それでも、彼等は非日常を生きる。 作:ありあんろっど
「ありゃ、やり過ぎたかな……?」
加速する時間の中、煙を巻き上げながら破壊された扉の向こうから声が聞こえる。アゲハは瞬時に着物の袂から白い折り紙を取り出し、紙飛行機として扉の方向と──ベランダに繋がる窓の方向へ撃ち出した。
「大雅君、ベランダから飛び降りて! 屋内の戦闘は私の得意分野じゃない!」
バリィン、と窓ガラスは砕け散り、アゲハは風が吹き荒ぶ割れた窓をくぐってベランダへ抜け出し──そのまま漆黒が支配する空へ飛び降りた。
「灰原っ!?」
突然の身投げに大雅は驚いたが、今日一日の稽古でシノビはこれくらいの高さから飛び降りようとも無事に着地出来ることを理解している。すぐさま頭を切り替え、同じようにベランダから飛び降りた。冷たい暴風が下から大雅の髪を無理矢理持ち上げ、視線の先にある地面が凄まじい速度で近付く。叩き付けられそうになる恐怖をぐっと堪え、両足と片手を使ってドンと着地し、逸る鼓動を押さえつけた。
「灰原、今のって……」
「敵襲。しかもインターホンが鳴るまで接近にも気付けなかった……! 間違いなく中忍レベルだよ」
目線はたった今飛び降りたベランダから離さず、真剣味を帯びた声で大雅の問いかけに答える。パラパラとガラス片や瓦礫が落ちながら、襲撃者は軽薄そうな笑みを浮かべてベランダに現れた。
「そんな逃げなくてもよくない? 取って食べようって訳じゃない……とはまあ言えないんだけどさ」
インターホン越しにも聞こえていた、気の抜けた女性の声。貼り付けたような笑顔に、サイズの合っていないブカブカのキャスケットから覗く傷みきった金色の髪は、如何にも「軽薄」という印象を与えている。
そしてそれと同時に──街中ですれ違えば何も違和感を抱かないような、「普通」の人間にすら見える出で立ち。今、加速している時間の中で彼女が瓦礫の中から出てきていなければ、或いはそれこそセールスと間違う可能性もゼロではなかったかもしれない。
「……大雅君、私達の勝利条件は逃げ切ること。マズいと思ったら無理せず逃げていいからね」
「逃げるったって、何処に?」
「隠れ家はここだけじゃない、他にもあるの。もしバラバラに逃げることになったら──今日高速機動の稽古をした公園で落ち合おうか。その後二人で新しい隠れ家に移動する」
「……何言ってんだよ、こういう時に灰原を守る為に高速戦闘の稽古つけてもらったんだぜ」
「まだ雷を自由に制御出来てない状態で中忍と戦うのは自殺行為だよ。相手が中忍なら奥義にも気をつけなきゃいけないし……足手まといになる」
足手まとい。その言葉を聞いた途端、大雅の中で少し引っ掛かりを感じた。彼女に頼まれた──或いは願われたその言葉は「私を助けて」というもの。非日常に足を踏み入れてしまった大雅を縛り、同時に支えた言葉。その言葉に報いる為に非日常でも生きようと、彼女を守ろうと決心したのに。
その彼女から告げられた足手まといという言葉は、今現在の赤城大雅という人間の存在価値を疑う言葉となる。
だが、同時に今日の稽古ではついにアゲハに一撃も入れられなかったという事実。恐らくアゲハの見立て通り、大雅はこの戦いに於いて足手まといとなるだろう。心のどこかで、大雅もそれは理解していた。
──握り拳を作ることしか、出来ない。
そして、それでも加速した時間は緩やかな思考と悔恨の葛藤を許さない。
「大雅君、来るよ!」
ベランダから飛び降りたキャスケットの女は着地の衝撃をものともせず、コツコツとつま先で地面を小突く。そして値踏みするような目で二人を眺めながら──
