それでも、彼等は非日常を生きる。 作:ありあんろっど
「おい、灰原っ! しっかりしろ、クソッ!」
宵闇の路地に射す光はあまりにも淡く、アゲハの右足に穿たれた穴から流れ出る血液に光が当たることは無くドス黒い液体にすら見える。浅い呼吸で上下する胸は生命活動を続けている証拠だが、それと同時に異常を知らせるアラートの証左でもある。
今まで生きてきた日常の世界では起こり得なかった事態。何をどうすればいいのかすら解らない大雅は、跪いてアゲハの意識の確認しかすることが出来なかった。
無力、焦燥。どんどん速くなっていく自分の心臓の音に苛つきを隠せない。
護る約束をしたはずなのに、目の前で赤黒い血を流して身体に穴を作ってしまっている。
同じように真夜中の路地で、叫び出したくなるような孤独と雷の痛みを感じていた時、その手を差し伸べてくれた。
だというのに、今自分は助けてくれた彼女が同じ状況になったとして、どうしていいか解らず声をかけることしか出来ないのだ。
大雅は今にも叫びたかったが、最後の理性がそれを抑えつけていた。今叫び出したいのは大雅では無い。間違いなくアゲハの方なのだ。
「たいが、くん……?」
「っ!? 灰原っ! おい、大丈夫かよ!? そのっ……ああクソ、死ぬな! 大丈夫だからっ、なんとかするから……!」
「へへ……ありがとね、でもだーいじょうぶ、大丈夫……大雅君は信じられないかもだけど、シノビはこれくらいの怪我じゃ死なないからさ……」
浅い呼吸のまま、うっすらを目を開けたまま、血を流した穴はぽっかりと開いたまま。それでもアゲハは声を絞り出し、尚大雅を心配させまいと優しく強く振る舞った。声は震え、途切れ途切れに呼吸が挟まり、明らかに彼女の言うとおり大丈夫では無いことは大雅の目から見ても明らかではあったが、それでも今意識があり、そして話すことが出来たということは大雅の心をほんの少しだけ落ち着けることは出来た。
「あはは……とはいえ流石に痛いし歩けないや……ごめんね大雅君。もう一つの隠れ家まで……私を背負っていってくれないかな……? 道は、大丈夫だから。私の式紙が先導するからさ……」
「背負うくらい幾らでもやってやるよ、早く隠れ家に戻ってその傷なんとかしねえとだろ!」
「ほんとに大丈夫……ちゃんと寝たら塞がるからさ……」
「塞がる訳ねえだろこんなの! いいから肩に掴まれよ!」
「うん……よろしくね」
震える手で放り投げた小さな折り紙は、アゲハの血をべっとりとその身に受けて赤い斑模様を描きながら紙飛行機の形へ折り畳まれ、ゆっくりとひとりでに飛び始めた。大雅は背中にアゲハを抱えながらその紙飛行機に着いていき、虫の声すら届かない真夜中の路地を震える足で踏み進める。
結局自分では何も出来ず、目的地までの案内すらアゲハに任せてしまっている。
背中にのしかかる重みが、人の命そのものだと言わんばかりに主張する。それを意識した途端に視界は歪み、全身をじっとりとした汗が覆う。
ああ、斯くも命とはこんなにも重く、そして一人の男が背負えるくらいには軽いのか。日常の中で生きてきた大雅にとってその質感は途轍もなく無常に思え、同時に何かの拍子に背中から聞こえるアゲハの呼吸がピタリと止んでしまうのではないかという、根拠もない不安感を煽るものだった。
「ねえ……なんで大雅君が泣いてるのさ……」
「うるせえ……! 喋んな、絶対助けてやるから……!」
アゲハを支える両手は汗で湿り、紙飛行機を追い続ける瞳からは大粒の涙が零れる。言葉とは裏腹に全く説得力のない様子は、大雅自身が一番自覚していた。宵闇に溶けたようなアスファルトに涙が落ちる。跡を残すように地面に染みて更なる黒を産んでいるのだろうが、光が当たらなければその証拠すら見えることは無い。
