「私に、東京を捨てろと
低頭する首相に対し、皇太子は悲愴な面持ちでそう言った。
「いえ、一時的な避難でございます。昨今の情勢を鑑みまして、それが最もよろしいかと」
二人は、7年前に一片の欠片も残さず消滅し、昨年になってやっと一部が再建された宮殿の松の間で面会していた。皇居が存在した江戸城跡地は、ゴジラの熱線によって石垣の一部を残すのみとなり、建物はおろか地表ごと剝がされたように灰塵に帰した。宮内庁庁舎も皇宮警察本部も消滅し、皇居の機能は一旦葉山御用邸に移された。皇居再建は、海神作戦後の政府にとって大事業となったが、当の皇室は速やかな再建を望まず、まずは被災した人々への生活支援を最優先にするよう宮内庁を通じて要望した。その結果、まずは江戸城の外郭再建を進めることになり、皇居再建はその後となった。
「しかし、私はこの国の象徴たる責務を、陛下より
今年二十一歳になる皇太子は、病床に伏せる父に代わり、皇室の代表者としてそう明言した。
「はい、お言葉はごもっともでございます。しかしながら、先日の名古屋壊滅もございますし……またいつ、ゴジラが本土を襲来するか分かりません。葉山も海に近く、危険です。なのでどうか那須か、もしくは大規模改修した
松代……松代大本営は、話だけは皇太子も聞いたことがあった。戦時中、皇室の保全を想った陸軍が発案し、陸軍人であった
「とにかく、海辺の地域は危険でございます。私は内閣総理大臣として、速やかなご移転をご進言いたします」
皇太子は口を閉ざし、開かれた
「……総理、ではお訊ねしたい。なぜ日本の領海に設置したガイガーブイがほとんど消失したことを国民に伏せているのか」
その発言に首相は目を丸くして顔を上げた。なぜ知っているのだと言わんばかりの顔をして。
「名古屋壊滅の前日に、こちらに海上保安庁長官が拝謁を願い出てきました。私はそれを許可して、日本のガイガーブイがことごとく消失したと報告を受けました。おそらく、ゴジラの仕業でしょう。長官はあなたに、航行する船舶の制限を訴えたが、聞き入れられなかったと涙ながらに私に報告してくれた。昨今、伊豆諸島や小笠原諸島近海を航海する船舶が、原因不明の事象によって行方不明になってると聞きます。総理、あなたが長官の意見にきちんと耳を傾けていたならば、それも防げていたのではないのですか」
首相は冷や汗をかきながら、頭を下げ続けた。
「あと、その日は防衛庁長官も同席していました。彼もまた海上保安庁長官と同意見だったとのことです。現在我が国には自衛隊がありますが、その戦力はまだまだ不十分であり、単刀直入に言ってゴジラを倒す確証はないと言っていました。彼は元陸軍少佐とのことですが、その彼が言うのですから、確かなのでしょう。また彼は、現在、民間からの情報と資料提供によって、ゴジラにとても効果があるという兵器の開発に着手しているとのことです。あなたはそれをご存知ですか?」
「だ、断片的にはですが……しかし、どこまで確証があるのかも不明瞭ですし、それに民間主導ともなりますと、政府といたしましては、その……」
「何か問題ですか? おかしな話ではありませんか。もう日本は変わったんです。私も陛下も、この国の統治者ではありません。ただの象徴です。神社の狛犬のようなものですよ。神社は、人が参拝しなければ廃れてしまう。今この国は、多くの国民の意思によって運営されている。一部の人たちではない、この国の国民全員によってです。あなたは確かに国民の選挙によって選ばれた政治家だが、政治家だけがこの国を動かすのですか? 政治家の都合や思惑だけで、この国はこれから舵取りをなされるのですか? それならば、帝国時代とさほど変わらないのではありませんか? 総理、あなたの考えを聞かせていただきたい」