「いやぁ〜、アタシから吹っ掛けといてなんだけどさ? 優秀なボディーガードがいるようで……二対一なんて大変だと思わない? だからさぁ」
──コツコツと、つま先で地面を小突く音が二重に重なって聞こえた。
「だからさぁ、二人になってみることにしよっかな〜。なんちゃって」
ドン! という地面を蹴る音が二つ鳴ると共に、キャスケットの女は「二人」で大雅とアゲハに向かって勢い良く飛び出す。
「はっ……!? なん、二人!?」
「っ、影分身か……!」
「「当たり〜! どっちが本物だと思う〜!?」」
自らの分身を作り出し、相手を攪乱する忍法──流派にしてハグレモノのシノビがよく使う忍法、影分身。凡そ忍者が使う術と言われて常人が最も想像し易い忍法が、大雅の目の前で実際に行われた。精巧な造りものや、見た目が瓜二つのそっくりさんといった生半可なものではない。正に「本物が二人いる」としか形容出来ない完成度。そのあまりに現実離れした光景に、大雅は驚きで埋め尽くされ、思考も動きも止まってしまう。
二人のキャスケットの女はそれぞれ一人ずつ大雅とアゲハに向かっていき、何方も格闘戦の構えを取り始める。アゲハはすぐに対応すべく姿勢を低く取り、光の速度でやり取りされる格闘戦に備え──右足を大きく振り上げて向かってくる女の顔面に合わせて振り抜いた。
「あはっ、残念」
しかしその右足はキャスケットの女の肉体を捉えることなく空を切り、アゲハに向かっていた女の姿は朧となって消えていく。影分身は実体を持たない幻──アゲハに向かっていたのは本物では無かったことになる。
つまり、本物が狙っていたのは……
「──大雅君っ!」
影分身に驚き、対応が遅れた大雅は向かってくる女に対しての対応も当然遅れ、振りかぶられた拳に対して躱す、或いはカウンターを入れるという行為が間に合わない。すんでの所で我に返った大雅はその狙いが顔面にあることに気付き、両腕で顔を覆うようにガードした。振り抜かれた拳は大雅の腕を捉え──
「痛っつ……っ!?」
「ほらほら、甘いよ少年クンっ!」
──女の細腕から放たれた一撃とは思えない程に、その拳は重かった。大雅は足で踏ん張ることすら満足に出来ず、そのまま後ろに数メートル吹き飛ばされ地面を転がる。アスファルトと擦れた背中の痛み、まるで鋼鉄の振り子をぶつけられたように鈍く、感覚を失っている気すらするのに痛みと重みを感じる両腕。走ってもいないのに、痛みが呼吸を乱してしまう。斜歯忍軍のように機械化されていない腕だというのに、この破壊力。咄嗟に立ち上がった大雅は痺れを訴え続ける腕を誤魔化すように強く振りながら、内心に芽生えた恐怖も振り払った。
女が大雅を吹き飛ばした直後、アゲハが凄まじい速度と跳躍で上空から踵落としを叩き込む──が、紙一重でその一撃は避けられ、アゲハのブーツはアスファルトに亀裂を入れただけに留まった。すぐさま舞うように腕で身体を起こし、スカートを翻しながら連続蹴りを叩き込むも、軽薄な笑みを浮かべたまま女はその一撃一撃を腕でいなしていく。アゲハは両足を地面に着け、ならばと袂を踊らせながら拳を繰り出すもその動きすら見切られ、女は踊る袂を掴み、勢いよく引っ張ってアゲハの姿勢を崩し……脇腹に回し蹴りを叩き込んだ。
「あぐっ」
アゲハも一瞬前の大雅のように地面を転がる──が、転がりながら指を鳴らし、人差し指でキャスケットの女を指す。それをトリガーに先程大雅達が飛び降りたベランダから夜風を斬り裂く速度で紙飛行機が三機飛来し、一直線に指さした女に向かって突撃した。が、女はそれすらもひらりと飛び上がり躱してみせる。紙飛行機達はアスファルトに深く突き刺さるだけで終わってしまった。
