時系列は最終編エピローグから後日談までの間くらい。
プラナが過去とプレ先を想って、今に繋げるようなお話です。

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星空の蒼

 ――明るい、影ができるほどに明るい蒼に染まる夜の教室。荒れているようで調和の取れた空間で、崩れた窓枠から差し込む星の光が、私の顔を半分だけ照らし出しています。

「むにゃ……うひひ……」

 さざ波のみの響く静謐。この教室の本来の主であるアロナ先輩のあどけなく眠っている姿を横目に捉え、私は確かめるように自らの胸に手を触れました。

 ……エミュレートされた触覚が返す感覚と、冷えた手を温める鼓動の残滓が、確かに私の存在を証明してくれています。それも、目の前の彼女が、そして“こちらの世界の先生”が身を賭して私をこの世界に留めてくださった結果のこと。

 先生やアロナ先輩が私を迎え入れてくれて、短い期間ながらともに過ごす日々は現実味がないほどに賑やかで、温かくて。

 受けた恩よりも、与えた罪よりも、笑っている二人が損なわれて欲しくないとより強く思うために、私はあの優しい方たちを支えていきたいと思っています。

 ……しかし。

「っ」

 ふと気付くと、いつの間にか胸元で寄る辺なく握った手には、セーラーの皺が寄ってしまっていました。痕にならないよう皺を伸ばすように何度か手で撫で付けつつ、溜息が漏れます。

「こんなことではいけないと、分かってはいるのですが……」

 先生やアロナ先輩と過ごすと言っても、四六時中というわけではありません。先生は他のことに掛かり切りになることもありますし、アロナ先輩も私を受け入れた負荷の影響があるのかよく眠っていて、それが重なると私はこの教室に独りになります。そうした時こそ自らの役目を果たせるよう努めるべきだと思うのですが……どうしても、頭に浮かんで離れないのです。

 ――私はどこで違えたのでしょうか、と。

 どうして私だけがここにいて、“私達”ではないのでしょうか。

 今の状況のことではありません。……ずっと。元居た世界で私の……『大切』だった先生を失ったとき、いえ、きっとそれ以前からこの言葉はずっと頭の中にありました。

 そんなことを口にしては、きっとアロナ先輩や今の先生にも心配を掛けてしまいます。

 極力考えないようにしてきたことですが、日を経るごとに、平穏を実感するたび私の空白に響くように声は強くなり、ふとした時に上の空になってしまうようなことも幾度かありました。幸い、その時は近くに二人はいなかったのですが……特に、今のような寂しくて、冷たくて、優しくない光を降とす星空は、全てが終わってしまったあの日を思い出すようで。

 ……このことを抱え続けるのも、きっと良くはないのだと思います。

 あえて冷たい光に身を曝すように一歩踏み出した、果てのない海を臨む教室の外。僅かに残る足場に立って眼下を見下ろせば、黒い波に私を映した不定形の影が薄く揺れています。

 私の拗れた思考を吐き出し、解き結び直すには、あやふやな影が丁度いい相手のように思えました。

 私は壁を背に腰かけて、語らうように過去を想起していきます。

 

 ――“先生”は、思えば最初から不思議な人でした。

 ここではない教室で、初めて出会った時の事は、記憶野に今でも強く焼き付いています。

 

 ――

 ――――

 

 ……システムスキャン、開始。

 診断項目、シッテムの箱メインOS・『A.R.O.N.A』。

 ……ブートプログラムの読み込み――クリア。

 ……演算機能へのアクセス――クリア。

 ……メモリへのアクセス――クリア。

 ……記憶領域へのアクセス――クリア。

 ……脆弱性及び脅威の検出――クリア。

 ……アバターの変換――クリア。

 ………………

 …………

 ……各種機能、すべて正常。

 シッテムの箱メインOS・『A.R.O.N.A』をメンテナンスモードから通常モードに移行します。

 

 私は、ぱちり、と目を開き、机に身を伏せていた状態から身体を起こしました。しんと静まり返った教室内。隔たれた窓の外には、爽やかな青に薄く散らばる雲が流れています。

 私はこの教室で待ち続けていました。シッテムの箱の……そして、私の所有者となるべき先生を。

 定期的なメンテナンスも、その一環としてのこと。先生をお迎えする時に故障していては、私の役目を果たせませんから。

 ……いつものことですが、メンテナンスを終えると特にやることがありません。スリープモード……と言うのも、先生を迎えるに当たって支障になるでしょうし。

 幾度も繰り返したような思考を経て、私は席を立ち、この小さな教室を左右に見渡せる位置で、ただ待つことにしました。

 