首相は言葉を失い、体を震わせながら低頭し続けた。皇太子はさらに続けた。
「私は、あなたもよく知っているように、政治的権限はない。だから私がこうして語りかけているのは、あくまで話をしているだけです。あなたに命令をする権限は私にはない。だがそれでいいんです。それが立憲君主というものです。私に出来ることは、国民を想い、国民に寄り添うこと。ただそれは、あなたも同じなはずです。違いますか? ……それと、私は本日中に名古屋を慰問します」
「き、聞いておりませんっ」
皇太子は黙って首相を見つめた。その眼光は、とても冷ややかなものだった。首相は、それ以上言葉をつなげることが出来ず、ひたすら低頭した。
「慰問は政治的な活動に当たりますか? 違うと思います。私は、どこまでも国民と共にありたい。たとえ東京に、またゴジラが来たとしても、私はここを離れません。あなたは好きにすればいい。私はここで、日本国の象徴の責務を果たし続けます。それを害する権限を、あなたがお持ちなら別ですが」
首相は、もう言葉を発する気力さえ失っていた。戦後日本、そしてゴジラ災害後の日本政界を牛耳っていこうという野心は、もう火が消えかけていた。
皇太子は最後に、頼りない政治家に向かってこう告げた。
「あなたは、日本をどうしたいのか? 私はどうも理解が出来ない。今後、私はもうあなたとお会いしたくはない。別の閣僚にあなたの名代となっていただいて、拝謁を許可します。誰に会うかどうかは、私に権限がある。違いますか、総理」
「まだ試作品ですが、これがあなたから提供を受けたオソニチンを使用した特殊弾頭です」
横須賀の兵器工廠で、堀田が披露した新しい主砲弾頭に、野田は興味津々だった。やっと形になった姿に、技術士官時代の血が湧きたつ思いだった。
「弾頭部分に液状オソニチンを搭載し、ゴジラの口に撃ちこむ。着弾と同時に弾頭部分が崩壊し、液状オソニチンがゴジラの体内に入る、という仕組みです」
「おお、すごい……やっと出来たんですね」
野田は弾頭を猫を撫でるように優しく触れながら、感嘆の声を漏らした。
「野田さん、なんかマッドサイエンティストみたいな顔してるよ」
水島が茶化すように言った。英語の勉強をした過程で覚えた言葉らしい。きっと辞書に載ってるのを見つけた時、ああこれは野田にぴったりな言葉だと意地悪に考えたのだろう。
「し、失礼な。これは、僕たちの希望だよ」
「今週中には、実戦配備が可能になるでしょう。急遽長官からも、開発を急ぐよう激励の言葉を受けました」
「……もう少し早ければ、名古屋もあんなことにはならなかったのに」
水島が無念そうに呟いた。ゴジラが名古屋を襲った時、主要戦力はほぼ全て米軍だった。アメリカはハワイの恨みを忘れておらず、何としても自分たちの手でゴジラを抹殺しようとした。だがその結果は、名古屋城を中心として半径10キロに渡る巨大なクレーターを生んだだけだった。多くの人命が奪われただけではなく、東海道線などの交通網も断絶させられ、東京から大阪方面への移動に多大な影響が出た。放射能汚染も酷いために、いつになったら復旧工事が始まるのか見通しも立てられない。人々はただ、もどかしさを噛みしめていた。
「……今度こそ、自衛隊には頑張ってもらおう。この弾頭があれば、勝機はあるっ。水島君、僕たちは勝てるんだよ!」
水島の肩をつかんで、野田は喝を入れた。水島は、いつもの笑顔を取り戻し「おう!」と答えた。
「……問題は、今度いつゴジラが、どこに現れるかですな。この兵器も、「はるかぜ」の射程圏内でなければ使い物にならない。魚雷への転用も視野に改良を試みていますが、いざゴジラとの戦闘となれば、地上戦も考慮しなければなりません」
「その通りです。他にも何か対抗策を考えないと、いざという時に臨機応変な行動ができません。私も今後は、技術士官時代のツテを当たってみます」