自らの力を制御出来ず、徒に雷光を迸らせていたあの日の夜は、或いは汗も涙も吸っていった濃い黒のアスファルトも見えていたかもしれない。誰かに見つけて欲しかった痛み、涙。今は誰にも見つからず、一刻も早くアゲハを安心させたかった。
「ふふっ……大丈夫だよ、ホントにシノビはこれくらいじゃ死なないったら……でも、ありがとね」
痛みで頭はぼやけ、視界も朧げではあるが、今自分を背負って、涙でぐしゃぐしゃになりながら、鼻をすすりながら、恐らく本当にこのまま自分が死んでしまうのではないかという恐怖と戦いながら──最も怯えているのは自分だと理解しながら、それでも元気づけようと、それでも安心させようと、必死に戦っている大雅の姿は、その震える後頭部は、心の底から頼りなく見えたが──それでも、アゲハを安心させ、穿たれた足の痛みから少し解放されている気がした。
つい先日まで日常の世界で暮らし、当然命のやり取りなどしたこともなかったただの高校生が、中忍相当のシノビと戦って生きていただけでも奇跡なのだ。身近に感じたリアルな死の気配、今まで受けたことのない痛み、一瞬の判断を迷えば致命傷が待っている緊張感。それら全てを受けて尚、それでも約束をしたからとアゲハを守ろうとする少年の姿が、アゲハにとっては心の底から愛おしかった。
「……ごめん、やっぱちょっと痛いや。紙飛行機はそのまま飛ぶからさ、休むためにちょっと寝てもいいかな」
「わざわざ確認取らなくてもいいから。頼むから喋って余計な体力使うな、寝ろ。俺がちゃんと守るから、俺がちゃんと隠れ家まで連れてってやるから」
「うん、ありがとね……ありがとうね」
「わかってるって……ちゃんと起きてくれよ」
全ての体重を、彼に預けたくなった。
頼りない背中だけど、やっぱり声は震えているけど。
それでも、大雅になら今は全て託してしまいたくなってしまった。
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紙飛行機が導いたのは、途中で放棄されたマンションの建設現場だった。剥き出しの鉄骨の骨組みを通る風、バタバタと音を立ててはためく防護シート。恐らく本来は駐車場になるはずだったであろう地下へ降りると、その一角を仕切るように大きなテントが張られており、紙飛行機はそのテントの前で役目を終えたかのようにゆっくりと着陸した。
「灰原、着いたぜ」
テントの中は大雅の想像以上に広く、布団にランタン、机の上には折り紙とポットが用意されていた。ある程度の物なら収納できそうな棚に、座り心地の良さそうな椅子まで置かれており、完全にここで生活が出来そうな、正に隠れ家だ。
大雅は布団にゆっくりとアゲハを下ろし、少し不安そうな表情で首筋に手を当てた。微弱だが一定のペースで感じる脈動。生きていることが確認でき、大雅は緊張をほんの少しだけ解いた。
「……大雅君?」
「起きたか、灰原。隠れ家に到着したぜ」
「うん、ありがと……棚の二番目のとこに救急箱があるんだ、包帯を取って巻いてくれる?」
「わかった、待ってろ」
目を覚ましたアゲハの声色は少し落ち着いていた。当然ながら未だ大きく開けられた右足の穴はそのままであり、血は流れているのだが、それでも先程と比べたら落ち着いているように見えた。無論、普通の人間なら既に失血死していてもおかしくない量の血を流しているが、どうやらシノビはこれくらいでは死なないという彼女の主張は本当だったらしい。それでも当然痛みは感じる上に血を流し過ぎればやがて死に至る。大雅は言われた通りの棚から救急箱と思しきものを取り出し、その箱から包帯を取り出した。
