「私には止められません、絶対に」
それは明確な拒絶であった。力強い視線で彼女は自分の担当トレーナーを睨む。
「そも、これは申し上げるまでもないことですが。あなたが他の担当契約に口を出す権利はないはずです」
「そうだな」
それは全くその通り。そんなことは百も承知。
「でも、それは正しいことをしない理由にはならない……と、思う」
つい言葉尻が弱くなってしまうのは、彼女の主張が建前としては正当であることを理解しているから。なにより常に正しくあろうとする彼女と真っ向から主張がぶつかることはトレーナーにとって――――いや、誰だって、間違えるのだ。
トレーナーは己を奮い立たせ、言葉を訂正する。
「いや、俺は正しいことがしたい。理由とか、そういうのよりも。大事なことを」
その言葉に、目の前の担当ウマ娘……ダイイチルビーの瞳がわずかに揺らぐのを認める。
「キミだって、ルビーだって。本当は止めたいんじゃないのか? ケイエスミラクルのこと」
ケイエスミラクル。今この瞬間も破滅への路をひた走る彼女は、ダイイチルビーの同室、ルームメイトだ。学園では珍しい高等部からの編入、中等部入学の叶わなかった病弱な身体……そして、それらを補って余りある、
トレーナーはその話をダイイチルビー経由で知っている。ケイエスミラクルのデビュー戦には貴重な時間を割いて現地まで赴くほど、ダイイチルビーがケイエスミラクルのことを気にかけていることも知っている。
「今のケイエスミラクルは、ハッキリ言って物凄く速い。だけれど、速いウマ娘が強いウマ娘を意味するわけではない……そのことは、知っているだろう?」
「トレーナーさん。その議論はミラクルさんのトレーナーさんとするべきことでは」
「分かっているのに論点をずらすのは止めてくれ。ルビー」
真っ向から担当ウマ娘と対峙するトレーナー。
今日まで、トレーナーは
まさか、こんな形で。彼女と対峙することになるとは。
「俺たちは止めるべきだ、ケイエスミラクルを」
「……」
トレーナーの言葉に、ダイイチルビーは瞑目。
それから瞼を開いた彼女は、それでも迷いを見せない。
「トレーナーさん。あなたは私がスプリンターズステークスに勝利することを望みますか?」
愚問である。トレーナーは契約した競走ウマ娘を勝利させることが存在意義だ。
「では、最大の対抗ウマ娘であるケイエスミラクルさんを回避させることが出来れば、私の勝利は確実なものとなるでしょうね」
「!!!」
その言葉に、トレーナーは息を飲む。飲み下すまでの時間は、あまりに長く感じられた。
有力候補となるウマ娘をレースに
そして当然、そのような勝利は――――――価値がないばかりか、競走ウマ娘の価値を致命的なまでに毀損する。
「ルビー、それは。ないよ」
そんなことを言われてしまったら。止められなくなってしまうではないか。
「そんなことをしてまで、走らせる意味があるとは思えない。あの子に」
「ですが。私は救われました」
貴方のおかげで、あなたがトリプル・ティアラを走らせてくれたおかげで。
「あの方から、走ることを……生きる意味を、奪わないでください」
†
流星の如き鮮烈なデビューを果たしたケイエスミラクルは、短距離レースに照準を絞って出走してきた。
それはもちろん、彼女への負荷を最小にするため。研ぎ澄まされたスピードを活かすには短距離レースが相応しいというもっともらしい理由で、彼女を担当したトレーナーは、高負荷のかかるレースを少しでも早く終えることが出来る短距離路線を選んだのだと、思う。
「あくまで予想だ。予想でしかない」
しかしそれは結果として、ケイエスミラクルの研ぎ澄まされた速さを、危うさを。さらに加速させることになってしまったのだと、思う。
「……なにせ、短距離路線の重賞は、今よりもずっと少なかったから」
一昔前のレースにおいて、強いウマ娘とは長距離を走れるウマ娘であった。
これはクラシック三冠路線で最長距離の菊花賞を勝つウマ娘が「もっとも強いウマ娘」と言われることからも分かるとおり。
そもそも、単なる神事であった駆けウマが通産省*1による興業許認可により
ゆえの短距離軽視。競走ウマ娘法には600メートル以上の競走を競走と定義しながら、短距離重賞は1000メートルからしか存在しない理由。
ゆえに、ケイエスミラクルは焦ったのではないだろうか。短距離レースしか走れないという現実に。
どうすれば輝けるのか、己の存在意義を果たせるのか。
「そして彼女の存在意義は、恩返し……いや、己の
その罪滅ぼしがどうやって達成されるのか、それは分からない。
ただ分かっているのは、ケイエスミラクルが身体を酷使して限界に挑戦し、その限界に追われるようにして短距離レースの連戦を繰り広げたという事実である。
速さを追い求めるように。己を罰するように。
「そして誰もが、それを肯定してしまった。いや、見ないフリをしてしまった」
なぜなら、それほどにその
そう、サイレンススズカによるスピード・バブルと同様に。
あの時にも確かに、スピード・バブルは存在したのだ。
「話をしよう。俺たちの話を」
「話すことなどございません」
あの時と同じ、拒絶の回答。
「全て終わったことです」
「ああ。そして、競走保険の義務化によって悲劇は起こらなくなったはずだった」
「そうです。明らかに危険と分かる出走は引受人の保険引き上げによって強制的に出走を回避させ……そして最悪の結果が起こった場合にも、
それで十分に、止まらないウマ娘の悲劇は回避できるハズだったのだ。
しかし現実は、異なる結果に向かおうとしている。