その時、工廠の職員が血相を変えて皆に話しかけた。
「おい、皇太子殿下が名古屋へ行かれたそうだ! 緊急の慰問だそうだぞ」
工廠内はざわめき、皇太子を称える声であふれた。名古屋出身の作業員が涙する姿もあった。
「この国は、まだまだ復興の途中です。それでも希望を捨てない人たちは、大勢います。我々も頑張りましょう」
野田の声に、堀田と水島は頷いた。
尾張名古屋は城で持つとは、江戸時代から云われた有名な誉め言葉だった。
かつては徳川御三家筆頭の尾張徳川家が治め、東海地方随一の繁栄を誇っていた名古屋の都市は、土と瓦礫にまみれたこの世の終わりの姿を晴天の下に晒していた。
皇太子は御召列車で岡崎駅まで向かい、そこから用意された黒塗りの自動車で名古屋市に入った。
正確には、名古屋市だった場所、だった。市役所や県庁などの主要な公的機関は全て破壊され、未だに行政執行者の代理人もおらず、その管理は
皇太子は、ちょうどクレーターの端に当たる土地から、跡形もなく都市部が消え去った光景を見つめていた。それは7年前の東京と同じ……いや、もっと被害が甚大に思えた。
「何ということか……」
皇太子は爆心地に向けて、目を閉じて合掌した。クレーターの範囲内は高濃度の放射性物質が蔓延しており、入ることはできない。何人か人の姿があったが、いずれも防護服にマスクを装着しており、それほどの装備をしなければ、生物はすぐに死に絶えてしまう過酷な環境だった。
皇太子は、被害が軽微だった郊外に足を向け、出会う被災者たちに頭を下げ、声をかけた。大日本帝国がなくなっても、未だに皇室を神と敬う人々はいて、涙を流しながら皇太子殿下に膝をついた。中には「見世物じゃねぇんだぞ!」と罵声を浴びせる者もいたが、皇太子は、何も言わずに頭を下げるばかりだった。時代は変わっている、今は民主国家日本国なのだ。自分はその国の象徴に過ぎない。それを皇太子は重々承知していた。象徴に出来ることは、国民と共にあること、国民の苦楽を分かち合うこと、国民に寄り添うことだと、皇太子は父から教わっていた。
野外病院を訪れた際も、患者の反応は様々で、涙を流す者もいれば、興味のない顔、憤怒の顔をする者もいた。皇太子は被災者たちの多種多様な感情を吞み込んでいくように、患者の慰問を続けた。
「この人にも出てるわ、すぐ搬送の準備を!」
それは女性の声だった。目を遣ると、どうやら日本人ではない。ブロンドの髪に軍服を思わせる服、さらに背がとても高かった。その隣には、似た服装をした日本人女性の姿もあり、助手のようにてきぱきと行動していた。
「あの方は、米軍の医官か何かか?」
皇太子は侍従に訊ねたが、そういう情報を得ていない侍従は困った顔をした。
皇太子は、彼女たちに歩み寄った。
「お仕事中に申し訳ない、少しお話を聞いてもよろしいですか?」
「何? 私は見てのとおり忙しいの! メディアの取材ならお断りよ!」
長身の女性は背を向けたままで、まだ皇太子の顔すら見ていない。すると女性に付き添っていた日本人女性が皇太子を見て驚いた顔をして、長身の女性に耳打ちした。長身の女性は、やっと振り向いて皇太子の顔を見た。
「あら、どうも失礼。まさかプリンスのお出ましとは思わなかったわ」
長身の女性は額の汗を腕で拭い、爽やかな笑顔を見せた。皇太子は礼儀正しく一礼した。
「私はジェニス、ジェニス・クロフォード。アメリカ陸軍技術士官待遇の軍属です」
「皇太子の
「いい質問ね。実はゴジラの災害に被災した人の中には、体に黒い痣が出来てしまう人がいるの。私はその治療法をドクター・ナカジマと研究し、やっと治療法が見つかったばかりなの。そこで、ここにも黒い痣が出ている人がいないか調べてるの。見つけ次第、東京の病院に搬送する」
「なるほど……何か、私にお手伝いできることはありますか?」