「あははっ、全く──良いボディーガードだねぇ」
「舐めんなっ……!!」
息一つ切らさず着地し、へらへらと笑う女。そんな彼女に向かって大雅は全力で走り出していた。腕の痛みは勿論残っているし、さっきの一撃だけでもう相手が格上だと解っているが……それでも、大雅はアゲハを守ると約束しているのだ。
女は大雅が攻撃体勢に入る直前にコツコツ、と地面を小突き──今度は三人に分身してみせる。
「「「さあ、どれが本物だと思う?」」」
全く同じ声、全く同じ速さ、全く同じトーン。同時再生される同じ音が三方向からシンクロするように聴覚を刺激し、脳が理解を拒もうとする。どれを狙えばいいのかわからない──それでも、選ばなくてはいけない。
大雅はブレーキをかけ、一瞬動きを止めて姿勢を低く保つ。バスケで相手と対峙する時、ゲームメイクを行う時。必ずこの姿勢で、状況を観察し、自分はどの選択肢を選んでもすぐに動けるようにしておくのだ。
加速していく思考、限りなく止まっているに等しい時間の世界。神経は、情報は、脳の働きは同じように速度を上げ、熱を帯びながらも大雅の全身はこの世界に対応していく。
──別方向から迫り来る三つの敵。このまま自分が攻撃体勢に入らなければ、三方向から攻撃を加えられ、どの攻撃が本物なのか、誰からの攻撃に対応するのが正解かを判断させられる分の悪い賭けを強いられる。かといって今三つの影のどれかに攻撃を仕掛けたとしても、三分の一を当てることが出来なければ攻撃後の無防備な状態にカウンターを当てられ、大ダメージを受けることは必至だろう。バスケの試合に当て嵌めるなら今は一人で三人いるディフェンスを相手に「どこから抜くのが正解か」と悩んでいるようなものだ。そんな無理筋、通るわけがない。なら今取る対応で一番可能性が高いのは間違いなく──パスを受けたりスクリーンをかけてくれる味方を待つことだろう。
「飛べ!」
「!?」
転がったアゲハの叫び声と同時に、先程アスファルトに突き刺さった紙飛行機が急浮上し──キャスケットの女の分身を二体突き刺し、朧の彼方へと消し去った。残った姿は一つ……それが本体だ。
大雅は地面を深く踏み込み、残った本体に向かって拳を振りかぶり──そのまま一気に振り抜く。女は両腕でその一撃をしっかりと受け止めるも、その勢いは凄まじく一歩後ずさる。攻め時と見た大雅は更に踏み込み蹴りを叩き込むも、その一撃は完璧に受け止められ、返しの拳が届く前に距離を取った。
「へぇ……中々冷静な判断じゃん。やっぱ二対一はしんどいねえ? 影分身以外も出し惜しみしてたらアタシが負けちゃうか」
言葉とは裏腹に、余裕そうな表情でケラケラと笑う女。しかし大雅と──立ち上がりながら埃を払うアゲハに対する警戒は一切解かず、近付いてこようものなら対応するぞと言わんばかりの雰囲気を纏っている。大雅もアゲハも迂闊には近づけず、呼吸を整えながら次の動くタイミングを見計らっていた──仕切り直しだ。
アゲハは先程のやり取りで受けた脇腹の調子を確認しつつ、ゆっくりと警戒しながら距離を取る。恐らく骨は折れていないだろうが、蹴りには相当な重さが乗っていた。影分身を多様している以上、流派はハグレモノで間違いないだろうが、格闘戦、特に蹴り技を得意としているアゲハよりも格闘術に長けているように感じる。接近戦を仕掛けるのは不利だと判断し、アゲハのもう一つの大きな武器──折り紙を使った遠距離戦で攻める判断を取った。
パタパタと独りでに折り畳まれ、命を吹き込まれていく真っ白な折り紙達。手裏剣、蛙、蝶……それらは形が完成すると同時に、一心不乱にキャスケットの女に向かっていく。
