4月。再び桜の咲く季節。
「新年度となり、本日よりRKSTポイントの運用が開始されます」
決して規模が大きいとはいえない「ともしび競走保険コンサルタント」では、年度初めの代表挨拶は社員全員への対面形式で行っている。昨年度の業績と今年度の方針についてざっくりと触れた代表は、最後にと言ってRKSTポイントについて言及した。
「プレ・RKSTポイントでは少々の混乱もありましたが……新しい時代を迎える競走保険制度として、定着をはかっていきましょう」
引受人となれる市場が狭い上に、ハイリスクである実態にメスを入れられない。
それをなんとかするためのRKSTポイント。海外水準の競走保険制度の確立を目指し、ゆくゆくは外国人引受人までを視野に入れる壮大な構想――――と、メディア向けには説明がされている。
残念ながら、これの半分くらいは後付けの理屈だ。結局RKSTポイントは、どう言い繕った所で、四方山競走信託の破産に始まる業界の動揺をどうにか鎮めるための対処療法。
レーティングス・マッチやスターティング&ランディングといった外国資本を巻き込んで、日本の競走保険は安全であると「お墨付き」を与えようとした結果。
その結果に、あちこちが口をだして構想が膨らんだ。さも門戸開放、海外資本導入や海外進出を最初から想定していたような枠組みに
問題点が多いのは事実だ。そしてその問題は、これから更に増えるだろう。
だが、それでも。
「どのような制度であれ、運用するのは人です。あなた方の働きが、競走ウマ娘の助けとなることを期待しております」
問題があれば解決する。課題があれば克服する。損害があれば分散させる。
それが、馬喰の仕事である。
「代表、お疲れ様でした」
コンサルの労いに、静かに応じる代表。
「それで、海外遠征プロジェクトはどうなりそうですか」
「はい。本年度より正式に始動します。学園の方でも、新学期を迎えると同時に告知を行うようです」
となれば、メディアが労働省主導の海外遠征プロジェクト――――「プロジェクトLAR’C」について本格的に報じ始めるのもそこからになるだろう。
今年は準備のための一年。そして来年に、いよいよ海外遠征を実施するという算段である。
「とはいえ、来年度に予定していた大規模な遠征を実施できるかは不透明ですが……」
なぜ不透明かといえば、もちろん翌年の予算までは決まっていないからである。このような長期計画は年度をまたぐ予算がつくこともあるのだが、時勢もあり、流石に大蔵省の財布はそこまで緩くなかったようだ。
「いずれにせよ。私としては目の前の
そしてこれは、コンサルがプロジェクトLAR’Cに対して出来る最大限の側面支援となるであろう。日本のウマ娘が海外で活躍するということは、それだけプロジェクトへの期待が高まるというものである。
本来であれば、プロジェクトにサクラローレルが指名されるように導き、彼女たちの負担を軽減される方向で動くのが、コンサルにとってのベストではあるのだが……国の予算に関してはどうこう言えないので、こればかりは仕方がない。そもそもサクラローレルから依頼を受けた時点では海外遠征プロジェクトは影も形もなかったのだ。
大丈夫。環境は上向いてきている。サクラローレルは春を迎え、海外遠征への熱は高まっている。
ただ一点――――――ナリタブライアン故障の報道を、除いては。
「今日は、サクラローレルさんはいらっしゃらないのですか?」
トレセン学園。定期的に開いているサクラローレル陣営との
ところがそこに、サクラローレルの姿はなかった。
「ええ。今日はなんでも、フランス語講座を開くとかで」
聞くところによれば、いまトレセンは空前のフランスブームなのだという。
それもそうだろう。これまで海外遠征といえばシンボリ家のような名門でなければ縁がなかったというのに、突如としてURAと学園が大々的に遠征を支援してくれるというのだから、目の前に凱旋門が落下傘で降りてきたようなものである。
当然、まだ見ぬフランスの地に興味が沸くのはあたりまえ。それで知り合いにフランス語に精通したサクラローレルがいるとなれば、注目が集まるのも当然。
フランス語「講座」という形式になったのは……まあ、彼女の面倒見の良さが発露した、ということなのだろう。
