※杉谷さん♂の容姿や経歴の捏造
※雑賀衆や孫一の名前が出ますが、ぐだぐだの方とは無関係です
※紀州弁は以下のサイトで変換したものを用いています
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それは涼しく穏やかな皐月のことであった。つつじもくすのきも嫋やかに花弁を披き、鮮やかな新緑を更に彩るこの朝。鷺森の土豪、佐竹允昌の次男は兄源大夫に連れられ岡の城まで見物に来ていた。父曰くここ数日湊の大軍が岡にやってきては矢軍を仕掛けてくるという。彼も岡の親族として気になっていたところであった。
「おまんはまだ童やからな。足手まといになるだろうから観戦もするなよ」
先日弓の稽古の折父は倅に命じていた。しかし彼は非常に好奇心旺盛であったし、兄もまたかような弟を猫可愛がりしている。故に「この乱世だ。早いうちから戦場を知るに越したことはないよ」などと宣り母や下人らの制止をものともせず飛び出してきた次第である。ところで小さな手を引く兄の背中には六匁火縄銃が乗っていた。雑賀衆と鉄砲の縁の深さはよく知られているが、この頃には未だ広まっていなかった。天文12(1543)年の渡来直後は十分な技術がなかった上、洗練された今も高価であることに変わりはない。そのため鉄炮を持つ家は僅かであり、子どもはわざわざ土橋家に赴いて鉄炮の練習に励んでいた、
「兄上。あの僧形の益荒男は」
子どもの眼が赤を鎧う坊主を捉えた。手には赤い槍を携え、岡の負人五郎左衛門と突き合っている。源大夫は少し膝を折り弟と同じ方を見る。揃って目を細めて遠くを見る様は狐の親子のようである。
「話の通りなら湊の頭領こと観阿弥だろうね」
源太夫が答える。大柄な観阿弥の鑓捌きは烈しく、竜巻が落ち葉を巻き込むような勢いがある。五郎左衛門は防戦を強いられ、このままでは押し切られるのは目に見えていた。見物していた子どもの鼓動はにわかにその足を速くする。
「誰か、射手はいないのかえ」
「奴の手下の相手で忙しいみたい、って、あっ」
子どもは肩に乗せられた兄の手を退け、空穂から一本の矢を取り出し走っていった。彼が一歩踏み出す度に土を掻き、草木を退ける音が響くのだがいずれも喚声に紛れ誰の耳にも届かない。これ幸いにと子どもは左目の弓に矢を番え、鳥の舌を観阿弥の方へじっと向ける。距離は二十間程度。これならば外しようもない。彼は高揚に口端を吊り上げ、姿勢を正し、呼吸する。にわかに頭が冴え、視界は霧が晴れたように明瞭になる。
放たれた一射は見事に観阿弥の胸を貫いた。五郎左衛門は横槍に目を見開いたが、すぐに大きく槍を突き上げ観阿弥の喉を引き裂いた。大きな窖から血が噴き出し、五郎左衛門の顔を真っ赤に染める。大将を失った湊の者たちは攻めの手を緩ませ、やがて引いていった。五郎左衛門は飛び出してきた子どもの頭を撫で、散々褒めちぎる。案の定この件は父允昌に伝わり兄弟共々叱られたが、それはそれとして手柄についての称賛も送られた。
この日を機に俄かに自信を得た子どもは毎日も岡のところへ通い始めた。湊の者も毎日攻めてきたため、山の中腹まで下り再び手柄のために矢を4,5本放ったが全て外した。気が流行って手元がぶれてしまった。なまじ弓の腕が良く、先日観阿弥を射ったばかりに心の何処かに驕りがあったのだろう。
後日、岡衆と湊衆は浜にて合戦した。城では親戚の岡了順と吉正が指揮を執っている。岡了順は雑賀年寄衆と呼ばれる雑賀門徒のうち有力な道場の道場主の一人であり、後の鷺森御坊の責任者である。彼は見物に来た兄弟を城の中に導き、湊の方に指を指した。青い海の手前、雲霞の如き湊衆で真っ黒に染まっていた。1000人近くの湊衆が押し寄せ、浜にいた岡衆はすぐに討ち果たされた。城にいた者たちは一様に顔を青くしていた。これほどの相手では今から増援を呼んだところで保たないだろう。了順は顔色を変えて撤退を呼び掛けている。
「おまんも逃げるんや。最近弓の調子が良うないて言うてたが、おまんは確かに見事な射手であるはずや。そんなやつをここでくたばらすわけにはいかん。速う逃げよらえ」
吉正が肩を掴んで促す。尚も躊躇っていると横から兄源太夫の手が伸び弟を抱えて走り出した。振り返った先では湊衆の波が城を襲い、次々見知った顔を槍で刺し殺していく。動かぬ身体が複数の槍で持ち上げられ、地面に雑に投げ捨てられる。
途中で土橋平次の妹や夫五郎左衛門を助けながら、兄弟は中之島への舟に辿り着いた。赤い修羅を目の当たりにした子どもの身体はしばらく恐怖に震えていた。源大夫はしばらく彼を抱いていた。
