「どうして」
聞きたいのはこっちのほうだった。
「どうしてこんなことに……」
わたしにすがりついて泣く彼の姿は、哀れを通り越して、醜くさえ思えた。彼の涙が服に染み込んで、わたしの胸や腹を濡らしているのも、今はただ気持ちが悪いだけだった。どうしてこんな気持ちになったんだろうか。わずか一ヶ月ほど会わなかっただけなのに、それで気持ちが醒めてしまったというのだろうか。
違う。
違うはずだ。
「ぼくは」
彼はしゃくりあげながら、声をひねり出した。
「ぼくは、何も要らなかったのに」
どうして?
「ぼくの絵を見て……喜ぶ、君の笑顔が……それさえあれば、何も……」
うそつき。
いつだって苛立っていたじゃない。絵の具が足りないって。油が切れたって。下書き用の鉛筆もパンも、もう残っていないって。
どうして?
「見てくれよ、わかるだろう?」
彼は半狂乱になりながら、自分の描いた絵を指さした。黒と灰色だけで描かれた、不気味で汚らしい絵だった。そこには何のおもしろみも魅力もなかった。のたうち回る線は、デッサンも崩れ、構図も失敗していて、人らしきものの表情にも覇気がなかった。
ただ、べたべたと塗りたくられた、真っ黒な絵の具があるだけだった。
「あんなに鮮やかなんだ。青と緑が美しく調和してるんだ。今までで一番うまく描けたんだ! なのに……それなのに……」
再びわたしの胸の中に顔を埋めた彼を、わたしはそっと撫でた。
「わからないなんて……よりによって君が……君がわからないなんて……」
わたしの目は、手術で強化されたわたしの目は、その時すでに輝きを失っていただろうか。
「ぼくにはもう……描く意味もない……」
どうして?
わたしは、あなたのためにこんな体になったのに。
あなたのために、奴らに体を捧げたのに。
なのに、どうして?
「どうしてそんなことを言うの?」
「ん……」
スミカは小さく呻き、そして、
「んが―――――――!!」
ツヴァイトは思わず耳を塞いだ。通信機のスピーカーから響いてくるスミカの大声が、コックピットの中をビリビリ震わせている。
『あーもう腹立つ! むかつく! 青だか緑だかしらんが片っ端からぶっつぶしてやるわカーカカカカカカカ!』
「ああ!? おいちょっまっ」
やけくそ気味に叫ぶやいなや、ツヴァイトをほったらかして飛び出すコーラルスター。そのド派手な蛍光ピンクの機体が、真っ正面からMT部隊に突っ込んでいく。軽量級ならではの目にも留まらぬ速さで、あっというまに戦闘距離にエンゲージ。一人でどんぱちやらかしはじめる。
作戦もなにもあったもんじゃない。人がせっかく頭を捻って役割分担を考えたというのに。
「……オレはもうしらねぇぞ」
『フハーハハハ死ねェーい!』
そうこうしている間にも、コーラルスターはぴょんぴょん身軽に飛び回りながら、手にしたハンドガンで正確に敵の装甲を撃ち抜いていく。操縦技術は間違いなく一流。ツヴァイトも舌を巻く程だ。しかし――
挟み撃ちは挟み撃ち。コーラルスターを後ろから狙っているMTが一機。
――ほっとくわけにはいかないか。
ツヴァイトは大きく溜息吐くと、狙いを定めてトリガーを引いた。
わたしがある日、仕事を終えて家に帰ると――
彼の姿は、もうどこにもなかった。
彼の荷物と、彼の作品と、彼の画材道具と、そして彼自身。わたしたちの――いや、その瞬間からわたしの家となったその場所から、それらがきれいに消え去っていた。
結局、彼の求めた物は、わたしではなかった。
彼はわたしを愛したいのではなかった。
彼はただ、自分を認めてくれる人間が欲しかっただけ。
わたしに愛されたかっただけなのだ。
彼が出ていったことを知ったその瞬間、わたしの中で冷めかけていた彼への気持ちが、音を立てて凍てついた。彼を愛おしいと思う気持ちも、彼の役に立ちたいという気持ちも、彼の将来を案じる気持ちも――全てが冷たい氷の塊の中に封じ込められた。
それでも、人の心というのは、部屋を掃除するようにはきれいにならない。
たとえくすぶっていた火が完全に消えたとしても、凍り付いた残りカスだけが、ずっとわたしの中に居座り続けていた。
今も。そしてたぶん、これからも。
わたしは、幸せではなかった。
幸せになるために強化手術を受けたはずなのに、なぜか、幸せではなかった。
自分の手に余る力を求めた、代償がこれだろうか。人は、自分の手で掴めるものしか掴んではならないのだろうか。神さまか、あるいは悪魔に、救いを求めてはならないのだろうか。
そうなのかもしれない。少なくともそれは、わたしにとっての真実のように思えた。
わたしは組織を裏切ることを心に決めた。
パチパチと、焚き火の木切れが音を立てている。
オレンジ色の炎に照らされながら、ツヴァイトはごろりと横になった。
木々もまばらな森の中に隠した、ヴィーダーとコーラルスター。その足元で、キャンプをはる男と女。これがリゾートなら、女の子を抱き寄せたりして、いろいろ楽しむこともあるというものだが。
「これじゃまるっきり、落ち武者だもんなァ……」
また、ツヴァイトは溜息を吐いた。
さっきの戦闘で、ヴィーダーもコーラルスターもあっちこっちに被弾している。このまま動かすのは危険な状態だ。おまけに、あの古城はもう使えない。敵に位置を知られてしまったのだから、長居をするわけにはいかない。
だから、敵のMT部隊をなんとか全滅させたあと、這々の体で逃げてきたのである。スミカのバックについている組織との合流地点。ここで待っていれば、明日には補給と修理が受けられる。