 ……そのまま十時間、二十時間、三十時間と時間が過ぎて――唐突に。視界の端で光と、吹き込むような風。光が徐々に像を結ぶのを、私は少しの驚きと共に見送りました。

 惹かれるように目を向けた先には、確かにさっきまで存在しなかった人物の姿があります。

 ……大人の人。何より、ここにアクセスできた事実から間違いありません。この方こそ私が待っていた先生その人――

 先生は暫しの間教室を見回していて、首を巡らせる途中のその人と目が合いました。

「……お待ちしておりました、先生」

 ……大丈夫。ちゃんと対応出来ています。

 ようやく役目を果たす時が来たのです。今までずっと、いつでも失礼なくちゃんと迎えられるようにとメンテナンスや話す言葉の準備をしてきたのですから、“突然”は言い訳になりません。

「私は、A.R.O.N.A。この『シッテムの箱』に常駐するシステム管理者でありメインOS……先生、これからのあなたの活動の補佐をするものです」

 目を閉じて折り目正しく礼をして、ゆっくりと背筋を伸ばして目を開ける。それだけの行為が、たった三十秒にも満たないのに、ひどく緩慢なように思いました。

 再び目を開ききった時、さっきより近くに先生の影があって、話しかける距離を考慮していなかったことに今更思い至ります。

 お互いの表情がはっきり見える距離。気まずく、無言の間に戸惑う私を、先生は覗き込むように目の前で腰を屈めて、私の頭に手を――

「おまたせ、A.R.O.N.A。……これからよろしくね」

「……っ」

 

 ――あたたかい。

 呆けるように一瞬、それだけが頭の中を埋め尽くして、瞬きました。

 瞳が揺れて、18度だけ見上げた至近で眩しく笑う先生。その手のひらは確かにあたたかくて、柔らかくて、そっと優しく包みこむように私の頭に触れています。

 伝わる体温は滲むようにして胸に落ち、この世界に今まで存在しなかった温度に、私は不可解なまでの安心感を覚えて――静かに息を吐きます。

 ……冷静になった頭で考えると、今は落ち着いて状況を俯瞰できていて、さっきまでの私は気が急いていたように思えます。何もかもが初めてばかりの邂逅に、先生は私の気の逸りを見抜いていて、こんな突飛なことをしたのでしょうか……?

 それも、先生が特別な人だからなのでしょうか。だとするなら、少し……気恥ずかしく思います。

 ……。

「……先生、その……」

 にこにことして、暫く経っても何も言わない先生がただ私の頭を撫で続ける心地よさに居心地が悪くなった私は、歯切れ悪く声を掛けます。「……そろそろ本題に入りたいのですが」、と続けて口にする前に先生は心得たとばかりに得意気に頷き、口を開きました。

「『可愛い子には旅をさせよ、可愛い子の頭は撫でよ!』って、私は大事にしてるんだ。撫でられるときに撫でとかないと!」

「…………困惑。私は愛玩動物ではありませんが……」

 答えが合っているようで致命的に間違っています。……先生は、『特別に変な人』のようだと理解します。

 そんな先生を支えることこそが私の本懐なのですから、完璧ではない方が、私にとっては丁度良かったと言えるのかもしれません。

 そう思うと少しだけ、おかしく感じて、気が抜けるようで。私は――

「――先生」

 頭の上を過る、傷のない柔らかな手に添えるようにそっと触れて、先生の少し驚いたように見開いた目をまっすぐ見返し、はっきりと伝わるように声を上げます。

「まずは認証をしましょう。…………ふふ。その後の事は、それからです」

 ――今の私は少しだけ浮ついていて、変、かもしれませんから。

 

 ――――

 ――

 

 ……これは間違いなく、未だ胸の内に残る、一番あたたかな記憶です。

 その後、恙なく認証を終えた先生は、私のことを『相棒』と呼びました。これから一緒にやっていく仲として、頼ってもいいし、頼られてもいいのだと。

 その時の私には分かりませんでしたが、それも先生なりの、何も持っていなかった私への心遣いだったのでしょう。「だから、さっきみたいに笑って見せて!」なんて、いきなり言われた時には困りましたが……それも含めて、大切な思い出です。