☆
湊との出入りから一年後が経った。
元服した子どもは源左衛門という通称と佐竹義昌という諱を得、更に二年後には土橋胤継の勧めにより現在の岩出市に位置する根来寺への入山が決められた。
正しくは一乗山大伝法院根来寺と呼ばれるそこは高野山から分離した新義真言宗の総本山である。また当時に於いて最高の学問の場であるとともに、最大規模の行人(僧兵)集団根来寺衆を抱えていたことで有名だろう。室町時代より多数の荒法師が属し時に武力を以て紀北や泉南へ光当るところを拡げ、その力は多数の土豪を惹きつけた。土橋氏に属する快厳は数千ある寺院を代表する四旗頭の一つ、泉識坊の院主でもある。源左衛門はその門下たる福宝院に属することとなった。寄親から賜った法名を慶誓という。数え年15となった彼は同い年の少年たちよりも一回り身体が大きく逞しく、誰よりも頑強であった。
根来寺境内は大きく5つの谷に分かれている。福宝院は北西の蓮花谷に位置し、すぐ隣は菩提谷である。慶誓は朝餉の前に近くの空き地へ向かい、弓の稽古に励んでいた。実のところ彼は最近まで思い通りの矢が放てずにいた。他方周りの大人たちは上達を認めており、それゆえ土橋も根来寺へ入山させたのだが彼だけは長いこと闇を彷徨っていた。そんな露の落ちる朝のことである。かねてより小虫が這うような視線を感じ続けていた慶誓が木々の方へ向くと男が一人、杉の枝に腰を掛けていた。
イトトンボの尾のような目尻に栗色の瞳。薄のように柔らかな髪。顔は整っている方であるが、声は朝露のように穏やかで根来法師らしい荒々しさは見当たらない。冬が去る頃、普段歩いている山道でやけに生命力に満ちた一輪の花を見つけたときのような好奇心に似ているようで、慶誓はなぜか目を釘付けにされた。男は善住と名乗った。伊勢国の出で三宝院門下の行人という。三宝院といえば西谷にある杉坊門住の子院である。
「おまん、どこそで会うたか?」
「いや、深く悩んでいる様子だったから声を掛けた。折角良い弓の腕をしているのに勿体ない」
属している子院も過ごす谷も違うのに何用かと初めは訝ったものである。
「おせっかいなら結構や」
「栴檀は二葉より薫しと言うだろう。佳い草花は育てたくなる性分なんだ。それにお前さんはこれから特に輝くと見た。ま、ひとめぼれというやつさ、断じて節操のない口説きではないぞぉ」
慶誓はゆっくり向き直り、じっと善住の顔を見る。頭領の土橋や門徒年寄衆の了順の横顔を見てきたため、大人の世界にある色には敏くなった。そして眼の前にある夏の暁のような朗らかな笑みには、ほとんど影が見えない。
(孫一と同じくらいの年にめえるが、雰囲気は真逆やな。いかにも人懐っこそうで、愛嬌がある)
「ほな、一日くらい頼んどか」
長年の不調で鬱屈していたこともあり、つい彼の誘いに乗ってしまった。内心で弱っているなと自嘲する一方、この前向きな姿勢に期待を抱く。
「では今から日向ぼっこに行くか」
「日向ぼっこかぁ」
「ああ、そうさ。まずお前さんのその悪い癖から直さにゃならんからね」
理由を問う間もなく彼は手招き、蓮華谷川に沿って歩き出す。腰まで伸ばされた茶色の髪が弾み、慶誓の足は風に誘われる猫のように軽く浮く。桃坂峠の方向へ登り、脇の藪を越えてしばらく歩くと円く開けた空間に出た。そこは高い木々が緑の天井を作り、足元に緑の網を敷いている。木の根元では小さな花が群生し、湿った風に乗って芳しい香りが漂っている。善住はやにわその場に寝転がり、慶誓にも倣うよう促した。
「どんな道も霧が覆っていると全く見えない。焦りを残したまま打ったって、迷いが錘になって墜落する。だから、一旦自分を消してみるんだ。力を抜いて、目を閉じて、土や風に身を任せて」
半信半疑で隣に寝転がると、柔らかな土の感触が背中を包み、肌に透ける木漏れ日がまぶしい。広がる空には鳶が輪を描き、空は青々と高く澄んでいる。思わず欠伸が漏れた。目を瞑るとたちまち意識が蕩けていく。
なぜずっと思い通りの矢が放てなかったか。功を挙げようと逸っていたらから? 人の死を前にどこかで怯んでいたのか? 正しい答えは見出だせないが、微睡む意識と鮮やかになる感覚の中であるものが瞼の裏に湧き出した。それは冷たく、雲一つない空のように爽やかな光芒。二つの眼と両指の先、両足の裏まで糸が繋がる感覚に目が冴える。右手を廂にして空を仰ぐと、善住が覗き込んできた。円い目は陰ってなお穏やかな光を宿している。
「うん、少し良い眼になったかな」
