歩む道を選んでくれて、情けなくも嬉しかった。空高く光る星は、気高くも孤独なものだ。どれほど近く、手につかめそうに思える星々でも。宇宙は空虚で満たされている。人の身には無限とも思える距離が開いていることを、私はよく知っている。
「おお、焼けた焼けた」
けっきょく塩と、肉と脂があれば何でもいいわけである。イシュタル女神の祭壇からかっぱらってきた牛肉、それに塩を振って齧る。うまい。他の神では申し訳ないが、あれならよかろう。ウルクを出る前に、アヌ神の祭壇に、そして最後だからとイシュタル女神の祭壇にもいくつかの捧げものを手配したのだから、許されてしかるべきである。
神々との決別は、何もかもすっぱりといったわけではない。ギルガメシュ様の意志はエルキドゥを失ってからというもの、何となく察してはいた。
「祈れというのか、この私に。エルキドゥ様を奪った神々とやらの為に」
「……はい。それが、この街を預かる者の務めですから」
私が祈ることを拒んだときの、シドゥリの毅然とした表情を思い出す。神に仕えるものとして、ウルクに住まうものとしてのあの顔を。反乱が起こってからは、エレシュキガル様の祭壇にも長く供え物をした――自らが招いた殺戮と、民の冥福のために。
エレシュキガル様、いま冥界はどうなっているでしょうか。そろそろ死にそうなのでよろしく、とお伝えしていましたが、あの予約はキャンセルでお願いいたします。闇夜の中でそうおどけてみる。夜は静かで落ち着くが、あまりに暇である――どこかで、騙されたのだわー! という涙声が聞こえた気がした。悪い男に引っかかりそうな声だ。たぶん幻聴であろう、女神が全て残念な性格だと思いたくはない。今日は早めに寝たほうがよいのかもしれない。
「ここがエルキドゥ様のお部屋です。気に入っていただけるとよいのですが」
「先生、僕は兵器だ。部屋なんか無くても……」
「平気だなんて、そんな寂しいことを……あっ、兵器だけに? 兵器だけに平気、と」
「――えっと、どういうことかな?」
今日はよく思い出す日だ、こんな下らないことまで思い出すのはどうかと思うが。天文台で、あるいは杉の森や花咲く野辺で見た、美しい友人。神の手によって作られ、神に背き、王と共に最後まで進むことを選んだ人。苦いザクロを食べた時のかわいらしい顔、胸元で穏やかに揺れるペンデュラム。私は涼しい岩陰にもたれかかって天をながめ、また二人がぶつかった星降る夜のことを思い出しながら、静かな眠りについた。
私がウルクを出ていくときも、別れの言葉を交わす時間は少なかった。永久追放。それは二度とギルガメシュ様と会えなくなることを意味していたが、なぜか不思議とそんな気はしなかった。少しでも不満なことがあれば、たとえ亡くなっていたとしても、王はいずれ、何らかの形で必ずよみがえるだろうと分かっていたからだ。私はただ、旅をすればよい。生きていればいつかは、再び馴染み深い人に会うこともあるだろう。
――ようやく、重荷が下りたような感じがあった。この分だとエルキドゥにもまた会えるかもしれない。おそらく冥界から、ギルガメシュ様に引きずられるようにして出てくるだろう。その時は申し訳なさそうな顔をしているに違いない。多分この予想は当たっている。
「では、先生が描いたこれらの大陸の淵にも、きっと行ったことがあるんですよね!」
ふと、目を輝かせて私に問う、幼い王の姿を思い出した。様々なものと出会い、様々なものと別れてきた。若いころと同じものを見て、全く違うものを見た。いつものように夕飯の献立に頭を悩ませる母親を見た。木の枝を持って走り回りながら、出来るだけたくさんの敵を殺すと語る子供を見た。鞭打たれる奴隷の親子を見た。自由民と娼婦の浮気を見た。目を抉り出す刑罰を見た。牡牛の角に突き殺される金持ちを見た。これから先、嫌というほど見ることになる人の悪性と善性を、この地で最初に見た。私はギルガメッシュ様の顔と、ウルクの人々の顔を最後に見て、少しだけ泣いた。
「せいぜい、自分の足で歩き続けることだ。貴様に向いているのはそれぐらいであろう」
「先生は、東のほうから来たと言っていたね。僕はここから出たことがなくて――」
ギルガメシュ王から最後にかけられた言葉を、エルキドゥの前ではぐらかした東方からの旅を、私は思い起こした。いつか、彼らと再び出会うこともあるだろう。不死となってから、いずれの時にか、思いもよらない場所で。Fateについてはよく知らない、しかし、その時までには旅の話を用意したいものだ。永い時の流れが、私のささやかな人間性を磨り減らさないうちに。
私はさらに半年をかけて、ゆっくりと地中海に沿って半島を横切るだろう。初めて見たナイル川が思っていたより細くても、落胆はしない。長い乾燥地帯を通り、広い地域に少しずつ恵みを届けてここまでやってきたのだから。元がどれほど豊かな水源であっても、多少疲れてしまうのは仕方のないことだと納得するはずだ。エジプトの青は潔く、深いに違いない。小ぶりな屈折ピラミッドと、クフ王、カフラー王、メンカウラー王の三大ピラミッドがまだ建造されていない更地を見て、私は感嘆の念を覚えることだろう。
私が着く頃のエジプトは、のちに第四王朝として分類される。そして驚くべきことだが、当時、既に原型の原型が存在したアトラス院では、私にも六人の頭のおかしい友人ができるだろう。そのどれもが興味深く、胸を張ってウルクの人々に、そして二人に語れる思い出となるはずだ。しかしまあ、今はそれも置いておこう。あの時の私には、そのどれもが未知であったのだ。
「さて、今日はどれぐらい歩こうか」
私は岩陰で目を覚ますだろう。太陽はまだ低い。
今日は、陽が強く照っている。ほどほどに進もうと思った。
メソポタミア編完結です。2万字ぐらいで終わらせるつもりが少し長くなってしまいました。次はカルデアの幕間を挟むか挟まないかで悩んでいますが、ともかくエジプト編になるかと思います。どれぐらいかかるか分からないので、ゆるりとお待ちいただけたら幸いです。
感想、誤字脱字報告、評価、ここすき等非常に励みになりました。ひとまず、ここまでお付き合いくださってありがとうございました。