「こんにちは。そしてすみません。ここから先は部外者立ち入り禁止なんです」
東条トレーナーから指定された集合場所への道は、風紀委員によって封鎖されていた。
コンサルは鞄から一枚の紙きれを取り出す。
「ともしび競走保険コンサルタントです。生徒会執行部の許可証があります」
「確認させて頂きます……はい、問題ありません。お気をつけて」
ヘルメットを被った風紀委員が簡易的なバーを持ち上げて、廊下の封鎖を解く。
検問を通ったコンサルに待ち受けているのは、どこにでもある旧校舎の空き教室。
「お待たせしました。ずいぶんと物々しい警備ですが……これは一体?」
疑問符だらけのコンサルを出迎えたのは、乱雑とした教室の中で肩を竦める東条トレーナー。彼女の座る椅子と机――――もちろん教室仕様である――――の周辺だけは辛うじて整理されているが、その周囲は物置もかくやと言わんばかりの様子である。
……いや、整理整頓がなっていないのではない。モノが多すぎるのだ。明らかに大学並の設備と思しき実験器具がずらりと並び、かと思えば謎の彫刻や天井から吊される多種多様なアート。科学とオカルト、まるで2つの世界が共存するかのような空間。
「おおっと、そこから先には踏み込まないでくれよぉ? ――――無事にこの部屋から帰りたいのならね」
「!」
すっと耳に届く声にコンサルは踏み出しかけていた足を引っ込める。暗い影の中から現れた白衣姿のウマミミ。眼は鈍くも鋭い光を放っている。
「やぁやぁ、よくぞ私の
そんな彼女に促されるままに座ったコンサル。目の前に置かれるのは300mlビーカーに注がれた紅茶。改めて東条トレーナーの手元を見てみれば、彼女の手にもビーカー入り紅茶。
なんだかトンデモない場所に来てしまったなとコンサルは思いつつ、ひとまず
「……これは、クレストフォ・カモミール*1」
「ご名答。カモミール・ティーには優れた鎮静作用があってね。緊張をほぐし、心身をリラックスさせる――――なかでも
まさに、理性と数字が支配する世界で語らうのに必須の飲料とは思わないかねと彼女は言いながら、プロジェクターを起動する。
「さて。ようこそレース科学の極北へ、そして合理性の牙城へ……私はアグネスタキオン、ウマ娘の可能性を探求するにおいて、理論と実践を同時に行える最高の実験場であるトレセン学園に身を置く
「補足しておくと、附属病院の他にサイレンススズカのデータを見せているのは彼女よ。ウマ娘に対する熱意は本物だから、安心して」
「安心? そんな感情論はどうでもいいな。なにを言われようと、私は結果で証明するだけのことさ」
東条トレーナーとのやりとりから察するに、怪しい……が単なる不審ウマ娘というではないらしい。
もっとも、この部屋の場所と振るまいからして、このアグネスタキオンというウマ娘こそが学園上層部が退学させようとしているウマ娘であることはほとんど間違いなさそうだが――――それでも、既にコンサルの視線はプロジェクターの投影されるスクリーンへと注がれていた。
なにより大事なのは、とにもかくにもサイレンススズカの事故を防ぐことである。
「さて。私はサイレンススズカ君にひじょーに興味をもっている。つまり、彼女こそがウマ娘の限界を超え、可能性の果てを見せてくれるのではないかという興味だ」
そして今、彼女はその限界を超えつつあるとアグネスタキオン。
「先日のダービーにおいてサイレンススズカ君はもうひと段階
しれっと言い放たれた言葉は、レース関係者が聞けば仰天するもの。
なにせ既にサイレンススズカは脅威の大逃げウマ娘。ゲートが開いた瞬間からゴール板の前まで全力疾走で走りきるというのが大逃げなのだから、これがさらに加速するとしたらそれはトンデモないことである。
「……レース序盤からハナをとって他のウマ娘を寄せ付けず、最終直線でも加速することであらゆるウマ娘の末脚を凌駕する。理論上は最強の走りね」
唸る東条トレーナー。アグネスタキオンは我が意を得たりとハイライトのない眼を耀かせる。
「そうとも! しかしそれだけに代償も大きい。これを見たまえ」
そしてスクリーンに示されるのは、簡潔な結論。
つまり、さらなる加速によって異常な負荷がかかり、いずれはサイレンススズカの脚が耐えられなくなる未来である。
「正直なところ。どこまでこの問題を重大に捉えるべきかは私も迷っていてね?」
そして写される結論が切り替わる。
今度のシミュレーション結果が示すのは、サイレンススズカが無事に走りきった姿。