「そうでしたか」
「……それと、ナリタブライアンのこともありますからね」
やはり、それが本当の理由ではないだろうか。トレーナーの心配そうな顔を見て、コンサルはそんな確信を強める。
ナリタブライアンはサクラローレルが越えようとしていた「最強」だ。それは目標であり、ある種の憧れでもあり――――その輝きを「憧れ」としないために、トレーナーは敢えてサクラローレルをダービーに挑ませるほどであった。憧れは理解から最も遠いとは、なるほど言い得て妙である……閑話休題。
そして、そのナリタブライアン。彼女の陣営は阪神大賞典での怪我が見つかったと発表し、春期のレース出走予定を全て撤回している。
「でも、これは僕らにはどうしようもないことですからね」
あくまで割り切った顔で言うトレーナー。
彼の言うとおり、レース中の怪我は「どうしようもない」。
速さを極めるウマ娘は、その脚が速くなればなるほどに、脚への負荷が高まっていく。速さを求めることは脚を酷使することであり、怪我とはどうやっても切り離せない。
もちろん、そのために競走保険は存在する。今回もナリタブライアンの治療費は問題なく支払われるだろうし、怪我の程度を考えれば復帰も容易――――実際、既にファンは秋シーズンの復活を心待ちにしている――――ではあると思われる。
それでも。
今回の怪我で、ナリタブライアンを
「それよりも、今は天皇賞です」
そう言うトレーナー。その言葉にいつもの力強さは感じられない。
当然のことだ。なにせ目指していたはずの最強が、いともあっさり、目の前から消えてしまったのだから。
「トレーナーさん」
目の前の彼がなにを考えているのかは分かる。つとめて冷静を装おうとしているのだ。もしも自分までが狼狽してしまっては、それを必死に押し隠しているであろうサクラローレルも自分を取り繕えなくなってしまうから。
けれど、それではダメなのだ。もう2人とも狼狽しきってしまっている。このままでは、天皇賞・春を勝つか負けるかなんて話ではない。
「こんな時だからこそ、夢を見失ってはいけません」
「……!」
分かっている。彼だって分かっているのだ。だから図星を突かれて悔しい顔をする。
サクラローレルの大目標は凱旋門賞を勝つこと。そのために、日本で「最強」を越える必要がある……でも、本当は。最強を越えなくても、最強にならなくてもいい。
日本での最強と、世界での最強は、違う。
日本人はもちろん、日本最強が世界を制覇することを望むだろうが――――そんなもの、外野の勝手な意見じゃないか。自分たちが世界最強の目撃者になりたいという、勝手な願望じゃないか。
「サクラローレルさんは、もう立派な重賞ウマ娘です。彼女が凱旋門賞に挑みたいと言って、登録料を払いさえすれば……彼女を止めるものは、どこにもありません」
それは彼だって知っているはずだ。それでも言い出せない。
なぜならそれは、背を向けることになるから。挑むべき最強から目を逸らして、本来の夢に向かう……正しいことのハズなのに、間違っていないことのハズなのに。どうしてか、そこには後ろめたさが残る。
なにせ、ナリタブライアンは言ったのだ。
『だが、私はまだお前達と競っていない』
ゆえに、その「最強」に意味はあるのか――――――これは、最強をどう定義するかという話。
「向き合って下さい。最強になるという目標と、凱旋門賞という夢。どちらが大切なのか」
「……僕は」
ローレルの夢を。そう言いかけて、彼は言葉を止めてしまう。
もう彼はローレルの夢を叶えるための存在ではない。一緒に夢を見る存在として、同じ夢を見ていたい……だから、2人は距離をおいてしまう。
ナリタブライアンを越える。
凱旋門賞に挑戦する。
どちらも憧れで、目標で、越えるべき壁。
だけれど今はもう、どちらかしか選べない。ナリタブライアンを越えるには秋を待たねばならず、秋を待っていては凱旋門賞に間に合わない。凱旋門賞に挑んでしまえば、ナリタブライアンとの再戦は叶わなくなるかもしれない。
ひとつしか、夢を選べないとして。どちらかを選ばないといけないのなら。
もしも、自分の選ぶ夢が――――相手のソレと違っていたら?