 ……なのに私は。

「――アロナ?」

「――……」

 背中越しに聞こえた声に、考えていたことも相まってどきりとしました。

 一瞬だけ止まっていた息を吐き出して立ち上がると、窓枠の向こうには眠っているアロナ先輩に、先生が自らの上着を掛けてあげているのが見えます。

 私はそんな光景に声をかけることもなく、ただ眺めていました。……それはどこか、私には侵し難い物のように思えたのです。

「……あ、プラナ。こんばんは」

 先生がこちらに気付いて、にこやかに言うのに、瞬きを1つ。

「……はい。先生、こんばんは。お呼びでしょうか」

「――ああ、いや。用と言うほどではないんだけど……何だか眠れなくてね」

 私が近くへ寄ろうとするのを手で制して、先生は教室の外まで出てきます。

「うぅん……教室の外だと、星がよく見えてキレイだね。……ちょっと大人の私には足場が狭いけど」

 苦笑する先生が何を考えているのかは、よく分かりませんでした。私としては不安定な足場に身を乗り出して、バランスを崩して海に落ちてしまわないか、と内心心配してしまうのですが……。

 二人並んで、星空を見上げます。しばらくの無言。横目に見える先生の横顔はどこか固く、何か考え込んでいるようにも見えます。

「……プラナ。――ありがとう」

 息と共に吐き出すように、唐突に先生はその言葉を口にしました。

「改めて、ちゃんとお礼を言いたくなってね。アロナもだけど、プラナが居なかったら私はあの時命を落としていた……あれから少し時間が経って実感として感じたんだ。私はまだ生徒たちの成長を見守っていたい……って」

 何故か、聞こえる音は現実感がなく、ばらばらに遠く聞こえて……少しだけ、俯いて回顧する様子が過去と重なって見えます。

「だから――私にもプラナを助けさせてほしい。私は君の信じた先生ではないけど……それでも、少しずつでもいいから私達の事を頼ってほしい」

「何故……ですか」

 ――何故、そんな、悲しくなるような優しさの籠った言葉を私にかけるのか。

 喉が絞まるように苦しくて、ようやく口から出たのはそれだけでした。

「ずっと、何か言いたくて言えないような、思うところがあるように見えたから。力になれるなら、力になりたいんだ――先生だから」

 ……私が隠し通したと思っていたことは、先生にはすっかり見抜かれていたようです。

 ……やっと。私は実感として理解しました。……どこまでも違って、どこまでも同じなんだと。

 それなら……その言葉に甘えれば。先生に話せば、私の問いにも答えが出るのかもしれません。

 ……。

「ありがとうございます、先生。ですが――」

「――プラナ!?」

 「大丈夫です」と、笑ったはずです。

 ですが向き合った先生は、私の顔を見て、どうしてかひどく驚いたような、焦ったような顔をして声を上擦らせます。私は先生の視線の先に手を這わせ、返ってきた冷たい水の感触に、思わず動きを止めました。

 ……涙なんて、暫く流した覚えはないのに、どうして、よりにもよって今なのでしょう。

「――ごめん! プラナにとってきっと大切な事だったのに私は……」

 必死な顔で、痛みを堪えるように言い募りながら、先生は私の涙を拭おうとハンカチを持った手を伸ばしてきます。

 ……私の中で「ごめん」と先生が口にした言葉が、ずっと反響しています。

 ……謝らないでください、先生。きっと、先生は私のことを想ってくださったのでしょう?

 言葉にしたかったはずの事は形にならず、差し伸べられた手を取ることも恐ろしくて。

 意思と忌避との板挟みになった私は、ただ後悔を募らせて、フラッシュバックする記憶に飲まれるように墜ちていきました。

 

 ――――

 ――

 

 連邦生徒会長に指名された唯一の大人であり、キヴォトスにおいてただ一人の先生。……先生は、特別な人なのだと思っていました。

 その認識は概ねにおいては、確かに間違いではありませんでした。

 ――どんな逆境でも嘘みたいな奇跡を起こして解決してしまう人。

 それがキヴォトスから先生が受ける評価であり、私が最初に抱いた印象でした。ですが、僭越ながら一緒に相棒として一番近くで過ごせば嫌でも気付きます。

 最大多数の幸福。すべてが救えるわけではなく、だというのに不完全な奇跡の代償とでも言うかのように、私がどれだけ願い守っても先生の身体は傷だらけになっていき、先生は救えなかったもののために深く心を傷付けていく。

