Side岸部ロハン
鳥がまだ鳴かぬ頃、僕は昨夜彼女達が光を追い辿り着いた斧が刺さった木の所に来ている。
「これは…桜か」
斧によって傷ついた桜は樹液を垂れ流していたようだ。今は時間が経ってしまいゴムの様に固まってしまっている。
どうやら被害のあった木はこの1本だけのようだ。他にも桜の木はあるが…犯人は1番立派な木を狙ったようだ。
「何故…犯人はわざわざキャンプ場の方に戻ってきたんだ…?」
このまま森をキャンプ場とは反対の方に抜けていけばバレる可能性はかなり下がる。例え犯人がキャンプ場の関係者だとしても大回りすれば関係ない。
それを探るために更に奥の方に進もうとした僕はすぐに犯人がそうしなかった理由を理解する事になる。
「なるほどな…」
これは…流石に逃走経路としては不採用になるな。
桜の木々を抜け僕の眼の前に現れたのは、反り立つ壁恐らく20メートルはあるだろう。キヴォトスの実力者なら登ることは不可能では無さそうだが…僕が対峙したモノからはそれ特有の圧を感じなかった。
「それに…あの程度で済んだからな」
そっと左腕を撫でる。まだ少し痛む。仮に僕を襲ったのが小鳥遊だとすれば今頃挟んだ左手ごと集中治療室送りだろうな。
『うぇっくしょんっ!』
『ん、先輩クシャミ凄いおじさんっぽい』
『あら…風邪ですか?』
『うへぇ…花粉症かなぁ?』
本当あのちんまりとした体のどこからそんな力が…まあ良い。
とりあえず、現場検証はこのくらいにしておこう、僕は崖に背を向けて桜達を一望できる場所に腰掛ける。
「ふう…」
吐いた息が白く色付く。鞄からスケッチブックを取り出して久しぶりに風景画を描こうと鉛筆を滑らせる。
どれほど経っただろうか、下書きが終わり僕は絵の具を出そうと絞るが…
「…まさか、凍っているとはな」
寒さによって絵の具が出なくなってしまっていた。人肌で温めるのはこの環境では難しいだろう。
確か管理所はもう開いた頃か。ロッジに戻るよりもそっちでお湯を貰ったほうが近いな。
「ねぇ、お兄さん」
「っ…」
真横から声がしてきた。瞬間僕は転がるように距離を取る。
「あはは!そんなにびっくりしないでよ!」
そう笑いグラデーションのかかったピンク色と白の髪を太陽の光は照らしていた。
「君は…いつからここにいたんだ?」
「最初からだよ?」
見落としていたってことか…?
「君、こんな所で何をしていたんだ?」
不思議ちゃんってやつ…なのか?
「待ってるの」
「待っている?」
「満開を」
今の時期、桜には花どころか蕾すら無いが…待っている…
「相当な暇人なんだな」
「うーん、そうかな?」
僕は彼女の格好を見て1つ推測した。
「君は…よっぽど春が恋しいんだな」
「なんで?」
「君が着ている服、春コーデの定番だろう?」
「あーこれ貰ったやつだから、春自体はそんなに好きじゃないよ」
なんとも…こんなに寒いのに律儀な奴だな。
「はぁ、これを1枚羽織っておくと良い」
僕は彼女に1番上に羽織っておいたコートを差し出す。
「え?」
「こんな寒い中、そんな格好じゃ低体温症になるぞ。下手すりゃ凍え死ぬかもな」
「…ありがとう」
少し困ったように笑いコートを受け取り袖を通す。あまり似合ってはないな。
「貰い物は僕も大事にする方だが季節くらいは…」
いや、待て今は真冬だぞ?僕は相当な厚着をしているから何とも思わなかったが、絵の具が凍るほどには寒い。そんな寒い中薄着で居られるわけがない。
「お兄さん、絵上手なんだね」
興味深そうにスケッチを覗き込んでくる僕より少し幼く見える顔。
「…ああ、良く言われる」
僕は右手を彼女に翳し
「
バチンッ!