「消毒しなくていいのか?」
「こんな大っきい穴に消毒液かけたらなくなっちゃうよ……スカート、脱がせてくれる?」
「わかった……………………は?」
アゲハの発言に、大雅の思考が止まった。
赤城大雅、高校二年生。彼は男女分け隔てなく友人が多く、クラスメイトの大体と気兼ねなく会話をすることが出来る、所謂「陽キャ」に分類される人種だった。
だが同時に中学高校と部活に打ち込む「部活バカ」に分類される人種でもあり、恋愛事にはほぼ無縁と言っていい生活を送っている人種でもあった。唯一、中学二年の時に付き合った彼女とは部活の都合上帰る時間も遊ぶ時間も全く合わず、僅か一ヶ月でフラれ、それ以来「今は別に彼女いらないな」と感じながら生きてきた人間だった。
そんな分かり易く硬派なスポーツ男子であった大雅。当然女子との性交渉や、それに近い経験などあるはずも無く。アゲハの発言は彼の思考を止めるには十分過ぎた。
「スカートあると包帯巻きにくい……でしょ」
「いや、まあそうだが……いやっ、ダメだろ!? 肌見えるし」
「でも、私は見たよ。大雅君の……上半身」
「上と下は別だろ!? しかもアレは俺が全身怪我してたし不可抗力みたいなもんじゃねえか!」
「私も今、怪我してるから……不可抗力?」
「ぐっ……た、確かにそうか……!」
「それに……大雅君なら別にいいよ。パンツ見られても」
「パッ…………お前なぁ……バカだろ」
大きく溜息をつき、何かを決心したかのように顔を上げる大雅。先程吐いた息をもう一度全て吸い込むかのように息を深く吸い──
「……なるべく見ないようにする」
「別にいいのに……紳士で助かります」
ギュッと目を瞑り、手探りで──且つ、傷口には絶対に触れないように細心の注意を払いながら、ゆっくりとスカートに手をかける。暗闇の中で必死に留め具を探して外し、震える手でそっとスカートを下ろし……恐る恐る目を開けた。そこにあったのは真っ白なアゲハの生足と、こびり付いた彼女の赤黒い流れた血の跡。そして少し目を上にやると現れる、えぐり取られてぽっかりと穴を開けた太腿。
「うっ……うぐっ……」
いざ直で目の前に現れると、そのグロテスクさと想像もつかない痛みに対する想像で、脳が揺れる感覚がする。明らかに常人では耐えられない痛み、越えることの出来ない出血量。現実離れした光景は部活で起きる大怪我とは当然比にならず、胃がかき混ぜられるような感覚すら覚えた。だが、これこそがアゲハが戦った証であり、大雅が守り切れなかった咎の穴でもある。目を逸らしたくなる衝動を堪え、穴に向き直った──それに、今その怪我から目を逸らそうとすると、いやでも下着を直視することになる。
ドス黒い孔に対する恐怖や、少しだけ見えてしまっている黒いレースの誘惑にも負けずに包帯を手に取り、慣れた手つきで太腿に巻いていく。目的は止血の為なことは間違いないが、あまりきつく締めすぎると空洞の分だけ足が伸びてしまう為、少し緩めに巻いていった。
「それが巻けたら、救急箱の中に入ってる兵糧丸も出して欲しいな。それを食べて一日寝たら、穴は塞がるはず」
「もう慣れた気にはなってたが、つくづくシノビって人間離れしてるんだな……そんなんで身体が治るなんて信じらんねえよ」
「大雅君の身体も、もうそうなってるんだよ」
「それも信じらんねえ……」
改めて人外の如き回復力、耐久力に若干戦慄する大雅。しかし、自分の身体も雷を制御出来ずに全身火傷だらけになっていたというのに、既にその痕すらどこにも無くなっていることを考えれば、アゲハの言葉に一切の嘘が存在しないことをいやでも実感させられる。ゆっくりと包帯を巻き終え、箱の中に入っている小さな包を取り出し、そこに入っていた丸薬のようなものをアゲハに手渡した。