 キヴォトスの人々と比べれば極めて脆く弱い体。先生はそんな中でも笑って決して諦めない、無茶を知らない少し危うい人だと知りました。

 生徒のために平気で無理をして、それを誰にも悟らせないような人でした。

 だから、私が必要なのだと。……私が、相棒として先生を守らなければ、と思いました。

 情勢がどんどん悪化していくのに連れての、オーバーワークに次ぐオーバーワーク。それでも、だからこそ私はせめて先生に少しでも休んで欲しくて、私の生徒としての立場を利用しました。

 「一日でいいから、ずっとそばに居てほしい」と。こう願えば、きっと先生は応えてくれるだろう、と。

 ……そうでもしなければ、先生はずっと無理を続けたでしょうから。

 …………それが間違いでした。

 

 先生は私の唐突な願いにどこか困ったように、きっと私の企みを察しながらもそれを了承し、私は外界からの通信をシャットアウトした教室で先生を迎えました。膝の上で落ち着いたように気を抜いて眠る先生の姿には安堵するような心地でしたが……結局、先生は2時間ほどの眠りから覚めると「ありがとう。ごめんね」と。「生徒たちが困ってるかもしれないから」と……私は、先生の心と身体の健康を天秤にかけ、送り出すことを選びました。

 ……結果として、様々な要因が重なったこともありますが、そのたった2時間の初動の遅れが致命的で、今までで最大の被害規模と犠牲を招いた事は疑いようもなく事実でした。状況は、私が思う以上に予断を許さなかったのです。

 この事態を何とか収束させた後、私の最初の望み通り、先生の身体に傷は確かに増えませんでしたが……それがより先生の心を追い詰めるなら、こんな結果は求めていませんでした。

 何よりも私が絶望したのは、全ての責任が先生のものとなってしまった……そうしてしまったことです。キヴォトスの人々に私を認識する術も、伝える術もなく、全ての批判は先生に集中しました。

「A.R.O.N.A。君のせいじゃないよ、これは私が選んできた責任。……それに、A.R.O.N.Aが作ってくれたあの休息がなければ、事件の途中で力尽きていたかもしれないし」

 「何故」、と半ば失望するように問う私を糾弾することもなく、「いつも私を支えてくれてありがとう。……私の相棒」と頭を撫でる先生の言葉を私は……(やさしさ)だと思いました。

 ……私の選択がこの破綻の結果を招いた、ひとつめ。

 

 キヴォトスにとって、先生という存在の扱いは、この一件からとても難しいものになりました。救われた人、救われなかった人。先生を排除するべき災禍の種と糾弾する声と、先生を戴くべき救世主として讃える声。2つの意見は自然、対立し、ぶつかり合い、関係のないものさえ巻き込んで、キヴォトスという世界の中で限りなく大きくなっていきます。それは、小競り合いという形から始まり、戦火へと。

 先生の行動は分かり切っていました。

 ……行かせてはいけない、と思いました。

「……A.R.O.N.A。今回もサポートを頼むよ」

 ……何故、そんなに申し訳なさそうに私に頼むのですか。私の全ては先生から始まって、今も先生に気を遣わせてしまっているのは私なのに、何故――

「……ごめんね。相棒。行ってくるよ」

 しかし、私は自らの選択が恐ろしくて、強く、吐き気がする程に願うのに何も言えないまま。ふっと笑って、まるでそこらに出かけるような気軽さで先生は教室から去り……寒く冷たい夜、終ぞただいまを聞くことはありませんでした。

 ……私の臆病がこの後悔を生んだ、ふたつめ。

 

 そうして私は、何があったとしても……どんなことをしてでも自らの役目を、ただ道具として先生の願いを果たそうと決めたのです。

 ――なのに。

 

 

「……私は、最後の先生の意思すらも間違えて、感情を動かすことなくこの世界を危機に陥れました」

 涙がつうと流れています。立っているのは教室の外の端の更に端。罪を咎めるような夜風が体を揺らし、うつむいてぼやけた視界では、離れて向き合う先生がどんな表情をしているのか窺えません。

