「……凱旋門賞、ですか」
凱旋門賞――――フランス、パリ郊外のロンシャンレース場にて開催される国際G1。
G1を勝つというのは、日本国内ですら難しい。これは当たり前の話。
しかし妙な話にはなるが、年に一人はダービーウマ娘が誕生する。
日本ダービーは年に一度あるのだから当たり前?
その意見はある観点では真――――そう、
では、学園の生徒に前年の凱旋門賞を制覇したウマ娘が誰かを聞いたとき……果たして何人から正しい答えが返ってくるだろうか?
「もちろん。厳しい道のりになることは分かっています」
当たり前でしょう? とサクラローレルは言う。
「なにせ私たちは、凱旋門賞を何も知らない」
しかし知らないのだ。
彼の地に吹く風を。
彼の地に染みる雨を。
彼の地に根付く自然を。
彼の地に横たわる、歴史を。
「ご存じでしょうけれど、私は満足に走れません」
カルテには目を通しましたよねとローレル。競走保険の仲介業者である以上、もちろんコンサルはその言葉の意味を理解している。
「私は、十分なトレーニングの時間がとれません」
それは才能と気力だけで走ることを意味している。
「私は、実際にレースを走って経験を積む余裕がありません」
それは脚に鎖をつけるようなハンデを負うことを意味している。
「だからこそ、私は――――最短距離を」
「コンサルさん。こちらを」
事前に用意していたのだろう。サクラローレルのトレーナーがローテーション表を差し出してくる。
……そのローテーションに、日本ダービーの文字は
「これが、僕たちの立てた凱旋門賞への行程表でした」
そして、その計画は既に破綻している。
なにせサクラローレルは日本ダービーを走った。
走ったことで、決して浅くはない傷を負ってしまった。
「でも、後悔はしていない。絶対にさせない」
にも関わらず……彼女のトレーナーは、微塵も諦めてなどいなかった。
「責任を取ると、決めましたから」
眼を見れば分かる。彼が壮絶な覚悟を背負っていることを。
その背中に注がれる万華鏡の視線を見れば分かる。彼の担当ウマ娘が、彼に全幅の信頼を置いていることを。
これはどうやら、単なる再契約業務だけでは終わらなさそうである。
大学部付属病院をあとにしたコンサルは、その足である場所へと向かった。
電車に乗り込み、高層ビルの建ち並ぶ都心へ。改札を出れば、レトロな蒸気機関車が飾られた駅前広場が迎えてくれる。
東京、新橋――――目指す先は、URA新橋分館。
「こんにちは。アポイントメントは取られていますか?」
「ええ」
受付に名刺を差し出し、先ほど取ったばかりの
「よお、この私を電話一本で呼び出すとは、随分と偉くなったもんだな?」
そして面会室のソファに腰掛けていたのは、目的のウマ娘。
鋭い目つき、組まれた脚。細身を包むスーツはシンプルなデザインだが、どうしてだろうか。かつてのスーツベースの勝負服よりも威圧感が増したように見える。
「新年のご挨拶に伺った以来ですね。シリウスシンボリさん」
「ハッ! 堅苦しいのはやめろよ、ここには誰もいやしねえ」
まあ座れよと促され、コンサルは対面のソファに腰掛ける。
「それで?」
「ひとつ相談がありまして――――」
「おっと」
ひょい、と持ち上げるようにシリウスシンボリは人差し指を立てる。
「まだ誰も話を聞いてやるとは言ってない。そうだろ?」
「……『おねだり』をご所望で?」
それは懐かしい言葉の応酬。
いつかの日、コンサルは落とした書類を彼女に拾ってもらったことがある。提出日の迫った記入済み書類、拾ってくれてありがとうと言ったコンサルに、彼女は欲しいなら「おねだり」してみろと言ったのである。
対するコンサルは毅然と応じたものである。当時の彼に、妥協するという選択肢は存在しなかった。
とどのつまり、子供同士の意地の張り合いである。
もっとも、彼女はあの時点で既にG1を制した実力者であった訳だから……どちらが本当に子供だったのかは、もはや論ずるまでもないところではある。
「ふん、マジな顔するんじゃねぇよ。冗談だ」
……今日も冗談とは思えなかったが。
おそらく、彼女なりに世界に対する敵愾心と折り合いをつけた。ということなのだろう。
もちろん、コンサルも。
時間はあるんだろう? そう言ったシリウスシンボリに連れられてきたのは、URA新橋分館から歩いて数分の所にある料理店であった。赤白青の縦縞で彩られる三色旗が飾られたその店はちょうどランチタイムで、正餐ほどではないがコースメニューが供されるらしい。
