#03-01 スティンガー
「事態は予断を許さない状況まで進行している」
暗く澱んだ空気。
スティンガーはそれを、細く吸って、吐いた。
ウェンズデイ機関幹部会への呼び出し――今まで一度も喰らったことのないその処分が、何を意味しているかはスティンガーも知っている。立ち尽くすスティンガーの前で鷹揚に座っている三人の幹部達、その一人が予想通りの言葉を放つ。
「わかるね、スティンガー君。これは雇用契約の特例第二条、中途解雇に関する取り決めに基づいた、警告だ」
舌を打ちたいのを、スティンガーはなんとか我慢した。
契約書の内容などほとんど覚えてはいないが、確か、そういう条文があったように思う。つまり、雇い主の都合による、契約期間満了以前の中途解雇をする場合は、その一ヶ月以上前に、警告を行わねばならないという条文だ。
二度に渡る大失態――契約を無視して解雇されても文句は言えない。一度目は、組織の内情を知り尽くした強化人間実験体スミカ・ユーティライネンを取り逃がし、二度目は、スミカとツヴァイトを目前にしながらそれを排除し損ねた。
律儀に警告を与えてくれているあたり、まだ感謝せねばならないくらいだろうか。
「あの失敗作が向こうの手に渡ったことは、非常に由々しき問題だ。あれを手中に収めたことで、ムラクモ査問委員会は我が機関への本格的侵攻を決断するだろう」
「ムラクモのこれまでのやりくちからして、数日以内に電撃的侵攻を行ってくることが予測される」
「わかるね、スティンガー君」
もう一度、最初の幹部が重い口を開いた。
「君には契約に基づき、あと一ヶ月の猶予が与えられる。その間の働き如何によっては、解雇の決断が覆ることもありうるということだよ」
メガネをかけたその幹部は、スティンガーの顔を上目遣いに睨みながら、手元の印鑑を朱肉に押しつけた。ぽん、と軽快な音を立てて書類に判を押し、スティンガーを手招きで呼び寄せる。
中途解雇に関する警告の実施証明書。
「ここにサインを」
言われるままにペンをとり、機械的にネストのレイヴン登録番号を書き下していくスティンガーに、幹部は小さくこう呟いた。
「しっかりやりたまえ。なんといったかな、あの少女――そう、アヤといったか」
一瞬だけ、スティンガーの指が止まる。
「彼女の再生、諦めたわけではあるまい?」
心底どうでもよさそうに言うと、幹部はサインの終わった証明書をまじまじと見つめ、カーボンコピーをスティンガーによこした。
「以上だ」
結局、スティンガーは一言も口を開かなかった。
アヤ。
スティンガーは走った。
真っ暗な地下都市の道を、どこへ続くとも知れない道を、ただ走った。
道は無限に続いている。どこまで走ってもどこへもたどり着かない。そんな錯覚さえしてくる深い深い黒。まるで森の草木を掻き分けるように、質量を持った重苦しい夜を掻き分けてスティンガーは走る。
アヤ。
彼女の元へ。
たどり着いた場所はどこかの地下研究所。どこかの大企業が出資して作った、強化人間の実験場。スラムの一角にある秘密の入口は、ガードの張った立入禁止のビニールテープに閉ざされていた。
スティンガーは体にまとわりつく黄色いテープをむしり取り、制服を着た警官をはね除け、階段を下った。たどり着いたのは地獄の釜の底のような実験室。鑑識官が床を這い回っているのを蹴飛ばし、ふらつきながら奥へ進む。
「あなたは?」
スーツ姿の警官がスティンガーに問うた。
「……ネスト登録番号GH80-1052」
「ああ……あなたが」
警官はスティンガーをさらに奥へと案内した。スティンガーは焦点のさだまらない視界に戸惑いながら、ただ警官の背中を追った。どこへ案内されているんだろう。この闇から抜け出せる、どこか明るい場所へか? それとももっと暗い深淵へか?
「身元の確認をお願いしたいのは……」
警官は、スティンガーにそれを見せた。
「この遺体です」
アヤ。
もう。
なにも。
スティンガーは震えた。円柱形の透明なケースを抱きしめ、床に座り込んで震えた。一抱え程の大きさのそのケースに、残っているのは、安らかに目を閉じ、まるで眠っているかのような――
アヤの頭部だけだった。
「アヤ……」
「間違いありませんか」
「アヤ……っ」
警官は頭を横に振り、スティンガーを残して立ち去った。
俺のせいだ。
俺がもっとやさしくしてやれば。俺がもっとお前のことを考えてやれば。あのときあんなことを言わなければ。
お前が家を飛び出すこともなかった。
モルモット狩りに遭うこともなかった。
死ぬこともなかったんだ。
面倒だから――俺はお前に甘えていた。
お前が俺を愛してくれることに甘えていた。
ただ俺が俺であるだけで、愛し続けてくれるなんて思っていたんだ。
でもお前はもう、俺を愛してくれない。
だから俺はもう負けられない。
スティンガーは部屋を出るなり、カーボンコピーを握りつぶした。青いカーボンコピーが手にまとわりつくのもかまわず、渾身の力を込めて握りしめた。自分のことなんてどうでもいい。そんな面倒なことは。
今こそ俺は全ての面倒を切り捨てよう。
ただ、お前を蘇らせるためだけに生きよう。
もう決めた。
そう決めたんだ。アヤ。
少女は去っていくスティンガーの背中を見つめていた。
まるで亡霊のように、淡く、白く、虚しく。
ただ、彼の背中だけを見つめていた。
(つづく)