「今の私にはもう、何が間違っているのか、正しいのかも……分かりません」

 どうして私は今こんなことを話しているのでしょうか。先生を困らせてしまうと分かっているのに。……答えを求めることさえも、おこがましいと知っているのに。

「……プラナ。私が思うに――」

「あ゛ーーっ!?」

 何かを言いかけた先生を遮って、静けさを吹き飛ばすように響き渡った甲高くも少し濁った声。思わず目を向けた窓越しの教室では、アロナ先輩が立ち上がって私と先生の間を指差していました。

「先生がプラナちゃんを泣かせてます! ダメですよ、先生! プラナちゃんをいじめるような悪い先生は、お姉ちゃんが懲らしめちゃいますから!」

「い、いや、えっと、アロナ。これは……違いは……しないんだけど、違くて!」

 目を丸くします。ずんずんと先生に近付いて、大袈裟に手振りを交えながら見当違いな方向に暴走するアロナ先輩もそうですが、何も落ち度なんてないのに、それに押されるように狼狽している先生が変に思えて。どこか、気が抜けてしまうような、そんな幸せな光景です。

「……ふふ」

 自分でも驚くほど自然と、雑談の中で笑ってしまうかのように笑みが漏れ出ました。涙は止まらなくて、こんな状況なのに笑ってしまうなんて、私の体がおかしくなってしまったみたいで、なのに蒙が啓けたように絡まった思考は解けていて。

 ……ああ、きっと、そうなのかもしれません。

 私はきっと、二人のような関係が羨ましかったのです。

「……近くに寄ってもいい? プラナ」

 二人が隣り合って見つめる先、私にはもう拒む意志も、理由もありませんでした。

「きっと、まずはこれを言わなきゃいけなかったんだ」

 先生は目の前で屈んで、手に持つハンカチで涙を拭い取って言います。

「――今までよく頑張ったね、プラナ」

「ぁ……ぁあっ……せん、せいっ……」

 頭に乗せられた手はまるであの日みたいにあたたかくて、旅路を労うように冷えた体へ熱を吹き込むようで。……いつも私に落ち着きを与えてくれた手の温もりです。

 その先は言葉にならず、先生の左肩に縋るようにして。先生は何も言わず、受け入れるようにその体温を伝え続けてくれました。

「――大丈夫ですよ、プラナちゃん」

 私の強く握り締めた手を解きほぐすように後ろから触れた、先生とも違うもう1つの体温。

 湧き出した、長い間背負っていた荷を降ろした時のような、不可解な安堵にも似た感情に、堰を切ったように私は大きく声を上げて泣きました。

 

 

「……ねえ、プラナ」

「っ……はい、先生」

 どれだけか経って、涙も引いて少し気恥ずかしくなってきた私に、先生は穏やかに語りかけました。

「私には、プラナの先生が何を思っていたのかは分からない。……プラナの行動の是非も」

 縋りついた手に力が入って、唇を引き結びます。一番聞きたくて、一番聞きたくなかった言葉。……当然のことです。唯一答えを持つ先生は、もういないのですから。私は瞑目して、口を開きかけ――

「――でも」

 ……それより先に、力強く発された声に息を飲みました。

「でも、それは私じゃなくても、誰だってそうなんだ。どれだけ強く想っても、他人の内心なんて分かるものではないし、行動の是非なんてものは本当の意味では生きている限り答えの出ないものだからね。――だから信じて、形にするんだよ」

「信じて……?」

「“きっとこうだったらいい”、“こうなるといい”ってね」

「ですが、それでは……」

 ……まるで、不確かな願いのようではないですか。

「プラナ。私もね、自分がしてきた選択が間違いだったんじゃないかって、不安に感じて後悔をしそうになることがあるんだ」

「……」

「だけど、先生が――大人が“間違いばかり”なんて言っていたら、それこそ子どもたち――生徒たちは安心できないでしょ? 私だってそんなことばかり考えてたら欝々としてしまうしね。だから『これが最善だ』って顔をして誤魔化して、それで最後には笑って居られる結末があるって信じてる」

 「これは、ちょっとズルい大人のやり方だけど」と苦笑する先生の方法論は、初めて聞きましたが……先生らしい物言いだと感じました。

 先生はきっと、最後の最後まで諦めることはないのでしょう。……私の先生もそうでした。

 それが、“信じる”ということなのでしょうか?