「変わったな」
テーブルの向こうからシリウスシンボリの声が飛んでくる。
どこか楽しげな様子の彼女。そこに漂うのは過去を懐かしむ空気だった。
「野良犬の頃とは大違いだ。よほどご主人様の仕込みがいいらしい」
「……それはどうも」
「ま、あの頃からずいぶん流れた。変わって当然なのかもな?」
――――あの頃、とは。
シリウスシンボリが現役であった頃。
彼女が真っ青なターフを駆けていた日々は、もう随分と昔の話である。
「にしても、こうして二人っきりは久しぶりだな。ん?」
それもそうだろう。もとより接点が多いわけではない。
レース業界は狭い世界ということもあり、顔を合わせることがなくなった訳ではないが……式典やパーティーの場を除けば、こうして彼女とテーブルを囲むのはいつぶりだろうか。
それこそ、筆記体で書かれたメニューに悪戦苦闘していたあの日以来ではないだろうか。
「そういや、メニューは読めるようになったのか?」
ニヤリと笑うシリウス。考えていたことは同じだったらしい。
「あまり揶揄わないでくださいよ。私だって多少は成長します」
思えば、シリウスには変な目の付けられ方をしていたのだろう。コンサルの当時の立場を思えば納得するところもあるが……あの頃はお互いに若かったのだ。そういうことにしておく。しておこう。
「そちらこそ、URAではまだまだ大暴れしているそうで」
「まあな、お陰で上は首輪を嵌めようと必死になってやがる」
心底嬉しそうに語るシリウス。
URAの本部組織。国際交流部は国際レース課の課長――――それが
その肩書きは首輪ではなく武器だとは思うのだが……いつまでも〈皇帝〉を追い続ける彼女にとっては、もしかすると本当に首輪なのかもしれない。
もちろん。〈皇帝〉の件を突いて藪蛇にするほどコンサルも子供じゃない。そこには触れず、彼はシリウスの話に耳を傾けていた。
「――――……それで? わざわざ私を訪ねたってことは、海外か?」
シリウスが本題に触れたのは、食後のコーヒーが運ばれてきた頃であった。
彼女とて、まさか旧交を温めるためにコンサルが訪ねて来たとは思っていないだろう。
「サクラローレルというウマ娘をご存じですか?」
「ダービーに名前があったな」
「彼女は凱旋門賞を目指しているそうです」
凱旋門賞。その単語に、シリウスの耳はハッキリとした反応を示す。
「初耳だな」
「だと思いました」
この反応は想定の範囲内。
URAがこの件を把握していないであろうことは、既にトレーナーへの聞き取りから判明している。
国際レース課。シリウスがまとめるその部署は、サクラローレルが抱く夢――――凱旋門賞に、もっとも近い部署といえる。
それは即ち、最低限協力を取り付けないといけない部署ということでもある。
「そのサクラローレルってウマ娘、重賞は獲ってるのか?」
「まだです。脚部不安を抱えておりまして、身体作りの途上だとか」
「そうか」
そこで言葉を区切って、逡巡するように目をつむるシリウス。
凱旋門賞を目指すのなら。その道には多くの壁が立ち塞がっている。
その壁の中でも特に目立って厄介なのが、国内の理解を得られるかどうか。
「知ってはいるだろうが、凱旋門賞は登録料だけでも相当かかるぞ」
「はい」
「現地のトレーニング設備を使用するなら別途契約が必要だし、トレーナーがレース指導を行うなら現地ライセンスの取得も必要だ」
「ええ」
頷くコンサル。シリウスシンボリは小さくため息。
「分かってるとは思うが……それを理解してなくちゃならねえのはお前じゃなくて、サクラローレルとそのトレーナーだぞ?」
「もちろん。それは重々承知しています」
当然です、と。
落ち着き払った調子でサクラローレルのトレーナーは言った。
「しかし、今の段階で接触をはかってもURAは相手にしてくれません。彼らは学園のように何でも話を聞いてくれるワケじゃない」
彼らはまだURAに接触していない。
今の実績では足りないと自覚しているからこそ、夢を胸の内に留めていた。
「ですが。このままでは……」
「時間切れ、ですよね?」
言い淀んだコンサルの言葉を継いだのは、他でもないサクラローレルである。
競走ウマ娘の寿命は、決して長くはない。
ウマ娘はどれほど長い期間競走能力を発揮できるのか――――この命題に対しては様々な意見が寄せられているが、その中でも一致しているのは身体の成長に関する点。
おおむね3年。本格化を迎えてからの成長は、3年間がピークであるという点だ。
