仄暗い廃城の一室から、消魂しい鉦の音が一つ、二つ。
通り雨が如く姿を消す。傾いた箱から英雄の証が幾らか滑り、紅葉の池へと飛び込んだ。
店番をしていたアーチャー、杉谷善住坊は落ちてきた商品に一つ頭を打たれていた。整った顔を顰め、手甲が巻かれた右手で旋毛のそばを押さえている。これで箱を落としかけたのは二度目となるが、以前と比べるとその被害はごく僅か。というのも、隣りにいたマスターが咄嗟に箱を支えてくれたためである。
「かたじけないな、マスター。ああ、割れるもんがなくてよかった」
有難い気持ち、そして二度目の失態を晒しかけた羞恥に、彼女はぎこちなく笑う。ここにプトレマイオスがいたらお咎めの声も加わっていた。
マスターは善住坊の腰に回していた腕を解く。やにわ支えたせいでいや増した髪の香と草の香りが鼻腔に残る。無論、石鹸の匂いではない。推し量るに善住坊の生活に根付いた要素というものが、鱗粉のように纏われている。
「杉谷さんって、意外とドジなところあるよね」
彼女は人間であるマスターのために寝床や食事を用意してくれるほど面倒見が良い。テセウスやテュフォン・エフェメロスと対峙した際の活躍も立派という他ない。一方、生前の打ち損ないや果心居士との件、そして最期のことを考えるに何かと凶を引くらしい。
「はははは! お前さん、言うようになったな! この辺は男の時から変わらねぇやっ」
善住坊は哄笑してマスターの肩に右腕を回す。マスターの背丈は彼女より少し高い程度である。つまり彼女の顔がすぐそばにあり、あの香りも強くなる。加えて豊かな胸乳がマスターの腕に押し付けられ、艶っぽく形を変えていた。数多の艱難辛苦を乗り越えたマスターとて、男を棄てているわけではない。
少し視線を下に遣れば、深い深い谷間が覗き女の匂いを昇らせる。数珠で阻まれてなお魅惑的な闇に目を奪われていると、善住坊は朗らかに笑う。そして左の人差し指を襟に掛けた。
「なんだ、中身男でも構わんくらい疲れているのか? 節操ないとは思うが、まあ、いいぞ。お望みとあれば見せてやるさ」
おそらく、善住坊は冗談のつもりであっただろう。しかし彼の欲を揺らすには十分で言葉あった。なまじ心は同性である。生粋の女相手ほどの遠慮は要らぬと、マスターは善住坊の腰に回していた手で抱き寄せた。
「えっ?」と素っ頓狂な声を上げる善住坊は、あっという間に腕の檻に囲まれた。首元に熱い鼻息が吹きかけられ、くすぐったさに身を捩る。特に首を一周する傷は敏感で、掠る度に震えてしまう。
「しゅ、衆道も嗜むのか。俺にも稚児のころはあったが」
彼女は頬を桃のように赤くする。女の身体とはいえサーヴァントなら、人間であるマスターをすぐ剥がせる。されるが儘なのは、聖杯戦線を共にした築かれた信頼のためか。将又単にプトレマイオスから男扱いされていたせいで油断しきっているのか。
「杉谷さん。吐いた唾は飲めぬと言いますからね。次同じことを言われたら、どうなるか分かりませんよ」
マスターの硬い声が善住坊の鼓膜を震わせる。大きな尻を鷲掴みにされ、ようやく本気だと悟ったらしい。
「揶揄って悪かった! 謝るから離してくれ!」
善住坊はマスターの腕から逃れると、距離を取って叫ぶ。頰の桃色は更に鮮やかに、耳まで拡がっている。満更でもなさそうなのは果たして気のせいか。気のせいかもしれない。マスターは「次から気をつけてね」とだけ言い残し、商品を抱えて店を去った。
尻や胸乳の感覚が手や胸に残っている。大きな胸、大きな尻に引き締まった腰と四肢。絹のように触り心地の良い肌に、優しくも艶のある声。善住坊を女に変えた果心居士は、どこまで女体に拘ったのか。どこまで女として完成された肉体なのか。
あれ以上触れられなかったことを少々悔やみつつ、マスターはカルデアへ戻っていった。