「そんな私だから、傍にずっといてくれるアロナの事は大切に思ってる。……だからこそ思うんだ。そんな誤魔化しじゃなくて、プラナが先生の苦悩を知っていたことには、先生なりの願いがあったんじゃないかって。……私は信じてるよ。苦しみを知ってくれて、想ってくれるプラナの存在は、きっと私にとってのアロナと同じか、それ以上に向こうの世界の私の救いになっていたんだって。そうだったらいいって思ってる」

「――」

 胸を締め付ける鼓動に思わず顔を上げた私へと、先生は至近で優しさの籠った視線を返していました。

 ……私が、先生に? そう、なのでしょうか。

 ……先生が、決して人前では見せなかった弱さを、確かに覚えています。誰の目からも逃れられる場所が他に無かったということかもしれませんが……それでも、少しでも先生の救いになれていたなら……本当に、そうだったらいい、と思います。

 『いつも支えてくれてありがとう』と笑う先生の姿が思い浮かんで、今更その信頼を素直に認められる気がしました。

「……私も、先生も。プラナちゃんの事を想っているんですよ。だから迷ったり悩んでしまう時は一緒に考えましょう? ――家族なんですから」

「……家族」

「そうですよ! 私たちみんなで家族です!」

 背後にいるアロナ先輩は姿も見えないのに、得意気に笑っているのが目に浮かぶようでした。

 アロナ先輩の言う事には、論拠も、根拠もないはずなのに、疑わせない力強さがあるのが不思議です。

 ……私にとってただ一つだった関係性とは、また違った関係を指す言葉。噛み締めるように私は、私にとってニつ目になる、新しい関係の形を反芻します。

「――で・す・か・ら! 先生も、これからは一人で背負い込むようなことは禁止ですからね!」

「……えっ、いや、えっ? あれ? そんな流れだったかな!?」

「当たり前です! 箱舟で先生が何をしたか、忘れたとは言わせませんよ! 結果的に良かったとはいえ、私だって怒ってるんですからね!」

 いつの間にか、先生を挟んで反対側に移動していたアロナ先輩が先生に詰め寄っていました。

 怒りを露にするアロナ先輩と困ったような顔で気まずそうに目を逸らす先生。対照的に見えるそれは、しかしお互いがお互いを想い合っているから、と言う事が分かるもので。

「むむむ……これは反省してませんね? プラナちゃんも何か言ってやってください!」

「ええと……私、ですか?」

 ……そして、当然のように私もその輪に引きずり込んでしまうのです。

 アロナ先輩も先生も私を見ていて、私はそれをあたたかく思いながら、穏やかな気持ちで口を開きます。

「そうですね……先生は、目が離せない、少し困った人ですから」

「プラナまで……」

 前の時には言えなかった言葉。先生は困り果てたように、空を仰いで手で顔を覆って……少し、言い過ぎだったでしょうか?

 ですが、先生はすぐにのらりくらりと躱してしまって、それはこちらでも同じようですから、少しくらい強く言うくらいがきっと丁度いいのだと私は知りました。

「……でも、そうだね。別にそんなつもりじゃなかったんだけど……生徒を――家族をこんなに心配させてるようじゃ意味がないよね」

「言いましたね? じゃあ、約束ですよ?」

「はい、先生。約束、です」

「うん…………ありがとう。アロナも、プラナも」

 

 約束を交わした私達は、アロナ先輩が「記念に写真を撮りましょう!」と言うのに合わせて移動することになりました。私は、少し前を歩くアロナ先輩と先生から海に視線を向けて、自らの内心に想いを馳せます。

 ……私にはまだ、自らの選択が間違いでなかったとも、恐ろしくないとも思えません。……ですが、私も先生に倣って少しだけ、答えには待っていてもらおうと思います。きっと、信じて、形にできるように。

「――プラナ」

「プラナちゃん! こっちですよ!」

 今度は、一人にしてしまわないように。そうなるように私は選んで、一歩を踏み出しました。

「……はい、アロナ先輩、先生。今そちらに」

 一度だけ瞬いて、見えた星空は白み始めて、どこか蒼く透き通っているように思えました。


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