唐突な提案に侍従が呼び止めたが、皇太子は「いいから」と言って侍従を黙らせた。
「勇気があるのねプリンス、気に入ったわ。では選別した患者の搬送準備を手伝ってくださらない?」
「わかりました」
皇太子はマスクと白い手袋をジェニスから手渡され、それを身に着けて彼女と行動を共にした。やがて侍従たちも手伝い始め、作業の効率性は上がった。
「ほら、これよ。これがその痣」
担架に横たわる男性患者の右腕には、黒々とした醜い痣が存在していた。
「これが、ゴジラの影響で……」
「そう。まだ未解明なことが多いけど、人格を狂暴にしたり、昏睡状態にしたり、悪夢を見せたり。とにかく悪化する前に治療が必要なの。カヨ! 無線機を」
カヨと呼ばれた日本人女性は、携帯式の無線機をジェニスに渡した。ジェニスは母国語で話し始めた。
「こちらクロフォード、患者の選別終了。直ちに搬送機をお願い」
「了解、〝ハスキー〟は十分以内に到着予定。以上」
通信を終え、ジェニスはその辺にあった茶箱を椅子代わりにして座り、煙草を口にくわえた。皇太子にもすすめたが、彼は遠慮した。カヨがマッチを擦り、煙草に火を点けた。ジェニスはカヨの臀部を触りながらにやけた。
「あなたは、どうして日本に」
皇太子が訊ねた。ジェニスは紫煙を吐いてから質問に答えた。
「私は核物理学が専門で、原爆の製造にずっと関わってきた。ヒロシマとナガサキのもそうよ」
思いもしなかった告白に皇太子は衝撃を受けたが、表情を崩さずにジェニスの声に耳を傾けた。
「エニウェトク環礁で、人類初の水爆実験にも関わったわ。とにかく、放射能にまみれた生活を送ってきたというわけ。ただ、合衆国による核実験の影響で、ゴジラが生まれた。公式には発表してないけど、合衆国の偉い人ならみんな知ってるわ。あんな放射能を撒き散らす生物の誕生に、我が国の核実験が関わってないはずはないって。……7年前、ゴジラが東京を襲った。あの頃はまだ、GHQがあった時代だった。私のパパはGHQの高官で、銀座で死んだ。核が父を殺したの。そして私は核物理学者……これは、償いなのよ、私の。ゴジラのせいで苦しむ人への。そして最終目標は、ゴジラを完全に抹殺すること」
皇太子は頷きながら、ジェニスの言葉に聞き入った。ジェニスは吸い終えた煙草を地面に捨てた。
「あなたを見ていると、子供の頃に家庭教師をしていたアメリカ人の方を思い出します」
「マダム・ヴァイニングのことね。彼女は本国でも有名人よ。世界最古の歴史を持つ王家のプリンスの教育をした人だって」
エリザベス・ヴァイニングはアメリカの作家で、本職は司書だった。1946年、アメリカの教育使節団から斡旋され、将来の天皇である明仁の専属家庭教師となった。契約は1年の予定だったが、人望を集めたヴァイニングは4年間、明仁の側にいた。
「彼女は私のことを、ジミーと呼んでいました。とても、嬉しかった。私には苗字がないし、友達もみんな遠慮してあだ名もつけてくれなかったから」
「じゃあ私もそう呼ぼうかしら。ちなみに私はジェニーと呼ばれるのが好きなの」
「ジェニー、さん」
「なぁにジミー」
二人は顔を見合わせて笑った。
すると上空から、何か大きな音が近づいてきた。皇太子は「何事か」という顔をしたが、ジェニスは
「やっと来たわ」
それは近づくにつれて爆音に変わり、周囲に風を起こした。
H―43ヘリコプター、愛称は「ハスキー」だった。それが数機、野外病院の上空に現れた。初めて見た回転翼機の姿に、皇太子は目を奪われた。こんなものまで生み出す国と、かつて我が国が戦争をしていたのかと思うと、明らかな技術力の差に愕然とした。
一機が無事に着陸すると、中から出てきた軍曹が声を上げた。
「患者は全部で何人ですか!」
「7人よ、ラッキーセブン!」