「それでも、僕は。『頑張れ』っていいますよ」
一緒に夢を見られなくても――――――もはや彼の目に、迷いはない。
「なら、聞きに行きましょう。今から」
「あっ、トレーナーさん!」
フランス語講座をやっていたハズのサクラローレルの姿は、どうしたことかトレーニングコースにあった。模擬レースでもしたのだろうか、春先の日差しに負けない蜃気楼を生み出すような、激しい熱気を纏いながらトレーナーのもとへと駆け寄ってくる。
「走っていたのかい?」
「ええ! ロンシャンの芝2400メートルで!」
どうやらフランス語講座をしているウチに、講座の参加メンバーで模擬レースをするということになったらしい。
肉体言語的コミュニケーションは直接的で簡潔だ。そういうこともあるのだろう……それがフランス語の習得に繋がるかは、ともかくとして。
「君は、やっぱり……」
「? どうかしたんですか?」
「凱旋門賞への登録をするかどうか、それを協議するべき時がやって来ました」
「ナリタブライアンさんの故障によって、既に当初のプランは破綻しました。とはいえ、天皇賞・春か宝塚記念のどちらかを勝てば『格』としては十二分でしょう……よしんば勝てなくとも、入着レベルの成果を残せていれば十分です」
そしてその頃には、凱旋門賞への予備登録が始まる。
「天皇賞に挑む前に、結論を出して頂きたいのです」
あなたの夢は、ナリタブライアンを越えることですか?
「ふふっ」
サクラローレルは、笑った。トレーニングコース沿いに植えられた桜の木のように、たくさんの小さな微笑みを貼り付けて。
「ブライアンちゃんはあくまで通過点。私の夢は――――」
――――凱旋門賞。美しい芸術の都。清らかなセーヌ川のほとり。
「ローレル」
その言葉を、トレーナーが遮る。
「僕は、君が『最強』だと思ってる」
誰がなんと言おうと。君より立派な戦績をもったウマ娘がいようと。
「僕にとっての最強は、サクラローレルだ」
「……トレーナーさん」
はい、知っていますよ。もちろん。
微笑みの花弁を溢しながら、彼女は応える。
「でも!」
トレーナーの言葉が突風になる。その突風が、満開の桜を散らしていく。
「僕は悔しいんだ。君が最強であることを証明する機会が喪われてしまうのが」
「ええ、でも。だからこそ、私たちは凱旋門賞を勝って……」
「いま、君を見て思ったんだ。走りきった君の姿をみて」
サクラローレルが言葉を作る前に、トレーナーの言葉が吹き荒れる。
「君に最強になって欲しい。僕の知らない。世界の知らない、誰も知り得ない『最強』に」
「っ!」
花弁が散りきって、彼女の素顔が露わになる。
どうしようもない、本当の心根が。
「もう――――どうして、そんなに欲張りさんなんですか?」
「君がそうだからさ。いまの君を見て、ハッキリそう分かったんだ」
悔しい。越えられないのが悔しい。
自分の力でどうにもならないことで、その
やりきれないけれど、もう。どうしようもなくて。
「なんで、どうしてそんなこと……私、これでも」
「諦めちゃダメだ。夢を諦めて夢を叶えるなんて、そんなの違う! 本当は、君をダービーに出させた僕が言ってはならないことなのは分かっている。けれど君は、いま。また――――逃げようとしているから」
それなら僕は、君の手綱を握るよ。
「逃げちゃダメだ。悔しい気持ちから、逃げちゃダメなんだ」
「そんなの、だって。悔しいに決まってます。でも、だって、どうしようもないじゃないですか、だって、だって…………」
そこから先の言葉は続かなかった。トレーナーはサクラローレルを自然に抱き寄せて、まるで怪我人を介抱するかのようにして立ち去っていく。
まるで世界の目から、常識というヴェールから、彼女を守るようにして。
そして数日後。2人からの答えが届く。
「わたしたちは、選びません」
「だって、ブライアンちゃんが凱旋門賞までに復活するかもしれないし」
「復帰戦が海外遠征でダメな理由は、ありませんから」
「……あの、それは流石に……」
言いたいことは分かる。2人が悩んだ果てに、2人で出した結論なのも分かる。
問題なのは、凱旋門賞の登録料は非常に高額だということ。遠征費だって、もちろん選手2人分だけを出せばいいわけではない。
「その、大変申し訳ないのですが、それは予算が……」
「ええ。だから『調達』します!」
天皇賞と、宝塚記念で!
――――咲き誇れ、いま。