『甘さ』とは、なにか。
ミレニアム、セミナー執務室。そこでは、いつものようにユウカとノアが作業に取り組んでいた。
しかし、『いつもと同じ』というのはあくまで表面上だけのものだ。
ここしばらくの間、ユウカは普段以上に静かに、沈んだ様子で作業を続けていた。長い間近くでユウカの姿を見てきたノアにとって、それは明らかな異常事態であり、その原因は火を見るよりも明らかだった。
────センジョウがゲヘナの異変を解決し、戻ってきた翌日。その翌朝から、ユウカは笑わなくなってしまった。
そして、時を同じくしてシャーレの当番制度がすべてキャンセルされ、その日以降、『蒼井センジョウ』の姿を見た生徒は、1人もいない。
考えるまでもなく、センジョウとユウカの間に、何かがあったという事は間違いはなかった。
そして、仲が良かったことを誰よりも知っていたが故に、ノアは、ユウカを傷つけたセンジョウの事を許せなかった。
そうして、そんな中で。つい昨日。ショッピングモールに買い物に来ていたノアは────見てしまったのだ。
トリニティの生徒、『聖園ミカ』と、仲睦まじく手を繋いでデートをしているセンジョウの姿を。
その光景を見たノアはガラにもなく、その場で愛銃を引き抜き、センジョウの脳天をぶち抜いてやろうかとさえ思った。しかしまあ、何とか、どうにかこうにか。その行動は、結果に悲しむユウカの姿を思い浮かべ、なんとか思いとどまることができたのだが。
しかし、だからと言ってセンジョウの行動のすべてを許せるわけでもない。なにせ、可愛い可愛いユウカちゃんの事を放り出すどころか、その笑顔を奪っておきながら、自分は他の女にうつつを抜かしているのだ。
あの男の決定的な瞬間をこの目に記録してやろうと考えたノアは、その後をつけ、一日を過ごした。
結果として、浮気(?)の現場らしい現場を確認することはできなかったが、どうやら誘ったのはミカで、センジョウは振り回されているだけという事も確認できた。
ともかく。たとえセンジョウが乗り気でなかったとしても、『ユウカのライバル』と思わしき生徒が現れた。という事実は、すくなからずノアにとって衝撃的な事実だった。
いずれにしても、ノアにとって、この現状は好ましいものではなかった。
だからつい、ノアはユウカに声をかけてしまった。
「ユウカちゃん。……センジョウ君となにか、あったんですか?」
ノアの言葉に、ユウカの作業の手が止まる。
「別に、どうもしてないわよ」
ユウカのその声に動揺はなかった。ただ、どこまでも冷静で、冷たい印象すら受ける、そんな言い方。
それだけの喧嘩をしたのだろうか、と。そんなことをノアは考えた。
だが、浮気(?)の話をすれば、さすがに怒るなり、慌てるなり、不機嫌になるだろう。と、そんなことを考えながら。
「そうなんですか?……あ、そうそう。実は昨日、シラトリ区のショッピングモールでセンジョウ君を見かけたんですよ」
「ふーん」
「その時ですね、実は……一緒に、トリニティの聖園さんがいたんですよ」
その言葉を聞いたユウカは──
「──そう」
それでもなお、冷静なまま静かに作業を再開した。
「ゆ、ユウカちゃん?気にならないんですか?」
「別に。あいつがどこで誰と何をしていても……センジョウの、自由でしょ」
おかしい。これはさすがに、なにかがおかしい。
怒るのでも、取り乱すのでもなく、まるで──そう。『蒼井センジョウ』という人間の情報を遮断しようとしているかのような、ユウカの徹底した態度は、彼女と彼の関係を考慮に含めずとも異常という他に無かった。
「…………やっぱり、何かあったんですね」
「別に、何もなかったって言ってるでしょ」
「ユウカちゃん」
「仕事、進めないと終わらないわよ」
────これ以上、その話はするな。
そう態度で示すユウカに、ノアは。
「ダメですよ。ユウカちゃん」
席を立ち、ユウカの手を掴んでいた。
そうして、その手を引いて、自分の方へ彼女の身体を向かせる。
「それは、ダメです。そんなこと、ユウカちゃんだって望んでないでしょう?」
だって、そうだろう。
ユウカの顔は、苦悩に押し潰され、今にも泣き出しそうになっていた。
ノアは、そんな顔をユウカにはしていて欲しくない。
「教えてください。彼と──『蒼井センジョウ』と、何があったんですか」
「だから、別に、なにも────」
ノアの言葉に、ユウカは顔を伏せて視線をずらす。だが、ノアはそれでもユウカをじっと、見つめ続ける。
「私にユウカちゃんの嘘は、通用しませんよ」
ノアの言葉に、ユウカは息を飲む。
ノアのつかむ、彼女の腕は──微かに、震えていた。
それは、怒りか、恐怖か。それとも。
それでも。
「何があっても。私はユウカちゃんの味方です」
だから、話して欲しいのだ。だから、助けになりたいのだ。早瀬ユウカという少女は、間違いなく、生塩ノアにとって、『大切な友人』なのだから。
そんなノアの言葉と、態度と、姿に。ユウカは、震えたまま大きく息を吸い込んで、揺れるため息をついた。
そうして、いくらかの沈黙のあと、緩やかに、静かに、その心の内を言葉に乗せる。
「私は、あの日────」
────センジョウが一人、シャーレで慟哭に暮れていたあの日。
その姿を見つけたユウカの胸に沸き上がった思いは、『嫌悪感』だった。
己の弱さに溺れ、泣きわめき、自分にすがるセンジョウの姿を見て。ユウカは確かに、その姿を拒絶していた。
彼が進むなら、その背中を支えようと。
彼が道を誤るのなら、その手を引いて引き留めようと。