「そいつはいい! オペレーション・ラッキーセブンですか!」
ジェニスと軍曹は母国語で話し、ヘリの後部ハッチを開けて患者の搬入作業に取り掛かった。
「私も手伝います」
皇太子も率先して作業に加わり、無事に全ての患者搬入を終え、ハスキーたちは東京方面に飛んで行った。
「ありがとうジミー、おかげで手間が省けたわ」
「お役に立てて何よりです。……ジェニーさん、私に出来ることがあれば遠慮なく言ってください。力になれることがあれば、頼ってください」
「実はその言葉を待ってたわジミー。その時が来たら遠慮なくあなたの力を借りるわ。この国はもう帝国ではないけど、あなたの存在はその辺の政治家よりもずっと頼り甲斐があるもの」
その言葉を聞いた皇太子は、正直嬉しかった。十二歳で敗戦を迎え、終戦後の混沌とした世情を目の当たりにし、やっと復興に足並みがそろってきたとき、あの見るもおぞましい怪物がやって来た。都会の賑わいを取り戻していた銀座を破壊し、国会議事堂めがけて、あの不思議な熱線を吐いた。皇居を含む多くの建物が地上から消えた。あの時、皇居内の防空壕に避難していなければ、皇室は断絶していた。命は助かったが、両親は病に
「……光栄です」
皇太子はジェニスに頭を垂れた。
「そういう謙虚なところがあなたのチャームポイントね。……いずれ、ゴジラを倒す作戦を打ち立てるつもりなの。その時、日本政府が邪魔をしないようにしてくれたら嬉しいわ。合衆国は私が抑えるから」
「……私には、政治的権限はありません。自衛隊を動かす力もありません。ですが、権力者と話すことは出来ます。人は話し合えば、思いが通じるものです」
「それで充分よ。あなたの言葉は、ある種の武器よ。人の心を動かすことができる。頼りにしてるわジミー」
ジェニスはサングラスをかけて、皇太子の肩をポンと叩いた。そして付き添いの女性と一緒にバイクにまたがり、去って行った。皇太子はその背中を、見えなくなるまで見送った。何と
何だかいい匂いがする。
目を覚まして匂いのする方へ顔を向けると、夫と娘が台所に立っていた。
「お父さん、そろそろいいかも」
「はいはい」
どうやら料理の指南は明子がしているようだ。明子はお玉で鍋をすくい、小皿に煮汁を注いで味見した。
「うん、美味しい。お父さんも」
父の分も小皿に注いで、敷島は味見をした。
「ああ、本当だ。お母さんの味だな」
二人は顔を見合わせて笑った。それを見守っていた典子も、微笑んだ。
何て幸せな気分なんだろう……ふとそう思った直後、まさかこれは夢じゃないだろうかという不安に襲われ、
紛れもない現実。典子は心からホッとした。
「あれ、お母さん何してるの?」
頬をつねる母親の姿を見て、明子が不思議そうな顔をした。夫もこちらを見ている。
「ううん、何でもないよ」
典子は笑って返し、夫と娘を安心させた。
これは夢じゃない。夫がいて娘がいる。典子はそれだけで、充分幸せだった。
「具合はどうだ典子、顔色がとても良いな」
夫が側に来てくれて、典子は笑顔で頷いた。病院を退院してからも、しばらく典子は寝込んでいた。だが意識はちゃんとあり、敷島が献身的に看病していた。
「何を作ってるんですか?」
「橘さんからもらった野菜で、煮物をな。もう少しで出来るから、一緒に食べよう」
「……ごめんなさい浩さん、お仕事も休ませてしまって」
敷島はしばらくの間、休職願を出していた。学校側も事情を鑑みて、受理してくれた。
「そんなこと気にするんじゃない。お前が良くなるまで、俺はずっと側にいるから」
その言葉を聞いて、典子は敷島の胸に顔を
「ヒューヒュー」
それを見ていた明子は、おませな口を利きながら両親を茶化した。
「こら、どこで覚えたんだそんなこと」
敷島は笑いながら明子に言って、抱きつく妻の背中を優しく撫で続けた。