「攻め方を変えてきたねぇ、面白いねぇ! でもさっきから気になってたけど──これ、式神じゃないでしょ」
一直線に飛んでくる手裏剣、弧を描くように舞いながら変則的に狙う蝶、地を這いながら突如跳び跳ねて一撃を狙う蛙。違う攻撃パターンを織り交ぜても、キャスケットの女はそれら全てをひらひらと躱していく。
「式神にしては動きのパターンが少ないんだよね。折った動物やモノの種類が多いから色んな動きをしてるように見えるけど──式神ならもっと複雑に攻められるはずでしょ。大方言霊術を使ったり、自分の血を媒介に命令を与えてるだけなんじゃない?」
「っ──!?」
「あ、その反応アタリっぽいね。じゃあこの折り紙にクリーンヒットを貰う訳にはいかないなぁ〜……これ、裏真言の応用でしょ」
「っ、そこまでっ……」
そこまで見抜いていたのか。
アゲハが詰まった言葉の続きは間違いなくそうだった。
言葉に呪いを乗せ、相手の忍法を封じた上でダメージを与える忍法、裏真言。アゲハはその呪いの言葉を自らの血で紙に描き、その血を媒介として呪いを与える折り紙を作り出していた。折り紙が独りでに動いていたのはその度にアゲハが操作していた訳ではなく、事前に与えた呪いの言霊が、決まった命令を紙に下しているだけである。上手く命中させることが出来れば物理的なダメージだけでなく、言霊の呪いで相手の動きも制限させられる強力な戦法だが、式神使いと違って複雑な動きはさせられない。その代わりに折り紙の物量で相手を攻め立てているのだが──キャスケットの女の身のこなしは一般的なシノビのそれを超えており、驚くほどの体捌きで折り紙を捌き続けていた。
「ほら、熱くなっちゃダメだって〜。折り紙の動きが直線的になってんじゃない?」
けらけらと笑いながら折り紙の手裏剣を指二本で掴んでみせ、折り紙達の包囲網を抜けてアゲハに再度接近を試みるキャスケットの女──それを遮るかのように、全速力で駆ける大雅がアゲハと女の間に割り込む。
「俺より灰原を優先するのは読んでるんだよっ……!」
「あはっ、やるじゃん! でもね、アタシも君が割り込むのを読んでたんだよ」
──刹那、大雅の脇腹に凄まじい「熱」が走った。肉を抉り、真っ黒に焦がさんとするような、暴力的で、圧倒的な質量を持った熱の塊。それは放たれたものではなく、まるで大雅がそこに来ることを見越して既に設置されていた地雷のように……ただ其処にあり、何も知らずにやってきた生物に業火の罰を与える罠のように。
「っ──!?!?」
突然の、皮膚を焼き尽くすような痛みと衝撃に大雅は声にならない声をあげ、顔を歪めながら膝をつく──おかしい。何を食らってこんな痛みと熱さを受けたのか、大雅には何も理解が出来なかった。
「っ、鬼灯……!」
「正解〜!」
アゲハは突如地に頭を着けた大雅を見て、すぐに業火の罠の正体を確信した。ハグレモノの一部が使用する忍法、鬼灯。空間を指定して炎の罠を設置し、触れた相手にダメージを与える忍法だ。火を扱う術にある程度の知識があれば罠を見極めることも出来るが、大雅にその知識はまだ備わっていない。彼からすれば、「無から現れた突然の煉獄」と言ってもいいだろう。
蹲った大雅を踏み台にしてキャスケットの女は飛び上がり、アゲハと一気に距離を詰める。先程と同じ格闘戦の繰り返し。アゲハは既に彼女が格闘に於いてかなりの自信を持っていることを知っている。まともに応戦しても分が悪いことは先の打ち合いで理解していた為、自分から攻めることはせず、受けに回りながら隙を伺って死角からの折り紙で仕留めるプランに切り替えた。