ふと、ツヴァイトは、焚き火の向かい側で膝を抱えて座っている、スミカの顔を見やった。
MT相手に大暴れしたかと思いきや、さっきからすっかりしょげかえってしまって、ほとんど口をきこうともしない。火を焚いてからは、何かに取り憑かれたかのように、炎の揺らぎをじっと見つめている始末である。
ツヴァイトは頭を掻いた。どうも苦手だ。こういう空気は。
なにか話して景気をつけなきゃ。そんなふうに焦るから、ついどうでもいいことを聞いてしまう。
「あのよ」
「なに」
スミカはぽつりとそう返した。ますます空気が重い。
「なんでさっき、オレの話を聞かなかった? あれでも有効な戦術を考えたつもりじゃあるんだぜ」
スミカはちらりとツヴァイトを見ると、それっきり、再び火に視線を落とす。答えるつもりはないってことか。ツヴァイトは諦めて、そのまま眠ろうと目を閉じた。
「きれいだと思わない?」
片目を開けて、ツヴァイトはスミカを不思議そうに見やる。その瞳の中で、逆さまにひっくりかえった炎が揺れている。
「……あ?」
「火」
ツヴァイトは、起きあがった。なにかスミカが話したがっていることは、ツヴァイトにもわかった。寝たまま聞いていいような話でないことも。
「わたしね、色がわからないの」
「色?」
「色盲ってやつ。強化手術を受けたとき、副作用でそうなった。どんな色も、全部灰色か黒か白にしか見えないの」
そういえば、とツヴァイトは記憶を探る。いくつか思い当たるふしもある。あの時、それぞれの役割分担を敵の色で指定したから、スミカにはそれが理解できなかったというわけだ。
「唯一わかるのが、明るい赤系の色だけで……コーラルスターとか、この髪とかも、それで染めたんだ。ほらー、なんか鏡見た時にさ。だっさいじゃない? 灰色ばっかりだと。それでね」
と、スミカはにっこり笑ってみせる。無理して笑っているのが、ツヴァイトの目にも明らかだ。
だが、それを聞いてどうしろっていうんだ。ツヴァイトは真剣な顔をして話を聞きながら、何も声をかけられない自分を呪った。自分なんかに、そんな話をするスミカをも。
「強化人間……だったのか」
やっと声が出たとおもえば、こんな言葉。
「まあね。前に、画家志望の男の子と一緒に暮らしててさ。彼の趣味ってのが、これまたお金がかかるわけ。わたし、あんまり腕が良くなかったし、貧乏してたから……彼のためにと思って、つい」
「画家?」
「うん。だから、手術のせいでこんな体になって。彼の絵、好きだったんだけど、それも理解できなくなって。それが嫌だったんだろうね。彼、そのあとすぐに出て行っちゃった」
「勝手な男だ」
吐き捨てるように言ったツヴァイトに、
「そんな風に言わないで」
スミカの低い声が返ってきた。
「それでも、好きだったんだもん。その時は」
つくづく自分が嫌になる。
しばらく二人とも、押し黙っていた。ツヴァイトはもう何も言えなくなっていた。自分が口を開けば開くほど、スミカの傷口が開かれていくように思えたから。
だが、スミカが傷口を開きたがっているように見えるのは気のせいだろうか。血を流したがっているように見えるのは。そしてそれが事実だったとして、一体どうするべきなのだろう。傷口を開いて悪い血を流させてやるべきなのか。それとも優しく包帯を巻いて、全てを塗り込めて隠してしまうべきなのか。
悩むツヴァイトよりも先に口を開いたのは、スミカの方だった。
「やっぱり、だめなんだよ。人間の体は、無理矢理作り替えちゃいけない。そんなことしたって、不幸になるだけなんだ。人間は、自分の手でつかめるものをつかまなきゃいけない。自分の足で歩ける所を歩かなきゃいけない」
スミカはただじっと、炎を見つめている。
「神さまになろうなんて思っちゃいけない」
その指が白むほど、固く拳を握りしめて。
「だからわたしは組織を潰す。あんな組織、あんな技術、この世にあっちゃいけないんだわ」
ちぇ、とツヴァイトは舌打ちをした。
再びごろりと寝ころがる。地面に敷いた保温シートが、ごつごつした土の感触を和らげてくれる。寝返りを打ってスミカに背を向け、できるだけぶっきらぼうに聞こえるように、気を付けながら声を出した。
「15万だ!」
「え?」
驚いたスミカが、顔を持ち上げたような気配がした。
「手伝ってやるって言ってんだよ! 潰すんだろ、その、チューズデイ機関とかなんとかいうのを」
「ウェンズデイ」
言われてツヴァイトは顔をしかめる。どっちでもいいじゃないか。火曜日だろうが水曜日だろうが。
背中の方で、がさごそ音がする。スミカが近付いてくるのが、気配でわかる。なんとなく気恥ずかしくなって、狸寝入りを決め込んでいると、耳に暖かな吐息の感触が伝わってきた。
「ありがと、ツヴァイト」
耳元で小さくそう囁くと、無精ひげだらけのツヴァイトのほっぺたに、そっとキスをして、スミカは飛ぶように自分の保温シートに逃げ帰った。
ツヴァイトが寝返りのふりして、スミカの様子をうかがうと、すっかり毛布にくるまって芋虫みたいになったスミカが、こっちと同じく狸寝入りを決め込んでいる。
まだ唇の感触が残っているほっぺたを、人差し指でぽりぽり掻いて、ツヴァイトはひょいと肩をすくめた。
そして心で誰かに問いかける。
――ばかなこと、してると思うかい?
薪がはじけて、それに答えた。
to be continued.