「誰もサイレンススズカを止める理由がない」
「
「
競走保険とは、究極的には部外者にレースからの回避を命じることを可能にする制度だ。そして部外者とは保険の引受人であり、引受人に損をさせないために立ち回る競走保険仲介人である。
だが、それでも限界はある。保険の関係者も単なる善意で保険事業をやっている訳ではないのである。そこにはリスクとリターンの、冷たい計算が存在する。
「俺たちは失敗したんだ」
「失敗などしていません」
じっと見つめ合う2人。
「ういういお嬢トレ。そりゃないっしょ?」
コンサルの背後、会議室の扉が開け放たれる。
入ってきたのはダイタクヘリオスだ。
「まだなんにも終わってねーのに失敗? んなわけあるかって! コンソメは今日までお嬢のために頑張ってきたっしょ? まだレースも始まってないのに諦めるとかあるわけ?」
「ヘリオスさん。そういう話では」
「そういう話をしてるんだっての。それにさ」
俺たち、ってのはおかしいじゃんねとヘリオス。
「お嬢を引退させたのはお嬢トレじゃん? んでお嬢が競走保険始めたじゃん? よーはこれ、お嬢に責任はないとウチは思うんだけど」
「いやそれは」
「つか!」
ヘリオスが
「お嬢がやるべきコトは引退じゃなかったとウチは思うわけ」
あのスプリンターズ・ステークスの後、ダイイチルビーはほとんど時間を置かずに引退した。同時に彼女のトレーナーも学園に辞表を提出。そして2人は「ともしび」を立ち上げることになる。
「別に、ウチに対しては塩でも構わんよ? だってウチとお嬢は違うって知ってるし。ウチはお嬢と走れてテンションアゲだったけど、お嬢は
けどさ、競走保険ってアプローチは間違ってるんじゃね?
「結局ウチら、走るしかないじゃん。ミラクルにも……」
「知った口をきかないで!」
ダイイチルビーが口を開く。
「あなたに、何が分かりますか。最初から十全に走ることが出来た、あなたに」
「お嬢こそ、なんも分かってない! ミラクルのこと知ってたんしょ? それなら、なんで止めなかったのさ!」
「走るしかなかったからですよ!」
私たちには、走ることしか出来なかった。
そして走ることでは、なにも止めることが出来なかった。
「だから、私
そう。他に手段はなかった。
あの日、虚ろな瞳で部屋にうずくまっていた彼女。ライブも見事にやりとげ、ファンを安心させ関係者を安堵させた彼女に、
そして、その選択肢のない行動が、今日の彼らを規定してしまった――――競走保険の限界点まで、走るしかなくなってしまった。
「もう、私のような思いはさせないと決めたのです」
終わったことはとりかえせない。
だからせめて、未来をよりよいものにしようと決めた。
それでも。
「それでも、未来を変えることはできますわ」
割り込んできた声。ダイイチルビーは嘆息。
彼女の視線の先には、メジロブライトとマチカネフクキタルがいた。
「今日は、やけに来客が多いのですね」
「……ごめん」
「なぜ謝るのです。
そして
「そうだね。そのために呼ばせてもらった」
卑怯なことをしていることは
そうやって、無理に虚勢を張って。俺たちはここまで来てしまった。
「ダイイチルビーさま。学園の先輩に対するこの無礼、どうかお許しください」
恭しく頭を下げるブライトに慌てて頭を下げるフクキタル。
頭をあげたブライトは、落ち着いた様子で
「今日は。お願いしたいことが、ふたつ、ございますの」
無言でブライトの言葉を待つルビー。
彼女は微笑むと、それから
「このお方を、止めてくださいませ」
「……えっ?」
驚いたのは勿論コンサルである。自分を止める? 止めるべきはサイレンススズカではないのか。
そもそも、今日はサイレンススズカを止めるために、止められない理由のひとつである
「いいえ! ワタシたちは今日、コンサルさんを止めるために来ました!」
フクキタルの放った想定外の言葉に困惑するコンサルに、そこまで驚くようなことでしょうかとブライトは続ける。
「半年以上も時間がありましたのに。止められなかったではありませんか」
つまり、それは正規の手段ではどうしようもなかったということでしょう。
ブライトの指摘はその通り。身体を壊すまで走ることを止めないウマ娘を止めるために作られた競走保険の制度では、
「そして、コンサルさまは。既にサイレンススズカさまの限界点を見定めているのではありませんか?」
「……そうですね」
ウマ娘の本格化については様々な議論がある。それでも業界で一致している見解は、本格化を迎え、成長が踊り場を迎えてからおおむね3年。本格化を迎えてからの成長は、3年間がピークであるという点だ。
であれば、サイレンススズカがいつ最も速くなるか、いつ最も壊れるリスクが高まるかの想定は容易だ。
「
そして
「東京芝2000m――――天皇賞秋」
「そのレースを、
「…………まさか」
それは馬喰の理念に反している。
しかしブライトは、そうでしょうかと微笑むだけ。
「コンサルさまは、それこそ
机の向こうからじっと見つめてくるダイイチルビーから
ブライトは、そうであれば良いのですがと言うだけだった。
「わたくしたちは、結局。最後の最後まで、走るしかないのですよ」
「……その件は分かりました」
彼が進めている如何なる根回しも差し止めておきましょうとダイイチルビー。
「それで、もうひとつのお願いとは?」
「はい。これは、ダイイチルビーさまの為にもなると信じてのお願いなのですが――――」
もう一度だけ、走っては頂けませんか?
次回。天皇賞秋。