「外乱要素に大きく左右されるとはいえ、当てはめるモデルによって結果が大きく変わるというのが実情なんだ。同じように速度を出しても耐えられる結果も出るし、そもそもこの速度まで彼女が加速しうるのか? それだけの競走能力を持っているのであれば自然と筋骨が増強され、現状よりも強固な脚部となるのではないか? そういう仮定も成立しうるのだよ」
「つまり、よく分からないと?」
「まさか! 彼女が限界を、理論値を超えた場所に突き進んでいるのは明白じゃないか」
そして
「
それによって。彼女の走りを加速させるべきか、はたまた減速させるべきか変わってくるとは思わないかいと白衣のウマ娘は言う。
「ちなみに、私は静観が望ましいと思っているよ。彼女が見せてくれた可能性の果て、その片鱗……それを見逃すなんて、もっての他だとは思わないかい?」
「それは、馬喰の立場からでは賛同しかねますね」
静観――――その方針は事故のリスクを多分に含んでいる。競走保険は事故が起きないことで全員が理を得るシステムだ。事故が起きるくらいなら、究極このタイミングで引退させてしまってもいいくらいである。
なにせ既にG1を2勝、リスクをとっただけのリターンは既に得ているのだから。
「なぁに、さしもの私も今の発言に道徳心が足りないことは承知しているとも。とはいえ走るかどうかはスズカ君が決めることだ。私が口を挟むことじゃない」
「そうね。タキオンの言うとおり、走るかどうかはサイレンススズカとそのトレーナーが決めるべきことよ」
そして介入――――サイレンススズカの走りに警鐘を鳴らし彼女を止めることも、また難しい問題を孕んでいる。そもそも出走レースを決める権利は競走ウマ娘本人にあり、その出走レースは本人の意思を尊重したトレーナーが決めるべきことなのだ。
「では、彼女のトレーナーに情報共有の体で促すのは?」
「……コンサル君。私の研究を買ってくれるのは嬉しいがね、これ論文としては下の下だよ? そもそも私ですら結論を決めかねているのに、どうやったら余所のトレーナーが納得できる資料が作れるというんだい?」
本当に危険な出走であれば、トレーナーにはウマ娘が走ることを止める責任がある。
しかし危険な兆候があるというだけで、走りたいというウマ娘を止めるのは難しい。
「……となると、月並みな対応にはなりますが。負荷を全身に分散させるフォームの研究、負荷に耐えられる身体作り、そして負荷をかけにくいレースの選択についての助言を行うのが適当ですね」
「おいおいコンサル君。私の話を聞いてなかったのかいキミは? それともイチから説明しないとダメなのかい?」
大前提として、
「フォームを弄れば速度の低下を招く、身体作りは質量の増加を招く、そして負荷をかけないレースとは格下のレース。その選択は競走者としてあり得ないよ」
「しかし事故を起こしてしまっては元も子もありません。違いますか?」
少し語気が強くなるコンサル。それを見かねたのか東条トレーナーが口を挟む。
「申し訳ないけれど、私もタキオンの意見に同意よ。診察の結果は極めて良好、レース結果は上の上。今の時点でサイレンススズカに方針転換を迫るのは無理筋が過ぎるわ」
「…………そうですね。出過ぎたことを口にしました」
実際、現段階での問題は
「そう、私が言いたかったのはまさにソレだよ東条トレーナー君!」
ポンと手を叩くアグネスタキオン。それにと彼女は続ける。
「そもそも彼女が本当に限界を超えられるのか? そこにも疑義をおくべきと私は思うのだよ」
なにせ、生命には生まれながらに自己を保存するための本能が備わっているからね。
「いくらスズカ君が速くなったとて、自らの
「ではお聞きしますが、あなたがその立場だったらどうします?」
コンサルの問いかけに、アグネスタキオンの眼がくいと向けられる。
「言葉は明確に使ってくれたまえコンサル君。『その立場』とはなんだい?」
「つまり、スピードの限界を、あなたが探求しているものが目の前にあるとして、そこにあと少しで手が届くとして……あなたはそこで、最後の一歩を躊躇いますか?」
僅かに沈黙。アグネスタキオンは――――少し寂しげに肩を竦めた。
「
†
「けれど、あの子は止まらないでしょうね」
「そうですね」
アグネスタキオンの
彼らは「その立場」になった時に止まらなかったウマ娘を知っている。アグネスタキオンは知らないか、知っていてもそれを例外として除外するか――――除外できるくらいには、その前例は似通っていないのだから、それは仕方のないことだ。
「それで。これは相談というより、
「……止めておきなさいと言ったところで、あなたは止めないのでしょう?」
「もちろんです」
サイレンススズカは皐月賞とダービーを制した。
となれば、世論が彼女に求める次走は――――――ただひとつ。
「