彼と共に居られたなら、きっと。──きっと、どこまでも行けると。そう思っていた。
──『思っていた』のだ。
その気持ちに嘘偽りなどありはしない。彼女──『早瀬ユウカ』は、確かに誰よりも『蒼井センジョウ』の事を想っていた。
だが、そんな彼女の覚悟を打ち砕くように、踏みにじるように、その『現実』が、そこには広がっていた。
絶望にうちひしがれ、後悔に沈む、その『男』の姿は、これ以上ない程に醜く、ユウカの瞳に写っていた。
ユウカが、自分にすがるセンジョウを優しく抱き締めたのは、彼の事を思ってではない。
ただ、本当に、『見ていられなかった』。
受け入れられなかった、受け入れたくなかったのだ。
愛したはずの男の、醜い姿を。そして、悲嘆に暮れる彼に、その姿を見て、手を指し伸ばすことを躊躇った、自分を。
だから、その気持ちにそっと蓋をするように。包み隠して、覆うために。
彼女はそっと、センジョウを胸の内に抱き込んだのだ。
「…………私は、卑怯なんだなって。そう思った」
胸の内の全てを。淀んで濁って、ぐちゃぐちゃになった泥の全てを吐き出して。ユウカは、うつむいたまま、ポツリと呟いた。
「結局私は、センジョウを支えたい。なんて言って。彼の力になれてる自分に浮かれてただけだったみたい」
センジョウに出会う前の、自分の姿を思い浮かべて、ユウカは、強く拳を握りしめる。
「先生の仕事を初めて手伝った時、私は、『ああ。この人は自分がいないとダメなんだ』って思って。『私は、この人のためになってるんだ』ってうかれて」
頼まれてもいない仕事を買って出て。『先生』の私生活にも口をだして。それは、その方が良いと思っていたからで。
「でも、私はセンジョウにであって。アイツとケンカしながら、競いながら、ぶつかり合いながら……助け合いながら、ここまで来て。そこで、思ったの」
「『この人となら。私はきっと、もっと良い毎日を送れるんじゃないか』って」
「センジョウとなら、ずっと一緒に。これから先も、前に歩き続けられるんじゃないか。って」
そして、それは。
「きっとそれは、センジョウにとってもそうなんだって。……そう、思ってた。私は、私なら、センジョウの力になれるんだ。って」
ぽつぽつ、と。雫がこぼれ落ちる。
「でも、私は……!私は!センジョウの『強さ』しか見えてなかった!」
怒りからか、嘆きからか。ユウカは声を荒げる。
「どんなに辛くても、どんなに傷だらけになっても!どんなに、どんなに絶望的でも、『進み続けられる』と、勝手にそう期待して!理解した気になって!!」
わかっていた。つもりだった。
「それなのに!本当に悩んで、苦しんで!『助け』を、求められた時に、私は…………!!」
一人で震え、助けを求め、伸ばされたその手を。握ることが出来なかった。
「私は────!!」
ユウカは。結局。
「センジョウに、『ここに居て良いんだ』って……言えなかった…………ッ!!」
────おれは、どうしてここにいるんだ……?
センジョウの、助けを求める声が。呪いの言葉となってユウカの中で反響する。
その問いに。助けに。
「私は……!私は!センジョウに応えられない……!あの人の全部を、受け入れ、られなかった……!!」
ユウカは、ぼろぼろと大粒の涙を流しながら、歯を食い縛り、拳を握りしめ。
その悔しさを、怒りを、やるせなさを。
ぶつける矛先を失ったまま、ただ。
「……ユウカちゃん」
ユウカは、ノアから見て、贔屓を抜きにしてもかなり面倒見の良い性格をしている。他人思いで、優しくて、誰にでも好かれるような、そんな少女だ。
だけど、そんなユウカをよく知るノアでさえ。ユウカの、こんな涙を──誰かを、これ程までに想って流す『涙』を見るのは、初めてのことだった。
『蒼井センジョウ』という一人の少年の存在は、いつの間にか、『早瀬ユウカ』という少女の中で、それ程までに大きく、膨らんでいた。
そして、その感覚は──ノアには、わからない。
今までの全てを記録する自分の脳にさえ、その答えは、どこを探しても見当たらない。
こんな時に、こんな大事な時に役に立たないのであれば、こんなものはもう。『呪い』にしかならない。なんて、そんなことを考えながら。
きっと。誰もがそんなことは、こんな結果は、望んではいなかった筈なのに。
ユウカだって。ノアだって。……もちろん、センジョウも。
だれもが『より良い明日』を求めた先に待っていたものが。こんな『呪い』であるのなら。いっそ────
雲の切れ間さえ見えぬような、厚い雲に覆われた空のような息苦しさの中。場違いで、調子外れな、のんきな通知音が響く。
だれかが音声設定を弄ったのだろうか。だとすれば、セミナーの作業用PCに干渉する等という質の悪いイタズラだ。
だが、奇妙なことに。この瞬間だけは。それが、不思議な作用をもたらした。
暗く沈んで、落ち込んでいた筈のノアとユウカの視線が、PCの画面へ吸い込まれる。
そこに表示されていた、新着メッセージが、1件。
件名はこうだ。
『先日のお礼がしたいので、会ってお話しませんか?』
そして、差出人の名前を見て、ノアは息を飲んだ。
────from:トリニティ3年 聖園ミカ
というわけで、日常編2話、前編をお送りしました。
ここで皆様にご報告です。
予定通り、プロットの構成が完了しましたので、今回より投稿ペースをもとに戻そうと思います。
2~3日に一回ぐらいで、後は大きな問題がない限り、完結まで走りきる予定ですので、今後とも是非、よろしくお願いします!