振り抜かれた拳は首を振って躱し、追撃で放たれた回し蹴りはバックステップで空を切らせる。そしてキャスケットの女が両足で着地した瞬間の一瞬の隙に最小のモーションで蹴りを叩き込もうと右足を上げ──
「あ、その選択はミスだよ」
「なっ……!?」
──上げた右足に鋭い痛みが走る。思わず体勢を崩して手を地につける。「それ」は針で上げた足を貫かれた痛みだと理解出来たのは、太腿に開いた穴から赤黒い血がドクドクと流れているのを見た瞬間だった。
口内等の身体の何処かに忍ばせた針を飛ばし、不意の迎撃として使用するハグレモノの忍法、含身。キャスケットの女は回し蹴りを放った時点でアゲハからの反撃を予測しており、すぐに迎撃用の針を飛ばせるよう準備をしていたのだ。超至近距離でカウンター気味に放たれた針にアゲハは知覚すら出来ず、結果として右足の肉を穿つ結果を呼び寄せた。
「ぁうっ……ぐぅぅっ……!」
身体に穴が開く──それはいくら非日常の世界に生きるシノビであったとしても想像を超える痛みを伴い、アゲハの顔は苦痛に歪む。全身がスっと冷えていき、対して右足だけは熱した石を押し付けられたように熱い。加速していく時間に逆らうかのように、血の流れがスローにすら思える。明確に、今血液が身体の何処を通って穴から流れ出ているのかが解ってしまう。
それでも、アゲハは左足と両手を使って立ち上がり、まだ戦意を失っていないと言わんばかりにキャスケットの女を睨みつけた。
「……へぇ、凄いじゃん。中忍レベルはあるってわけだ」
「舐めんな……っ!」
キャスケットの女はまだ立ち上がったアゲハに一瞬驚いたが、それしきで動きを止めることはなく、コンクリートを蹴って爆発的な推進力のままにふらつくアゲハに接近する。そして鞭のようにしなった足を勢いよく振り抜き──アゲハの脇腹に深々と突き刺さった女の足は、そこで止まることもなくアゲハを思い切り吹き飛ばした。アゲハはコンクリートに何度も身体をぶつけながら転がり、白い着物は至る所が裂け、赤い染みや埃で埋め尽くされる。流石にもう立ち上がるだけの力も残っていないのか、アゲハは鳩の死骸のような格好のまま動かなくなった。
「どっちにしてもこれで脱落じゃんね。手の内ほぼ見せたのは予定外だったけど……まいっか。さて」
キャスケットの女は振り抜いた後の足をプラプラと振りながら、変わらず軽そうな笑顔で振り返る。
「──やっぱり鬼灯一発だけじゃ戦意も意識も消えないか、残念」
彼女の視線の先には、両腕が紫色に変色する程の火傷を負いながらも立ち上がり、今にも爆発しそうな怒りを表情に乗せた大雅がそこにいた。
「……テメェ、マジでふざけんなよ」
「忍務だからねぇ。これでお金を貰うわけだし、ふざけてはないんだなこれが」
「知るかよ──ぶっ殺してやる」
大雅は自分の身体がどんどん熱くなっているのを感じていた。間違いなく、自分の力である雷が迸る前触れだ。だが、今はその雷を拒絶しようという気持ちは一切無かった。寧ろ歓迎すらしたかった。目の前にいる女を倒せるなら、自分に降りかかる痛みなどどうだっていい──なんなら、今の自分なら雷を完璧に制御出来る気すらする。
パチパチ、と大雅の周りの空気が音を立て始める。夜の路地に、常闇の空間に、青白い小さな輝きが幾重にも重なり、大雅を覆い始める。怖くて仕方が無かったその前兆が心地好くすら感じる。人を傷付けることに怯えていたはずなのに、この力を使って目の前の人間を──シノビを再起不能にしてやりたいとすら思っている。
──大雅が真に苛立っているのは彼女に対してではないのだろう。大雅が最も怒りを覚えているのは自分自身だ。
非日常に足を踏み入れてから、ずっとアゲハは大雅のことを守ってくれた。手を差し伸べ続けてくれた。