彼はいつの間にか足元に落ちていた枝で的を作っていた。そして携えていた弓矢を慶誓に渡すと、「今から投げるから撃ってみろ」と言って距離を取った。麻の手甲で覆われた手が浅い弧を描き、木の的が宙へ抛り出される。
慶誓は無言で矢を番えた。丹田を意識し、刹那映った的との縁を固定する。耳は一切の音を捉えず、放たれた矢は一直線に的へ向かって突き進んだ。直後、乾いた音が鳴った。あの程度の的を当てるなど目を閉じていてもできることなのに、なぜか安堵を覚えている。今の感覚を忘れないうちに二射目、三射目を放つが、段々と例の感覚が薄れていく。思わず舌打ちをするとやにわ、善住が頭を撫でてきた。
「焦るな、焦るな。一日で治る薬なんてないさ。ところでうちの角場で鉄炮撃っていかないか。感覚としちゃ弓矢と通じるところがあるし、役に立つだろうよ」
善住は慶誓の手を握りながら今度は峠を下っていった。杉坊は山の麓、蓮花谷川のそばに位置している。ちなみに五之室堂を挟んで手前に立っているのが泉識坊である。善住曰く杉坊には数百人もの僧侶が在籍しているが、高価な鉄炮の練習が許されているのは、院主妙算や彼の兄にして鉄炮伝来の立役者たる算長から直接指導を受けたごく少数の行人に限られている。善住は入山こそ最近であるにもかかわらず、弓の腕でその権利を得たという。
「荒法師がようさんいる杉坊でそれとは、おまん、ええ射手なんやなあ」
「昔から剣や槍がからっきしなんでな、せめて弓くらい上手くならんと今の世の中やっていけないんだ。それにそういうお前こそあれほどの雑念の中で確実に矢を当てられる時点で天才の域だ。そしてそれゆえ、周りの人間はお前の中にある焦りに気付かなかった」
「ほんでおまんはなんで気付いてん?」
「傑物ってのは光って見えるものなんだ。そして俺はたまたま蓮花谷で点滅した星を見つけた。遮二無二に弓の稽古に励むお前さんをな」
「わいは星か」
「ああ。今はまだ幼い星だが、いつかは明星のように輝くだろうよ」
杉坊の角場に着くと、善住は二丁の六匁火縄銃を持ってきた。紀州に鉄炮を持ち込んだ寺院だけあって、ここは多くの鉄炮や火薬などを所持している。聞けば最近安く薬を仕入れるための海路を確保したところという。土橋の家ほどの遠慮は不要だろう。手際よく薬を込めると、善住が「慣れてんな」と呟いた。
「雑賀じゃあわいほど鉄炮がうまい奴はほとんどおらなんださけな。見とけ」
17間離れた藁束を狙い、引き金を引く。激しい銃声が2つ、晴れた境内に木霊した。傍にいたスズメが飛ぶのとほぼ同時に、藁束の中心から煙が噴く。煙は風に煽られてたちまち消え、山の向こうへと消えていく。隣の藁束にも穴が開いているのを見た慶誓が振り返ると、更に離れた位置で善住が鉄炮を下ろして笑っていた。まぐれでないことは顔を見ればよく分かる。
「他の奴らもやるんか、その無駄に長距離からの射撃」
「こんなことすんのは俺くらいなのは確かだけど……、狙撃ってのは一発勝負ってのがいいんだよ。誦経しながら狙い定めているとすうって心の中が澄み渡ってくあの感覚が好きなんだ」
「そりゃあ、目と指先と狙いの縁を感じてるちゅうことか。わいがさっき感じてた」
「そうかもな。……なあ、慶誓」
歩み寄ってきた善住は低い位置にある慶誓の肩に腕を回し、顔を寄せて言った。土と草と、香の匂いが染みた風が男の頬をくすぐる。
「お前さんも狙撃、やってみない? これは俺の勘だがお前さんはもっと化ける」
「は、わいは天才やのに、ますます強い奴になっちまうか」
「そうだな。お前は現代の那須与一にもなれる。お前の内にある星は俺が見てきた誰のものより光り得る」
「そうけ。そがに褒められたらやる他ないなあ」
慶誓は鉄炮も弓も好んでいる。加えて靄が少し晴れた開放感もあった。この世話焼な男のことを早くも好ましく思っている。
(ま、これもなんかの縁ちゅうやっか。阿弥陀さまの御計らいなら大切にせなあかんな)
斯様なことを考えつつ彼は善住の申し出を承諾した。斯くして20歳で還俗するまで慶誓は武者修行の傍ら狙撃という技術を習得することになる。
これが最も役に立ったのは天正4(1576)年、大海の砦が中川瀬兵衛に攻め入られた時のことであった。
名を源左衛門に戻した彼は中川勢14、500人に味方を総崩れにされた後、残った24、5名と共に城を守った。源左衛門は5丁の鉄炮を抱えて櫓に登り、玉込めは従者に任せ、自身は狙撃に徹することで中川勢を退けた。敵方の死傷者のうち8割は自分の鉄炮によるものと彼は自著にて豪語している。