「この3年間で成長を示すことが出来なければ、凱旋門賞なんて夢のまた夢」
そしてその折り返し地点……
「馬喰さんは、凱旋門賞へ出走するための条件をご存じですか?」
「いえ。お恥ずかしながら……」
G1、それも国際G1ともなれば、なんらかの条件、例えば出走権を獲得するためのステップレースなどはあると思われるが。具体的な話となると知らない。
知らなくて当然である。
凱旋門賞を目指そうなんていうウマ娘は、まず現れないのだから。
「凱旋門賞へはステップレースで優先出走権を獲得するか、抽選を通過することで出走できます。そして、出走抽選への登録条件は『特にありません』」
「強いて言うなら、登録料が少し高額なくらいです」
担当ウマ娘の言葉を継ぐサクラローレルのトレーナー。その言葉を額面通りに捉えるのなら、それは……。
「いや、いやいや。まってください」
気付けばコンサルは両手を振っていた。しかし彼女たちは止まらない。
「今年はしかたありません。ですが」
「来年こそ」
「ええ、来年は」
まさか、ほとんど今の戦績で挑むとでもいうのだろうか。
問題は戦績だけじゃない。海外遠征はちょっと地方のレース場に行ってくる、みたいな簡単なものではない。言葉の壁、距離の壁、文化の壁……多種多様な「壁」が、立ちはだかるというのに。
「コンサルさん」
コンサルの目の前にローレルのトレーナーが進み出る。
彼のその目は、背後のウマ娘とまるで同じであった。
「さきほど、ローレルは手綱を握れている……と、そう仰いましたよね?」
「え、ええ」
思わず気圧されるコンサル。驚くべき気迫、覚悟をも通り越した瞳。
ダービーで控えたのはローレルが手綱を握れたから。夢のためには、一生に一度の栄光だって投げ出す覚悟があったから――――――
「手綱を握らせるつもりなんて、ありません」
――――――それは違う、と。彼は言い切る。
「ダービーには、出る必要があった。凱旋門賞に挑むために、ローレルは最強を知らなくちゃならなかった」
「最強を知る……まさか」
日本ダービー、
今年のダービー勝ちウマは、まさしく「最強」の候補に躍り出た「彼女」。
「早ければ今年の秋、遅くても来年の春。ローレルは『彼女』を超える」
確定事項かのようにトレーナーが言う。
後ろに控えた少女の桜が耀く。
「そして最強を超えて――――――
「……!」
最後の一線を越えさせないのは大前提。
しかし手綱は握らない。いけるところまで、いってみせると。
「……お話は、わかりました。ですが、トレーナーさん」
それは、私のような馬喰に言うべきことではありませんよとコンサルは言う。
「
夢を守るため。ウマ娘の未来を、守るために。
本来その役目を担うべきトレーナーは、まるでその役目を放棄してしまったかのよう……いや、逆か。これは彼なりの覚悟なのだ。
担当ウマ娘とトレーナー……そんな書類上の関係を破り捨てたような強い絆を持つからこその、覚悟。
その気持ちは痛いほど分かる。担当ウマ娘が一生に一度の夢を、文字通り命をかけて視ようとする時――――そこに寄り添いたいと強く願う気持ちは、ごくごく自然なもの。
だがそれは、やはり危険だ。
あまりにもリスクが大きい。
なにせ保険も、契約も、全ての書類はウマ娘を守るためにある。
そして馬喰は、ウマ娘に恨まれるために存在する。
「今のお話を聞いて、そしてサクラローレルさんの状況を見て……私はいち個人としては、賛成するわけにはいきません」
もちろん、競走保険を引き受けるかどうかを決めるのはコンサルではない。
それでも、リスクはリスクであると警告するのが馬喰なりの筋であろう。
「なら」
こういうことに、しませんか?
そう言いながら、桜の少女は手を差し出す。万華鏡が、コンサルの姿を覗き込む。
「私たちと、海外遠征――――凱旋門賞制覇にむけたコンサルティング契約を」
「……これは驚いた」
今日は、あくまで競走保険の再契約手続きに来たつもりだったのですが。そう漏らすコンサル。
それほどに、本気ということか。彼女は。
そして本気になれと言っているのだ、彼女は。
コンサルティング契約の手数料を受け取る。
それは即ち「責任」を引き受けるということ。
「私たちの挑戦を、支えてくれませんか?」
夢を守ることは、夢を叶えることを意味しているわけではない。
きっとこの契約は、彼女たちにとっての「保険」になる。
「……ええ。あなたが望むのなら、ぜひ」
こうして契約は成立する。
ならば、やることはいつも通りだ。