「ぐぁっ…!」
「え…?」
右手に走る激痛。
「お兄さん大丈夫!?」
彼女はビックリした様子でこちらを支えようとするかの様に手を伸ばす。僕は彼女から距離を取るために後退り、桜の木に寄りかかる。
「っ!」
彼女に能力を使おうとした瞬間弾かれた。今までも能力が上手くいかなかった事はあったが…弾かれるのは初めてだ。
「君、一体何をしたんだ?」
「あっ…違っ…」
彼女の手は宙で握られ下げられる。
「……桜が…泣いてるの」
「それは…どういう意味」
瞬間、風が吹き彼女との間に雪が舞う。
風が止み雪のベールが剥がれた後には何も残こっていなかった。
僕は桜をゆっくりと撫でる。
「切り倒されかけたら泣きもするか」
まさか、そう思いながらも自分の言葉に笑ってしまった。
―――――――――――――――――――――
管理人サンロクの朝は早い。彼の意識が覚醒するのは、まだ太陽が顔を出す前からだ。それは彼がこのキャンプ場を継いでからの約半世紀を持ってして身体に刻み込まれた習慣である。
顔を洗い昨日の内に用意していた服に着替え、妻とのツーショット写真が目に入り1つ息を漏らす。
一体自分はなにをしているんだろうか。
足が動いた頃は厨房に立ち従業員や妻の分の朝食を作っていた。ここのキャンプ場で販売している弁当の仕込みもだ。だが、今の彼にそれはもう出来ない。
車椅子と共に歩む事になってからは、弁当は廃止し厨房に立つのは諦めカセットコンロを使用しようとした時には従業員から
「無理はしちゃだめよ!」
止められてしまっている。
車椅子と身体が一体化してしまったようだ。この動く椅子に自分は縫い付けられ緩やかに朽ちていく。それは、穏やかで安らかであり、同時に酷く赦され難いものである。
じっとしていても仕方が無いと彼は窓際に移動し、窓を開ける。
開けた窓から我先にと冬の朝の冷気が部屋に雪崩込んでくる。
そう、これだ。これが私のキャンプ場の空気だ。深くより深く呼吸する。肺を刺す冬、季節の動きを感じないと平坦な日常に何処かへ連れて行かれてしまうのでは無いかと不安になってしまう。
「ふぅ…」
満足しきれる訳が無いがこれ以上開けていると吸い込まれてしまいそうな錯覚を覚えた彼は窓を締め自然と自分の線引きを行う。
少し間を置いて彼は日課のストレッチを行う。握力が低下するのを緩和するためだ。両手を上げ…
「まだ、開いてなかったかい?」
「いえいえ、どうなさいました?」
ストレッチを中断し、来訪者へと身体を向ける。
「絵を描いていたんだが…絵の具が凍ってしまってね、お湯借りてもいいかい?」
「ええ、そこのケトルの水ならもう温まっているので是非使っていただいて構いません」
「助かるよ」
そう言うと来訪者…岸部ロハンは靴を脱ぎサンロクのいる部屋へと歩いてくる。
「このコップ使ってください」
お湯が入れられたコップから湯気が昇る。
「この部屋寒くないか?」
岸部ロハンがコップから目を離さずサンロクに話し掛ける。
「さっきまで窓を開けてましたから」
「へぇ換気かい?」
コップの中に絵の具のチューブが入れられる。
「なんていうんでしょうか…」
サンロクは少し頭を捻る、あの感情を言語化するのは正直難しい。捻って捻ってようやく1つ言葉が出てきた。
「憂さ晴らし…ってやつですかね」
岸部がサンロクへと視線を向けじっと見る。まるで幼児が面白い話を聞いた時の様な楽しげな瞳。
「岸部さんは、美術部…なんですか?」
サンロクの言葉に思わずキョトンとする岸部。
「いや、漫画家って奴をやらせてもらっているよ」
「漫画…ですか…」
このサンロクという男、娯楽全半に疎い。漫画という物がどういうものかは知っているが、目を通した事は一切無いのだ。
「これでも一応1週間後の晩御飯に困らないくらいには売れているつもりだったんだがな」
「それは凄いですね…描いている所見せていただいても?」
心から出た言葉だった。食うに困らない、それがどれだけ難しい事なのかは若い頃、親の反対を押し切って家を出た時に身に沁みている。
「構わないよ」
「ありがとうございます、何の漫画をお描きに?」
「今から描くのは漫画じゃあないよ」
「絵画もお描きになるんですか?」
「ああ、色々描かせて貰っているよ」
そう言って岸部はテーブルの上に画用紙を広げ、色を付けていく。
「これは…」
「あそこの桜を描かせてもらった」
サンロクの目はその絵に釘付けになっていた。
「岸部さん、本当に素晴らしいです」
「あー岸部さんなんて言わないでくれ、あなたにそう言われるほど僕は偉くない」
誰だって自分よりも半世紀近く歳の離れている人にさん付けされるのはモヤモヤするのだろう。
「もうちょっとこう、軽く呼んでくれると助かる」
「では…ロハンくん…?」
首を傾げながらそっと口に出す。反応が無い事に違和感を感じ岸部の方へ目線を向ける。
「ああ、それがいい」
彼の顔は少し嬉しそうだった。
「そういえば、さっき腕を上げていたがあれは何を?」
「あれはですね、ストレッチをしようと」
「へぇ、どんなストレッチなんだい?」
「一緒にやってみます?」
手首の角度は直角90度を保つ。
各指は曲げずにまっすぐを保つ。
手のひらを前へ肘もまっすぐ
手首の角度は直角を保ったまま指を一本ずつ折る。
1…2…3…4…5
再び指を一本ずつ指を開く。
1…2…3…4…5
「これ、結構効くね」
「ふふ、そうでしょう」
穏やかな時間は過ぎていく。向かい合ってストレッチをする姿はまるで祖父と孫が一緒に遊んでいるかの様に見えたことだろう。
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