助けて欲しいと言われ、何も解らないなりに彼女を守りたい、守らなければならないと思っていた。だが、今この状況はどう考えたって「守っている」と言えるはずがない。
助けられない自分の弱さが、無力さが、心の底から憎かった。
持っているはずの力を制御も発現も出来ずに燻らせてどうする。
暗闇を照らすはずの閃光を、迸らせることも出来ずに突っ立っていてどうする。
道を切り開くはずの稲妻を、何処にも突き立てなくてどうする。
もう恐れは無かった──大雅の全身を、目が眩む程の青白い雷光が、決意が覆い尽くす。
耳を裂く轟音、目を灼くフラッシュ、コンクリートを砕く衝撃。それら全てが大雅の力となり、全身に纏う雷の鎧として己の武器となる。
戦の世に産み出され、現代にそれを扱う忍びは失せたとされる古の忍法──鳴神。自らの全ての攻撃に雷を纏わせ、触れた相手を感電させる攻防一体の術である。
キャスケットの女はにやついた笑みこそ消えることは無かったが、帯電する大雅を見て明らかに警戒度を上げる。右足を半歩後ろにずらし、自分から攻めにいこうとする姿勢を潜めた。
「出たねぇ、古流忍法が。勘弁してほしいよ全く」
加速していく時間の中で、大雅は自分でも驚く程に冷静でいられた。最高速度で接近し、ありったけの力と雷でキャスケットの女に地の味を知らしめてやりたいが、感情のままに動けば自分の身体が速度に耐え切れず、逆に大きな隙を晒してしまうこと──即ち逆凪を引き起こすことは理解していた。あくまでも冷静に、一秒を限りなく延ばしているこの光のように速い世界で、自分の身体を完璧に理解して動かす努力を。雷すら纏い支配している今の自分なら、それは不可能では無いはず。相手は明らかに警戒している。攻めるなら──今しかないだろう。
足の筋肉が膨張し、バチッという音と共に纏った雷がコンクリートを焦がす。同時に大雅は一歩目を踏み出し、二歩目に入った時点でトップスピードに乗り、雷光を置き去りにしながら女へ一直線に向かっていった。光が遅れる程の速度にキャスケットの女も反応し、目眩しと言わんばかりに分身の術で自らの姿を三つに増やす。その三人全てが手に針を構えており、当たりを引かれなければ攻撃の隙に針を撃ち込む心算なのだろう。
「──舐めんなっ!!」
大雅はキャスケットの女が三人に分身したのを確認した瞬間、右足で強くコンクリートを踏み抜き、それを支点に左足を全力で振り抜いた。一瞬遅れてその左足を追うように、雷の鞭が空気を焼き切りながら轟音を鳴らして通り過ぎる。そのリーチは大雅の足より遥かに長く、キャスケットの女の分身は雷に引き裂かれ──本体は全身を地に着けるほど姿勢を低くしてその雷の鞭を躱すことしか出来なかった。
「まじィ!?」
思わず驚きの声をあげるキャスケットの女。触れた時点で感電しダメージを受ける鳴神。攻撃を受け止めることは許されず、躱し続けなければいけないというプレッシャー。だというのに、鳴神で纏わせた雷は大雅の身体から大きく離れても破壊力は変わらないらしい。攻防一体どころでは無い、攻撃に関しては圧倒的な忍法。キャスケットの女が今日初めて真剣な表情となった。
女はすぐに地に着いた手の勢いも使って後ろへ跳び、迎撃と言わんばかりに手に持っていた針を三本、一気に大雅に向かって撃ち出す。当然光すら捉える程の高速で放たれた針の威力は凄まじく、焼け焦げた空気を穿ち一直線に大雅へと放たれる──が、大雅はそれを躱そうともせず、纏った雷がまるで大雅を護るかのように針を撃ち落とし、バチバチという音を立てながら青白い輝きを天に放った。雷に撃ち落とされた針はカランカランと情けない音を鳴らしながら地に落ちる。