「ありがと」
「ああ。それ飲んだら寝て、ちょっとでも回復に努めろよ」
「うん……ふふっ、大雅君、お父さんみたい」
「からかってんじゃねえよ、俺は本気で死ぬかもしれねえって焦ったんだぜ?」
「そうだね、ごめんね。……じゃあ、おやすみ。大雅君も寝てね。向こうの方に予備の布団もあるはずだから、出してきて使っていいからね」
「サンキュな。おやすみ」
すぅ、という寝息が聞こえ、すぐにアゲハは眠りについた。まだ足も痛むだろうが、それ以上にやはり体力の消耗が激しかったらしい。大雅は規則的な寝息を見届けると一気に安心し、大きく息を吐きながらその場に座り込んだ。自分も早く寝てしまいたい程に疲れを感じていたが、目を閉じる気分にはまだなれなかった。天井の上から風が吹き荒ぶ音が聞こえる。アゲハが寝やすいようにライトの電源を切り、建設現場の地下は暗闇に包まれた。
喉の乾きを感じ、机に置かれていたポットに手を伸ばす。いざ持ち上げてみると中に水は入っていないらしく、想像より簡単に持ち上がってしまった。どこかに水を汲む場所はあるかと辺りを見回すが、テントの中にはそれらしきものは見つからなかった。先程アゲハが「向こうの方に予備の布団がある」と言っていたのを思い出したが、それすらもテントの中には見当たらない為、恐らくテントの外にも幾らかの生活設備があると予想し、のそのそとポットを持ったままテントを出る。大雅の足音は地下内にコツン、コツンと反響する。テントの外は別に電源があるのか、一定の間隔で白いライトが付けられていた為に暗闇に惑うことはなかった。
やがて大雅は布のカーテンで仕切られている空間を発見し、カーテンを捲ってその中に入った。中にはアゲハの言っていたであろう予備の布団に、水道や冷蔵庫、食器の類が綺麗に並べられていた。蛇口をひねってポットに水を入れ、小さなコップを一つ手に取りその場をあとにする。布団もこのまま持って行きたかったが、両手が塞がってしまった為もう一往復することを選択した。
──ああ、そういや先週似たようなことをしたな。
ふと大雅の脳裏に浮かんだのは、来たるテストに向けて家で勉強をしていた時のことだった。
勉強に詰まり、気分転換に温かいお茶を飲もうと自室から出て、一階のリビングに降りてポットで湯を沸かそうとしたんだった。
あの時気分転換をしたのは結果として良い方向に働いたな、と思い返す。温かいお茶を飲んでから気持ちを切り替えて取り組んだ数学は、結果としてテストの手応えもかなりあった。今となってはその結果を知ることも出来ないかもしれないが、それでも自信はあった。
──ああ、そうだな。温かいものでも飲んで、気分転換をしよう。
コツン、コツンと足音が響く。それと同時に、鼻をすする音も響く。
アゲハが死ななくて良かった。
自分が生き延びることが出来て良かった。
何も出来なかった自分の無力感に腹が立った。
今安心しきってしまっている自分にも何故か腹が立った。
どうして自分がこんな目にあっているのか、その無常感にも腹が立った。
今頃「日常」を生きる皆は何も知らずに眠っているんだろうな、ということにすら、何故か腹が立った。
アゲハを守れなかった自分にも腹が立った。
次こそはちゃんと守り切りたいという決心もした。
それら全てが消化し切れない感情として大雅の全身を、脳を、心臓を、全てを揺らしながら、涙として出力されていく。
温かいものを飲んで気分転換しよう。
弱い気持ちを吐き出し切って、生き抜く覚悟を決めよう。
「…………やってやんよ」
日常に甘やかされた野良猫は、虎になる決心をする。