「ステゴロしたら拳当てても感電してアタシにダメージ通るってのに……針も通らないってなると相性悪すぎじゃん……!? 詰んだか?」
「ごちゃごちゃうるせえな……!」
再度トップスピードで迫り来る大雅に対し、キャスケットの女は対抗策を持たない。繰り出される拳、蹴り、そして遅れてやってくる雷の刃、鞭、弾丸。それら全てを掠ることも受け止めることも許されず、首を振り、身体を捻り、足を止めずに躱し続けるしか出来ないキャスケットの女。鳴神自体は一度に帯電していられる時間に限りはある。放電し切ってしまえば、再度鳴神を発動するまでにはクールタイムもあるだろう。キャスケットの女はそれまで耐え続ける必要があった。
──だが、恐らくそこまで耐え続けることは不可能であろうことも、キャスケットの女は薄々理解していた。
度重なる影分身、そして鬼灯、含身。大雅だけでなく、アゲハとも戦い、様々な忍法を使い、そして相手の攻撃も幾らか食らいながらの今に至る。コンディションは当然万全とは言えず、寧ろスタミナ切れが近いことは自分の身体が一番よくわかっていた。対して大雅はアゲハが倒され怒りが頂点に達しており、ハイになっている状態である。どちらが有利かは……残念ながら明確に大雅に利があるだろう。
──そして均衡が崩れる瞬間は唐突に訪れる。選択を誤った訳では無い。読み間違えた訳でもない。ただ、大雅の拳が迫り来ることも、後ろに跳べば躱せることも……そして、自分の足が思った以上に反応しないことも、全てが加速していく時間の中で完璧に思考として組み上がっていた。
わかっているのに、躱す術が無い。加速していく世界に取り残されたかのように、自分の身体が動かない。或いはそれが逆凪──恐らくは、この時間の中で自分だけが止まっているんだろう。
「うおおおあああああっ!!!」
大雅の右拳がキャスケットの女の鳩尾を捉え、沈み込むように青白く輝く腕が突き刺さっていく。そのまま勢いを殺さず振り抜かれた拳はキャスケットの女を吹き飛ばし──十数メートルをノーバウンドで吹き飛び、全身を灼く雷の衝撃と共に地面に転がり、焼け焦げたコンクリートと共に黒煙を吐くことしか出来なくなっていた。
やがて時間はゆっくりと元の速さに戻っていき、大雅が纏っていた閃光も空気中に霧散していく。荒くなった息を吐きながらキャスケットの女を睨み続け──彼女がゆっくりと立ち上がるのを見て、再度拳を握り締めた。
「痛ったぁ……! や、ギブギブ! 逃げさせてよ。君だってその方が都合がいいと思うんだけどね……」
「ふざけんな!」
「ふざけてないって、ほら……そっちの方がヤバいと思うけど?」
キャスケットの女は鳩尾をおさえながら大雅の後ろを指さす。指さした方向にいるのは──元の速さに戻った時間の中で、浅い呼吸を必死に繰り返し、開いてしまった穴から未だに血を流し続けているアゲハだった。呼吸をしている以上、生きていることは間違いないが、身体に穴を開けてドクドクと血を流し続けている姿は、明らかに無事ではないしすぐに死んでしまうかもしれない。キャスケットの女が言う通り、今ここで第二ラウンドを始めるよりも優先したいことが大雅にはあった。
「っ、灰原!」
大雅はキャスケットの女から目を離し、すぐさまアゲハの元へ駆け寄る。女がその隙に逃げていくことはもうどうでもよかった。それよりも、灰原アゲハという今の自分にとって最も大切な彼女を、どうすれば生かし続けられるのか。自分の存在証明を、非日常の中で生きていく意味を、どう保ち続けるのかを考えることだけで精一杯なのだから。
──真夜中の路地に、焦げた空の匂いと血の臭いが日常を上書きしていく。